捜査編⑬――ヘラジカの偽証
宿泊棟の一室に陣取り、廊下を見張っていたときのことだった。得物を担いだヘラジカが、まるでその辺を散歩するかのような足取りで目の前の廊下を横切ったのだ。突然のことに一瞬どうしていいのか分からなくなったアルパカがようやく部屋を飛び出すと、丁度ヘラジカが入り口の扉を開けようとしていたところだった。
「ヘラジカ!」
「ん、どうしたんだい?」
呼び止められ、振り返ったヘラジカが首を傾げる。
「えっと……何してるんだい」
「これかい? ちょっと散歩に出ようかと思ってな」
「散歩なんて」
「私の性分かな? じっとしてるのに飽きてしまったんだ」
屈託なく笑うヘラジカ。そのまるで普段通りと言わんばかりの態度に、なぜだか危うげのものを感じたアルパカは息を飲んだ。
「だ、ダメだってぇ! 探偵さんたちに誰も出さないでって言われてるんだからぁ! ライオンは?」
「寝てる」
「寝てるって……。ライオンもこのことを知ったらすンごく怒ると思うよ? だからさァ、部屋に戻ってよォ」
「アルパカ――」
さあぁ、と開きかけた扉の隙間から風が通り抜ける。風に乗って届いたヘラジカの声はいつになく冷静だった。笑みの消えた顔が真っ向からアルパカを見つめる。
「私は大丈夫だ。行かせてくれないか」
向かい風に押されるようにアルパカは半歩後退る。彼女は何を考えてるのか。底知れぬ恐ろしさがあった。
「で、でもぉ……!」
「いいから。大丈夫。ちょっと探偵たちを手伝ってくるだけだ。すぐに戻る。だから静かにしていてくれ」
みんなに気づかれてしまうからね、と最後に一つ微笑すると、アルパカの返事を待たずに扉の外に消えていった。
とどめようとする意思を拒絶するかのように閉じられた扉を、アルパカは呆然と見つめていた。追いかけようと咄嗟に扉に手を伸ばしかけたが、宿泊棟を見張るという自身の役割を思い出し、思いとどまる。ヘラジカを追ってここを離れれば、その間に別の誰かが出ていってしまうかもしれない。誰かに見張りを頼むにしても、その誰かを信用していいのか、探偵ではない自分には分からない。一瞬たりとも扉から目を離すことすら出来なかった。
そうして、迷いに迷ってその場から動けなくなり、途方に暮れていたときだった。唐突に開いた扉から、出て行ったときと同じようにヘラジカが入って来た。
良かった、とアルパカは思わず表情を緩めた。時間はそれほど経っていない。だからヘラジカが外で何かをしたわけではないに違いない。だから本当に散歩だったのだろう。ヘラジカが外に出たことはあとでこっそり探偵たちに説明すればいい。きっとそれで済むはず、だからもうこれ以上悪いことなんて起こらない。そうに決まってる――
アルパカが両手を開いて出迎えるとヘラジカもまた両手を開いた。「おかえり」と言おうとしたアルパカは、ふと、その出で立ちに違和感を覚えた。
「あ、あんた……。あの槍みたいなの、どこへやったんだい……?」
恐る恐る尋ねたのに、しかしヘラジカは薄く笑う。そのどこか遠くを見るような目、何かを成し遂げたような。
「外だよ」
「外って。どうして置いて来ちまったりしたのさ!? そんなことしたら、ヘラジカが外にいたことがみんなにバレて――」
言い終えるより先に、アルパカは気づいた。言葉を失い、自分でも自分の顔が青ざめていくのがわかった。
「あ、あんたぁ! 一体外で、外で何したのさ!」
思わず詰め寄ると、襟首を掴んでアルパカは声を張り上げた。体格の差もあり、鍛え方の違いもあり。押しつけるようにして叩きつけたこぶしに、ヘラジカは動じる様子はなかった。――ただ穏やかに笑んで、アルパカを見下ろすばかりだった。
アルパカは手を離す。そうして乱れた襟を正そうとするが手が震えて出来なかった。苦心してるうち、制するようにヘラジカの手がやんわりと自身の手に重ねられる。
「……なんで、そんなバカなことを……」
「バカとは穏やかじゃないな。まあ理由か、そうだな――」
アルパカを廊下の脇に寄せながら、ヘラジカが息を吐く。武人面とした顔に、どこか悲しげな色が馴染む。
「――じっとしてるのにはもう飽きてしまったんだ」
それだけ言うと、アルパカに背中を向けて廊下の中央に立った。大きく息を吸い、そして恐れていた言葉を口にする。
「みんな! 廊下に出てきてくれないか! みんなに打ち明けたいことがある!! 像を壊した犯人のことだ!!」
これがことの顛末だった。
――――
木扉の向こうに、何者かの気配を感じた。ベッドの縁に腰掛けたまま顔を上げると、押し殺したようなささやき声が薄い木の板を通して聞こえてきた。
――お前もヘラジカが犯人だと言うのか
――ヘラジカが犯人だと決まったわけじゃないわ。確認したいことがあるの。だからここを通して
――ふざけるな。どいつもこいつも、もうたくさんだ。失せろ
何とはなしに聞きながら、ヘラジカは微笑んだ。一人はライオンの声だ。相変わらず部屋の前に立って見張りをしてくれているのだろう。事情を聞いたとき、彼女だけは真っ先に否定くれた。その思いがたまらなく嬉しく、そして耐えられないほど痛い。
――……あなたは、ヘラジカを信じてないの?
――そんなことは……っ
――だったらここを通してちょうだい。本当に無実を信じているのなら、確認したって構わないはずよ
ヘラジカは首を傾げた。もう一方は誰の声だろうか。今さら自分に会いに来ようとする物好きな者がいるとは思えないが。
――……ヘラジカは……何もしていない
――わかってるわ
――あの子が悪いこと、するはずないんだ。なのに、いきなりあんなこと言い出して、それで……
――それも分かってるわ
それきり声は聞こえなくなった。ゆっくりと扉が開き、一人のフレンズが入って来た。背の高い影にヘラジカは笑い掛ける。
「あぁ……、キミだったか。アミメキリン」
アミメキリンは後ろ手に扉を閉めると、悲痛に沈む目でヘラジカを真っ向から見据えた。
――――
ヘラジカを見て、アミメキリンは締め付けられるような胸の痛みを感じた。
自らを犯人であると自白したとき、一騒動あったと聞いた。困惑して詰め寄る者、怒りにまかせて手を上げる者、そんなヘラジカを安全なところへ引っ張ろうとする者。もみくちゃにされるヘラジカをアルパカが何とか空いてる部屋に押し込むと、名目上の監禁という形でみんなを納得させたのだ。閉じ込められた部屋に鍵はない。それでもヘラジカは一歩たりとも部屋を出なかった。
「アルパカから、あなたは乱暴にされても決してやり返さなかったと聞いたわ」
「私が手を出したら、うっかり大怪我をさせてしまうかもしれないからな」
ベッドに腰掛けたまま、ヘラジカは笑った。そのはだけた胸元や破れた袖口を見る限り、おそらく相当振り回されたようだ。破れ目から見える腕には強く叩かれたような痣があったが、言及するより先にもう一方の手で隠されてしまった。
「こんなにされたとはいえ、大した怪我はしなかったんだ。像を壊した犯人にこんな慈悲を掛けてくれるとは、やっぱりみんな優しいな」
「……そのことなんだけど」
アミメキリンは声を低めた。
「あなたは本当に犯人なの?」
ヘラジカが目を丸くしてアミメキリンを見上げる。そして、軽く吹き出した。
「なっ、何がおかしいのよっ!?」
「すまない。ただ、ちょっとおかしくてな」
ひとしきり笑い、そして改めてアミメキリンを見上げる。その相貌は相変わらず笑みをたたえていた。
「自分の罪を告白した犯人を、今さら疑うとはね」
「……あなたは、さっき自分を犯人だと言って欲しいと言ったわ」
対するアミメキリンは笑う気になれなかった。ヘラジカの底抜けに明るい表情が、無理をしているようにしか見えなかったからだ。もしくは、嘘を隠すための演技か。
「そのあなたが自分の事を犯人だと言ったところで、それが真実だと到底信じられないわ」
「なるほどね」
ヘラジカは感心したように笑いながら腕を組む。
「きみはなかなか記憶力がいい。つくづく、我々の軍団に入ってくれないのがもったいない」
「話題をそらさないで。あなたは犯人になろうとした。そのあなたが犯人だと名乗り出た。嘘をついてるのは明らかよ。いい加減正直に――」
「自白する勇気がなかったんだ。だから君らに代わりに言ってもらおうとした。――そう言ったら、どうする?」
「なっ……」
「自分からみんなに言うのが怖かった。探偵から伝えてもらおうと思ったが、どうやらうまくいきそうにない。いつバレてしまうのか分からない。そうして膨らんでいく罪悪感にとうとう耐えられなくなった犯人は、意を決して罪を自白した」
言って、組んだ腕をそのままに、顔から笑みを消す。真面目に引き結ばれた表情からは達観した気配すらうかがえた。
「これはそういうことだったんだ。わかってくれるかい? アミメキリン」
自らが犯人である。きっぱりとみんなに言い切ったヘラジカの短慮には怒りを通り越して呆れたが、同時に切なかった。
ヘラジカは、誰が犯人かわからないまま終わるくらいなら自分を犯人にして欲しいと言った。全員が仲違いをしたまま終わるより、誰か一人が嫌われる方がいい。そして嫌われ役なら自分が買って出よう、そう言っていたのだ。
その発言が自らが犯人であることを隠すためのものだったのか否か、アミメキリンには判別がつかなかった。ヘラジカは犯人なのかもしれないし、そうじゃないなのかもしれない。ただ、言葉にできない直感のようなものがヘラジカは犯人ではないと確信していた。確信はしているが、それを言葉にすることができない。それをするための根拠がないのだ。
(なんて、もどかしいの)
ヘラジカを見下ろしたままアミメキリンは息を吐いた。否定することも怒りをぶつけることもできず、ただただ状況に流されるばかり。何もできない自分がひたすらに情けない。
「本当に、あなたが犯人なの」
「そうだ」
ヘラジカは言葉少なに頷いた。
「……ここにいるみんなが、あなたに失望するでしょうね」
「心得てる」
「……ライオンも、きっと傷つくでしょうね……」
「……わかっている」
ヘラジカの顔に一瞬だけ後悔のような色が浮かぶ。が、すぐに、
「――すべて覚悟の上だ」
毅然としたヘラジカに、アミメキリンはとうとう紡ぐ言葉を失った。
二人だけの室内に、重苦しい無音が降り積もる。ややあって、重みに耐えられなくなったらしいヘラジカがアミメキリンの背後を覗き込むようにして首をかしげた。
「そういえば、君の相棒の姿が見えないが。どうしたんだい」
「先生なら外にいるわ」
アミメキリンは言った。
「現場を調べてるの」
――――
芝生を踏みしめ、タイリクオオカミは視線の先を支点にその周囲をぐるりとまわる。そうして現場を様々な場所から見、状況を把握していく。
「アルパカは、ヘラジカが自白してから現場は全くいじってないと言っていた……」
確認するように、タイリクオオカミはひとりごちた。現場に残された像の破片のいくつかは打ち砕かれ、すぐ近くには誇示するようにヘラジカの得物――両剣――が打ち捨てられていた。片側の刃先には像の屑と一緒に芝生の欠片がこびりついている。
「とすると、これはヘラジカがやったと言うことになる。ヘラジカが自らを犯人だと自供するにあたって、現場を荒らし、証拠となるよう両剣をその場に残した。そして宿泊棟に戻り、自身が犯人であるとみんなに公言した。――妙な話だ」
自分を犯人だとみんなに自供するなら、得物を持ち出す必要はないのだし、ましてや像をさらに破壊する意味もない。これではどちらかというと、自分を犯人であると確信してもらうためにやったみたいな行動だ。
――私を犯人にしてくれないか。
直前のヘラジカの言葉が甦る。そういうことにしておいてくれと、タイリクオオカミたちに頼んできたときの言葉だ。そう言ってきたヘラジカが自らを犯人だと自白したあたり、そういうことなのだろう。――つくづく馬鹿げてる。
「……本当に、馬鹿げてる」
誰にともなく吐き捨てて、タイリクオオカミは現場を見下ろす。かろうじて原型を留めて破壊された破片が、地面にめり込んでいる。
自分自身を犯人に仕立てあげるため、得物を持ち出し、像を破壊した、か。そう頭の中で物語を組み上げてはみたものの、そこにはわずかに違和感があった。
(自分のせいにするためとはいえ、ヘラジカに像の破片を破壊することはできるのか……?)
ヘラジカの性格上、みんなで作り上げた大切な像を、破片とはいえ壊せるとは思えない。気が昂って思わずやってしまったとも考えられるが、アルパカの話を聞く限り、行きも帰りもヘラジカは冷静さを保っていたようだった。
「この物語もっとよく見る必要がありそうだ……」
現場の景色に集中するため、タイリクオオカミは頭を振って思考を中断する。静かに息を吐きながら、ゆっくりと目を開く。視覚が研ぎ澄まされる。破片の形や草の生え方までもが、ありありと知覚できるようだ。
「犯人は」タイリクオオカミは思考を口に出す。「像を破壊した犯人は、ヘラジカではないかもしれない」
目線を現場の周囲に向ける。そうしてるうち、破片がすべて地面に埋没するようにして砕かれてることに気づいた。さらによく見れば、破片のそばの地面が広範囲に渡って奇妙な凹凸を描いているのもわかった。窪んだ部分には、千切れた草が風に吹かれてヒラヒラとなびいている。踏み均されただけではこうはならないだろう。
「……像の破壊には両剣を使ったはずだ」
刃先に付着した木屑と草の破片が、それを物語っている。
「凹凸の形状を考えて、力はすべて垂直方向に掛けられている。両剣は上から振り下ろした。これは間違いない」
間違いないが、奇妙だ。ヘラジカは両剣の扱いに慣れている。狙いを誤って地面を叩くなんて失敗は犯さないはずだ。
それに、と今度は埋没する破片に目を移す。
「破片の大半も上から力を加えられたと考えられる。だが、ヘラジカの膂力で両剣を振り下ろしたにしては、破片は原型を留めすぎている」
あのアミメキリンがようやく持ち上げた両剣を、ヘラジカは片手で受け取った。ヘラジカの力と、両剣の持つ重量が合わされば、破片はさらに粉々に砕かれているだろう。しかし、そうではない。
「両剣を振った者は、おそらく満足に振り上げることができなかった。両剣を何とか持ち上げて、破片の上に落とすしかできなかった。いくら両剣が重たいとはいえ、それだけでは破片を粉々に粉砕する力はなかったはずだ」
ちょうど、目の前のように。かろうじて持ち上げ、手を離してその場に落とすのが限界だったはずだ。目標をそれて地面に落としてしまったのもあるだろう。何とか当てることができても、少ない位置エネルギーでは破片の大半を地面にめり込ませるのが精一杯だったのだろう。
「それでも何とかいくつかの破片を砕いて、両剣を捨ててその場を立ち去った」
振り回す際も相当難儀したのだろう。下を見れば、同じ場所でたたらを踏んだような足跡が無数に残っていた。現場を前に立ち止まった跡。両剣を持ち上げようとして踏ん張った跡。振り上げ、よろめいて後ろに下がった跡。足裏が滑り、草を掻き切り、重心を変える。タイリクオオカミの目はすべてを見抜いていく。
――狼は追跡型の狩りを行う生き物なのです
はるか昔、みんなと違う自分の特性を不安に思い、図書館を訪ねたことがある。
「逃げる動物の足跡をたどり、においを掻き分け。わずかな痕跡を拾ってどこまでも追跡し、捕らえる力。表情を読み取る能力もそこから来るのです。それがお前の能力なのです」
訳知り顔で頷いたオサの記憶が甦る。当時は何とも思わなかったが、探偵としてこれ以上ありがたい能力はないだろう。
「……ヘラジカは犯人ではあり得ない……」
狼としての直感がそう結論づける。本人がなんと言おうが、あらゆる状況が犯人ではあり得ないことを告げている。
「まったく、あの大馬鹿者が……」
吐き捨て、タイリクオオカミは踵を返す。現場を後にし宿泊棟に向かう。
――――
居心地の悪い無言が降り積もる室内。ふいにドアの向こうが騒がしくなった。近づいてくる足音と、押し止めようとするライオンの声とが交差する。何事だろうか。振り返ったアミメキリンの目の前で、勢いよくドアが開かれた。タイリクオオカミが部屋に入ってくる。
「先生。現場の調査は――」
アミメキリンの言葉を遮るようにタイリクオオカミはまっすぐ部屋を横切って、ヘラジカの前に立った。ベッドに腰掛けたヘラジカを真っ向から見下ろして、低く唸る。
「ヘラジカ……」
「タイリクオオカミか! ん、やけに怖い顔をしてるが、一体どうして」
両手を広げ、いつもの快活ぶりを披露するヘラジカを無視して、タイリクオオカミが手を振り上げた。
「うっ……」
「なっ――!?」
一回。強烈な破裂音。
思わず目を閉じてしまったアミメキリンの背後で、ライオンの驚愕する声がした。
空気が張り詰める。先程とは別種の無音に耐えかねて、おそるおそる目を開けてみると、タイリクオオカミの振り上げていた手がまっすぐ斜めに振り下ろされていた。その軌道上にあったのは、果たしてヘラジカの頬だった。
「……お見通しだったか」
広げた両手を下ろし、自嘲するように口角を上げたヘラジカの頬は赤く滲んでいた。相当な衝撃だっただろう。にもかかわらず、ヘラジカは変わらずタイリクオオカミを見上げていた。
「いやはや、探偵は怖いな。私を犯人にしておけばすべて終わるのに、まだ真実を探そうとするとはね」
感嘆するよ、と軽口めいたヘラジカの言を遮るように、タイリクオオカミの手がさらに頬へ振り下ろされる。ヘラジカが呻いた。唖然とその場に釘付けになっていたアミメキリンの背後で動きがあった。「お前!」ライオンが吠える。アミメキリンが我に返るより早く、ライオンはアミメキリンをすり抜けて部屋に飛び込んだ。背中を向けるタイリクオオカミに対し、猛然と距離を詰める。
「――何を考えている」
静かなタイリクオオカミの声は、怒気を孕んで部屋の空気を震わせた。異様な様子に、ライオンがぎょっと動きを止める。
その隙を狙い、アミメキリンはライオンを押し退けるようにして二人のあいだに割って入った。とにかくライオンを背中で押し留めると、いまだヘラジカを向いたままのタイリクオオカミに声を張り上げる。
「先生っ、なにをして――」
「何を、何を考えている……!」
怒気を孕んだタイリクオオカミの声。背中越し、握られたこぶしが震えている。
アミメキリンは思わず息を飲んだ。こんなに感情的になってる姿は見たことがなかった。
「ヘラジカ、きみが犯人であることはあり得ない……」
怒りで真っ赤になったタイリクオオカミがヘラジカを見下ろす。
「現場に残された、ありとあらゆる証拠がヘラジカの犯人であるという可能性を否定している。なのに、ヘラジカ。なぜ、お前は自分が犯人だと嘘をついた?」
答えろ、と唸るような低い声。ヘラジカは思案するようにタイリクオオカミを見つめ返し、ややあってため息とともに視線を落とした。
「いつまでも犯人が見つからなかったから、だな。それが理由だ」
ヘラジカは続ける。
「別に探偵の君たちを責めてるわけじゃない。だが、はっきり言ってこの状況は良くない。時間を掛ければ掛けるほどお互いの関係が悪くなるにも関わらず、その原因が誰なのか皆目見当がつかない。みなが互いを疑い、恨み、憎しみ合う。こんなこと、早く終わりにする必要があった」
「それで自分が犯人だと名乗り上げたのか。真実をねじ曲げて、悪いのは全部自分だと?」
「最善を考えたつもりだ」
「大した自己犠牲じゃないか。やってもいない罪を被り、森の王は自ら首を差し出すわけだ」
吐き捨てるような言葉に、ヘラジカは自嘲するように苦笑する。
「別に悲劇のヒーローを演じるつもりはないのだが。……そうだな、結果的にそうなるのかな。だが、現状を見てもくれ。みなが私を犯人だと確信したことで、もう誰もお互いを疑ったり罵り合ったりしなくなった。必要最小限の犠牲でみなの心に平穏を取り戻す。これほどいいことはないだろう」
「詭弁だ」
あり得ない、とタイリクオオカミが首を振る。
「大層立派な理由を語るが、そんなの真実をねじ曲げて良い理由にはならない。自分一人が汚れ役を買って出ることで、たしかに憎しみ合いはなくなるだろう。
だが、そんなのは偽りだ。真犯人はその罪の責めを負わないまま逃げ仰せ、自らの罪業を悔い改める機会を永遠に失うことなる。きっとまた、違うところで同じ罪を繰り返すだろう。犠牲者を増やしながら。
それに、きみは自分だけが犠牲になるみたいなことを言ってるが、そんなことは絶対にあり得ない。犯人のふりをするということは、悪者になるということだ。あんたの友達や群れの仲間たちも、きっと白い目で見られることになる。それを理解してるのか」
ヘラジカがハッと目を見開いた。視線が揺れる。見るからに動揺しているのは、きっと頬を張られた以上の衝撃だったからだろう。
「そ、それは……」
ヘラジカがぎこちなく笑う。
「犯人だって同じだろう?」
「ああ。だが、犯人のそれは罪を犯したからだ。友達を巻き込むことは、ある意味で犯人に対する罰という側面を持ってる。だから犯人は罪を反省するのだし、悔い改めた姿に周囲の者も許すことができる」
だが、きみは違う。タイリクオオカミは指を突きつける。
「なぜならヘラジカは真犯人ではないからだ。反省のしようもなければ、反省してる姿を周囲に見せることもできない。やってもいない罪に対する周囲の不当な責めを受けることしかできないし、巻き込まれた友達が不当な責めを受けるのを黙って見るしかできない。
ヘラジカ、きみは自ら不幸を背負うことで、親友全員にも同じ苦しみを押し付けようとしている。永遠にな。
――断言しておく。その嘘は誰も幸せにはしない」
それが真実をねじ曲げるということだ。そう言ったタイリクオオカミの言葉は、どこまでも冷えきっていた。
――――
部屋の中に、先程とは別種の無言が降り積もる。誰もが口を開けないまま、諾々と時間が過ぎていく。無言という圧力に、言葉それ自体が潰されてしまったかのようだった。
(……この人は)
アミメキリンはめまいのする気分でタイリクオオカミを見た。
(先生は、ヘラジカが犯人だと嘘をついたことを怒っているのではない。犠牲になろうとしたことに怒っているのだ)
それも身を焼かれるほどに激しい怒りを。
その姿を、アミメキリンはかつて一度だけ見たことがあった。
真犯人を庇い、自らを犯人に仕立て上げようとしたマーゲイ。自分が犯人だと叫ぶ彼女を見下ろす、あの温度を伴わない氷のような目。あのときとまったく同じ目をしていた。
「ヘラジカぁ……」
涙混じりの声に驚いて、アミメキリンは振り返った。
「ヘラジカ、よかった。やっぱり嘘だったんだね……。ヘラジカがあんなこと、するはずないもんね。信じてたよ……」
ライオンはよろよろとヘラジカに近づくと、その胸元に顔を埋めた。
「ずっと、信じてた。だけど、どうやって信じたらいいのか分からなかった。何がホントで何が間違ってるのか、分からなくて、でも信じたくて、頭の中でめちゃくちゃになってた……」
「ライオン……」
ヘラジカが言うと、ライオンが顔を上げる。涙で濡れた顔が、力なく笑みをこさえる。
「ぜんぶ嘘だって分かって、私、嬉しい……。大丈夫、私はヘラジカの味方だよ。たとえみんなが何を言っても、群れのみんながヘラジカのことを嫌いになっても、私だけは、ずっとそばにいるよ……」
最後まで、と涙で焼けた声で絞り出す。ヘラジカの目が迷って揺れる。そして、一つ息を吐いて目を閉じた。毛皮が濡れるのも気にせず、ライオンを抱きしめる。
「……せめて見捨てると言ってくれれば、どんなに気が楽だったか」
いやいやをするように顔を押しつけるライオンを、ヘラジカは優しく見下ろす。
「どうやら私は、憎しみ合うみんなを救うことも許されないらしい」
「ヘラジカが無理をしてみんなを救う必要はない」
タイリクオオカミが笑う。
「この事件は探偵が責任を持って解決させる。みんなを救うのは、私たち探偵に任せてほしい」
「どうやらそれが一番のようだ」
「そ、それじゃあ……!」
アミメキリンが勢い込む。
「自白は嘘だったと認めてくれるのね!」
「……ああ。だが、みんなが信じてくれるかどうか」
「それくらい私たちがなんとかするわ! 安心して! この事件、私たちが絶対解決してみせるんだから!」
頼もしい限りだ、とヘラジカは笑う。そして、改めてタイリクオオカミとアミメキリンを見た。
「二人に伝えておきたいことがあるんだ。嘘をつき通すため、言うことができなかったことがあるんだが……。幸か不幸か、これで言えるようになった」
何のこと、とアミメキリンたちが顔を見合わせる。
「おそらく気づいてるかもしれない。私が宿泊棟を出て事件現場に行ったこと、あれは事実だ。自分が犯人だと少しでもみんなに思わせるため、得物を置きに行くためにね……」
「置いた、だけ……?」
アミメキリンは目を見開いた。
「像を破壊したのは別の誰かだ。――それだけは間違いない」
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