第5話 四苦八苦
夏休みも残りわずかになってきた土曜日。高校生にもなって大変恥ずかしい話ではあるのだが、課題によって大変に切羽詰まっていた。
ありがたいことにたまたま受験勉強に来ていた先輩方と遭遇し、「あ、じゃあ部室でやろーよ」の一言でこうなったのである。
いつもの場所、いつもの景色。
「うん、手羽先美味い!」
あおいさんは、近くで買ってきた手羽先に悪戦苦闘しながら、それでも美味しそうに手羽先を食べていた。
「ええと、こういう時は、なんて言うんでしたっけ?」
僕の問いに、勢いあまって骨を床に落としながらも、あおいさんは手を挙げた。その姿は小学生を連想させる。……というか、小学生のありさまだった。
制服汚れちゃったし。
「はいはいはい!ごくろっく!」
「あおいさん、足りないっす」
すかさずツッコミを入れるしかなかった。
「でも、獄ロックって地獄のロックって感じで確かに苦しそうですよね」
うーん、と唸る香音先輩。
「香音先輩の感性もなかなかロックですね」
「中学生のころに、この感性は完成しましたから」
香音先輩には珍しく、反らした胸に手を当ててどや顔でこちらを見つめた。
「なるほど」
適当に流す以外の方法を、僕は知らない。
そうしていると、あおいさんが顎に手を当てて悩んでいた。
まさしく『考える人』であるようなその姿に少しどぎまぎしていると、途端彼女は立ち上がった。
「でも、5区6区って、山の道だから確かに苦しそうじゃない⁈」
「言われてみれば確かにって、そういう四字熟語じゃないから」
「四苦八苦でしたっけ?」
静かに答え合わせをする香音先輩に、僕はすぐに答えた。
「そうですよ」
そっかぁと二人で一緒に安堵した。
大丈夫なのか? この二人は。
「でも、なんで学校でやってるの?家でやればいいじゃん?」
「先輩方がいるかなと思ったので、教わりたいと思って」
「お、敬ってくれるのかい?」
「阿ってくれるなんて良い後輩ですね」
えっへんと言わんばかりに腕を組む先輩方。
間違いではないんだけど、なんだかイラつく先輩である。
このノリは、嫌いではないけれど。
「ということで、先輩方は理系なんでしたよね?」
「そうだよ!」
「そうですよ!」
「じゃあ、この問題なんですけど」
「ああ、それはBの2乗引く4acだから」
「ああ、そういうことか」
「なんだ、こんな問題も解けないの?」
「四苦八苦も言えなかった人に言われたくはないです!」
僕らの会話に参加しないなと思いながら、僕は一人俯く香音先輩を見つめた。
「……ふふっ」
香音先輩は、良いおもちゃを見つけた子供のような笑顔を浮かべていた。
「どうしたんですか?香音先輩?」
「なんだか、夫婦みたいだなって」
香音先輩は、持ち合わせていたシャーペンをくるくる回しながら口をすぼめた。
「そ、そんなわけないよ!」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
「あ、揃った」
不覚にも揃ってしまった。
「……はあ」
気づけば小一時間どころか2時間くらい経過していた。こうなってくるとそろそろみんな疲れて喋らなくなってくる。
「で、あとどれくらいなんですか?」
「見開き5ページくらいです」
「明日からじゃなかったっけ?」
「明日からですよ」
「……そうでしたっけ?」
「しょうがないな」
「しょうがないですね」
「……お願いします」
会話はもう、この程度になった。
先輩方にリードされながらも、そして日が暮れながらも、ようやく終了した。
夏で日が暮れたというと、もう時間は相当遅くなっている。
窓から見える国道は帰りの車やバスでいっぱいになっていた。
「まさか、学習能力がこんなにも低いとは」
「数学は、苦手なんですよ」
「でも、終わって良かったですね」
「じゃあ、帰るか」
「帰りましょうか」
廊下は誰かのミスか電気が消されていた。
その暗さがますます僕達のテンションを上げた。
「雄ちゃん!アイスおごって!」
いつものようにあおいさんは甘えてくる。
本当にこの人は上手い。
「先輩がおごらせるんですか!」
いつもの如く僕はツッコミを入れる。
この時の香音先輩は、静かに一歩後ろを歩く。
これが日常だった。
「教えてあげたのは誰だっけ?」
前を向いて鼻歌を歌う。あおいさんは、本当にずるい。
「分かりましたよ!」
ここで静かに歩いていた香音先輩が、ようやく口を開けた。
「本当、仲が良いですよね」
「仲良くない!!」
「仲良くないです!!」
また揃ってしまった。
「あ、また被った」
クスッと笑う香音先輩の悪戯をした子供のようなしたり顔が、何とも印象的だった。
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