第2話~マグロの刺身と墨廼江~

~新宿・歌舞伎町~

~居酒屋「陽羽南ひばな」~



 開店初日、月が徐々に上りゆくころ。

 陽羽南の店内は見事に満席、お断りしてしまう客も出るほど混雑していた。


「いやぁ、初日から大盛況だねぇ。予測をちょっと外れたが、いいことじゃないか。

 あ、D卓様、野菜のフリット上がったよ!」


 フライヤーの前で肉やら野菜やら、次々に揚げていく澄乃が嬉しそうな口調で言う。

 対して僕は最早てんやわんやだ。仕事量が多すぎて手の休まる暇がない。ホールの二人では手が回りきらず、自らお客様のところに料理を運びに行くことも、度々あった。


「人入りが多いのはお店として嬉しいですけど、忙しすぎますよ! どうなってるんですか!?」

「今日は土曜日だからねぇ。リンクスのメルマガでも陽羽南オープンは告知されているし、新宿駅ではチラシ配りもやってるはずだ。

 まぁ、初動としては十分だと思うよ。こういうお店は最初の話題作りが肝心だからね」


 出来上がった野菜のフリットの皿をカウンターに置いて振り返った僕は、実に楽しそうに仕事をする澄乃に、一瞬目を奪われた。

 この人はなんて、充実した風に仕事をして見せるのだろう……

 呆けたように数瞬、見つめてしまう僕だったが、すぐに我に返って包丁を手に握りなおす。

 と。


「店長、皆、お待たせしました!」


 エレベーターの中から、帽子を被ってパーカーと呼ばれる上着を羽織ったシフェールが飛び出してきた。

 服装だけ見れば下の街中を普通に歩いている人間ヒューマン女子だが、長い耳と金髪が帽子のせいで余計に際立って見える。

 僕は驚きを隠せなかった。研修を受けた後は帰宅していい、と政親からも澄乃からも聞かされていたからだ。


「シフェール! 研修は!?」

「定刻通りに終わらせてから大急ぎでこちらに来た! 社長から、こちらが忙しいと連絡を受けたのでな……!」


 肩から下げていた鞄を下ろし、ふぅと大きく息を吐くシフェール。肩が上下しているところを見るに、随分急いできたらしい。


「シフェールちゃん、お疲れさま! すぐに着替えておいで、それから……」


 澄乃がフライパンを握ったまま振り返り、ニカッと笑いかけ声をかける。


「了解です、すぐに入りま……」

「駄目! きっかり一時間休憩!

 お夕飯まだなんでしょう、賄い用意するからゆっくり食べといで!」


 ぴしっと姿勢を正し、バックヤードへと向かおうとしたシフェールを、一転強い口調で澄乃は諫めた。

 その言葉に僕もシフェールも、驚きを隠せない。二人とも澄乃の顔を信じられないような目で見つめた。


「こっからの仕事は立派な残業だからね、ちゃんと休憩取らせないと、いつ上から指摘が入るか分かったもんじゃない。

 その代わり休憩が終わったらしっかり働いてもらうよ!」

「……了解です!」


 澄乃に向けてしっかり頭を下げると、シフェールはフロア奥のバックヤードに入っていった。

 休憩を取らせないと上司から怒られる、などという感覚は、僕達の環境にはないものだった。

 忙しければ忙しいほど休憩なんて取らせてもらうことはなく、それこそ馬車馬のように働かされるのが常だった僕としては、澄乃の発言が俄かには信じられなかった。

 ……が、社会の仕組みも、きっとこの世界は僕達の世界とは違うのだろう。そうに違いない。


「ほら、マウロちゃんも止まってないで働く働く!

 シフェールちゃんが戻ってきたら、今度はマウロちゃんが一時間休憩だからね!」

「りょ、了解です!」


 いけないいけない、また呆けていてしまった。しっかりしなくては。

 目を二、三度ぎゅっと閉じて、手元の包丁に意識を向けた時。


「あのー、すみません……」


 前方からの声に気付いてふっと顔を上げると、目の前のカウンターに座っているお客さんが手を上げていた。

 エティもアンバスもテーブル席の応対に行っていて、こちらには来れそうもない。包丁を置いて手を拭い、僕は笑顔を作る。


「お待たせして申し訳ありません、お客様。ご注文ですか?」

「あ、はい……マグロの刺身を一つ、それと、墨廼江すみのえを一合」


 注文を聞いて、僕は内心ドキリとした。

 サケ――日本酒・・・の注文だ。

 サケはとにかく難しい。銘柄を覚えるのもそうだが、注ぐものがグラスやジョッキでないのがさらに難しい。

 だが今は僕がやるしかない。動揺を悟られないよう笑顔を作り、お客様に対応する伝票に注文を書き取った。


「マグロの刺身と、スミノエですね。かしこまりました、少々お待ちください」


 僕は切り途中だったキュウリのピクルスを急いで切り、盛り付けて厨房を飛び出す。

 注文したお客様のところにピクルスを運んでいくと、レジの横に据えられたサケ用の冷蔵庫を開けた。


「(スミノエ、スミノエ……確か店長が、「日本酒のラベルに名前がひらがなで書いてあるから、落ち着いて探せ」って言ってたな)」


 冷蔵庫の中を視線を巡らせ、目的の酒を探す。と、冷蔵庫の奥の方に確かに「すみのえ」と書かれたラベルのボトルがあった。

 そのボトルの首を掴み、厨房の入口へ。棚の上に用意された徳利とっくりの小さいものと、小振りなぐい飲みを手に取る。

 なんでも、一般的にこの酒器でサケは供されるものらしい。

 徳利の細い口に漏斗を挿し、そっと墨廼江を注ぐ。少しこぼしてしまったが、後悔している暇はない。


「お待たせしました、スミノエでございます」


 徳利とぐい飲みを、カウンター越しにお客様の元へ渡す。

 次は刺身だ。冷蔵庫からマグロの赤身を取り出す。

 ピクルスを切るのに使った包丁とまな板をシンクに入れ、洗ったまな板と、細身の刺身包丁をカウンターに用意する。

 マグロの切り身に、そっと包丁を当て、静かに引きながら切ってゆく。生の魚を綺麗に切り、そのまま提供するというのも、これまでの料理の中ではやったことがない分野だ。


 包丁を握る手にも力が入るが、この手の刃物は変に力むと綺麗に切れない、ということは昔から身を以って知ってきた。

 それでもこんなに切れ味のいいナイフは、一度も使うことはなかった。王室御用達のレストランの厨房で扱われるくらいだっただろう。

 この世界の流通が凄まじく発達し、格差がないことを実感させられる。


 手が震えそうになるのをなんとか抑えつつ、マグロをカットする。

 皿に細切りの大根を盛って、シソの葉を乗せ、包丁の腹を使って皿にマグロを……


「おっと、そうだそうだ」


 危ない、刺身は盛り付け方を考えないといけない、と教わっていた。

 一列に一様に盛り付けるのではなく、数切れずつ斜めに、単調にならないように注意して盛り付ける。

 ワサビのチューブを取り出し、皿に絞って円錐形に整える。あとは醤油を垂らす用の小皿を用意し、これで大丈夫。


「お待たせしました、マグロの刺身でございます」


 お待ちしていたお客様の前に、カウンター越しに刺身の皿と小皿を置く。そして忘れず笑顔、にっこりと微笑んだ。

 お客様はこちらに頭を小さく下げ、カウンター上の醤油を小皿にたらり。

 刺身の一切れに箸をつけて小皿に乗せ、ワサビをその上に少量乗せ、刺身で包むようにして口に運ぶ。


「……うん」


 お客様の口元がほころんだ。同時に小さく何度か頷く。

 よかった、満足いただけたようだ。


「B卓様、ポテトフライ1、鶏焼き1入りましたー!」

「E卓様、キャベツ1、ピクルス1、鶏唐揚げ1入りましたー!」


 注文を取ってきたエティとアンバスが、立て続けに声を張り上げる。

 まだまだ忙しい時間は終わりそうにない。


「「ありがとうございまーす!」」


 それでも僕はくじけることなく、精一杯の声を上げるのだった。



~第3話へ~

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