第一章 Ⅰ 始まりは、終わりから

「——しかし、そうではなかったのです」


 決して広いとは言えない空間の一室で、その女性の声は鈴の音のように響いていった。 

 部屋にはふたりの女性がおり、一人はベットの上に腰を下ろし、もう一人は対面して床の上に跪いている。 

 ベッドの上で微笑むのは、どこか浮世離れをした神秘的な雰囲気をまとう見目麗しい女人だった。それほど長くもない光に透けるオリーブグリーンの髪は、風に踊るかのように毛先が外へ向かって跳ね、彼女の人形を思わせる整った顔立ちに映えていた。

 清涼な風のごとく清廉で、近づく者すべてを浄化するかのような印象を与えるが、それでいてすべてを見透かすかのような翠の瞳は、その瞳を覗き込んだ者の心に静かな畏怖を与えもするようだった。事実、目前で跪く少女は敬うように頭を垂れていた。


「……ふふ、ご清聴ありがとうございました! でもよかったんですか? 創世神話なんてもう聞き飽きた話だったと思いますけど」

 先ほどまでの印象とは打って変わり、彼女の様子は溌剌としていて好奇心溢れる子どものような印象へと変化をしていた。まるで別人であるかのように振る舞う彼女は、眼前で跪く少女に無垢な笑みをを浮かべて手を差し伸べる。

 少女は差し出されたその手を、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと両手で包んだ。

「いいえ。ヒミィ様からお話をお聞きかせいただけるのも……もうこれが最後ですから」

 落ち着いた様子の物腰柔らかな少女だった。

 短めの黒髪を揺らすと、可憐な顔立ちに控えめな笑みを浮かべた。

 少女は、自身が長年に渡って仕えてきた主——ヒミィの手から伝わる熱や感触を目を閉じて受けとめる。これから先のふたりが二度と会えなくなったとしても、これまでの日々を決して忘れてしまわないようにと。

 ヒミィは、健気に沈黙を続ける少女を愛しげに見つめた。少女の、自身に向けられる親愛の情が誇らしくもあり、くすぐったくも感じられた。

「出会ってから九年間ですか。そして、私たちがここで暮らし始めてからの九年間でもありますね」

 特別感情が込められた呟きでもなかった。思うところはたくさんある。ただ、大げさなものにしたくなかっただけだ。とはいえ、それも難しくはある。

 九年という長い歳月は胸中を清清しくも、また惜しむようにも感じさせ、ヒミィは感慨深げに部屋を見まわした。

 楕円形のこの部屋は、二つある扉を除いた全面が曲線に沿った格子状の枠で構成されており、すべての枠に窓硝子が嵌め込まれている。窓の外には青空や木々といったごく普通ののどかな風景が垣間見えるが、全面に格子が走るこの部屋は鳥籠を連想させた。

 ふたつのベットがあるほかでは棚や机といった家具がいくつかある程度で、娯楽に通ずるものは本のひとつすらも置かれはていなかった。人が生活する環境としては、実に殺風景なものといえるだろう。

「理不尽なことに付き合わせて、貴女の九年間を無駄にさせてしまいました。あなたには、許しを請わなければいけませんねぇ……」

 言葉の内容とは裏腹に、ヒミィはことさらおどけた態度で言った。それは本心ではあったが——駆け引きでも自惚れでもなく、少女がそれを望まないことがわかっていたからだ。

 事実、やっと開かれた少女の瞳は、涙ぐんではいても純真で曇りを感じさせないものであった。

「たくさん、語り明かしてきましたねぇ」

「……はい」

「こんな所だというのに、たくさんの夢が生まれていきましたねぇ」

「……はい」

「この狭い世界で、たくさんの思い出を作ってきましたねぇ」

「…………はい」

 頷くたびに少女の身体は震え、その潤む瞳は、今にも溢れんばかりの涙を溜めていた。

「たくさん笑顔でいられたのは、あなたのおかげです」

 少女が驚いた顔をすると、ヒミィはその震える彼女の手を両手で優しく包んだ。感触も、熱も、震えさえも。そのすべてが愛おしく感じられた。

「今まで、本当にありがとうございました。……あなたがしてくれてきたすべての献身に、私は救われてましたよ」

 握り合っていた手を静かにほどき、そのまま少女の頬を撫でてやると、ついに零れた涙を指先で拭った。

 少女は両手を胸の前で組み合わせると、涙を散らすように被りを振る。

「…………いいえ。っいいえ……! 私のほうこそ感謝しております。ヒミィ様にお仕えできたことは、この身に余る光栄でした。私にとって本当に、本当にたくさんの幸福が詰まった九年間でした」

「あらら、最後まで大袈裟ですねぇ。私なんてお喋り好きのただの女ですよ。かしこまる必要も、敬う必要もなかったのに」

 少女は小さく首を振ると、頬を撫でるヒミィの手に自の手を重ねた。

「そんなヒミィ様だから、お慕いしているんです。ヒミィ様は、まさしく風のような人です。籠の中であっても、気高く自由で……」

 ヒミィは照れたような微笑を浮かべ、あらためて部屋の中を——ある意味ではこの部屋のすべてでもある全面の窓を見まわしていく。一見すると窓に思えたそれは、実は精巧に描かれていた『窓と外の景色』の絵であったのだ。

 本物の風景と見紛うほどのそれを見つつ、とぼけた口調のままに、どこか達観した様子で呟く。

「……気高いかどうかはさて置き、まぁ自由ですねぇ。人はそれぞれ面倒な宿命を抱えていたり、囚われていたりするものです。ですが、変えられない流れの中に身を置いていたとしても、その中で実際にどう飛ぶのかはその人自身が決められる——私は、そう思ってますよ」

 ヒミィは心穏やかに、それでいて強い覚悟をもって己の思いを口にする。

 語った言葉は、自身にとってはどうなのだろう。

 今後のことを思えば噓っぽくはあり、小賢しい自分を騙すことすらできない。しかしこれは結果ではなく過程の話なのだ。どのような結末であれ、納得するための過程の話。仮に最後に呪いの言葉を吐くことになったとして、そこに至るまでもが淀んだ恨みつらみだけで続けていったのならば、実に退屈でくだらなく哀れだ。そうあってはいけない。

 面白おかしく生きてこそ人生だ。目の前の少女には、ぜひそうしてほしいと強く思っていた。

 少女が言葉を返そうとしたしたその瞬間、二つある扉の内の一つがノックされる。続いて鍵をいくつか開けられる音が聞こえてくるが、音が止んだ後も扉を開いて誰かが部屋に入ることはなかった。

 ついに時はきた。

 少女は扉のほうを一瞥し、あらためて濡れた瞳でヒミィを見つめた。思わず彼女の手を強く握りしめる。

 ヒミィは少女にこれまでと同様の穏やか微笑みを向けると、強張った彼女の手をやんわりと引き離した。腰掛けていたベッドから立ち上がると扉のほうへ向き直り、瞳を閉じて呟く。

「……まぁ結局のところは、流れそのものには逆らえないものですけどね。要は、楽しんだり納得できるかが大事なんですよ。ただの意地、なのかもしれませんが」

 少女はヒミィの言葉に頷きながら涙を拭い、立ち上がると彼女の前へいきその瞳をしっかりと見つめた。

 ヒミィはなにも言わずに彼女の頬に両手を添え、瞼を閉じて額を寄せていく。少女も同様に瞳を閉じ、沈黙を守って彼女に己の額を重ねていった。


 そうしてしばらくの間、ふたりだけの世界と時間が流れるが、ほどなくしてヒミィのほうから身体を離していった。

 少女は目元を拭うと、主に背を向けて扉のほうに向かって歩いていく。

 一歩一歩と踏み出すたびに、脳裏にこれまでの日々が思い出されていってしまう。ゆっくりと足を進めていくが元よりいくらでもない距離だ、あっさりと辿り着いてしまう。

 扉の前に立ちドアノブへ手を掛ける——だが、少女はそれを回せなかった。踏ん切りがつかない表情で背後へ振り返ると、ヒミィはこちらに微笑んでみせて頷いてくる。

 少女は逡巡の末、沈痛な表情でドアノブを回し扉を開けた。


 開かれた扉の向こうに待っていたのは小柄な女性だった。

 濃い褐色の肌が特徴的で、その身を軽装鎧に包んでいた。表情から落ち着いた気風を感じさせるが、年はそう離れていないように思えた。しかし気が緩むかというと、そんなことはない。彼女の腰には不釣り合いにも見える立派な剣が下げられていた。思わず身体に力が入って見入ってしまうが、より注意を引かれたのは静かに佇む彼女の背後だ。

 赤い鱗のリサードマン——この世界に生きる亜人種のひとつであり、二足歩行の蛇や蜥蜴を思わせる鱗と尻尾を持つ種族である——が、やはり鎧を身に纏って立っていた。かなり大柄な体躯をしていたが、その腕には自身の背を越す獲物が握られていた。槍の穂先に斧のような刃と突起を備えた銀色に輝く巨大な武器——ハルバードと呼ばれるものだ。

 彼らのほかにも、少し距離を置いた所に仲間であろう者たちが待機していた。

 虎や獅子などの獣人種と呼ばれる亜人たちと人間が大勢で立ち並び、人が複数人はすれ違えるはずの廊下が窮屈なものに感じるほどの圧迫感を放っていた。

 彼ら全員が武装しており、種族の差異などによる細かな差はあれど共通の軍属といった風体をしている。


「——風の巫女、ヒミィ・ベル様。お迎えに参上しました。ご同行お願いいたします」

 先頭に立つ褐色の女が少女に軽く会釈はするが、彼女が声をかけたのは眼前の少女にではなく奥にいるヒミィに対してだった。

 少女は訪れた面々の姿を目にしてためらうが、背後にヒミィが近づく気配を感じると、主の道を塞がぬようにと脇へ引き下がる。少女の視界に入っていくヒミィは、つい先刻までのものとその印象を変えていた。先ほどまでとはまるで別人であるかのように儚くも悠然とし、神々しい威圧感を帯びた彼女のそれは『巫女』としての顔をしていた。

 先頭の女がヒミィに頭を垂れて膝をつくと、他の者もそれに倣い膝をついて巫女を迎える。

「……ヒミィ様」

 少女は華奢な拳を強く握り込むと、震える唇から小さな呟きを漏らした。

 眼前を通り過ぎる主の姿をいつまでも忘れることがないようにと、脳裏に焼き付けるべくしっかりとその姿を見据えた。

 少女にすれ違いざまに微笑むと、ヒミィはそのまま前へと進んでいき、扉を通り抜けて褐色の女の前へ立つ。女は立ち上がりヒミィに頷くと、もう一度少女を一瞥してから周囲に対して手をかざした。すると周囲の者たちは彼女の合図に立ち上がり、無言で道を空けて通路の端へと並んでいく。

 ヒミィは少女に振り返り、巫女としての顔からどこか幼い表情に——少女だけがよく知る顔で微笑んだ。

「お別れです。あなたのこれからが、誰よりも幸福なものであることを祈っています。お元気で」

 別れの言葉に少女の肩が震える。顔を涙で濡らしつつそれでも笑みを浮かべてみせて、最後に主人に頭を下げると九年間の思いを込めて叫んだ。 

「ヒミィ様……っ私も、私もお祈りいたします! これからも、これからもずっとっ……!」


 思いを告げた少女は息を乱して顔を上げ、はっとして口元を押さえた。

 そこには、長い月日を共にした彼女ですら初めて見るヒミィの顔があった。

 八の字に眉を寄せて困ったようにも微笑んでいるようにも見えるその目元から、涙が溢れて頬を伝い零れ落ちていった。

 ヒミィは照れつつ、涙で濡れた顔に子供っぽい笑顔を力強く浮かべた。そして、両手で人差し指と中指を立てたピースサインをして頷いてみせるのだった。互いに涙で滲む視線が絡み合う。少女が応えるように頷くのを見届けると、やはり笑顔を涙で濡らしつつ、そのまま彼女へ震える背を向けた。

 眼前で交わされる彼女らのやり取りを、褐色の女はどこか苦しげな様子で見つめていた。最後ににもう一度泣き続ける少女の顔を一瞥すると、踵を返して歩き出していく。集団を指揮する立場であろう彼女とリザードマンが先導していき、ヒミィはその後に続いて歩いていった。

 ヒミィたちが並ぶ兵士たちの脇を通り過ぎていくと彼らも追従していき、やがてその背中で少女からはヒミィの姿が見えなくなってしまう。

 それでも最後の瞬間まではと健気に見守り続け、ヒミィが通路の奥、決定的な別れとなるその扉を越えた瞬間————


「————ありがとう」


 ひとすじの風が通路を走り抜け、少女の耳だけにヒミィの声が届けられた。

 少女は肩を震わせながら顔を両手で覆い、ついに膝をついて泣き崩れてしまう。


 こうして、九年の長い時を共にした二人の日々は終わりを告げた。

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