第一章 Ⅲ イクセルの目覚め

 夢を見ていた気がする——瞼を閉じたままの青年はそう自覚する。


 青年が目を開けると、そこには中年の男の顔が視界いっぱいに広がっていた。

 確かまだ四十前だったその男は、顔に皺などの衰えが出始めたものの表情そのものは若々しく、凛々しい目元がどこか暑苦しさを感じさせる容貌だった。

「……おはよう、オロフ」

 鼻先ぎりぎりの距離でこちらを覗き込む男に対して、青年は努めて冷静に声をかけた。

 青年はレモンのような色の髪を女性のように伸ばし、瞳の色は翠でやる気を感じさせない垂れ気味の目元をしていた。とっくに二十歳を過ぎた成人男性だが、端整な顔立ちにはあどけなさを残しており、垂れ気味の目元と寝起きの脱力した表情も併さって総じて精悍さからは程遠い容貌をしていた。

「なにがおはようだよ、イクセル。やっと起きたか。昼寝にしちゃ寝過ぎだぞ。なんだ、連日の狩りでさすがに疲れが溜まったか? お前、うなされてたみたいだったぞ」

 オロフと呼ばれた男は快活な笑みを浮かべた顔を青年から離すと、そのまま折っていた肘と膝を伸ばして立ち上がった。

 青年——イクセルは、オロフの顔面から解放された視界内の情報を整理していく。彼にとっては見慣れた光景の、ごくごく普通の民家の一室だった。

 親しげに接してはいるが、ふたりは親子はおろか血のつながりすらない赤の他人なのである。この家はオロフと彼の娘が暮らすもので、旅をしていた流れ者の自分は『とあるきっかけ』が縁となって住まわせてもらっているだけに過ぎないのだ。

 その貸し与えられてる部屋、そこそこに年季の入った木造の天井や壁を順に眺め、顔へとかかる日差しのほうを見やる。開け放たれた大きめの窓からは、似たような木造の家々が並ぶ牧歌的な光景が広がっていた。

 イクセルは身体を起こすと横になっていたベッドの上であぐらをかき、こちらを見下ろすオロフへと向き合う。

「別に問題ないよ。昨晩なかなか寝つけなかったから、単に寝足りなかっただけ」

「そうか? お前が居着いてから村は大助かりだよ。名狩人が次々に獲物を狩ってくるもんだから、しばらく食料に困ることはないだろうな」

 オロフは無精ひげの生えた顎を掻きながら、イクセルが腰掛けているベッドの傍らに視線を移す。そこには特異な形状をした大きな弓が、無造作に立て掛けてあった。

 その弓の極端に反った両端は、大型の鳥を想わせる翼を模した形状をしており、これにより一般的なものと比較すると全体が一回り以上大きなものとなっていた。グリップ付近には彩度の高い翠の宝石——『精霊石』が装飾品として埋め込まれており、弓全体は淡い翠。翼と各部に彫り込まれた紋様が純白のこの弓は、一言で武器と言い捨てられぬ優雅な美しさを備えていた。

 魅入られたように弓を見つめるオロフの横で、イクセルは寝ぐせのついた髪を撫でつけながら窓の外に目を向ける。青空を流れる遠い雲を追うことで眼を訓練したつもりになる、いわゆる彼の日課であった。

 寝起きだったこともあり、流れていく雲と同じようなのんびりとした様子で口を開く。

「まぁ、居候させてもらってる立場だから。そのくらいは別に……大したことしてないし」

 言った言葉は、イクセルの偽らざる本心だった。

 村では牧畜が行われているため、潤沢というわけでもないがすぐに食に困ることもない——それを知っているイクセルは、自分の行いがさして人様の役に立っている実感が湧かないのである。

 しかし彼が狩りの成果として提供する獲物の肉で村の食料事情には余裕が生まれ、また動物の皮や骨は加工して行商人との取引に利用することもできるので、本人が自覚のないだけで村の一部の人間には彼の働きを高く評価している者もいた。

「よく言うよ。お前の腕に嫉妬してる連中だって少なくないんだぞ。ひとりで若い連中の自信を全部打ち砕いていく気か?」

 オロフは視線を弓からふたたびイクセルに移すと、かぶりを振った後に大袈裟な身振りで天井を仰いだ。

「別にそんな気はないけど。誰かと競うなんて、疲れるだけでムダだよ。それに……俺は一人じゃないから」

 イクセルはベッドの頭側、座したままでは届かぬ位置にある弓に向かって手を伸ばした。

 広げた指先を手招くように動かすと、弓に埋め込まれた翠の宝石が煌々と輝きだし、その光の中から透けるように一羽の大きな鳥が緩やかな風を伴い出現する。

 長い首を持ち立派な翼を携えたその鳥は、全身が淡い翠の羽毛に包まれ、所々に白い紋様のような模様を有していた。一見してわかる透けるように希薄な存在感のこの生物は、エレ・シディアに存在する生ける神秘——精霊である。

 精霊には火・土・風・水・氷・雷の六つの属性が存在することが確認されており、各々の属性の精霊が動物の姿を模倣してこちらの世界へ現れる。どんな姿をとるのかは属性によってある程度決まった傾向がみられるが、精霊の性格や契約者の資質、または身を宿らせる召喚器によって定められるといわれている。

 イクセルの所有する召喚器から鳥の姿で現れた風を纏うこの精霊は、自由さと身軽さを信条とする風の精霊であった。

「よう。調子はどうだ、イーヴァル」

 オロフは片手を上げて親しげに呼びかけるが、イーヴァルと呼ばれた精霊は彼を無視して静かに羽ばたき、主であり相棒であるイクセルの腕にとまる。

 無視されるのは慣れたことなのか、オロフは気にした様子もなく呟いた。

「こんな辺鄙でなにもない村に、まさか凄腕の契約者がやってくるとはなぁ。いや、今でも不思議な気分だよ」

「持ち上げ過ぎだ。凄腕でもなんでもない、ただのその日暮らしの流れ者だよ」

 イクセルはイーヴァルをひと撫ですると、窓の向こうの景色をただ見つめる。

 巨大な森に呑まれるようにして存在するこの村は、周囲の木々を伐採して少しづつ大きくなっていったという。巨大な森の中に佇む隠れ家のようなこの村の景色を目で愛でるのは、イクセルのお気に入りだ。

 そんな彼の様子を面白そうに見つつ、オロフが言ってくる。

「謙遜するなって。実際のところ、若い連中だけじゃなく俺も気になってるんだ。お前さんがあの『纏える者』なのかどうか、な」

 イクセルはなにも答えることなく、窓の向こうでこちらに手を振る子供たちをぼんやりと見つめていた。

「なぁ、いい加減に見せてくれよ。頼む! この通りだ!」

 オロフが両手を合わせて頭を下げてくるが、イクセルは視線をそちらに向けることもないまま気怠げに言う。

「断る。意味がないしな。それに、あんたは一度見てるだろ」

「あんときゃお前、一瞬だったじゃねーか。暗かったし……なぁ、頼むよ」

「嫌だ。力をひけらかすのも、見世物になるのも御免だね。なにより……」

 ここで一旦間を開ける。ピクリとも動かず、同じ表情、同じ姿勢のままで。

「……なんだ?」

 薄っすらと額に汗をかきつつ、苦い顔でイクセルを覗き込むオロフ。長い付き合いなのでイクセルがなんと答えるかは予想がついているのだが、一縷の望みにかけて彼の言葉の続きを待った。

 オロフの視線にようやく真っ直ぐに応えると短く息を吸い、イクセルはやはり気怠げな表情のまま言い放った。

「————面倒くさい」


 風のようにふわふわと捉えどころがないが、それでいて頑固な一面を持つ。

 他人に左右されることなく自由に、そして面倒に感じるものからは放たれた矢のように距離をとる。

 これが風の精霊の契約者であるイクセルという男の譲れない生き様、そして揺らがない信条であった——

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