凄まじい音がして筆を置き部屋から出ると、試験の為勉強していた俺と同じく部屋にいたはずの、妹たちの部屋の扉が開いていた。はやる足は弟妹の部屋を過ぎ廊下を過ぎ何枚か扉を開け、近付かないうちから分かっていた忌まわしい空気の男の部屋の扉をようやっと蹴り開ける。

殺してやろうかと思った。見慣れた光景ではある。だが今回は…

またあの女と諍いになり妹を捌け口にでもしていたのだろうこの男の片足が、無残にも思えるほど細い不健康な妹の腕を踏み付けていて、醜悪な指輪の嵌った無骨な手が強く彼女の金髪を引っ張り、もう片足は痩せた骨の浮き出た背中の上にあった。妹は歯向かう気力もないのかされるがままで、髪に隠れて表情はみえない。振り上げているのは火かき棒か。下を向いてこれから響く悲鳴への期待に溺れていたであろうそれは、こちらに気付くと口の端を持ち上げ、ゆるり醜く笑った。世では美しい男と呼ばれるその欠片もない、蛇。蛇の笑顔。

息を切らして俺のあとから走ってきた次男が、いつもはすぐ飛びかかるのを、今回は躊躇い息を呑む。姉がこんな目に遭っている時に双子のあいつが庇わないはずも、俺達を呼ばないはずもない。が、こうなるまで気付かなかったのはどういう訳かとここへ来るまでずっと気にかかっていた。

弟は轡を噛まされ失禁し気を失っていた。ここからだと耳の横から血が垂れていることしか確認出来ない。何をされたのか息はあるのか、一体いつから。頭が真っ白で体が動かない。お互いの呼吸音だけが響く。


何をした、と隣の弟の地を這うように低い声が頭の中で響き、それを合図に固まっていた体がとけた。手が動き、自然、男の腹をわし掴んでいた。本当に内臓ごと潰してやるつもりだった。突然の反撃に躊躇ったのか相手が無様にもがくのも構わずもう片腕で首を掴んだ。こちらも骨ごと砕く気だった。必死で抵抗する狂気を孕む歪んだ瞳に、俺は表情が剥がれ落ちた生気の無いであろう瞳で見つめ返した。やめる気などなかったし、誰も止めなかった。いつもなら俺が盾になれど加勢する次男も、手を出した俺に驚いたのか後ろで立ち尽くすばかり。赤らんでいく顔、白目を向き、痙攣し、気が付いた時には、くたり、力を失ったその体の重みに耐えきれず、俺の手は離れていた。ゆっくりと横ざまに倒れた体に誰もが無関心だった。


妹は怯え震え、双子の弟とおなじ蒼の瞳を涙で潤ませながら、まだ力の入らない足で片割れにかけよった。俺も次男もそうした。拘束を解いて揺するが起きない。額から血が出ているが、大きな傷ではないようだ。


「おい…なぁ、一体なにが、」

「このひとが!このひと…わたしたち勉強していたの、急に入ってきて後ろからいきなりこの子に轡をして、殴りつけて…引っ張っていって…兄さん達が気づかなくっても無理ないわ、驚いてわたし声が出せなかった…殴られたのがわたしじゃなかったんだもの。目的はわたしだったけど、邪魔が入らないようにって…それから」

「落ち着いてごらん。いけない、混乱しているね。気持ちは分かる、大丈夫だから深呼吸をして。そう。大丈夫。息もある、とりあえずみんなで着替えさせて手当をするから手伝ってくれないか。そうしたらお前も着替えておいで」

「兄貴、」


次男が無表情で指さした。そういえば。この男が生きているか死んでいるかなど、心底どうでもよかったが、一応自分が人を殺めたかどうかは確認しておかなければなるまい。

近付いて見下ろす。しばらく動きがなかったが、横腹に蹴りを入れるとうぅん、と唸る男に肩を落とす。生きていたのか。まぁ良い、適当に書斎にでも?いやこのまま捨て置くか。


「行こうか」


次男に振り向いて声をかけた刹那、うすく輝く琥珀色の瞳の奥に怯えが揺らいだ気がして、はっと息を呑む。あの男と対峙する時より余程。まるで蛇に睨まれた蛙。

今の瞬間が気のせいだったかと思うくらいに「…あぁ」なんでもないように頷き、妹と2人で弟を担いで出ていく彼に、動揺の隠せない俺はしばらく立ち尽くしていた。

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