真実編――見えなかった容疑者 パート2

 しんと静まり返ったカフェの空気。怒り、恐怖、困惑。三者三様の感情に包まれて、ショウジョウトキはようやく何が起きたのかを理解した。


「や、やめっ!」


 金切り声を上げて駆け寄ろうとしたショウジョウトキの腕を、タイリクオオカミは捻りあげる。逃れようと試みるたび動きを見越したように関節を極められて、痛みに顔を歪める。


「発着場に残された足跡を発見したときから、君はずっと地面に足をつけていなかった」


 呻くショウジョウトキに、タイリクオオカミは滔々と語る。


「外にいるときも、室内にいるときも。君だけは常に床から足を離して飛んでいた。動物のトキは体が大きく、飛び続けるのに適していない。にもかかわらず浮き続けていたのは、それなりの理由があるからだろう」


 それがこれだ。タイリクオオカミが目顔で足跡を示す。紅茶を踏み、床板を踏み。そこにははっきりとショウジョウトキの足跡が刻み込まれていた。アミメキリンの記憶力をもってすれば、それが発着場で見た泥の足跡と同じものであることは明らかだ。

 咳払いと共に背の高い影が手を上げた。ヘラジカが釈然としない顔でタイリクオオカミを見やる。


「一ついいかい。もし足跡がショウジョウトキのものだとして、そもそもどうやってショウジョウトキは外に出たんだ?」


 宿泊棟唯一の入り口はアルパカが見張っていたんだぞ、と確認するようにヘラジカが彼女を見る。アルパカが小さく頷いた。


「え、ええ。そうだよ。あたしゃずうっと部屋から廊下を見張ってたんだ。見つからずに外に出るのは難しいんじゃないかねぇ」

「私もそこが疑問なんだ。ショウジョウトキだけじゃない。たしかその前にツチノコも外へ出ていたかもしれないって話があったじゃないか。それについてはどう説明してくれるんだ?」


 タイリクオオカミはヘラジカを見つめた。


「それについもきちんと話すさ。まずはショウジョウトキのほうから片付けようか」


 言って、ショウジョウトキの腕を離した。拘束を解かれ這うようにトキのもとに戻ったショウジョウトキは、青ざめた顔で肩で息をしている。


「単純な話さ。ショウジョウトキは飛んで出て行ったのさ。入り口からね」

「飛んで?」


 数人が首をかしげるのを見やり、タイリクオオカミはちらと目線でアミメキリンに合図をする。アミメキリンは頷く。


「宿泊棟の廊下の天井付近。各部屋に繋がるドアの上に隙間があるの。だいたい、そう……これくらいの」


 手を上下に広げ、ちょうどフレンズが横向きになれるくらいの幅を示す。


「ショウジョウトキはこの隙間を通ったの。そうすればアルパカの視界に入ることなく、出口へとたどり着くことができるわ」

「……そんな見つかるかも知れない危険な方法、仮に思いついたとして、実行するだろうか。もし見つかれば確実に怪しまれてしまうだろう」


 半信半疑な様子のヘラジカの言葉に、アミメキリンは首を振る。


「いいえ。ショウジョウトキは見つからない自信があったのよ。なぜなら《すでに一度やってる》んだから」


 アミメキリンは記憶の一部をみんなに語る。それはショウジョウトキが窓の外にツチノコを見つけた、あのときのことだ。ツチノコを取り押さえるため、ショウジョウトキは真っ先に宿泊棟の廊下を飛び越えて出口へと向かった。


「あのとき、ショウジョウトキは天井すれすれを飛んでいたの。そしてショウジョウトキが出て行ったあと、扉を開ける音と廊下を駆ける私たちの足音に気づいたアルパカが廊下に出てきたわ。――ねえアルパカ。あのとき私が何を尋ねたか覚えてる?」

「ええっとぉ……。たしか、ここから出て行く人影を見なかったか聞かれた気がするけど……」

「そう。そして、それにアルパカはこう答えたの。<いんやぁ。だンれも通ってねえよ>……ってね。

 そのときは単に、それは私たち以外に外に出て行くのを見ていないって意味で言ってるんだと考えてたわ。だけど、アルパカは私とショウジョウトキが一緒だと知らなかった。もしアルパカがショウジョウトキを見ていたのなら、遅れてやってきた私の質問に対し、アルパカはショウジョウトキが通ったことを言ったはずよ」

「そして、アルパカの発言から廊下の天井近くは死角になるということを、私たちより先に気づいたフレンズがいた。あのとき私たちと一緒にいたトキ、きみだ」


 タイリクオオカミの鋭い視線に射すくめられたトキが、ぴくっと体を揺らして半歩下がる。


「先に言い出したのはどちらなのかは分からないが、宿泊棟を脱出する方法があると知ったトキは、ショウジョウトキにその方法を伝えた。そして、まんまと宿泊棟を脱出したショウジョウトキは、スナネコが山頂に残っていたように見せかけるため、発着場に泥のついた足跡を残し、ゴンドラを操作して麓に降りた。あのときは雨も風もやんでいた。帰りは飛んで元に戻ったのだろう。そして、出て行ったのと同じ方法で宿泊棟に戻ったショウジョウトキは、部屋に戻り、私たちが足跡に気づくのを待った」


 ヘラジカが首を振る。ありえない、と吐き捨てるように言って、


「いくらなんでも不確かな要素が多すぎる……。そんなの、いつでどこで失敗するかわかったもんじゃないではないか」

「そう。これはすごく危険な行動なんだ」


 タイリクオオカミがヘラジカに視線を移す。


「廊下にいるところを見られるかも知れない。外にいるところを見られるかもしれない。ゴンドラを動かすのに時間が掛かり過ぎるかもしれない。雨風のせいで空を山頂に戻ってこれないかも知れない。――なにより、出入りするところを私たちやアルパカに見られるかも知れない。あまりにも不確定要素が多すぎるんだ。見つかれば即座に疑われる。スナネコを真犯人に仕立て上げるためとはいえ、こんな大胆で無謀なこと、よくやったと思う」

「……つまり、そんな危険を冒してまで捜査を攪乱したということは、真犯人の正体はやっぱり――」

「違うわ!!」


 ショウジョウトキの金切り声がヘラジカの言葉を遮る。


「違う! 違うんですけど! トキはやってない! トキはあんなこと、するはずがない……!」


 声を限りに大声を上げる彼女の右手は、隣でおこりのように震えるトキが両手で握っていた。よほどの力が込められているのだろう。すがるように掴んだ両手の指には血の気がなかった。


「トキじゃないの! この子はなにも悪くない。……お願い、信じて……」

「しかし、証拠を偽装したからにはやはり……」


 ヘラジカの視線がトキを、そしてタイリクオオカミへと移っていく。

 問うような眼差しを受けて、彼女はやれやれと首を振った。


「トキは犯人ではないよ。二人がやったのはゴンドラの偽装工作だけさ」

「それじゃあいったい誰が」

「ちょっといいかい。――ツチノコ」


 名前を呼ばれたとき、ツチノコは部屋の端にいた。目深に被ったフードの隙間から覗く青い目が、にぶく光る。


「……んだよ」

「えらく冷静なようだね」


 タイリクオオカミが笑い含みに言うと、ツチノコがあからさまに険のある顔になった。


「オレが冷静でいて何が悪い」

「いや。悪いことではないんだよ。ただ――」


 すう、とタイリクオオカミから笑みが消える。代わりに現れたのは、暗い穴蔵のようにどこまでも平坦な無表情だった。


「スナネコが犯人にされそうになったにしては、ちょっと冷静すぎる気がしてね」

「…………」


 タイリクオオカミが挑むような目でツチノコを覗き込む。


「君の今までの態度や言動を照らし合わせると、スナネコの話をしているときは、もっと感情に起伏が出ているはずなんだ。特に今回は、あわやスナネコが真犯人にされてしまうかもしれなかったという話をしていたわけだ。いつもの君なら絶対に平静ではいられなかっただろう。にもかかわらず、君はいたって冷静だ。――それとも、冷静を装って何か隠し事でもしてるのかな」


 一瞬、ツチノコの顔に動揺の色が浮かび上がる。それをタイリクオオカミが見逃すはずがなかった。

 タイリクオオカミがスケッチブックを手に取った。ぱらぱらとページを繰っていく。


「さっきはショウジョウトキが宿泊棟を出た方法について説明した。次はツチノコが脱出した方法について説明しようと思う」


 目的のページを見つけると、みんなが見ることができるよう、スケッチブックをテーブルに広げてみせた。そこには宿泊棟全体の間取りが詳細に描かれていた。


「アミメキリンと協力して描いたから、実際の様子との齟齬はないよ。本当は現地に行って実際に見てもらいたかったんだけど、ちょっとここから動けない理由があってね……」


 苦笑するタイリクオオカミに、ヘラジカが首をかしげる。


「ツチノコもショウジョウトキと同じ方法を使ったんじゃないのか?」

「ショウジョウトキの使った方法は空を飛べるフレンズじゃないと通れないルートだからね」

「ああ、そうか」

「そういうわけでこれを見てほしい。

 宿泊棟の部屋はどれも同じ間取りをしていた。ベッドや棚や窓など、家具に至るまで。置き場所も含めてすべて同じ規格のもので揃えられていた」


 アルパカが頷く。


「そぉだよ。バラバラだと壊れたときの修理や普段の掃除が大変だって聞いたから」

「家具や間取りを用意したのは?」

「ツチノコとビーバーちゃんたちだよ。ツチノコに設計図を用意してもらって、そのとおりにビーバーちゃんたちが加工してくれたんだ。他のみんなはそれを運ぶのを手伝ってくれたんよ」


 なるほど、なるほど、とタイリクオオカミが頷く。


「実際に組み立てを行ったのは誰かな」


 ええっと、とアルパカが口ごもる。「誰かな」とうたタイリクオオカミの言葉に、数人が息を飲んだのが聞こえたからだ。恐る恐るみんなを見回して、


「……そ、そうだね。これもツチノコとビーバーちゃん、それにプレーリーちゃんの三人だねぇ。この三人が設計図を見比べながら組み立てをしてくれて、他のみんなは材料を運んでくれてたんだ」


 ライオンとヘラジカが材料を麓まで運んで、それをトキとショウジョウトキが山頂に運ぶ。山頂に運ばれた材料を加工したのが、アルパカの言う三人だ。


「やっぱりそうか」


 タイリクオオカミがアミメキリンと頷き合う。


「ねえビーバー、プレーリー」


 アミメキリンが呼ぶと、二人は身を寄せ合いながら前に出た。両手でスカートを強く握りしめたままうつむいているプレーリードッグと、その片方の腕にアメリカビーバーが自身の両手を絡ませる。


「さっき、私たちが部屋を訪ねたときのこと、覚えてる?」


 アミメキリンの言葉に、二人は何も言わない。


「……ビーバーから設計図を見せてもらってるとき、プレーリーが慌てて設計図を取り上げて、引き出しの中にしまったでしょ。そのとき、私は引き出しの中に入っていたものを見ていたの。

 ずっと思い出せなかったんだけど。さっき、ようやく思い出したの」


 アミメキリンがカフェのカウンターの裏に手を伸ばす。そうして取り出したものを見た途端、ビーバーたちが喉の奥で悲鳴を上げた。


「あなたたちが隠そうとしていたもの。本当はこれだったんでしょ」


 アミメキリンが掲げるそれ。

 ――それは吸盤のついた取っ手だった。



――――



 人間の技術に詳しい者がそれを見たなら、「電話の受話器を大きくしたような形」と言うだろう。

 持ち手の両端部分――受話器で言うところの耳と口に当てる部分――にそれぞれ大きなゴム製の吸盤が取り付けられており、同じ方向を向くようになっている。

 一見すると使い道のわからない道具。しかし、プレーリーたちはみるからに狼狽し始めた。


「ど、どうして……それがここに……」


 アメリカビーバーが青ざめた顔で尋ねた。プレーリードッグは目を見開いたまま呆然と首を振る。


「あり得ないであります……。だって、それはもう」

「おや?」


 タイリクオオカミが大きく首をかしげてみせる。


「それはもう、なんだい?」


 プレーリードッグが言葉につまるのに、タイリクオオカミが鼻を鳴らす。


「どうせ、処分してしまったと言いたかったんだろう。これは君たちのではないよ。――これはツチノコの部屋から回収していたものだ」


 ――ねえツチノコ。念のため、あなたの荷物を全部預からせてほしいの。――


 捜査中、アミメキリンたちがツチノコの部屋を去る間際。そう言って彼女の部屋から回収した私物。建築に使用したであろう機材に混ざって、この、用途不明の道具があったのだ。

 むっつりと押し黙ったツチノコの顔が一瞬、明らかに引きつった。アミメキリンとタイリクオオカミはちらりと目配せし合う。やはり、ツチノコやプレーリードッグたちは《これ》を使ったのだ。

 空気の変わった室内の様子に、ヘラジカとライオンが顔を見合わせる。


「あー。ちょっといいかな」


 コホン、と咳払いをして、アミメキリンの持つ道具を指差す。


「その手に持ってるものは何なんだい? なんだかすごく重要そうみたいだが……」

「バキュームリフター……」

「ん?」


 その時、ショウジョウトキが小さく呟いた。


「それ、バキュームリフターよ。ガラスを運ぶのに使ったんですけど……」

「ば、ばきゅーむ、りふ……え?」

「バキュームリフター。リフターって呼んでたかしら。ゴムのところをガラスに押し付けると、ピッタリくっつくの」


 宿泊棟に使用してるガラスは、ジャングルの端の使われていない廃屋から剥がしてきたものだという。そこから山頂までを、トキとショウジョウトキの二人がかりで何往復もして運んだという。


「地上を運ばせると壊れそうだからってことで、私とトキだけで運んだの。だから、ヘラジカやライオンが知らなくても無理ないんですけど……」

「そうだったのか。だけど、それとツチノコが宿泊棟を出た方法とどう関係するんだ?」


 みんな――といっても、ツチノコやプレーリーたち以外のだが――の視線がタイリクオオカミに集まった。タイリクオオカミはスケッチブックを示す。


「今から説明するよ。と、その前に……」


 タイリクオオカミがショウジョウトキたちを見た。びくりと体を固くする二人を、宥めるように苦笑する。


「部屋を調べてた二人に確認しておきたいんだけど。あの部屋に廊下に繋がるドア以外の抜け穴はあったかい?」

「な、なかったわ……。ベッドを動かしたり天井を調べたり。二人がかりでくまなく探したのだけど、見つからなかったわ……。そうよね」

「え、ええ。そうよ。結局、秘密の出入り口はなかったんですけど」


 抜け穴はなかった。そう主張する二人に、しかしタイリクオオカミは満足げにうなずいた。


「そう。私たちもさんざん調べたけど、どの部屋にも抜け穴は見つからなかったんだ。だから窓の外にツチノコを見たと言うショウジョウトキの証言も、彼女の勘違いであるとして処理してしまったんだ。――今思えば、本当に申し訳ないことをしてしまった」

「それってつまり」


 ショウジョウトキが勢い込んだ。


「本当は抜け穴はあった、ということなんですけど!?」

「……そうだ。そして、その抜け穴を利用して、ツチノコは外へ出ていたんだ」


 タイリクオオカミの言葉に、ショウジョウトキは満面の笑みをこさえた。やっと自分の主張が証明されたという喜び。それは、次の瞬間、自らを嘘つき呼ばわりしたツチノコへの激しい憎悪となった。


「言っておくが、喧嘩はやめていただきたい」


 顔を歪めて、くるりとツチノコを振り返ったショウジョウトキの先を読んだように、タイリクオオカミは釘を刺した。


「どうしても喧嘩をしたいなら、まずは私たちの推理をすべて聞いてからにしてほしい。いいね」

「……ふん」


 鼻をならし、目を細めたままタイリクオオカミに向かってあごをしゃくる。続けろ、ということだろう。


「抜け穴の話に戻ろう。

 トキたちの証言通り、一見するとあの部屋は廊下へ繋がるドア以外、外へ出る手段はないように見える。廊下も外へ通じているのは玄関しかなく、しかも、そこにはアルパカは控えており、普通に歩いて出れば見つかってしまう。つまり、飛ぶことのできないフレンズにとって、宿泊棟は密室状態なんだ。――ところが」


 タイリクオオカミが指の腹でスケッチブックを叩く。


「ところが、ツチノコやプレーリーの持っていた――このバキュームリフターという鍵を使えば、密室は簡単に崩せるんだ」

「どうやって」


 ヘラジカが息を呑む。タイリクオオカミは軽く肩をすくめた。スケッチブックに描かれた間取りに指を走らせ、宿泊棟の縁をなぞる。


「各部屋にあった窓は覚えているかい。外側の壁に面して取り付けられた、あの大きな一枚窓だ」

「ああ、覚えてる。でもあの窓は開けられないぞ」

「開けられるんだ」

「は」

「開けることができるんだ。あの部屋は密室でも何でもなかったんだ」


 タイリクオオカミは半信半疑の面々を見渡して肩をすくめた。


「……信じてないって顔をしているね。

 そう。たしかにあの窓は一見すると開けることができないように見える。横にスライドさせるためのレールもなければ、押し開けるための蝶番ちょうつがいもない。開けるための機構をまったく備えていない、いわゆるはめ殺しと呼ばれるタイプの窓だ」


 だが、一つだけ方法があったんだ。とタイリクオオカミは言って、アミメキリンからバキュームリフターを受け取った。代わりにアミメキリンはカウンターに置いてあったトレーを取って戻ってくる。表面をつるつるに磨かれた銀のトレーをみんなに見せた。


「これをガラスの代わりだと思ってちょうだい。――部屋にいたみんななら覚えてると思うんだけど、あの窓、風が吹くとすごくガタガタ揺れてたじゃない。固定されてなかったのよ。窓はあそこに嵌まっていただけだったの。おそらく時間が足りなかったんじゃないかしら。とりあえず設置はしたけど、固定はできていない。でも、パッと見は完成してるから、あとでゆっくり作業を仕上げればいい。――だからツチノコとビーバーたちはリフターを山頂に残していた」


 名前を出されたツチノコやビーバーは、しかし何も言わない。怒っているような恐怖しているような、複雑な表情でアミメキリンたちのやろうとしていることを睨んでいるだけだった。

 二人の様子に、アミメキリンは堪えるように口もとを引き結ぶと、タイリクオオカミにトレーを向ける。タイリクオオカミは頷いて、リフターをトレーに向けた。


「実演してみよう。まず部屋の内側にいる者――この場合は私だね――が、リフターを窓に押しつける」


 リフターをトレーの表面に押しつけて、タイリクオオカミがぐぐっと力を込める。するとパチンパチンっ、と両端の吸盤の近くからツメが立ち上がった。そのままタイリクオオカミが手を離すと、リフターはトレーの表面に吸い付いていた。


「リフターをしっかり窓に固定したら、これを取っ手がわりにして窓を持ち上げる。この手の窓は、填めるときに先に上側を窓枠に押し込んでから、下の窓枠に押し込むんだ。その手順を逆にすれば、窓は簡単に外すことができる。まあ、簡単に外れては事故の元だからね。もしかしたら窓枠側に外れないための金具か何かが着いてるのかも知れないけど、それを外した道具も探せばすぐに見つかるだろうね」


 苦笑しながらタイリクオオカミはトレーをバキュームリフターごと上に持ち上げて、窓枠から外す動きを真似てみせる。窓は大きくガラスも分厚かったが、壁に沿わせる形で動かせばそんなに力はいらないだろう、と解説する。


「そうして外した窓ガラスは、窓の下に立てかけておく。こうしておけば、急いで仕掛けを元に戻す必要が出たときに、すぐに元通りにはめ直すことができるからね。あとはリフターを剥がして、吸盤の跡を消して引き出しにでも入れて隠しておけば問題ない」


 リフターを持ち上げて、吸盤の近くのツメを倒す。しゅう、と空気が通る音がして、吸盤から外れたトレーが床に落ちた。けたたましい音を立てて転がるトレーを唖然として見つめていたヘラジカが、ゆるゆると首を振る。


「……信じられん。そんなに上手いこといくものなのか」

「必要な道具があり、かつ、その道具の使い方を熟知していれば、想像しているより簡単にできたはずだよ」

「証拠はあるのか」

「あるわ」


 これにはアミメキリンが答えた。


「ツチノコとビーバーたちの部屋の床に、窓のある壁に対して平行に伸びる変な水の跡があったわ。あのときは雨も風もめちゃくちゃに吹き降ってたから、窓ガラスを外した窓枠から入り込んできた雨粒が、ガラスを伝って床に染み込んだのでしょうね」


 あいにく床はすべて絨毯敷だった。窓ガラスについた雨水は拭き取ることができても、絨毯に染み込んだ水の跡だけはどうにもならなかったのだろう。


「水の跡が付いていた部屋はその二つの部屋だけだったわ。そしてリフターがあったのもその二つの部屋だけ。――そういうことなのよ……」

「ところでプレーリードッグ」


 唐突にタイリクオオカミがプレーリードッグの手元を指差した。


「きみは先程からずっとスカートを握っているが、そこに何か隠してるのかい?」


 プレーリードッグがぴくりと顔をひきつらせる。ふるふると首を振って、何事かを言おうとする。が、声が出ないようだった。


「バキュームリフターの話なんだけど、今実演して見せたのはツチノコが持っていた分なんだ。そして、ツチノコからこれを受け取ったのはまだ雨が勢いよく降ってたころだ。雨がやんだあと、像がさらに壊されていた事件を覚えているかい。近くにヘラジカの得物が置かれていたから、おそらくあれが使用されたと思うんだが……」


 おもむろにタイリクオオカミが足を踏み出した。唐突に近づかれたプレーリードッグは逃げることもできず腕を掴まれる。


「得物はかなりの重さだった。膂力りょりょくのあるアミメキリンでさえ数回振っただけで手のひらが真っ赤になってしまったんだ。ところで、君の手のひらを見せてもらえるかな?」

「え、あ……。これは……」

「もう一度聞くよ。見せてもらえるかな」


 プレーリードッグの目が泳ぐ。明らかに狼狽した様子で、自分の腕とタイリクオオカミとを見比べる。

 ややあって、プレーリードッグはためらいながら手のひらを上に向けた。果たして、手のひらは破れた血豆と渇いた血の跡で酷い有り様だった。明らかに重量物を握って振り回した痕跡だ。


「ありがとう。しかしこれはこれは。痛そうだね」


 手を離して、タイリクオオカミがアミメキリンに目配せをする。

 頷きを返したアミメキリンは、ひとつ深呼吸をしてみんなに向き直った。


「……これが、私たちが集めた証拠を組み合わせて作り上げた推理よ。誰かが誰かを疑い、誰かを陥れるために張り巡らされた、たくさんの糸。それを一つ一つ解きほぐして、最適な答えを目指してこう推理したわ。――だけど、これは全部、私たちの想像でしかない。どれもこれも状況証拠でしかないの」


 アミメキリンは一つ一つ指を立てて言葉を重ねていく。


「発着場に残された足跡がショウジョウトキのだと言ったけれど、私はスナネコの足跡を知ってるわけじゃないわ。もしかしたらスナネコの足跡はショウジョウトキと似てるのかもしれない。もしかしたらあの足跡はショウジョウトキのでもスナネコのでもない、別の誰かのものなのかもしれない。

 ツチノコだってそう。窓を開ける方法は見つかったけれど、本当にツチノコが窓をはずして外に出ていたのか、証拠はどこにもないわ。水の跡は別の何かによってついただけかもしれない。プレーリーの手の怪我も、単に転んだ擦りむいただけなのかも。ヘラジカのことだってそう。――みんなに突きつけることのできる動かぬ証拠は、実はどこにもないの」


 だからこそ、とアミメキリンはみんなに向き直る。その目の中には光が宿っていた。


「――これは探偵としてではなく、友達として……親友としてお願いするわ。自分たちが何をしたのか、本当のことを話してほしいの。誰かを傷つけるための嘘はもうたくさんよ。隠し事はもうやめにしない?」


 そう言葉にする彼女の言葉には、願うような色が含まれていた。事実そうだった。常に誰か恨み、傷つけ合う姿なんて、アミメキリンはもう見たくなかった。


「自分が犯人と疑われることや、自分の友達が犯人だと誹りを受けることがどれだけ苦しいことなのか、私には分からないわ。だけど、きっと想像を絶する痛みなんだと思う。痛くて、苦しくて……心が引き裂かれてしまいそうになって……。信頼とか友情とか、大切なものが一切合切壊されることは恐ろしいことよ。

 でも、それは他の誰かを傷つけて良い理由にはならないのよ。憶測で誰かを犯人に仕立て上げるなんて、絶対にやってはいけないことなの」


 顔を伏せる者がいた。目をそらす者もいた。自分はやってない、と口の中でつぶやく者もいた。アミメキリンは首を横に振る。


「やった、やってないの問題ではないの。たとえ直接何かをしたわけではなくても、友達が何をやってるのか知っていて、知らないふりしていたのなら同じことよ。そうでしょ?」


 尋ねるように言葉尻を上げて、自分も見つめる者たちを眺める。その心に去来するものを持て余すように、誰もが苦い顔をしていた。


「もう一度お願いするわ。あなたたちが何をしたのか。――何をしてしまったのか、正直に話してちょうだい」

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