#37 Лкурф 《話す》
弾き飛ばされた怪物達は全て俺たちの面前、研究室の前側に叩きつけられて動けるものは一人も居なかった。理沙はその光景を目にして、驚きのあまり足を引いていた。
「す、凄い……これが、クラン君の
「賭けが当たって良かったよ」
一歩ずつ前へと進む。左右に視線を巡らしながら、そこにいるはずのただ一人の人間を探す。床に落ちたリボルバー銃を見つけ、そこから視線を上げると壁に叩きつけられているクリャラフが息を荒げてこちらを見ていた。口の端からは血を流し、ぶつけられた時に脱臼でもしたのか逃げ出そうとして動くが痛みで動けない様子だった。シェオタルの血統も使えないほどの重症を受けたように見えた。
「あたしは……シェオタルを守りたかった……それだけなのに……何故お前達は邪魔をする……あたしが間違っていたっていうの……?」
クリャラフはゆっくりと言葉を紡ぎ続けていた。乱れた息遣いのまま誰に向けて話しかけるわけでもなく呟いた言葉は、静寂に飲み込まれる。理沙も彼女にとどめを刺すこと無く、静かに彼女を見つめ続けていた。
俺はクリャラフのもとにしゃがんだ。その問いには俺が答えなければならない。
「違う、お前のシェオタルを守りたいという思いに誤りなんて無かった」
「じゃあ……何が間違っていたんだ!あたしは……あたしは……償いたかっただけなのに……」
嗚咽。クリャラフの目から涙がこぼれ落ちていた。彼女が大戦争の時に村の男の情報と引き換えに極東軍から殺されずに済んだというのは真実なのだろう。彼女は今までその重責を背負って生きてきた。結果、間違った道を選んでしまった。だが、シェオタルを救いたいという思いだけは間違っていなかったはずだ。
俺はクリャラフの顔に触れた。白いシルクのような肌は彼女がシェオタルの血を継ぐものであることをはっきりと表していた。その頬に伝う涙と拭う。
「お前は道を間違えた。若者を守ろうとしながら、俺達のような中途半端な存在を無視していた。極東とシェオタルの狭間に残された者たちのことを受け入れようとしなかった。それがお前の間違いだ」
言葉を聞いた彼女は何か後悔をするような顔をして俯く。涙は彼女の黒いスカートに吸い込まれていった。
「お前の意思は俺たちが引き継ぐ。シェオタル人が誇りを持って生きられる社会を作る。お前の望みを俺に託してくれ」
クリャラフは驚きの顔でこちらを見上げた。ややもすると、残念そうに微笑んだ。両手を伸ばして、首の後に回してくる。自然に吸い込まれるようにして、彼女のもとに抱擁された。彼女は頬を擦り付けてきた。体温が直に感じられた。
「ヴェル、お前の姉は――生きている」
小声で囁くように言った後にクリャラフの手は自分から落ちた。離れると、彼女は目を瞑っていた。その姿はまるで草原で昼寝するお嬢様のようだった。クリャラフが意識を失ったのを見て、理沙が後ろから複雑そうな表情で寄ってくる。
「先生……死んじゃったの?」
「だ、大丈夫、脳震盪だ。息はしてる」
理沙は俺の焦った様子に理由を見いだせない様子だった。あの小声では後ろに居た理沙には聞こえては居ないだろう。
姉が生きている。あの状況でクリャラフが嘘をつく理由が理解できない。最後の力を振り絞って言うことが嘘だったとは思えない。だとしたら、今も姉は何処かで生きている?もしそうだとしたら、何故何処かに隠れて俺に顔も見せてくれないのだろう。
幾つもの疑問が頭の中を巡る。クリャラフを見る。彼女は完全に意識を失っていて、これ以上訊きようがなかった。
「瀬戸川教授は?」
「脈はあるけど、今すぐ話ができる状態にはならないでしょ」
「それは困ったな」
大きな合金製のセキュリティシステムを見る。このままでは研究ノートが取り出せない。それは理沙だけでなく、クリャラフやサルニャフ、知事など自分たちに極東とシェオタルの未来を託した者たちへの裏切りだ。そんなことがあってはならないと分かっていながらも、思いつく解決案は一つしか無かった。
「暗証コードを……当てる?」
小声で言った言葉にいつの間にかもとに戻っていた理沙のアホ毛が震えた。
それ以外に解決法はないと分かっていた。合金の破壊はシェオタルの血統を用いても不可能。出来たとしても入力システムを誤って破壊してしまえば、中のノートは焼失する。チャンスは一回のみ、遅かれ早かれここには警察か独立地下組織の残党が襲いに来るだろう。入力を間違えれば、一ヶ月も立たずに中身を抹消される。
「ねえ、間違えたら取り出せなくなるんだよ? 大丈夫?」
理沙は心配そうな顔をしていた。無言で目を合わせると、彼女もそれ以外に方法がないと理解していたのか頷いた。
入力システムの前に立ち、キーボードガードを取り外す。目の前には入力するキーが顕となっていた。キーはラテン文字と数字かと思いきや、キリル文字と数字であった。目を瞑って考える。今までのうちでヒントは無かったのか。このキーボードで、彼女ならシェオタル語以外を入れるはずがない。
クリャラフが言った『姉が生きている』はパスワードに対するヒントだったのだろう。そこで俺の頭に浮かんだ文字列は一つとなった。
「
入力し、確定キーを押す。姉が俺にシェオタル語を守らせたかったのであれば、研究ノートの予備であるこのセキュリティシステムも開けられるように考えていたはずだ。彼女と俺を繋ぐシェオタル語を守るという「約束」こそ鍵になると思った。
その瞬間ブザー音が鳴った。キーボードの下が赤く光っていた。
『暗証コードが違います』
「う、嘘でしょ!」
理沙が絶望に満ちた悲鳴を上げた瞬間、また入力システムからブザー音がなった。今度はキーボードの下が緑に光る。
『生体認証を受け付けました。ヴェルガナフ・クランであることを確認、解錠します』
無感情な女性の声とともに地響きが研究室中に鳴り響いた。理沙も俺もその様子に目を点にして眺めていた。合金の厚い扉が開いた。その中には多くの研究ノートが所狭しと詰め込まれていた。
「よし、とりあえずブラーイェ伝承の研究ノートとほかも持っていけるだけ持ってとりあえずは家に戻ろう」
理沙は俺の指示に頷く。いつ警察や独立地下組織の追手が来るのかわからないこの状況で時間を無駄には出来なかった。
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