脱皮
どれだけ放心していたか知らないが、先程は焼けていた日がすでに焼け落ちて沈んでいることに気付き、急いで後始末をする。落ちている書類だ本だなんだを片し、倒れていた洋服掛けを起き上がらせ、揉み合った際に弾け飛んだ自分のボタンを拾い上げ、灯りをつけ、簡単に床を拭いた。目をやっても男はまだ起きる様子はない。
じっと掌を見つめ、爪が食い込み血が出るほど強く握りしめた。確かにこの手で勝った。息の根を止めずともそれでじゅうぶんだった。そんな事はこれからいつでも出来る。今はこの感触を忘れたくなかった。ついぞ、この日がやってきたのだ。今か今かと待ち続けた、俺と男の差が逆転するこの時が。
反抗などしなかった。あとからかえってくるものの恐ろしさを知っていたから。今を耐え抜けば、いつかこの時がやってくるとわかっていた。幸い俺はまともに食っていなかったにも関わらず健康でよく背も伸びた。恵まれた。今更誰が真実こいつの子か、あの女の子かなど知ったこっちゃないが、俺たちはここで飼われた以上ほんとうの兄弟だった。俺はあいつらを守らなければならない。
純粋に反抗心や優しさなど、弟や妹のようには俺には芽生えなかった。感情が膜に包まれたかのように機能しない。全てにもやがかかったように、自分が殴られ続けていようとも、どこか遠い世界のこと、テレビの中の事のように感じた。判断基準はどうしたら俺達が生きてゆけるか。策略。
父母とは到底呼ぶ気のないあの男と女のことを調べあげた。まず母。2人は政略結婚。顔も見たことの無い金持ちの母方の祖父母は長い間、生まれと美貌を武器にして遊び回る頭の空っぽな娘を持て余していたが、やっとの事で、長く続く財閥の長男で出世が決まりきっている男の元へ娘を押し込む。俺と次男と双子、誰が2人の子供なのか、誰もこの2人の子供ではないのかは未だに分かっていない。あまり興味がなかったというのもあるが、「名家」の性質なのか、先人たちは秘匿だけは巧かったようだ。
そしてあの男の家。信じられないほど良い外面と怒鳴り散らすしか脳のないあの阿呆が組織のトップになど立てるものかとずっと思ってはいた。先代はもうこの世におらず、祖母も隠居して静かなところで暮らしている。今持っている会社は先代のもので、それと共に先代から引き継いだ裏組織のある事を俺は何年も前につきとめていた。
馬鹿息子がそれをまとめあげられるわけもなく、トップというのは名前だけで実質のトップ、頭の代理がいる事。だがあいつが死んだら組織を継ぐのは現時点では俺である事。それをあいつが隠そうとしている事。外面の良いあの男のおかげで、この家の実態はそこにもバレていない事。幸いあの男の評価は組織ではまぁまぁで、俺たちへの反感はそんなにない事。
もう勝機はここにしかない。そこからは日々努力だった。実質トップに近づき、慕っていると告げ、懐に入り込み、将来父の役に立つ為と疑われそうにない理由を盾に様々な事を教え込んでもらった。事務処理から…実務まで。あいつらには、試験の勉強を学校で見てもらうと言えば世間体のため許された。裏組織の幹部たちに信用してもらえた頃に次男と双子も連れて行った。怖がりな双子には裏の事情は教えていなかったので部下と遊ばせて勉強をさせて、次男と色々な世界を見て回った。
トップは…師匠は、表の人間よりよほどまともな、真っ当な人だった。本当に慕うようになった。父より若く兄のようであり、それでいて父より父らしかった。思わず助けを乞いたくなるような。
いつかの日の為と、次男とずっと耐え忍んできた。いつしか、筋肉質で武闘派な次男と、暗殺術や戦略の俺が組めば、師匠の両隣に立てるほどになっていた。俺や弟が父母を殺せば師匠には必ず分かる。その時は、俺がトップに立ったとしても師匠を今の座からおろす気など到底ない事、生きる事だけが俺達の目的である事をはじめ、今までの全てを話すつもりだった。彼ならわかってくれる自信があった。
…俺はついに双子にも、今の俺たちの状況を告げ、僕達も役に立ちたいという双子を暗殺の得意な部下に任せた。時おり俺が教えながら、着実に4人で場数を踏み、用意を進めてきた。
全ては生き残るため。あいつらから開放されたあとの事など興味もなかったが、多くの人間を路頭に迷わせないため、この世界に俺が引き入れてしまった弟と妹を守り続けていくため、あの男のしてきた事を塗り替えるため、頭は張るつもりでいた。ようやくすぐそこまで道が見えた。直立の崖を素手で身一つで、血だらけでのぼりながら、自分の全てをかけて這い上がる為の綱を編み上げ、淵にそれが届いた。あとはこれを俺たちで掴むだけ。それなのに。
次男のあの顔が消えない。
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