2019
コロセウム
雨が降ってきた。傘を忘れたので鞄から折り畳み傘を出した。か細い骨が伸びてつながる。張った布に水滴が当たり鈍い音を立てた。構わず歩く。すり切れた革靴から水が入って靴下が冷たく濡れる。眩暈がした。耳から流れる音楽はいつもより速い気がする。同じ音楽が速く聞こえるということは遅いのはぼくのほうだ。すべてが進む速さから振り落とされ取り残されいつの間にか何もかもが見えなくなった。
星ひとつない闇に目が眩んだ。気が付けば目の前の道路も、商店も、マンションもガソリンスタンドも見えなくなっていた。見渡す限りの黒で視界は満たされている。ぼくはこれを世界と呼びたくなかった。これを世界と呼ぶために生きているわけではなかった。8分の6拍子がどんどん速くなって、だんだん遠くなっていった。はるか遠くの消失点にみんな吸い込まれてしまったみたいだ。なぜぼくだけがここに立っているのかわからなかった。いや、もはやぼくは立っているのかどうかすらよくわからない。けれどぼくはこれを世界と呼びたくなかった。これがぼくだけの世界であるはずがなかった。
どこにもない夜の中、身体だけが熱くなる。ぼくの中の熱が、血潮が、筋肉がまだふるえている。スタンドプレー、スタンドプレー。放送席はどこにもない。ゴールも、コートすらなかった。ボールもなかった。けれどこれは試合だと思った。ぼくは世界の代わりに試合に立っていた。行き場を失った熱が出口を求めて反射した。足元は冷たくなかった。もうどこにも、冷たさは残っていなかった。
肌に触れる空気が変わった。ほどなくして3拍子を取り戻した。放射状に吹き出すように景色が戻ってくる。ぼやけたネオンやオートロックに囲まれた集合ポスト、トレーラーを吐き出したばかりのガソリンスタンドが見える。空は暗くて星もない。雨が降っている。熱は奪われていく。
しいて言うならこれが世界だ。この世界とぼくは互いに素だから割り切れることはない。溶け合うことは許されていない。世界はだれとも溶け合わない。まじりあわない。だからこうして、常に走り続けていなければ簡単に抜き去って振り落としていく。あたりまえのものがあたりまえにあることは、あたりまえではない。それが世界だ。たったひとつの世界だ。
だからぼくは世界に溶け込むきみが嫌いだ。
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