回想4

「正義とは何か」


 彼はそんなことを口に出した。別に誰かに聞かせようとしていったわけではなかったし、強いて相手がいるとすればそれは彼自身であった。でも、その声は彼が意図していたよりも、少しばかり大きかったようで、隣に座っていた女子が小首を傾げた。

 彼を含めた全校生徒はもちろん、教師や保護者、その他役員が体育館に集まっている。大型のヒーター四つだけでは、雪が降り積もるこの寒さをどうにかすることは難しかったようで、彼の視界に入っただけでも数人身体を震わせていた。

その日は、卒業式であった。


 あの後――彼女が彼の前からいなくなった後、彼はずっと正義について考えを巡らせていた。

 彼にとって、正義とは答であった。それさえ言っておけば、全てが片付く魔法の言葉。だから、その魔法の言葉について考えるのは、途方もない労力を要求された。

 しかし、学校での口数が極端に減っていた彼には、時間という時間は有り余っていた。

 単純な暴力で訴えてくるイジメであったなら、彼の保護者が見つけて訴えることができたかも知れないが、彼をおそったのは無視という名の静かな暴力であった。

 ただここで誤解を解いておかなければならないのは、クラスの全員が彼の敵であったかというと、決してそうではないということである。彼が干渉したイジメは女子側の問題であり、男子側は一部を除いてそこまで関与していない。

 だから、ここまで無視が酷くなったのは、彼の存在感が消失してしまっていたからである。声をかければ返答するということは、逆を言えば、声をかけなければ反応はないと言うことである。彼の口数が減って行くにつれ、会話が消えていくのもともすれば当然であった。


 その時間を使って彼は考えた。

 正義とは何か。そして、自分のしてきたことははたして正義であったのか。

 その結論は、最後の最後まで出なかった。というのも、自分の行動に対して正しいかどうかの判断を下すのは、他人だからである。いくら自分が正しさを主張しても、第三者から否定されれば、それは醜悪なものへと変わる。


 そして、空木うつろぎしろという人間は人の気持ちを考えることを、ないがしろにして生きてきた。と彼は思ったのだ。実際は、人並みには人のことを理解する能力を備えていたのだが、絶対的な心の柱を失った今、彼にはそのような自信がなかった。だから、答がだせないのだ。

 しかし、彼は卒業式の最中に気づいた。


 そもそも、正義とは、正義かどうか分からなくなった時点で正義ではないのではないかと。


 そう思った途端、雷鳴が彼の頭の中で弾けた。

 こうして、彼は所存しょぞんほぞを固めるとともに、最後に、正義が執行できると安堵した。

 それから、数十分の時が経ち、卒業生は一旦自分達の教室に戻される。教師は、保護者を教室に案内するため、席を空けている。ここが最上階の四階であることもあって、例年、十分近く担任は不在になるらしい。

 彼は今がチャンスだと思った。


 が、その前に、あることに思い至った。


 これからすることの重大さを分からない彼ではない。だから、ただそれを行うだけではダメなのである。罪のない――むしろ、正義である側の彼らが非難されることが万が一にもあってはならないのだ。

 彼は立ち上がったが、誰からの反応もなかった。声は聞えるのだから、このまま言葉を発そうかとも思ったが、せっかくの悪が滅びる瞬間なのだから、皆に見てもらおうと思った。

 だから、椅子を響かせるようにわざとらしく立ち上がった。この音には流石に皆気がついた。三十九名――都合七十八個の瞳から放たれる視線を彼は全身に浴びた。

 窓を開けると、三月の冷たい風が彼の頬をかすめた。触れられたそこは次の瞬間には、熱を帯び始め、まるで血が流れているかのようであった。

 鮮血という言葉が死を連想させた。それはこれから行うことの警告だったに違いない。


 ただ、そんな警告など彼にとって無意味のないものであった。

 彼は息を吸うと、一気に語り始めた。


「ボクはきっと最初っから間違えていた。本当にごめんなさい。そもそも、ボクのような者が正義を名乗るだなんて間違っていたんだ。少なくとも、ボクは皆から慕われるようなやつではなかった。しかも、よくよく考えればボクのやったことは全てマイナスではないか! 君達にとっていいことはなにもしなかったんだ。ただ、自分の思う正義を貫いて、それで皆に迷惑をかけていただけなんだ。こんな独りよがりで醜いものが、この世に本当にあるのか? その上、ボクは何かにつけて自分は正しい。そして、誰かのためになっているって言うんだ。醜いどころじゃない。唾棄されて、非難されて、殴られて、虐められてもまだあまりある。――これこそが、悪ではないのか? ボクが吐き捨ててきたと思っていたものは、全てボクの行動に違いなかったんだ! だから、君達は正義に違いないんだ。悪いのはボクだ! 全てボクが悪いんだ。ボクは自分の中で正義を育んだつもりで、その実、悪を飼っていたんだ! なんて愚かなんだ! ボクはきっと――いや、絶対に誰も助けることはできないし、それから、誰も心の中で許すことができず、悪を知らず知らずの内に助長してしまうんだ! 皆の笑顔を憎み、全ての人を守ることなんてできず、常に自分のことばかりを考えているようなやつなんだ! 後ろ盾がなくなった瞬間、弱々しくなるボクは狐だ! 虎の威を借りた! そして、全てを壊すんだ! 先人達が、周りが一から積みあげてきた者を無自覚の内に壊す。全て、正義という言葉をむやみやたらに振り回して壊すんだ! そのようなことだけをするボクは。正しい正義を持たず、間違った正義にのみ囚われているボクは、疑いようもないほどの悪なんだ!」


 そこまでまくしたててから、彼はようやく一息ついた。

 そして、結論を語った。


「だから、悪は――悪であるボクは滅びるべきなんだ」


 彼は自分の席から離れて、窓の方へ歩いて行った。彼はあそこから飛び降りるつもりなのである。間違った正義をかざし続けていたという、罪の意識は、正義を執行することでしかもはや拭えないように思えた。しかし、小さな出来事において、正義かどうかは判断をつけるのが難しい。

だが、明らかな悪を討つのならどうであろうか。

 悪を滅ぼすことは、正しい行為に他ならないように思えた。

 そのことが彼を自殺に走らせたのである。

 彼が最期に語った言葉はこうであった。


「ありがとう。ようやく、ボクは正義を通せる」


 そう言って、彼は空に消えていった。――最後に、隣りの席の女の子と目が合った気がした。

 彼が落ちた後も、彼らはずっとその一点を見つめていた。まるでまだ彼がそこで何かを言っているかのように。やがて、担任が保護者を引き連れて教室に入ってきた。

 教室は堰を切ったように、混乱の渦に飲まれた。


 そして彼の遺言とも言える演説は、クラスメイト各自の心に影響を与えた。ただ、彼の意図していたことは誰にも伝わらなかった。皆が皆、それを彼の皮肉であるという風に捉えたのであった。

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