第一章 Ⅱ 少年の追憶
——少年は、必死に息を殺していた。
年の頃まだ十代前半といった少年である。
金色の前髪と額を覆うオレンジのバンダナの下、垂れた目元が特徴だった。一見やる気のなさそうな翠の瞳を細め、ただひたすらに前方を見つめていた。
少年の眼前に広がるのは、一面が緑の木々の世界。
樹木の青々とした匂いに包まれるなかで、少年は呼吸することなく集中して弓矢を構えていた。大人が使うものなので少々不格好ではあったし、長く構えていればそれなりに負担だ。しかし少年は、腕に怠さを感じつつも集中を切らすことはなかった。
視界の奥、木々の隙間を縫ってその遥か先には、獲物である鹿の群れが若い草木を食べていた。数匹いる中で一番大きな牡鹿に狙いを定めると、目を凝らして弦を引き絞る。
鹿がこちらに左の半身を見せると狙いを絞り、つがえた矢を放った。
放たれた矢は高速で木々の間をすり抜けて飛んでいき、鹿の左足の付け根付近へと突き刺さる。矢が当たった鹿は瞬間に悲鳴をあげて飛び上がり、そのまま近くの木に身体をぶつけると、大きく痙攣を繰り返した後に身を沈めて絶命した。
射られた鹿が悲鳴を上げたので、驚いたほかの鹿たちはその場を離れ散りじりとなって逃げていく。
「……よし。当たった」
己が放った矢が命中したことを遠目に確信した少年は静かに呟き、まだ小さい拳を胸の前で握った。彼から年齢相応の喜びが表れたのはその程度のものだった。
無表情な少年が背後を振り向くと、大柄で褐色肌の男が目を瞑って横になっていた。その男の横には、少年の背丈を優に超す冗談のような大きさの大剣が置かれている。
聞こえてくる微かな息を聞くに、どうやら男は伸びた雑草をベッド代わりにして気持ちよく昼寝をしているらしい。少年はこちらに伸びる男の脚を見下ろし、その丸太のように逞しい脚を軽く蹴った。
「んおっ。ん、んん~? おぉ……終わったのか?」
「うん、終わったよ」
眠たげに目をこする男に、少年は弓を背中に背負いながら答える。そのまま男に背を向けて歩き出していくと、男があくびをしつつ起き上がったのが音と気配で感じられた。が、あえて無視をしてそのまま目前の森へと入っていく。
「おい、待てって。子供が一人で入っていったら危ないぞ~?」
男は少年を追いかけると、からかうように声をかけた。足の長さの問題で意外と早く追いつかれた少年は、少し拗ねたように不満げに男をちら見する。
「……俺の狩りの腕を見たかったんだろ。なんで後ろで寝コケてんだよ」
「いや、悪い悪い。お前と一緒だといつもいい風が吹くからな。つい、気持ち良くなっちまってな」
男はとくに悪びれた様子もなく、少年に片腕を上げて気楽に謝る。
年の頃が四十台後半。赤みの強い茶髪、大柄な肉体は高い身長だけでなくしっかりと筋肉がついており、それらと男くさい顔つきも併せて屈強な容貌をしていた。彼の背中には、並の男では引きずることも困難であろう大剣が難なくと背負われている。
「しかし、そんなに風に好かれてちゃ弓を引く邪魔になるんじゃねぇか? いつもよく当てられるなぁ」
男は少年と並んで歩きながら、大柄な体格ゆえ当たる枝を払いのけながら言った。
「……別に。俺が矢を放とうとすると、なんか風が凪るんだよ」
「……ほう。お前、もしかしたら風の精霊になつかれてるのかもな」
少年の言葉に足を止めると、男は目を細めて少年を見る。こちらをまじまじと見つめられ、少年は少し驚いた様子で男を見上げた。
「え、本当に……? なら今も傍にいるのかな、あんたみたいに。……見えてる?」
「いや、基本的に野良の精霊は見えないさ。こっちの世界に姿を見せる精霊ってのは、召喚器で呼ばれた契約済みの精霊が大半だからな。もし見えるとしたら、なんらかの力が働いてるか……」
いったん言葉を切ると、にやりと笑った。意味深な笑みに思えて、少年は表情をきょとんとしたものにする。
「あるいは……口説かれてるときだな。精霊が、契約を望む相手の心に訴えかけてるのさ」
言い終わるとウインクをしてみせ、男はそのまま前のほうへ歩き出してしまう。
少年は慌てて後を追った。もともと歩幅が大きく違うため、男が少年に合わせて歩くのをやめてしまうと当然に先へと行ってしまうのだ。
少年は、男が背負っている大剣に目を向ける。中でも、鍔に飾りとして埋め込まれた赤い宝石のその輝きに、少年は惹き込まれるように見惚れた。
「なら、俺もなれるかな…………契約者に」
少年は男の横に並ぶように急ぐと、ぽつりと呟いた。男はかろうじてその呟きを拾うと聞こえなかったふりをするか迷ったが、結局は無視しないことに決めた。
「……その気にさせちまったか。でもな、そんないいもんじゃねぇぞ。契約者なんて。特に『纏いし者』なんざ、今の世の中じゃ不幸を呼ぶ嫌われ者の代名詞みたいなもんさ」
少年は驚いた顔で瞬きをする。彼には男の言葉が信じられなかった。
「……なんで? この前に助けた村の人たちは、みんな喜んで感謝してたじゃん」
こちらを見上げる少年に、男は苦笑した。それは、いかにも大人が子どもにするわかっていないなという顔だった。
「うまくいったからな。失敗して犠牲者がでていたら、きっと間違いなく罵られてたと思うぞ。終わり良ければすべて良しだが、逆ならば……ってことだな」
「それって、不幸を呼んでるって言えるか? それに、あんたは失敗なんてしない」
少年は食い下がると前方を見据えて歩いていく。信頼の情をぶっきらぼうに表す少年にどう返したものか、男は曖昧な表情を浮かべた。
「……お前も、こっちの立場になればわかるさ。だけど俺は、そうなってほしいとは思わねぇけどな」
「やっぱりわかんないぞ、それ。なんなんだよ」
少年は思いのほか淡々と言った。しかし男は彼が内心では苛立ち始めたのがわかったのか、困ったように額を手で覆った。
「ん~…………救えなかった命に『仕方がない』は無ぇってことだよ。精いっぱい力を尽くしても、及ばないこともある。犠牲になった人たちの悲しみに暮れる遺族に、自分はやれるだけのことをやった——そう言い張り続けるのは心を消耗していくもんなのさ」
男はちらりと少年の表情を確認した。
少年は感情のない顔で拳を握っていた。彼の脳裏になにが思い出されていたのか、男には察しがついていた。余計な話だったかと後悔もするが、少年のこの先に待ち受ける未来を思いあえて気を遣わないことにする。
「……なんとなくは、わかるよ。でも、時間がかかっても人は前に進んでいくよ」
少年の言葉に男は息をつく。それはほっとしたようでもあり、重々しい心境から漏れたもののようでもあった。
「そうだな。だが、お互いに吐き合った残酷な本音ってのは、消えずに残るものなんだよ。隣人であれば、歩み寄っていくチャンスも残るだろうが……流浪の傭兵団には厳しいところだな」
「感謝の言葉が聞けないから、辛いってこと? 助けられなかった人たちの家族に恨まれたままだから……」
男は眉をしかめた。他人を気遣える聡明な少年ではあるが、回りくどい言いまわしを好まない彼の言葉は、いつも直接に胸を撃ち抜いていく。
「そうかもしれないな。だけど、それだけじゃない。一番は自分を許せなくなっていくこと、なんだろうな」
「あんたは……自分のなにが許せないの?」
やはり的確に的を撃ち抜いてくると、男の胸中で苦いものを感じる。今度は苦笑すら浮かべる気にならず、ただ沈黙を守ってしまう。少年も追及してはこなかった。
しばらく無言で歩いていくと、視界の中に血を流して倒れる鹿の姿が見えた。
ぴくりとも動かない鹿に近づきつつ、傷口を染める赤黒い染みに目を向ける。実際には別の光景でも思い浮かべていただろうか、男は悪夢を払うかのようにかぶりを振った。
「……許せないのは、いろいろさ。これまでの自分の選択が正しかったのか、わからねぇんだ。ここまで生きてきて、いろんな血を流させてきたよ。立場が違うだけの敵のものも、信じて共に戦った仲間の血もな。……だっていうのに、胸を張って自信を持てない。それが許せねぇんだ」
男から語られる言葉は淡々としていて、虚ろなものを感じさせた。
そのどこか渇いた様子に返す言葉が見つからなかったようで、少年は共に鹿の死体を眺めて沈黙する。ふたりは互いに、状況は違えど相手の脳裏に同じような光景が浮かんでいるのだと思った。
「でも、あんたは俺を助けてくれたよ」
しばらくして少年から沈黙を破る。男は頷き、少年の頭にその大きな手を乗せた。
「ああ、そうだな……俺の数少ない自慢のひとつだ」
そのままやや乱暴な手つきで撫でてくるが、こうなるとしつこいことを知っている少年はその手を払いのけずに渋面で男の好きにさせる。
彼はひとしきり撫でまわすと、あらためて視線を鹿の死体に落とした。
「すごいな。心臓を一撃か……」
来た道を振り返り、この場所に至るまでの視界の悪さをあらためて認識すると、感嘆とした様子で呟く。同じことを成功させる自信は男にまったくなかった。
少年はとくに得意げな表情を浮かべるでもなく、淡々と己が放った矢を見つめている。深々と刺さる矢は、男の言う通りに鹿の心臓を貫いていた。
「もし命を殺めなければいけないのなら、可能であれば今回みたく一撃で決めろ。苦しませないようにな。もてあそぶのは論外だが、実力が足りていないのも許されねぇ」
男は少年を撫でる手を止めると、表情を引きしめて少年の顔を覗き込んだ。
「いいか、命には真摯に向き合うんだ。俺との約束だ」
それはいつになく真剣な表情で、もしかしたら少年が初めて見るほどのものであったかもしれない。こちらへ伝わってくる男の強い思いを受け取り、まっすぐに視線を返した。
「約束するよ。俺は、的を外さない……絶対に命を軽んじたりしない」
男は満足したように笑うと、少年の頭を乱すように撫でつけた。その雑な手つきのせいでバンダナの位置がずれてしまい、少年の目元を隠すようにずり下がった。さすがに男の手を払いのけるようにもがくが、それすら面白い様子で男は笑う。
男はそのまま少年の頭を強引に撫でまわすと、視界が塞がれたままの彼に慈しむような目を向けた。
「お前が精霊に選ばれたなら、俺にその運命に干渉する資格はない。けどな、俺はお前に生き続けてもらいてぇよ。面倒ごとになんて関わらないで、逃げて逃げて逃げ切ってもらいてぇな。なんせ、俺が救った命なんだからよ」
結局少年は、このとき男がどんな顔で言葉を紡いだのか知ることは叶わなかった。
このときに彼が込めた言葉の意味も。
それらを知ることのないままあっけなく時は流れていき、そして正確な答えを知る機会は失われてしまった————永遠に。
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