悪魔の囁き

カニ太郎

第1話悪魔の囁き

《悪魔の囁き》


聖司は35歳の腕のいいセールスマンだった。


引き締まった身体に日焼けした顔、モデルのような美男子だったが少し疲れているようだった、ノルマに追われていたからだ。

その日の朝「おい、ちょっと通帳見せてくれ」

聖司は奥さんに言った。

聖司が通帳がいると言えば、何も聞かずにすぐに差し出す、そんな物わかりのいい女房であった。

彼女の夢はマイホームである。

旦那の給料は格段に高かったが、その分出費も多かった、そんな中、彼女はコツコツと毎月貯金し、そして、マイホーム資金は700万円ほどになっていた。

その日、聖司は700万という大金を銀行で卸すと、そのまま会社とは逆方向の電車に乗った。

「・・・次は西武園」

電車のアナウンスが響いた。

サングラスに競輪新聞、聖司が電車から降りてきた、連れが一人いる、会社の部下で名を信吾という。

日頃から可愛がっている部下の一人であった。

彼は聖司の云うことなら何でもきく若者だった。

信吾は興奮していた。

700万の勝負なんてしたことなかったからである。

聖司は大きなアクビをし「あー、気持ちいいなぁ、空気が旨い、社員旅行でいった蓼科よりよっぽどいい」と呟いた。

「そーっすね」信吾は相槌をうった。

彼等はゆっくり西武園競輪場へ向かって歩いた。

二人は指定席を購入し予想をはじめた。

彼の席にはマークシートと700万円が無造作に積まれ、周りの観客は目を丸くしていた。

「①⑦-①②③④⑦-①②③④⑦⑧⑨三連単フォーメーション」そう言うと聖司は信吾にマークシートと48万円を差し出した、一点一万で買ってこいと云うことだった。

信吾はその金とマークシートを受けとると、車券売り場に走った。

聖司は賭場に来ると人が変わる、時間ギリギリでも間に合わなければ理不尽に怒る、間に合ってもハズレてたら怒る。

日頃の仕事場では、部下思いの優秀な上司なのに、なんで賭場では変身するんだろう、信吾には不思議でならなかった。


平場のレースからガンガン勝負にいった聖司は、当たると雄叫びをあげ、ハズレたらわめき散らした、エキサイトし資金をドンドン減らしていった、聖司は次第に正気を失って、午後には鬼のような形相に変わっていた。

「ぐぉおおおー、ボケがー、どあほ!!!」

ギャンブルの鉄則通り、順調に資金を減らしていった聖司は、もう20万円しか残っていなかった。

「信吾、今度が最後だ、彼はそう大声で叫ぶと、マークシートの印を一心不乱に塗り潰していった、やがて残金20万とマークシートを渡し、こう言った、根性入れて買ってこい!」

ただ車券買うのに根性もないもんだが、信吾はマークシートと20万円をしっかり握りしめて車券売り場に走った。


最後の鐘が鳴った、レースはとんでもない展開になっていた、人気の本命対抗が落車、巻き込まれて大半が失速、人気車券が軒並み飛んだそのレースは、どう転んでも万車券間違いなかった。

「いけ~いけ~いけ~いけ~」喉がかれるほど聖司は叫ぶ。

「行った行った行ったー」今度はガッツポーズを決めた。

「やったーやったーやったー」

「取ったー取ったー取ったー」

彼は喉が枯れるほど叫び続けた。


やがて「高めこい、高めこい、高めこい・・」と聖司はお経のように唱えだした。

聖司の車券は1着⑤固定の2着②⑥⑦⑧⑨3着②⑥⑦⑧⑨のフォーメーション20点。

頭⑤2着⑨は確定ランプが付いている。

審議の3着次第では10万車券も夢ではない。

1点1万円で流している聖司には1,000万円の大金だ。

写真判定の長い時間、固唾を飲んで見守る聖司、何やら大変な車券を持ってると騒ぎだした周りの観客、点滅する着順表示版、時は一瞬止まった。

「②」やがて表示された車番は高目ではなかった。

しかし聖司の持ってる⑤-⑨-②の三連単は4万9,800円という穴車券であった。

聖司は周りの観客と抱き合って喜んだ。

結局700万を498万に減らして聖司はその金を通帳に戻し家路についた。

そして奥さんに通帳を渡した。

「ちょっと減らしてしもうたけど・・・」

さりげなく自然に。

しかし、その通帳残高をちらっと見た奥さんの顔色が変わったのを見逃さなかった。

「ニコッ」と笑う奥さんは美人だったが聖司は寒気を感じた。

翌日、彼は普通に出勤し、普通に仕事をこなし、普通に帰った。

玄関に見覚えのないブーツがあった。

「高そうなブーツだ」彼が何気に思いながら、部屋に上がると、今度はそこに高級ブランドのバックがあった。

彼は女房を探して寝室へはいった。

そこには高級ブランドの服とアクセサリーがベッドの上に広げられていた。

鏡台の前の女房が言った。

「あら、お帰りなさい、早かったのね」

「これは、どうしたんだ」

「買ったの、もう貯金なんてバカらしいから・・・」

女房は悪魔のように囁いた。

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