第5話 零距離のファンタジー

アバターから剥いだ皮がまだらに染まり、マウスが宙を飛んでベッドを跳ねる。

「がぁああ、うまく塗れない……」

 タニシから教えてもらったペイントソフトは大変優秀で、お絵かき初心者の笹塚でも、ひょっとしたら絵が描けるのでは? と思わせるだけの機能が詰まっていた。

 だが、蓋を開けてみたらこの様である。そもそも、どこにどんな影ができるかわからない、それ以前に三次元を二次元に展開したことで、色の配置がイメージできない。

 アバターの肉体ができたときは、案外できるものだと思ったが、色を塗り始めた途端ゴールが遠ざかった。

 予定では今月中に仕上げるつもりだったが、すでに月半ば、どう考えても間に合いそうにない。

 「まあ、ゆっくりやるか」

 焦ってもよいものはできないだろう。冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、プルタブを押し上げる。子気味良い開封音が響き、そのまま吸い付くように中身をのどに流し込む。VRを始める前は、これこそ日常の喜びだった。

 しかし、今は違う。

 笹塚はVRのヘッドセットを被り、見慣れたログイン画面を通り抜け、マイルームから「HANABI」というワールドに飛ぶ。するとそこは中華風の庭園が広がる夜の世界。赤い瓦屋根の家屋と蓮の浮かぶ池、周囲は小高い山に囲まれ、遠くの桟橋の先では花火が上がっている。

 笹塚は家屋の二階へ上がり、不自然に置かれた中央のテーブルの花瓶に手を触れた。

 瞬間、笹塚の体は地上からはるか離れた五重の塔の最上階に移動する。開け放たれた窓を通って、欄干まで行けば、下の屋根ではほかのアバターが寝転がり、宙に咲く満点の花を眺めていた。

 音と光が世界を明るく照らす。現実の六畳に満たない部屋が冒険の世界に変化する。

 花火に合わせて手をフリ、声を上げる。目の前の光景は笹塚のリアルであり、美しいという感動もまた本物だ。

 笹塚にとってこの世界は現実の延長上にあった。

 昔夢見たファンタジーの世界が広がっていて、技術次第で空を飛べるし、魔法だって出せる。この空間はまさに、昔夢見た世界そのものだった。

 メニューウィンドウを開き、マイクのアイコンに仮想のポインタを持っていく。

「……」

 押下すればミュートになるが、笹塚はそれを止めた。現実の体に空気を送り込み、精一杯の声を上げた。 

「たーまやー!」

 屋根の上に寝転がっていた何人かが振り向く。そして笹塚と同じように花火に向かってノイズ交じりの声を上げた。互いに笑い声を交わしながら、延々と続く花火に遠吠えをする。

 誰かがギミックを作動させたのだろう。やがて音楽が聞こえ始め、夜の空に天灯が飛んでいく。次から次へと湧き出す天灯が花火の向こう側に消えていく。

 笹塚は最後の一つが消えても、ぼうっと空を眺めていた。周囲にいたほかのアバターは一人、また一人と去り、ついにワールドにいる人数を表す数値が一を示す。

 笹塚はこの世界が好きだった。

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