第14話  こんばんは神様

――なんでこんなときに。

 笹塚は内心で舌打ちをして、「こんばんは」と力なく挨拶をした。

「こんばんは、お忙しいところすみません、仕事帰りですかね、ちょっとお時間よろしいですか?」

「人を待たせているので、手短にお願いします」

「ぁあ、そうなんですか、では手短に、身分証を見せてもらってもいいですかね」

「……すみません、今はありません」

 警官の表情が一瞬固くなる。

 笹塚は血の気が引くのを感じた。荷物は全て病院に置いてある。普段なら持ち歩く。気が急いていたから、起き掛けだったから、理由はいくらでも探せるが。

 ――もう、間に合わないかもしれない。

「手ぶらで帰宅ですか? 出社の際にお荷物は?」

「急な用で、外に出ていたんです、戻らなくていいと言われたので、手ぶらなんです」

「差支えなければ、お仕事と、どういった理由で外に出ていたのか、お聞かせ願えないでしょうか」

 ――やっはりこうなった。

 悔しさが、悲しさが、行き場のない憤りが、込み上げた。

 笹塚に後ろめたいことなんて何もない。病院を抜け出してしまったことは咎められるだろうが、前科がつくわけでもなければ、職歴に傷がつくわけでもない。

 しかし、決定的な一瞬が永遠に奪われる。

 紅火花の居場所がわかると聞いたとき、この世には、神様がいるのかもしれないと笹塚は本気で思った。

 代り映えのしない日常の中にもちゃんと、奇跡のような出来事はあって、神の気まぐれで幸福を落としてくれるのだろうと、そんなことを思ったのだ。

 しかし現実はやはり、現実。

 敷き詰められた当然と、隙間を埋める偶然だけが、現実だ。

 空も飛べなければ、どこにも行けない、それが笹塚亮の現実なのだ。

 笹塚は全身の力を抜くように息を吐いた。

「仕事はIT関係でSE職を、外に出ていた理由は――」

「おっそいすよー! スズさぁん! もうすぐサービス終了しちゃいますよ!」

 突然響いた明るい声に警官も笹塚も声の方を向く。

 ジャージ姿の金髪眼鏡、よくいるウェイ系大学生、それが、笹塚の青年に対する第一印象だった。

 青年は強引に笹塚の腕を取ると、警官を無視して走り出そうとする。

「まて西田! その人とは話の途中だ!」

 青年が笹塚に目くばせして、にかりと笑った。

「固いこと言わんでくださいよ、望月さん! 俺の住所も大学もバイト先も、彼女も知ってるっしょ、はいサヨナラ! 急いでるんで!」

「ふざけるな西田! 公務執行妨害だぞ! 大学に報告するからな!」

「はいはい、どこにでも連絡入れてくださーい!」

 西田と言われた青年は警官の静止の声を振り切り、笹塚を連れてそのまま逃げ切ってしまった。

 何度目かの街路を曲がった瞬間、青年は脱力したかのように、全身で息を吐いた。

「もう! 何してんすかsuzuさん! あなた主人公ですか⁉ トラブルメイカーですか⁉」

「あっ、やっぱり、声は違くてもしゃべり方で分かるもんですね、どうも、いつもお世話になっております、タニシさん」

「いやいや、こちらこそ……って、そんなことしてる場合じゃないっすよ! ほら走って!」

 タニシが走っていく。

 それにつられて笹塚も走り出す。

 熱くなった目頭を拭い、タニシの背中を追う。

 ――神様はいるのかもしれない。

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