2020

カモメ

 珍しく激しい雨が降っていた。

 雨樋を水が滝のように流れ落ち続けている。ひんやりとした空気は、夏がまだ遠いことをはっきりとものがたっていた。ぼくは窓を開けてベランダに出た。手で探ることなく後ろ手で閉め、煙草に火をつけた。吸い始めて間もないはずだけれど、すっかり慣れてしまっていた。とはいえ、重たいものはまだ吸えないし、吸う必要もないのだと思う。

 二階とはいえ、小高い丘の上に建っているので十分すぎるほど海が見える。このまちの海も空も、いつも灰色だ。違いといえば、雨が降っているか、そうでないかくらいだろうか。ここ潮間ですっきりと晴れ渡った空や真っ青な海を見るということはたぶんないのだろう。煙は濁った空に吸い込まれるように消えていった。

 ふと、気配を感じた。

 一羽のカモメが、ベランダの隅にとまっていた。雨をしのぐためだろうか、ぼくと同じように海のその先を見つめている。羽やくちばしに傷はない。ならば、このカモメはどこからやってきたのだろうか、と疑問に思った。そして、同時にどこへ行くのだろうかと考えた。

 手元のスマートフォンで「カモメ」と検索すると、フリー百科事典と言われているまとめサイトや野鳥観察のサイトなどがヒットしたが、いずれも共通しているのは、カモメというのは渡り鳥で、冬に日本にやってくるということだった。だから、春も後半になりつつある今の時期にこの辺で見ることはおそらくほとんどないのだろう。最近見た記憶もない理由がわかった。とはいえ、このカモメに時季以外の特段に変わったところはない。しいて言えば、たしかに、取り残されてしまった憂いのようなものをその小さな瞳から見て取れるかもしれない。それはぼくの思い込みであるとはいえ、少なくともぼくからそう見えることについては間違いがないのだ。

 灰を落として携帯灰皿に吸い殻を入れると、がらりと音がして細い腕がぼくの腰に巻き付いた。身体の中に雨が降り注いだようにぼくは冷たくなったけれど、その雨水を外に出すべきではないという意思にもとづいて、煙草の匂いが残ったままの左手で細い手首を優しく握った。

「ごめん、なさい」

 か細い声で鳴くように出された言葉が、雨水となってぼくに返された。冷たくするつもりはなくても、冷たくなってしまう。おそらく、ぼくが彼女と暮らし始めて最も知ったことはそれに違いなかった。

 もしかすると。

 いや、やめておこう。もう頭も痛くならなくなったのだから。雨が降っていても、いやになることはもう、なくなったのだから。

 悪酔いした酒の瓶を水に浸して、ゆっくりとラベルをはがしていくようにそれは徐々にではあったけれど、はがれてしまった今となってはどんな痛みだったかすら思い出せなくなってしまった。今、潮間に生きているぼくは、その前のぼくでは断じてないのだ。ふたたび小説を書き始めたぼくは、つまり小説を書けなかったころのぼくにはもう戻ることはできない。それと同じこと。

「いやなゆめをみたの」

 ベランダから部屋に戻り、ぼくは彼女を抱きしめた。腕の中で彼女は泣いていた。雨はぼくの中にずっとずっと降り続いていてきっとやむことがない。

「昔の夢?」

「たぶん」

 このまちに文字通り流れ着いた彼女には、その前の記憶がなくなっていた。だから単身で喫茶店を経営しながら建物の二階をすみかにしているぼくが、身よりのわからない彼女の面倒をみることになってしまったのだ。

 だからぼくは彼女がいくつなのか、どこの生まれなのかすらわからない。親が生きているのかどうかすらまったくわからないし、ほんとうのことを言えば、それは彼女の「演技」であって、ただだれにも教えたくない理由があってそうしているだけなのかもしれない、とぼくは考えているし、どちらであっても結局のところぼくが面倒をみるしかないわけで、だから少なくとも表面上は彼女の「記憶がない」という言葉を全面的に信用してみなければならなかった。

「電車に乗ってた。男のひとと」

「そう」

「タカシさんくらい、だと思う」

「そのひとの年格好?」

「うん」

 このように、彼女はときたま、流れ着く前の記憶が夢として掘り起こされることがあるらしい。いくつかのはなしを総合すると、どうやら彼女は自分で海に身を投げて、運良く(もしくは、不幸にも)大したけがもないまま浜辺に流れ着いたのだろう。けれどもいくつか、わからない部分もまだある。ひとつは、潮間のひとたちのだれもが彼女を知らないというのだから、少なくとも彼女は潮間まで電車か何かでやってきたようなのだが、その流れがまったくわからないこと、そしてもうひとつは、流れ着いた彼女は一糸まとわぬ姿だったのだけれど、交通機関を使用しているのなら当然何か服を着て、財布やら身分証やらを持っていたはずで、けれどもそれらがなにひとつ見つかっていないということだった。

「少なくとも、わたしは飛び降りる前に潮間に来ている」

「そのひとと」

「うん、たぶん」

 涙を流しながら彼女は話す。みにくい顔だけれど、その美しさをどう書けばいいのかぼくにはわかっていた。ただ、読むひとがいないだけで。

「でも、もういいの」

「なにが」

「昔のこと、もう思い出したくなんかない」

 それはそうだろう。潮間は、外のひとびとにとっては自殺のまちで、北のはずれにある灯台が飛び降りの有名な場所だった。ぼくはかつて、そうやって飛び降りたひとびとがさいごにたどり着く場所の近くに住んでいた。真珠のなりぞこないのようなちいさな珠が無数に敷き詰められている浜辺で、彼女は生きたまま身体を横たえていたのだ。それを目にしてから、ぼくは急に小説が書けるようになった。書けなくなったのがそんなに急なことではなかったのに比べてなんだか「釣り合っていない」ような気が今もしているけれど、ほんとうのことなのだから仕方がない。

 ふきだまりのまちに流されたぼくと、自ら進んで身を投げた彼女は、ほんとうはわかりあえるような間柄ではない。そんなことは最初からわかっていた。か細い手足と不自然に白い肌はもしかすると未成年なのかもしれないとは思っていたが、どちらでもよかった。このまちでは、彼女は二十歳ということになっていたし、それに疑問を挟もうとする者はいない。

「思い出しちゃった」

 なおもそれを言葉にする彼女のまっすぐさは、ぼくがどこかで置いてきてしまったか、もしくは最初から持っていなかったものに見えてなんだかまぶしい。

「わたしのほんとうのなまえ」

「ふうん」

 そっけなく、ぼくは言った。聞かせて、と言えるほど無神経でも、暖かいふりをすることもできなかった。

 はは、と彼女は笑った。

「いいたくない」

「うん、知ってる」

 ぼくはゆっくりと彼女をベッドに押し戻し、台所へ向かった。冷蔵庫に何が残っているのか忘れたが、コンソメの素は間違いなくあるはずだ。喫茶店のランチにはスープをつけるのが習わしだったから。何か暖かいものを出す必要が、ぼくにはある。

「ぼくも別に、聞きたくないから」

 しなびたほうれん草のように彼女はベッドの上にだらしなく座っている。ようやく、落ち着いてきたらしい。

「だってきみのなまえは、石本真珠いしもとまじゅだから」

 思っていたよりもあたりまえに言葉にしてしまい、ぼくはこっそり狼狽してしまった。真珠にはお見通しだろうか。だとしても、わからせないふりをするしかないが。

「タカシさん、そういうところ、きらいじゃないよ」

 壁によりかかり、真珠はぼくの煙草をくわえる。

「吸うなら外にしてくれ」

「うん」

 真珠はライターをつかんで、ベランダに出た。

「あっ」

 真珠の頭が見えなくなってぼくはコンロに火をつけるのをやめた。ベランダに駆け寄ると、細い身体を折り畳むようにしゃがみ込んで笑っていた。

「なにしてんの」

「カモメ」

 視線の先を追えば、翼を広げたカモメがばさりと、あっけなく飛び立つところだった。

 いつの間にか、雨はあがっていた。

 虹はまだ出ていないようだった。

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