。とても小さな

@franciska3

第1話

 養護教諭は医師ではない。学校での養護教諭の仕事は、病院の医療従事者に比べれば豆粒のような、米粒並の仕事かもしれない。

けれどそんな小さな小さなことでさえ、決して軽視されるべきはない。それがどんなに小さなことでも――


 ガシャン!


 振り返るとコップが粉々になり、破片が散らばっていた。おそらく瑞希の手元から滑り落ちたのだろう。

彼女はあわてて欠片を拾おうとするが、何度もやってもポロポロと取り落とす。物がつかめないのだ。

 私はその姿を見て悪い予感がした。脳血管障害による失調である。この女子生徒は教室で嘔吐し、保健室に来る事になったのだ。

嘔吐、失調――悪い徴候だ。

「私が掃除するからそのままにしておいて」

 だが早とちりをしてはいけない。彼女は強い精神ストレスを受けたのだから、そのせいかも知れない。

 瑞希の髪は未だにぬれていた。教室で授業中、隣の生徒に防水バケツの水を浴びせかけられたのだった。

 瑞希は椅子から立ち上がり、離れた所で申し訳なさそうにしている。元々とても身長が低くて小柄なこともあるが、

スカートの下から見える青白い脚が、やや内側に曲がっているのもあって、弱々しい印象を与えている。

ひどく憔悴しきっているようで、顔色があまり良くない。だが顔面蒼白、と見るべきかは判断に迷った。

「とりあえずベッドに座ってて。辛い時は横になっててもいいから」

 彼女はうなずき、ゆっくりとベッドに向かう。それは申し訳なさそう、と言うより、緩慢な

動きしか出来ないのではないか、と言う推測が脳をよぎる。

 さっと破片を片付けると、コップに温かいスポーツドリンクをもう一度入れ直した。

「――私、いつも迷惑ばかり」

 ぼそっと、彼女はつぶやいた。ベッドの上に腰かけたまま小さく震えていた。

「そんなことはないわ。まだ気持ちが落ち着かないだけよ」

「でも、私っていつもこうなんです。動きがとろくて、反応が悪いから、こうして私が生きて

るだけで、みんなに迷惑をかけてしまうんです。そう思うと――」

「そんなにも辛い思いをしてたのね」

 ベッドの横に座り、今度は取り落とさないよう、横からしっかりと手渡しした。

「私――どうしていいのか」

 両手で持ったコップに目線を落とした瑞希の目に、じわりと涙がにじんだ。私は、そっと彼

女に手を伸ばし首筋に触れた。

「考えすぎちゃダメ。そんなに気を張りすぎると心が壊れてしまうから」

 こう言う生徒のために短大で一生懸命勉強を重ね、経験を積んで養護教諭となった自負があ

る。だがこう言う時に自らの未熟さが痛いほど感じた。

「瑞希さん。なにかスポーツはしてた?」

 突然のフリに彼女は当惑しつつも、小さく首を横に振った。

「そう。変な事を聞いてしまったわね」

 何気ない質問であったがヒントを得た。私は時計を見やり、ちょうど一分を過ぎたのを確認

して、

彼女の脈拍が40しかない事を確認した。かなり除脈である。血液の流れが停滞すると、

血液内に血栓が出来て脳に飛び、脳血栓症を引き起こすことがある。年齢的には考えにくい

が、

もしや、と言うことがある。不安はますます募る。

「先生――」

 瑞希のかすれ気味な声で、没入した思考から意識が引き戻された。

「あの――もう一杯いただいてもいいでしょうか。実は喉が渇いてしまって――」

 いつまにかコップの飲み物が空になっていた。吐いた後、と言うこともあり、

電解質を摂ることは悪いことではないように思えたので、同じ飲み物を用意した。

 ベッドに戻って彼女にコップを渡すと、緩慢な動きだが慎重に受け取った。

「いただきます」

 一口、それを含んだときだった。急に激しく咳き込み始めた。あわててコップを受け取り、

背中をさすった。呼吸を乱しつつも、なんとかリズムを取り戻す。

「すみません――つい急いで飲んでしまって」

「こう言うことはよくあるの?」

「最近、ご飯食べるときも、水を飲むときもむせやすくて――私って動きはとろいのに、

ちょっと、そそっかしいみたいなんです」

 彼女は恥ずかしそうにつぶやくと、また目線を落としてうつむいてしまった。その事を聞い

た私も、

不安な疑念が確信へと変わっていくようで暗い気持ちになった。彼女は飲み込みに支障をきたす、

いわゆる嚥下障害がある。原因は数多あるが、そのひとつが脳の機能障害である。

「ちょっと心にゆとりがないのかも知れないわね。すぐに治そうって気を張り過ぎるのも

身体によくないから、少しずつ治して行けるといいわね」

 私は瑞希のベッドから隣のベッドに座りなおし、彼女と対面した。

「これは検査みたいなものだけど、ちょっとやってみましょう」

 私は自分の顔の前に右手の人差し指を立てた。

「瑞希さんの人差し指で、まず自分の鼻に触れてみて。そこから私の指に触れてみて」

 彼女は言われたとおりにこなす。両手とも結果は同じだった。

「今度は、手のひらを上にして両手を水平に伸ばして、そうそう。じゃあ目をつぶって」

 私は突き出された手のひらを観察した。変化なし。

「うん、もう大丈夫。目を開けて、楽にしてちょうだい」

「先生――今のは何だったんですか?」

「今のは正確な動きが出来るかのテストよ。今の結果なら、すぐにとは言わないけれど、

時間をかければ良くなっていく徴候があるようね」

 嘘を言った。だが悪い徴候は一切なかったというのは本当である。

「よかった」

 小さく安堵する彼女の表情も観察すると、表情筋にも異常はない。脳の障害ではないかも

知れない。

だとしたら、これらの症状は何の徴候だろうか

 もっと詳しく話を聞く必要を考えて居た時、保健室の扉のガラスに人影が映った。入ってき

たのは、

がっしりとした体格の良い男子生徒と、付き添いの担任の教師だ。瑞希は男子生徒に気づくと、

驚愕してベッドから腰を浮かす。彼はバケツの水を彼女に振りまいた犯人だった。

 担任は彼を前に押し出すと、彼は目をそらしたまま、硬直した表情で頭を下げた。それは

決して謝る気がない、と言う様子には見えなかった。むしろ悪い事など、まるで出来なさそうな


真面目な雰囲気さえ漂っている。本当に彼がそんなひどい事をしたのだろうか。

「小木、一善がお前に言いたい事があるそうだ」

 一善はしばしためらった後、口を開いた。

「ごめんなさい!」

 瑞希の声に不意打ちを食らった私は、思わず驚いて立ち上がっていた。一善より先に、

なぜか彼女の謝罪が保健室に響きわたった。

「小木! なんでお前が謝る? こいつがお前に――」

「違うんです! 一善君は――」

 一度は担任の声をさえぎったが、何かをいいかかけて口をつぐんでしまった。

「いいんだ、小木さん。俺が勝手にやったんだ」

 彼は頭を下げ、今度こそ謝罪をこなした。不思議なやりとりに私は担任と目を合わせ、

互いに首をかしげた。担任は用件が済んだと判断したのか、私に瑞希の家族に連絡を取った事と、

早退させることを決めた事、一善を謹慎となり身柄を生徒指導室に置き、停学になるだろうと伝えて

来た。

 瑞希は諦めたようにベッドに縮こまってしまっていた。だが私は引っかかった。

何か隠していると私は直感した。それに一善は瑞希の隣の席だ。少なくとも彼女の普段の様子を聞けるは

ずだ。私の決断した。

「ちょっと横になってくれるかしら? 体温と血圧を測りましょう」

 デスクから道具を持ち出し、手早く体温計を取り出し脇に挟ませ、上腕に血圧計のベルトを

巻く。

腕は青白く、ややむくんでいるように思えたが、内出血や皮疹はなかった。

「アラームがなったら、はずしてもいいからね」

 私は瑞希をそのままに保健室を出て、生徒指導室へと向かった。ちょうど担任が指導室から

退出するところで、私は入れ替わるように潜り込んだ。

 部屋の中は、殺風景でがらんとしていた。取調室のように置かれた机がある以外、まるで物

置だ。

その取調べ机に掛けていた一善は、養護教諭が入ってきた事に意外そうな顔をしたが、すぐ興味を失ったように目をそらした。

「ちょっと失礼するよ」

「勝手にどうぞ」

 実にぶっきぼうだった。頬杖をつき、一貫して対話を拒否するような態度だった。私は椅子を引っ張っていき、

彼の隣に腰掛けた。

「瑞希さんの事で、どうしても聞きたい事があって」

「俺はもう話す事は全部担任に話しましたよ」

「まだ何か話してない事があるんでしょう?」

 一善は答えなかった。しかし、目だけはこちらに動かした。 

「バケツの水で何かを隠したかったんじゃないかしら」

 彼は明らかに動揺した。急に落ち着きがなくなり、目線が泳いでいる。実はカマをかけただけなのだが。

「ひょっとして瑞希さんは――」

「妙なかんぐりはやめて下さい!」

 次の質問をするより早く、一善は椅子を蹴るようにして立ち上がり、私から逃げるように距

離を壁際に立った。

「もう何を言っても言い訳ですよ。俺は小木に酷い事をした。その罰を俺が受ける。それでいいじゃないですか!」

 聞き方がまずかった。

だが今更後悔しても遅かった。完全に一善はヤケを起こしており、何を言っても「話す事はない、帰ってください」の一点張りになってしまった。

――結局、何も分からなかった。

 保健室に引き返すと、瑞希は静かに眠っていた。隣のベッドに置かれていた体温計と血圧計には、こう表示されていた。

体温36.5度、心拍数は43だったでやはり除脈のようだが、血圧は不可解な値を示していた。上139の下92、高血圧であった。

 通常、血圧は体温の上昇に伴う、それにともなって脈拍も上昇する。しかし血圧も脈拍もまるで食い違っている。それが私を悩ませた。

 除脈は俗に言うスポーツ心臓でも発生する。だが心臓の肥大がないと考えるならば、脈が飛ぶ現象、

除脈性不整脈が候補に挙がってくる――ならば高血圧の原因はなんだろう?

 もはや養護教諭の職務外の仕事であることは、私自身が重々承知していた。

それでも、明らかな異常を放置しておくわけには行かない。治療が施せないにしても、

そのことを病院に引き継ぐ際に、病気を探る手がかりになるような情報をまとめておきたかった。

――情報がほしい。

 私は瑞希が良く眠っていることを確認し、こっそりと保健室を抜け出した。十時を回っており

長めの休憩に入っているはずだ。

 足早に向かったのは瑞希の学級である。ちょうど大人しげな女子生徒が二人、教室から出てきたところを捕まえることが出来た。

「小木瑞希ですか――」

 彼女の名前を出すと、お互いに顔を見合わせた。

「普段の様子に、なにか変わった事があれば、何でもいいから教えてちょうだい」

「そう言われてましても――」

 二人は交互に首をかしげるばかりだった。

「せんせえ、瑞希のこと知りたいの?」

 不意に背後から問いかけてきた声の主は、二人とは正反対の特徴を持った子だった。

つまりアウトローな女子である。頭髪から服装までまで規則に義務を感じていないようだった。

クラスでの立ち位置は、二人の女子がそそくさと立ち去ったあたり、推して知るべしといったところか。

遅刻の常連なので、彼女の名前は知っていた孔雀屋マリと言う。

「生徒指導でもないのに、なんでトイレ女の事知りたいのさ?」

「トイレ女?」

 聞き捨てならない言葉だった。どう解釈しても良いあだ名ではない。

「あの子さぁ、よくトイレに行くんだよねー。だからトイレ女、みんな陰で言ってる」

「それは、いじめじゃないかな?」

「んー、別に本人に言ってる訳じゃないし、いいじゃん」

 教師としては、これを今すぐ指導すべきか、などと考えが脳をめぐった。

「それよりさー、せんせえの間で瑞希のことナマケ病って呼ぶのはどうかと思うけどなー」

「ナマケ病?」

「そうそう。なんかいっつもダルそうにしてるし、登校もギリギリだし、授業中の居眠りも

多いんだよねー。アタシよりマシだけど」

 自虐で爆笑するマリを見ていると、こう言う子は病気とは無縁なのだろうな、などと思いたくもなる。

しかし問題は――怠け病か

 その呼び方自体が時代錯誤だと思うが、とにかく瑞希には倦怠感を感じているのは確かだろう。

それを言い出せないのは、おそらく周りを気にしてのことに違いない。

 それから他愛のない話を交わしながら、瑞希の情報を集めた。普段から食欲不振な事、

時々身体の痛みを訴える――主におなかだが、腕や脚の時もあるとの事だ。

「とにかく情報をありがとうね。先生の方には私から注意をして置くから、あなたの方でも

トイレ女なんて呼び方はやめてあげてね」

「じゃあオブラートに包んで、花子って呼ぶことにする」

 少々あきれたが、時間も限られていることを思い出し、話を切り上げて別な子を探そう、

と思った。一歩踏み出しかけたとき、思い出したようにマリは私を呼び止めた。

「一善はどーしてるの?」

「生徒指導室にいると思うけど、どうしてるかしらね」

「アイツもウケるんだよねー、なんであんなことしたんだろうね?」

 たぶん興味本位だろう、軽く聞き流そうと思った。

「好きな子に悪戯っていうレベルじゃないよね」

「――好きな子?」

 思わず考えた言葉がそのまま漏れた。

「えー? クラスじゃあ有名だよ。あのふたりがお互い意識してるって話!」

 他人のうわさをなんて嬉しそうに語るんだろう、と思わず苦笑しまった。

「だいたい、あたしは二人とも小学校以来の長い付き合いだから、まあ分かりなのよね」

 どうやら彼女の考察だったらしい。

「――気づいてないのは本人だけだけどね、だからあんな事したのかな」

 マリは勝手な論評をつけ終わると、つい今まで嬉々としていたのに急激に消沈し、ついには、

私への興味も失ったように背を向けた。そのままふらふらと離れていこうとしたので、

行ってしまうのかと思ったら、急に立ち止まった。

「一善には幻滅しちゃったな。絶対にあんなことするヤツじゃないのに」

 それは私に宛てたのか、独り言か、いまいち区別がつかなかった。彼女は今度こそどこかへと行ってしまった。

 私も同意見だった。印象で物を語ってはいけないが、おそらく彼女の評は、

身近な人物としての正確な情報のように思えた。

 休憩時間が終わるまで、他の子からも情報を集めようとしたが徒労だった。

マリ以上の情報を持っている子はおらず、興味もなさそうだった。ただ教師が怠け病呼ばわりしている事と、

トイレに良く通っている事の裏は取れた。


 除脈と高血圧、嘔吐と食欲不振、腹痛、倦怠感、運動失調――発熱がない点も着目しなくては行けない。

ノロのように発熱しない感染症もあるが、除脈が説明できない。

――養護教諭は医師ではない

 そんな考えが脳裏を過ぎった。だが瑞希を諦める気になれなかった。保健室に帰ると、

私を待ちわびている人物が二人も立っていた。その間から身体を起こした瑞希が不安そうにしているのが見える。

「生徒を放置して、あなたはどこに行っていたんですか」

 私を非難する目をむける担任教師。

――怠け病って呼ぶのはどうかと思うけどなー

 あの言葉を鵜呑みにするつもりはないが、どうしても不信をぬぐいきれなくなっていた。

担任から目線をはずした先に、五十歳ほどの男性がいる。

「瑞希さんの親御ですか?」

「いや、私は瑞希の祖父です」

 私は非礼をわび、適当な挨拶を交わした。すでに帰宅準備は担任が整えており、

あとは瑞希を彼女の祖父に引き渡すだけ――だが、私は念のため彼女の症状について話すことにした。

そのことを話している間、何度も担任が私を非難したり制止しようとした。

それでも観察して得られた情報や自分なりの考えを伝えることは出来た。

「――と言う事です。病院で精密検査を受けた方が良いでしょう」

 念のため、という事がある。だが彼女の祖父はあまり感銘を受けたような反応はなかった。

「それなら心配に及びませんよ。彼女のことを怠け病だというのは、当たらずしも遠からず、

と言うヤツですから」

「それはどういう意味ですか?」

 私は困惑を隠せなかった。彼は私の話を聞いていたのだろうかとさえ思った。

「瑞希はうつ病でしょう。自殺した母親がそう言う人間だから、遺伝でしょう」

「うつ病――」

 私は、無意識に瑞希の表情をうかがっていた。彼女はこちらの目線に気づくと、

申し訳なさそうにうつむいてしまった。たしかにうつ病と言われれば合点の行くところがある――しかし、

うつ病が症状の根幹であるとは信じられなかった。

「もう瑞希を連れて帰ってもいいですか? 少し休ませれば落ち着くでしょう」

 彼女の祖父の声が遠くに聞こえる――いいのだろうか、もしこのまま帰せば瑞希は

病院の診察を受けることはないだろう。

「もうひとつだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 食い下がらねば、私は彼を引き止め、説得しなければならない。

「最近、病院の診察を受けたりはしませんでしたか? 似た症状や、風邪などで、

なにか薬を処方してもらったりはしていませんか?」

「ありません。病院なぞあてになりませんから、骨折した時も近所の接骨院ですませました」

 接骨院――新しい情報を聞き出した。

「瑞希さんは、骨折なさったことがあるのですか?」

「ええ、お恥ずかしながら半年前になりますか。ちょっとしたことで軽い骨折をしましてね」

「その時、何か特別な薬は出ませんでしたか?」

「さあ、覚えておりませんな。鎮痛剤くらいは出たかも知れませんが」

 いったい何の意味があるんだ、と言う二人分の目線が私を刺してくる――もう限界かもしれない。

「余計な事をお聞きして申し訳ありません――一応早退前の手続き用の書類を用意しますので

もう少々お時間をください」

 私は担任の反論を聞くより先に保健室を飛び出した。向かった先は生徒指導室だった。

 幸い、中には一善しかいなかった。

「瑞希さん、早退するそうよ」

「そうですか、俺ももうすぐ親が来て自宅謹慎ですよ」

 彼は目線を合わせようともしない。私は一善の横へ行き、すぐ隣に身をかがめた。

「あなた、瑞希さんとの付き合いはどれくらい?」

「なっ」

 一善は動揺し、さっきと同じように席を蹴るようにして立ち上がった。

「なんて事を言うんですか! 今、それがなんの関係があるんですか!?」

 急に顔を赤らめ、取り乱す一善。

「そう言う意味じゃなくて、たしか小学校以来の付き合いだって、孔雀屋さんから聞いたわ」

 一善の隣に回り込み、自分なりの考えを言い続けた。

「――なら、彼女の骨折のことも、うつ病のことも何か知ってるんじゃないかと思って」

 私が回り込むたび、一善は顔をそむけ続けた。

「知ってますよ――近所ですから、骨折のことも、カルシウムの薬を飲んでることも」

「カルシウム?」

「接骨院から帰ってから、サプリを飲んでるんです。骨粗しょう症気味だから、

生活を改善しろって言われたってね。これで身長が伸びる、と笑ってましたよ」

 なるほど、と私は思った。今までは霧の中のような胸の内が、一気に晴れ渡っていくのを感じた。

「一善君、私は瑞希さんを誹謗する訳じゃないから、怒らずに聞いてね」

 そう断りを入れてもなお、私はしばしためらいを覚えた。いままで目をそらしていた一善は、

いったい何を言い出すつもりなのかとばかりに、注意深く私の顔を見ていた。

「あなたがバケツの水で隠そうと思ったのは――彼女の尿失禁だった」

 構えていたが、彼の表情が微速度撮影のように変化した。

「なんて事を言うんですか! あなたもアイツらみたいな中傷をするんですか!」

 彼の怒気でピリピリするほどの剣幕だった。彼の開ききった目は、私の目を通して脳の奥を

読み取ろうとしているのではないかと、そう思えるほどきつく鋭かった。

「図星、でしょう?」

 私はうめくように声を絞り出す。それに伴って彼の表情が緩む。

「そうです――あたりです」

 彼は体中の力が抜けていくように床にへたり込んだ。

「瑞希はかわいそうに、みんなにバカにされるからって、トイレに行くのを我慢していたんです。

あいつ、子供の頃から喉が渇きやすくて、いっぱい飲む癖があるから――」

 これで瑞希が一善に謝った理由も分かった。彼が瑞希をかばおうとしたばかりに、

彼は停学処分を待つに身になってしまった。

「話してくれてありがとう――あなたから聞いた話を悪いようにはしないって約束する」

 それから私はそっと、一善の耳に私の見つけた答えをささやいた。無念のあまり

ゆがんでいた彼の表情が解きほぐされ、驚愕の表情に変わる。

「そんな! それじゃあ、瑞希は!」

「病状はかなり悪化してるわ。このままだと瑞希さんは危ない」

 私は生徒指導室を出ると、足早に保健室に向かった。彼女の病気は、決してうつ病ではない!


 後日、私は事務手続きが終わらず、一人で保健室に遅くまで残っていた。傍らに携帯電話を置き、

ある人物からの着信を待ちわびていた。

 あの日、私は知り得た事を全て話し、強引に病院への紹介状を書き、それを瑞希の祖父に押し付けた。

ついでに彼に読んでもらうための診断書も添付した。その診断書を読むなり、祖父は取り乱し、

私に詰め寄り何度も問いただしてきた。今でも「医師でもないくせに」と言う言葉は、私の胸に突き刺さっている。

――私はもう医師ではないのだ

 結局、その後瑞希がどうなったか分からなかった。彼女を連れ去るようにし、それっきり音沙汰がない。

――やはり私は間違っていたのか

 その時、間に待った着信があった。書類を放り出し、急いで電話取る。

「覚えているかな? 私だ」

「医長先生、先日は不躾なお願いをして申し訳ありませんでした」

「いやいや、昔のよしみだ。かまわんよ」

 電話の主は、以前お世話になった病院の先生で――研修医時代の上司だ。

「それで小木瑞希はどうでしたか――? 来院しましたか?」

 私が恐る恐る訪ねると、彼は大きな声で笑った。

「ちゃんと来てくれたよ。祖父に連れられてね」

 その一言を聞いた途端に半分の荷が下りた気がした。

「それにしても相変わらずの慧眼の持ち主だなぁ。驚いてしまったよ」

「それではやはり――」

 もうひとつの懸念であった。

「彼女は副甲状腺機能亢進症だ。エコーの段階で陽性だった」

 頚部の甲状腺に隣接する内分泌器官の副甲状腺が何らかの原因で過剰に働く症状である。

副甲状腺は極めて小さく数ミリしかない。その米粒のような器官が彼女を苦しめていたのだ。

 過剰な副甲状腺ホルモンが骨のカルシウムを削り、血液中に溶け込む。

結果、骨粗しょう症を引き起こすのだが、その上に瑞希はカルシウムを経口摂取したため、

高カルシウム状態になってしまった。

「血圧が高いのは悪化した腎臓のせいだな。十二指腸潰瘍も痛んでいるようだし、

低リン酸血症のせいか、骨も軟化している。圧迫骨折を起こさなかったのが奇跡だな」

 カルシウムが多いと、体中の機能が停滞する。脳神経や筋肉の神経が興奮せず、抑うつ症状

に陥り、

筋力低下や悪心、嘔吐、そして倦怠感を引き起こし、心臓が弱くなり除脈を起こす。

多飲多尿傾向は、血中の高カルシウム状態への防御反応だ。

「最後にもうひとつ――お聞きしたいことが」

 私は解けずに残った疑問を消化したいと思った。

「いったい何が亢進症を引き起こしたのでしょうか」

「実はCTも取ったのだが、どうやらこの子は副甲状腺が一個多いようだな。

おそらく彼女の母親も同じ症状だろう。珍しくはないが、これが悪さしていたと見える」

 謎が解けた。全ては彼女の身体への不理解が生んだ悲劇なのだと悟った。

「あの頑固そうな祖父も、このことを伝えたらひどく落ち込んでいたぞ。もっと早く知っていれば、

娘も助かったろうに、とな」

 少し気まずい思いがした。正直、私でさえ彼女の異変にあたりをつけられたのは、ほぼ偶然と言っていい。

私に限らず、この病気が見つかるのは、ほとんど偶然であることが多い。

「――ところで、今からでも研修医に戻る気はないかね?」

 ぽつり、彼はつぶやくように尋ねてきた。未練とプライドがせめぎあったような、そんな印象を覚えた。

「申し出はありがたいのですが、私は逃げ出した身です。それに生徒達をほうりだす訳には――」

 私は内心、生徒をだしにしているのではないか、と言う疑念に陥った。

「君は逃げた訳ではない――もう医局の人員も入れ替えて、かつてのように

君の眼を出る杭として叩くものはいない、だから――」

 やがて彼は諦めたように、残念げな嘆息をもらした。

「いや――君の人生だ。好きにするといい。だが、もし気が変わったなら――」

「ありがとうございます。その時が来たらいつか――」

 それからお互い沈黙が続き、あとはそっけない挨拶を済ませ電話を切った。

私は――しばらく悩み続けた。結論は出なかった。だが――

――もう、医局での政争には耐えられまい――

 小さく首を振り、それから勤務医に戻ることを考えるのはやめた。今の自分の仕事は病院の仕事に比べれば、小さなことかもしれない。

それでも、頼りにしてくれる生徒がいる事を忘れずにいよう――そうすれば人助け、そう言う意味では医者も養護教諭も変らないはずだ。

そう思うことにして、私は悩むのをやめることにした。

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