……ちる……ちる

青出インディゴ

誰にもしていない話

「都内X駅のトイレで、後ろから3番目の個室に入ると行方不明になる」

 俺がこの書き込みを見たのは、ネットのマイナー掲示板だった。その時は地方在住だったんであまり関心は持たなかったが、4月に進学で上京したのがきっかけで、ふっと思い出した。しかも、たまたまX駅と同じ沿線に住むことになり、心霊スポットなるものに興味があったこともあって、実際行ってみようと思い立った。

 といっても、やっぱりひとりじゃつまらんので、大学で仲良くなったオカルトマニアの男友達を誘うことにした。仮にAとする。盆明けの日曜日のことだった。

 X駅自体はなんの変哲もない駅だ。特別賑わってるわけでも寂れてるわけでもなく、どちらかというと郊外よりで、周りは民家が多い。人通りは多いが、利用客がただ通り過ぎるだけの駅。東京に無数にある中でも全く目立たない駅のうちのひとつ。だからまあ、こんな噂が出て来るのが不思議といえば不思議だ。

 だいたい夜の9時頃だったか、その日、Aと俺はX駅で下車した。ホームから階段を下っていくと改札があり、正面に小さなドラッグストアやパン屋があるようだが、営業時間外なのかシャッターが閉まってた。唯一立ち食いそば屋だけ煌煌と灯りがついてたのが、なんとなく妙な感じがしたな。左右の駅の入口からは黒い空がのぞいてた。人影はほとんどない。

「なんか生温かい風だな」とAが言った。

 改札を出ずに階段下から右にしばらく進んで、折れたところにトイレはある。ふつう駅のトイレって、わかりやすいように大きく表示があるよな? なのにX駅のは、むしろ全然目立たない薄暗い場所にひっそりたたずんでる。初見だと絶対わからない。

「地味だねえ」

「なんでこんなところに噂が立つんだろうな」

 入口ドアの前に立つと、もうほかの客や駅員からは死角になる。ふたりで顔を見合わせていたが、やがてAが意を決したように男子トイレのドアを押した。

 中は空調の利きが悪いらしく、外よりいっそうどんよりした空気が立ち込めていた。蛍光灯が切れかかっているのか、微かにパチパチいっている。壁はコンクリートの打ちっぱなし。右手前に手洗い場。その奥に小便器が数台。左側に個室の灰色のドアが5つ並んで、どれも閉じている。

「ふーん……」Aが顎に手を当ててうなりながらトイレ内をうろつく。

「なんか気になるのか?」と俺が訊くと、「噂ってどんなんだっけ?」と逆に訊き返された。

 そこで「後ろから3番目の個室に入ると行方不明になる、らしい」と教えると、ますますうなりながら首をひねる。

「変だよなあ。5つしか個室がないのに、わざわざ後ろから3番目って言うか? 前から3番目って言うのがふつうじゃね?」

 確かに、と俺も思った。「でも言い方としては間違いではなくね?」

「まあな」

「それとも、噂してる奴らは実際ここに来たことなくて、又聞きだから変な言い方になってるとか」

「それも考えられる」

 こんなふうに話し合ってるうちに、俺はふとあることに気づいた。むしろ、なぜ気づかなかったのか。

「もしかして、実は女子トイレのことだとか?」

 あー! と、Aも初めて思い当たったように声をあげた。

「そっち見てみる?」

「いや、まずいっしょ」

 俺たちは笑いながら話していたが、やがてどちらともなく、せっかく来たんだからと、流れで見るだけ見ることになってしまった。一旦外に出て、すぐ右隣りの女子トイレの入口前へ。

 さすがに誰かに見つかったらまずいんで、慎重にドアの摺りガラスから中をうかがい、耳を澄ませて、絶対誰もいないことを確かめた。時間にして3、4分は経ったと思う。その間もトイレを利用する人はひとりも現れなかった。で、最終的に俺が見張りで、Aが中に入ることになった。

「素早くな」

 俺が声をかけると、Aはにやりと笑ってドアを押す。俺はドアを背にして立った。背後でパタンッという音が聞こえた。


 俺が書けるのはここまでだ。これ以上は何もない。というのは、Aの姿を見たのはこの時が最後だからだ。

 俺は見張りをしながらあいつが出て来るのを待っていた。数十秒、数分、待った。Aの奴、ずいぶん丁寧に見てるなと思ったが、10分を過ぎる頃には不信感に変わった。遅すぎる。

 俺はとうとう振り返った。

 あの悲鳴のような絶叫が聞こえたのはその瞬間だった。

「……ちる……ちる、助けてくれえー!」

 それは確かにAの声だった。俺は反射的にドアを押していた。

 中には誰もいなかった。

 男子トイレと同じ灰色の個室ドアが両側に並んでいた。右側に5つ。左側は手洗い場の奥に3つ。独特の淀んだ空気が漂っている。

「A!?」と呼びかけたが、返事はなかった。トイレの中に入っていって片っ端から個室を開けていった。やはり誰もいなかった。しまいには男子トイレも確認したが、結果は同じだった。しばらく空しい努力を続けたが、ついに俺は諦めて帰った。

 それ以来あいつを見ていない。

 からかわれているのかと疑って何度も大学で姿を探したが、とうとう会わずじまいだ。スマホは圏外。ほかの友達に聞いても、誰ひとり知らないと言う。実家に電話したら、Aは東京で無事にひとり暮らしをしているはずだと言われてしまった。俺からはそれきり電話をしていない。だってどう伝えればいいんだ?

 一体あいつはどこに消えてしまったんだろう。現実的に考えれば家出か、誘拐か……。でもあのトイレにはほかに出口はなかった。だからトイレの中で、噂通り行方不明になったとしか思えないのだ。


 オカルトマニアのAから聞いたことがある。この世界では時々、異世界との境にほころびが生じるのだという。偶然そこに入り込んでしまった人が行方不明になる。古くはそれを神隠しと呼んだ。たまたまX駅のトイレの個室にそんなほころびが生じて、たまたまあいつが入り込んだとしたら……。

 ただ気になるのは、意味不明な最後の言葉「……ちる……ちる」

 最近俺は気づいた。あれは「落ちる、落ちる」だったんじゃないか、と。この世界から「落ちる」のだとしたら、その先は……。

 俺は考える。もしかするとAが今いるのは「地獄」なのではないか、と。

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