宿直勤務
「失礼いたします。お嬢様、お茶が入りました」
執務室の扉を開け、レイラは恭しくゆっくりと入室した。大きな黒塗りの櫛で器用に纏められた橙色の髪先が不規則に揺れている。右手の盆には陶器のカップが二つ、琥珀色の液体で満たされているが、その水面は微動だにしていない。
「レイラ、ここは執務室だ。課長と呼べ」
機巧魔術捜査課長席にむっつりと座り込むエリスは、むっつりとした表情を変えぬままそう答えた。机には羊皮紙が今にも崩れそうな塊のように堆く積み重なっている。
「それにもうお嬢様という歳ではない」
男と同じように短く切った藍色の髪と、左こめかみにある大きな傷跡、老年の影が見え隠れしている皺だらけの顔、華奢ですらりとした体躯からは、お嬢様と呼べるようなところは残っていない。客観的に言えば、エリスの言葉は正しかった。
「あら、私からすれば、課長以前に、お嬢様ですけれど」
「五十を超えてもか?」
「そんなことをおっしゃるなら、私などもう退役しなくてはなりませんわ」
ふふふ、と微笑みを浮かべたレイラは、確かに誰がどう見てもそのような年齢には見えない。
「したいなら、すればいい。嘆願書は書いてやるとも」
「私以外の者に、この課の補佐が務まるはずありませんわ。そのために、ここにいるのですから」
むしろ、別の人間が補佐の座についたら殺しかねんな、とエリスは口の中でもごもごと言った。
「――さて、ようやく課の人事報告書まで来たところだ」
万年筆から紺色のインクがにじんでいるのを、エリスは指でなぞった。インクはすぐに軸に逆流し、筆先は硬化し閉じる。
「そんなこと、部下の前でおっしゃってもよろしいのですか?」
少しだけ空いた執務机に、レイラは注意深くカップを置く。琥珀色の液体は、未だに微動だにせず静寂を保っている。
「エルバトス正佐、人事評価というものは課長と補佐の協議によって決定されるものだ。それに、お前の最終評価者は私ではない」
人並みに年を重ねているエリスの顔に一層皺が寄った。
「そう言われれば、確かにそうですわね」
レイラは自分の席から椅子を運び出し、エリスの隣に座った。
「それで、係長から書こうとしているのですね」
エリスの憎らしげな視線の先には四枚の羊皮紙があり、一番上には「アルベール・アクウォス正尉 職名 機巧魔術捜査課対策係長」と書かれている。
「こういうのは性に合わん。あいつらが何をやってきたのかも本当はどうでもいいというのに、私が評価し報告するなぞ馬鹿馬鹿しいにも程がある。自分でやらせればよいのだ。課長だからといってとりまとめてどうしろというのだ」
「そんなにお怒りになると、また皺が増えますわよ?」
「人並みに年をとらない者に言われたくはない」
「まあ、失礼ですこと」
吐き捨てるように言われて、レイラは頬を膨らませた。年をとらない身体を維持するのには、必要以上に子供じみた仕草をしなければならないことに気づけばいい、と少しだけ主人を憎らしく思った。
「しかし、係長から書いては書きにくくないでしょうか? アクウォス正尉は課長の愛弟子ではありませんでした?」
レイラはすっとぼけた口調でそんなことを言う。
「む。それもそうだな」
確かに、彼は幼少時エリスから剣術と魔術を習っていた。だからこそ、自分の部下として引き入れたのだった。
「イグーロス副査から書くのはいかがでしょう。彼は新人です。この一年の業績しかないのですから、書きやすいのではありませんか?」
「グリムか……」
エリスはそう言って束を並べ替え、「グリム・イグーロス副査 所属 機巧魔術捜査課対策係」と書かれている羊皮紙を一番上に出す。
「彼は確かに、書くところも多い。入職して間もなく自らの義肢を改良して、エイミーと共同で作戦を行えるようになったところは評価に値するだろう」
「そうです、その調子ですよ課長」
「だが、個人での対処力には課題が残る。通常の兵士では扱うことのできない空中を自由に動き回るという特異な部分はあるが、それを過信してしまうのも問題だな。今後、敵にエイミーのような狙撃手が現れたら、真っ先に殉職してしまうだろう」
好評価よりも悪評価の方を多く書いてしまう癖があるのが、エリス・デアボルグ正佐の最もよろしくない部分であることは、レイラ・エルバトス正佐は当然知っていたが、しかしこればかりはどうしようもなかった。実際、エリスの管理者としての能力はさほど高くないにせよ、司令官としても、また戦力としても稀有な才能があることは誰の目にも明らかで、その上【白虎】本家の生まれであることからすれば、むしろ未だに正佐で、課長の座に収まってしまっていることの方が異常なのだ。実際、弟のアレス・デアボルグ総将は、第十二空挺部隊長と帝盾隊長を兼務する、ギルハンス帝国軍における事実上の最高権力者である。【白虎】の名声と称号も彼と共にある。
しかし、レイラは妹たちと異なり、ずっとエリスに仕え続けていた。彼女たちは、三十年以上前の西方戦役からずっと帝国の中枢で戦い続けてきたのだ。その絆は、ことばには表せないほど複雑で強固だ。
「しかし、エイミーもエイミーだな。グリムが入ってきたことによって妙に彼を意識しすぎている。魔力銃の改造はもとより、新たな機構を制作するとは、よもや思わなかったな。今までの彼女とは到底思えないほどの進歩だ。彼女は、主査への昇格を推薦しておこう」
「あの三角関係は、どう進展するのでしょうね」
ルースとエイミーとグリムをそれぞれ思い浮かべながら、レイラはにこりと微笑んだ。
「――何だ、それは?」
エリスは大きく首を傾げた。
「――いえ、何も」
そういった面が疎いのは、もはや仕方のないことなのかもしれないと、レイラは心の中でため息をついた。
「ふむ。困ったな。あとはアルベールとルースか。二人とも、私からすればほとんど変わっていないように見えるが、レイラ、何か気づいたことはあるか?」
「そうですねえ」
どうせそんなところだろうと思っていたので、レイラは先ほどから考えていたことを口にする。
「二人とも、エルマ・ブラヴィア正尉にあまり執着しなくなったような気がします」
「ふむ。私にはそうは見えないな。裏でこそこそ嗅ぎ回っているようだが」
「それは、そうなのですが、もう、昔ほど極端に追いかけているような感じがしないですね。――何か、決定的な証拠でも見つけたのでしょうか」
エルマ・ブラヴィアは、ルース・ブラヴィアの姉であり・アルベール・アクウォスの元婚約者であった。この課の前身である機巧管理課で任務にあたっていた最中に、失踪してしまったのだ。
「であるなら、私に報告して欲しいものだな」
「課長はお二人に甘いですからね」
「そこまで言うか」
「はい。私はこれでも、お嬢様に甘くしたことはないつもりですので」
そのつもりなのか。
エリスは一瞬言葉を挟もうかと思ったが、馬鹿馬鹿しくてやめた。紅茶をほんの少しだけ飲んで、所在なさげに頭をぼりぼりと掻く。
「では、私は警備巡回をして参りますね」
これ以上ここにいても邪魔になると悟ったレイラは、そう言って紅茶を飲み干して、お盆を片づけた。
「気をつけろ。この闇では、間者が潜んでいるかもしれないからな」
羊皮紙から目も離さずに、エリスは言った。
「ご冗談を」
レイラはふふ、と声を出して笑った。
「どこからが冗談だと思う」
「そのようなお言葉を私に掛けるところから、ですわね」
「……お前がずっと私のメイドで居続ける理由が、すこしわかった気がする」
エリスの表情が少しだけ揺るんだのを見て、レイラはようやくこの部屋を訪れた意義を見出した。
「今となってはもう、執事ですけれどね」
「――そうだな」
「失礼いたします」
レイラは恭しく礼をして、執務室の扉を閉めた。
羊皮紙と万年筆の擦れる音だけが、執務室にしばらく響いた。
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