回想3
「正義ってなんだと思う……?」
卒業式も間近に迫った頃。自室にて彼は、彼女にそう訊いた。彼女は、顔を嫌そうに歪めて言った。
「……それ、私に訊いても無意味。怪異に、訊くな」
「でも、君にも正義ってあるだろ? じゃないと何が正しいのか分からないし」
普段なら、彼女が嫌がった時点で質問の手を緩める彼だったのだが、しかし、その時ばかりは例外であった。彼女はそんな何時もと違う彼の様子に少し疑問に思ったが、治療もかねて未だ彼の部屋の中に居続けている彼女は、無論、彼の学校での事情は知らない。それゆえ、彼女は小さい疑問を無視して、面倒くさそうに答えた。
売られた恩を返すために一緒にいるはずなのに、面倒くさそうにする理由は分からない。おそらく、恩の返し方のベクトルが違うのだと思うが、もし、本当にそうだったのなら、彼と彼女は互いに面倒くさい性格をしているように思えてならない。
「……ない。好きにやってるから。それが、良い悪いかなんて、知らない。分からない。分かろうとも、思わない」
「そんなものかな? 良いことをしてないと不安にならない?」
「……善悪に、とらわれなければ、不安なんて生まれない」
そんなものだろうか。だとか、なるほど、そのような考え方もあるのか。――となる程、彼は精神的に成長していたわけではない。むしろ、子供らしく一つの考え方、自分の考え方こそが正しいのだと思っていた。
これが誤解であることを、まるで考慮していない。だから、彼女の答は彼をイライラさせた。足場が突然ひび割れてしまったような焦燥感や不安は、すぐさま怒りへと変容した。
「じゃあ、君は悪者なんだね。正義を持っていないのなら」
「……そうだね。でも、あなたが良い人か、どうかは、分からない」
「それ、どういう意味?」
もう、彼には苛立ちを隠す方法はなかった。
「……そもそも、悪い人って、何? 良い人って、なに?」
質問を質問で返すな! と怒鳴りたかったが、冷静さを欠いてはいけないと、彼は冷静さをすでに失っている頭で考えた。
「良い人は、自分の中で正義を持っている人だよっ! それで、みんなを助けたりするんだ。あらゆる人を助けて、許して、それから、悪を討って、みんなの笑顔を愛して、全ての人を守る人であって、常に自己の犠牲を顧みない人であって、正々堂々している人であって、それで、全てを壊さない人! そして、悪い人はそんなこともせず、正義なんてものを持たない人だ!」
つまり君だよ。とまでは言わなかったが、言われた彼女は笑った。
「……ふふ。穴ばかり、だね。じゃあ、もし、正義をもった、人同士が、ぶつかったら、どうなる?」
「そんなの、あるはずない」
「……とある、イジメがあった。あなたは、助ける?」
「当たり前だ。イジメは悪なんだから。救わなくちゃならないに決まっている」
「……そう。じゃあ、約束を破った子は、良い子?」
彼は、彼女が何を言わんとしているのか分からなかった。怒りにまかせて彼は言う。
「悪いに決まってる」
「……そう、じゃあ、約束を破った子が、虐められたとして、助けたあなたは、正義なの? 悪なの?」
空木の言葉が詰まったのは、言うまでもない。それは、彼が今まで考えたことも
ないことだったからである。事態は特殊でも何でもない。むしろ、日常的に起こりうるものである。でも、答えることはできない。自分が正義だ、正しいと思い続けてきた彼には、そんな想定を考える必要がなかった。――いや、考えることを怠ったから、そのような歪んだ正義が生まれてしまったのだろう。
そのことに気づかされたのが、この時であった。
今まで、自分の特権とばかりに振り回していたものが、今更ながら非常に重たいものであったことに気づいた。気づいたが最後、もう二度と軽々しくそれを語ることは難しくなる。今まで支えてくれていたものの喪失。実際には、扱えないものであることが、分かっただけのことであるのだが、彼にとっては喪失と言っていいものであった。
彼は自分を恥じた。後ろを振り返ると今まで歩いてきた道が、ひどく不安定なものに見え焦った。そのことに気がつくと同時に、彼の手は震えた。
あまりにも強く握ってしまったためか、皮が破れて血が流れた。噛んだ唇からは鉄の味がした。
さながら闇鍋のようにぐちゃぐちゃになった感情が、彼の心の中を満たしていく。それが、許容量を超えた瞬間、彼は声を荒げた。
「出て行ってくれ! 君の顔は見たくない!」
第三者的な視点から見れば、どうして彼がそのような行動を取ったのか、理解に苦しむ。しかし、好きなものを否定された時を思い出していただきたい。思うに、彼のこの時の気持ちはそれに近いのだと思う。
信じているものの価値が
気がついた時、その部屋には自分しかいなかった。
彼女がいつここを離れていったのかは分からない。でも、彼の頭が冷えて非礼をわびようとした時にはもういなかった。彼は呆然とその場に居続けた。
この行動はどこからどう見ても、彼が唾棄していた悪に相違なかった。
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