エピローグ

 少女は怯えていた、暗がりの中をひとりで。

 夜の森を迷い、途方に暮れる顔には涙が溢れていた。

 ことのきっかけは、なんだっただろうか————父にいなくなってしまった母のことを訊ねて喧嘩になってしまったことだろうか。あるいは、退屈な村での日々に嫌気がさして逃げてしまいたくなったのだろうか。

 少女は疲れた身体を木に預け、何故こんな愚かなことをしたのか自問自答した。

 季節は冬でないはといえ、汗をかいた身体は夜の冷たい外気によって冷やされてしまい少女は身を震わせた。

(……きっと、捜してるよね。父さんも……村のみんなも。心配かけて、迷惑かけて……私ってほんとに子どもだなぁ……)

 寒さと心細さに自らの身体をぎゅっと抱きしめる。

 少女の脳裏に父の悲しそうな顔が浮かび、そんな顔をさせてしまった自分の言葉が思い出される——


『なんで⁉ なんで母さんは私たちをおいて出てっちゃったの……⁉ 教えてよ!』


『——どうして教えてくれないの……? もういい、父さんなんか嫌いっ!』 


 そう言って家を飛び出してきたのだ。

 いつだって優しくて味方だった父を傷つけて。

 訊ねたときの父親の顔を見て、少女は己の過ちに気づいていた。

 隠されていたわけじゃなく、隠さなきゃいけない理由もなかったのだろう。

 ただ、気持ちの整理ができていなかったのだろう。

 言わないわけじゃなく、言えないわけもない。ただ————

(ほんとは、わかってる……。なんて言ったらいいのか……わからなかったんだよね。……なのに、私はなんてバカでイヤな子なんだろう)

 静かな森に、少女の嗚咽する声と鼻をすする音が響いていく。

 何処に行く当てがあるわけでもなしに、無我夢中で歩いてきてしまった。父を傷つけてしまった幼い己を恥じ、許せなくて。

 自分がどこにいるのかもわからない少女は、何かしらの罰を己に与えるようにひとり孤独な夜の闇を耐えていた。

 すると、近くで物音が鳴った。足音のように聞こえるそれは、音の軽さや間隔からいって人間のものとは思えなかった——しかもそれは、複数聞こえてくるのだ。

「な、なに……?」

 少女は慌て周囲に目を配らせると、闇に慣れた目が獣の姿を捉えた気がする。少女の周りを取り囲んでいたのは、野生の狼だったのだ。

「ひっ、やだ……!」

 少女は恐ろしさに硬直する。もっとも、彼女が逃げる素振りを見せたところで一瞬で追いつかれて噛み殺されただろうが。

 狼たちは低く唸り、少女への距離を少しずつ詰めていく。確実に仕留められると確信しているからこそ、油断なくゆっくりとした動作で。

(ああ……そっか。これは罰なんだ……父さんを傷つけちゃった私への——)

 少女は目を瞑った。覚悟を決めたというわけではなく、単純に助からないことを悟り、瞬間的に己の死に意味を求めた。


「————シーラっ‼」


 聞きなれたその声に、少女は目を空ける。正面から、松明で辺りを照らす彼女の父親が走ってくる姿が見えた。狼の存在には気づいているはずだが、そちらには目もくれず決死の表情で娘のもとへ駆け寄ろうとしている。

「来ちゃダメ……! 父さん、逃げてぇぇぇぇぇぇぇ!」

 シーラはこちらへと走ってきてしまう父に向けて叫んだ。上げられた大きな声に反応し、狼たちが一斉に動き出す。シーラのもとへ父よりも先に狼が接近してくるが、彼女の視線は同じように狼に襲われようとしている父の姿に釘付けだった。

 狼が地面を蹴って跳び、ふたりに襲い掛かる。

 口を開け、親子が今にも噛み殺される瞬間。

 だが、そうはならなかった————


「キャンッ⁉ クゥーン……」

「ヮオオォン……!」

 空中より翠の光が狼へと突き刺さり、彼らはそのまま地面に突っ伏すと絶命してしまう。

 狼に突き刺さっていたのは翠の光が灯った矢だった。

「……え? っきゃあああっ!」

 シーラは矢と狼の死体をきょとんとした顔で見つめたが、頭上から叩きつけるように吹いてくる風に思わず身を屈めて悲鳴を上げる。

 風に吹き飛ばされた狼たちは、シーラはもちろん父親からも遠ざかっていった。父親はその隙に娘の元へと駆け寄っていく。狼たちは仲間を殺されたことでより殺気立っていたようだが、親子との間に矢が降り注ぐと躊躇ったように右往左往するだけだった。

「シーラ! 無事か⁉ 怪我はないか……!」

 父に抱きしめられるシーラは、不思議そうに父親の顔を眺めた。潤んだ目で無事を喜ぶ彼の顔が、夜の空の下にしてはよく見え過ぎたのである。松明は手前で投げ捨てられ、先ほどの突風によって鎮火してしまっている——だが、ふたりだけではなく辺り一面を翠の光が照らしていた。

 狼は唸り声を上げ、親子ではなく上空を睨んでいた。シーラも頭上へと目を向ける。

「え。え、え? と、父さん……! 上、上見てっ!」

「ん、ああ……あ? な、なんだこりゃ……⁉」

 親子は狼狽えた様子で空を見上げたが、そこには翠の光を放つ巨大な鳥のような何かが浮かんでいた。鳥が機械になった、あるいは隙間のないくらいに鎧を纏った鳥がいたとしたらこんな感じだろうか——どちらにしても規格外の巨大さだったが。

 その巨鳥に見惚れているとシーラの背後、オロフからすれば正面になるほうから声が掛けられる。

「……とりあえず、大丈夫みたいだな。わざわざ降りてきた甲斐があった」

 いきなりの見知らぬ男——それも弓を持った男の登場に父親は娘を背に庇おうとするが、背後にはまだ狼がいることに気づいて結局はやめた。狼がこっちを襲ってくる気配がないと知り、シーラも父の腕の中で向きを変えて男と対峙する。

 そこに立っていたのはバンダナをした若い男だった。二十歳は過ぎているだろうが、眠そうな垂れ目がどことなく幼く感じさせる。レモンを想わせる髪色の長髪は翠の輝きを帯びてきらびやかに輝き、辺りを包む光と同じような翠の瞳をしている青年だった。

 父親は喉を鳴らし、恐る恐る口を開いた。

「あんたは……あんたが、助けてくれたのか?」

「たまたま視界に入ったんでね。さすがに、見捨てるのも気分がよくなかっただろうし……」

 青年はこともなげに言い、固まるふたりの横を通り過ぎていった。

 シーラは父の身体から隠れるようにして相手を窺い、その涼しげな横顔に己の鼓動が不思議な主張をしたことに気づく。彼女に熱い目で見つめられる青年は、ふたりを庇うように立ち、狼に言った。

「続きがやりたきゃ、それでも構わないが……わかってるよな? お前らの喧嘩の相手は俺じゃなくて『アイツ』だってこと」

 青年は緊張した様子もなく弓を下げ、空いてる手のほうで頭上を指した。狼たちは青年に対して唸り声を上げるが、ふたたび頭上から強風に襲われると踵を返しこの場から去っていく。

 その後ろ姿が遠ざかっていくのを見届けてつつ、青年は溜息をついた。それと同時に、空中で待機していた翠の巨鳥が崩れ去るように消えていく。夜空に溶けていくように消えるが、小さな光が一点残ると、こちらを目指して飛んでくる。

「え、これって……精霊?」

「鳥の形をした、風の精霊か……!」

 青年の肩に留まったそれは、透けるような翠の鳥だった。普通の生物ではないそれを間近に見て、親子は驚くように呟いた。

「別に珍しくもないだろ。精霊とその契約者なんてゴロゴロいるし、ましてここは風の国だ」

 青年は淡々と言った。父親のほうは青年の言葉に頷きつつ、精霊を初めて近くで見て見惚れている娘に苦笑した。

「……まぁ、辺鄙な村の者なんでね。中々こんな立派な精霊をおがむ機会なんてないんだ。あ、いやそうじゃないな。まずは礼を言うほうが先だったよな。危ないところを助けてくれて、ありがとう。……おかげで娘を失わないで済んだ」

 父親は、娘の頭を撫でながら感謝の言葉を言った。シーラは心配をかけた手前その撫でまわす手を払いのけられず、上目遣いに青年の顔を見る。

「あの……ありがとう」

 おずおずと呟かれた言葉に、青年は初めて笑みを浮かべた。もともと目元を中心に柔らかな顔立ちをしているので、嬉しそうにすると非常に優しげなものとなる。彼のその表情を見て、シーラはまた胸に違和感を感じた。

「礼はいいよ。こっちも厚かましい頼みをするところだったから」

「頼み? 俺たちにか?」

「ああ。……もしよかったら、一晩泊めてもらえないか? 別に野宿でも構わないんだが、連日だとさすがに腰が痛くなってきてね」

 ふたたび仏頂面に戻った青年は、腰をさする仕草をする。親子は、顔を合わせて同時にぷっと噴きだした。本来ならばよく知らぬ人間を泊めることなど論外だったかもしれない——だが、ふたりの胸の内ではすでに答えが出ていたのだ。同時に頷き、青年の顔を見て言った。


「もちろん大歓迎!」


 想像していたものとはふたりの反応が違ったのか、青年はきょとんとした顔をする。

 特別言葉を付け加えることなく親子は楽しげな様子で歩き出してしまい、青年は怪訝な顔で後を追っていく。シーラはこのとき足元に突き刺さっていた矢を一本引き抜き、大事そうに抱えていった。

「……おい。ずいぶん簡単に決めたけど、本当にいいのか……?」

「なに言ってんだよ。そっちが言い出したことだろ。……つーか、お前くっせぇな! 何日風呂に入ってねーんだよ。まずは風呂だな、風呂」

「え、だったら私先に入りたいな。……なんか、この人の後だとお風呂がキレイじゃなさそうだし」

 親子は散々な言葉を青年に浴びせ、やはり愉快そうに家への帰路につく。青年は、やや困惑した顔でふたりの少し後ろを歩いてついていく。

 思いだしたかのように父親のほうがぴたりと止まり、振り返った。

「なぁ、そういやあんた名前は? 俺はオロフだ。よろしくな」

「私、シーラ!」

 親子は笑顔で名乗り、それを受けて青年は————


「……イクセルだ。とりあえず一晩だけ世話になる。……よろしく」

 と、仏頂面で気怠そうに言った。

 しかし実際には一晩どころではなく、一年近くになる同居生活が始まるのだが。


 これが、オロフとシーラのイクセルとの出会い。

 ゆっくりと、やがて家族となっていった三人の最初の思い出————




 シーラはベッドの上で静かに瞼を開いた。

(懐かしい夢……だったな。やっぱり、不思議とわかるものなのかな……)

 横になったままで窓辺を見て、その明るさから大分いい時間になってしまったのだと悟った。

 上半身を起こし、伸びをひとつしてからベッドを出る。

 机の上に置かれた鏡の前で少し髪を整えていると、鏡の横に飾られていた矢が目に入った。自分と彼が最初に出会ったあの日の、大切な思い出の品。やや傷んだそれを感慨深げに撫で、深呼吸して覚悟を決めると、扉を開けて部屋を出ていく。階段を下りる寸前で対面の部屋の扉が開いてることに気づき、シーラの胸がずきりと痛んだ。これまでだったら、その部屋の中で生活するイクセルを起こすのは大体が自分の役目のはずだった。しかし一昨日昨日今日と、彼を起こして最初に声を掛けてのは自分ではない。些細なことかもしれないが、その事実は彼女にとってひどく重要な意味をもっていた。

(……今日もイクセルを起こせなかった。やだな……ずっと後を引きそうだな)

 溜息が出そうになるのをぐっと堪え、ついでに開いている扉から部屋を覗くのも堪えた。もし部屋の中を見ようものなら、堪えるものに『涙』が追加されてしまう。それを自覚すると早足で階段を下りていく。

 声が聞こえていたので、迷いなく居間のほうへ足を向けた。すると——

「ああ、やっと起きたか。いい加減にお前を起こしにいこうかと思ってたところだ」

 父であるオロフが、穏やかな顔で言った。

 それは、シーラがよく知る顔だった。

 彼にとっての宝物——娘のシーラを気遣うときにみせる優しい表情。

 オロフの背後には荷物をまとめたイクセルの姿があった。傍らにはヒミィの姿がなかったが、彼がどういう決断をしたのかは一目瞭然だった。

(ああ……やっぱりな)

 いざその時を迎えてみると、溜息どころか魂ごと出ていきそうになる。直視してしまえばやはり涙が溢れていきそうになるので、シーラは顔を伏せた。

 イクセルはオロフの隣に立ち、シーラに向けて口を開いた。

「……おはよう、シーラ」

「……うん。おはよう」

 かけられた挨拶にシーラはぎこちなく返事をする。素っ気なく映ってしまっただろうかと心配するが、目前のイクセルは気にした様子もなくこちらを見ていた。いや、実際には気にしていたのだろう。彼もまた、穏やかな優しい顔で見つめていたのだから。


「…………いくんだね」

(——お願い、いかないで)

 沈黙を破って自ら呟いた言葉に、心の中では間違いであってほしいと強く願ってしまう。

 しかし、イクセルは目を逸らすことなく頷いた。 

「……ああ。すまない」

(——やめて、聞きたくない)

 泣き崩れてしまえたら、どれほど楽になれるだろうか。しかし、安易にそうしてしまえるほど弱くもなかった。

「……どうして、謝るの?」

 俯いたまま、シーラは笑って言った。

 そんな彼女に、イクセルも笑って言う。

「ここは……俺にとって帰りたい場所で、オロフとシーラは家族だ。だけど、きっとここには帰ってこれない。だから、すまない」

「——相変わらず、はっきり言うんだね。普段は気怠げなくせにさ」

 シーラは顔を上げて、涙で潤んだ視界でイクセルを見つめた。最後に見る彼の表情が笑顔ならば、しっかりと目に焼き付けておきたかったのだ。それでも彼の姿が涙で滲んでぼやけてしまうと、シーラはイクセルの胸の中へと飛び込んだ。彼の胸の鼓動を感じつつ、震える声でこれまでの気持ち——そしてこれからの思いも伝える。

「大好きだよ……ずっと大切に思ってるよ……ずっと」


 イクセルは胸の中で震えるシーラをきつく抱きしめ、彼女の耳元で囁く。

「ああ……俺もずっと大切に思ってる。シーラとオロフがいてくれたから、俺はまた飛べるんだ」

 シーラは涙をこぼし、何度も頷いた。彼女が落ち着くまで、自ら納得して離れていくまで、イクセルは愛しい少女を抱きしめ続けた。

 やがてシーラはイクセルの背から腕を離し、目元を手の甲で涙を拭っていく。そして、彼から身を離すと笑顔を浮かべた。

「っ元気でね! ちゃんと身体に気をつけてね……!」

「ああ。シーラもな」

 精一杯の笑顔を浮かべてくれるシーラの頭を撫でてやり、イクセルは横のオロフへと向き直った。感慨深げな表情のオロフだが、やはり彼の目にも涙が滲んでいた。

「……死ぬんじゃねーぞ」

「……ああ、あんたもな。精々長生きしろよ」

 言葉少なく笑い合い、拳を突き合わせて握り合うと同時に空いてる手で互いに背中を叩き合った。息子のように、父のようにと互いに思い合うふたりにはこれで十分だったのだ。

 そして、いつの間に来ていたのだろうか、彼らの背後にはヒミィが静かに佇んでいた。気配を感じたオロフは背後へ振り返り、ヒミィの姿を認めると彼女へ言った。

「——巫女様、こいつのこと頼みます」

「はい。私のすべてを奉げ、そして力の限りを尽くして導き守るとお約束します」

 オロフ、そしてシーラを澄んだ瞳で見つめてヒミィは誓う。あたかも聖人のような彼女のその様子に皮肉気な息を吐き、イクセルは半眼で呻くように言った。

「腹黒い性悪がどう導いてくれるって? それに、なにが守るだよ。あんたの話じゃ、それはこっちの仕事なんだろ?」

「おや、やっと己の立場を自覚しましたか。これは大変喜ばしいですねぇ」

「……言ってろよ。だいたいだな——」

 彼女の軽口に呆れたように言い、ついでに思ったことをぶつけてやろうとした。が、今までこの場にいなかった乱入者に邪魔されてしまう。

「おーい兄弟、朗報だ! 俺たちの努力は無駄にならなかったぜ!」

「……姿が見えないと思っていたら、いきなりなんだ? 朗報? あと兄弟っていうな」

 テンション高く現れたクライヴに、うんざりした様子で言葉を返した。しかし慣れたものなのか、クライヴは気にせずに興奮したまま言ってくる。

「いいから、表に出てきてくれって。ほら、早く!」

「……なんなんだよ」


 イクセルはとりあえず言われるままに荷物をもって彼についていき、ほかの三人も同様にクライヴの後を追った。そこにあった光景は、きっかり一日前のものとはひどく変わってしまっていた。昨夜のセイバーサウルスとの戦いで地面が大きく抉れて建物は壊れ、ひどいものはイーヴァルが倒れた際に押しつぶされて倒壊している。——と、本来であればそれらだけが強く目を引いたのだろうが、イクセルたちの前には視界を塞ぐように人の群れがひしめいていた。オロフの家の前には村人たちが総出で立ち並び、イクセルたちの登場を出迎えていたのだ。

 きょとんとした顔で困惑していると、村長がイクセルの前に立つ。

「村の皆が命をおぬしに救われた。村を代表して礼を言う。本当によくやってくれた」

 彼は言うと、頭を下げた。周りの人間達も同じように神妙な顔で頭を下げてくる。イクセルにとってこういった経験は少なくないが、いつも居心地が悪さを感じてしまいなんとも言えない顔になる。

 困ったように背後を窺うが、オロフとシーラは嬉しそうな顔でこちらを見ていた。イクセルは溜息を吐き、あらためて村長に向き直る。

「……いや、上手く立ち回れずに結局村をメチャクチャにしちゃったしな。礼を言われるほどのもんじゃないよ。むしろ責任をとらずに行っちまうんだから、こっちこそ申し訳ない」

「なにを言うか。おぬしが回収してきてくれたセイバーサウルスの刃で、村を再建しても十二分にお釣りが出るわい。まったく律儀な男じゃよ」

 村長が機嫌よく笑うと、周りの村人たちも笑いだす。イクセルもぎこちなく笑うが、気になることがあったのでやや慌てて言った。

「あ、いや。それなんだが、やっぱり……」

「——あの黒煙の呪いのことが心配でしたら、大丈夫ですよ。高位の精霊による魔法には浄化する作用があり、矢で砕かれた刃にはそれほど強い呪いが残っていませんでした。あの時点では戦闘が継続していたので、本能的に呪いが本体へと移行したのも幸いでしたね。ですので、残りの微弱な残滓はきちんと私が清めておきましたから安心安全ですよ」

 隣からヒミィが顔を覗き込んでくる。言葉を届ける相手をイクセルだけに限定しなかったのは、村人たちに周知させることによって余計な不安をもたせないようにとの彼女なりの配慮なのだろう。巫女たる彼女の言葉を聞いて多くの人々が安堵し、そして歓喜の笑みを浮かべた。

 彼らの表情を見てイクセルも表情をほころばせ、風に消えてしまいそうなほど小さく呟いた。


「……ありがとな」

『もちろんですとも』


 即座に、今度はイクセルだけにヒミィの言葉が届けられた。悪戯っぽくこちらを見上げる彼女に瞳に耐えかねて、イクセルは照れたように被りを振った。

 気恥ずかしさで逸らした視線の先にたまたまオロフがいたので、ついでに彼に訊く。

「……で? あんたはなにを見せたかったんだ?」

「……ん、おおっ! そうだったぜ兄弟」

 嬉しそうに村人たちの喜ぶ顔を見まわしていたオロフは、思い出したようにニヤリと笑って言った。そのまま村の若い連中に手を振ると、彼らが御輿のようになにかを担いでこちらにやってくる。

 彼らが担いでいたそれは機械のとあるユニットだった。クライヴの言っていた言葉を思い出し、驚き顔のイクセルは反対に得意げなクライヴの顔を見た。

「これ……発電機に使う『ランタン』か!」

「おうよ。兄弟が荷物をまとめてる間、巫女さんと村長のとこに行って事情を話したんだ。そしたらちゃんと保管されてたってわけよ! 状態も確認してみたが、特に問題はなさそうだぜ」

「しかし、これって風の精霊を呼び込めないと意味がないんだろ……?」

 機械の上に大きな瓶のような透明な筒が乗ったそれを見つつ、イクセルは思った疑念を口に出してみたのだが、クライヴが答えるより早く何者かに肩を指先で軽くつつかれる。見ると、ヒミィが得意げな表情で笑っていた。

「イクセルさん……貴方の鈍感さには乙女として呆れを通り越して怒りすら覚えますが、なにか私の変化に気づくことはありませんか?」

「……あ、太った? え、食いすぎ?」

「なんですかっ⁉ 今なんと⁉ 私、太ってなどいません! ひどいです、深く傷つきました!」

 半眼で言ってみると、ヒミィは大いに傷ついた反応をして顔を手で覆ってしまう。昨夜の常軌を逸した食べっぷりをからかってみたのだが、思いのほかショックを受けたようだ——もしかするとやはり体重は増えていて本人は自覚していたのかもしれない。

「冗談だ。……あんたの髪が短くなったのが、どう関係するんだよ?」

 ヒミィの変化には気づいていた。昨晩最後に見たときよりも、襟足の辺りの毛が短くなっていたのだ。うなじが露出し、その艶めかしい肌の白さがよりはっきりとわかる。

 笑いもせずに変化の核心を突いたのだが、イクセルのその飄々とした態度に彼女は顔から手を離した。そのまま宙で拳を握り、ぐるぐると回して威嚇してくる。

「なんですか⁉ 冗談? 全然笑えませんよ! クライヴさんの愚にもつかない与太話のほうがまだ笑えますよ! 国が違えば女性を侮辱した罪で投獄です死刑です斬首の軽ですよ!」

「いや、どんな国なんだそれは……。というか話が進まないぞ、髪がなんなんだよ」

 よほど腹に据えかねたのか、ヒミィは耳を真っ赤にしてまくし立てていった。その過程でクライヴが傷ついた顔で落ち込んでいたようだが——イクセルにとってその辺はどうでもよかった。

(これほど怒るとは……やはり少々太っていたんだな……)

 狙撃手としての自分の観察眼の冴えに満足いくと、散々と振り回されてきたことに対して一矢報いたことにもイクセルは満ち足りたものを感じていた。

「……この件は後でしっかり責任をとってもらいますから。ええ、乙女の心を傷つけた罪はなによりも重いものなんですから。……これです」

 周囲の村人たちが笑っているのが恥ずかしくなったのか、ヒミィは不貞腐れつつ手元の品を見せてくる。それは、羽が半分ほど宝石の形状に変化したものに彼女の髪らしきものが巻かれていたもので、加えて小振りな木の枝先が添えてあった。

「これは……?」

「風の精霊を引き寄せるための、お供え物のようなものですかね。巫女である私の髪は精霊の興味を惹きつける効果がありまして……それと、この羽はイーヴァルさんに頼んで特別に生成していただいたものなんですよ。高位精霊であるイーヴァルさんの羽は、下位の精霊たちに安心感を与えるんです。あとは、風の精霊たちがお気に入りの空高くへと伸びていたこの枝があれば、止まり木として彼らに立ち寄ってもらえるはずです」

 巫女としての知識なのだろう、ヒミィはつらつらと言葉を紡いでいった。イクセルは関心した様子で頷いた。

「なるほど……とにかくこいつを『ランタン』の中に入れておけば、後は精霊が風を運んできてくれるのか」

「はい。クライヴさんに仕様を説明していただき、それが精霊たちを閉じ込めるものではなかったので協力することにしました。私が訪れたことで、村の皆さんにご迷惑をお掛けしてしまってもいましたしね……」

 言うと、彼女は申し訳なさそうに控えめな微笑を浮かべた。そんな彼女に立ち直ったクライヴが同意するように頷いた。

「ああ。こいつは入り口と出口がついてて、その気になれば中に入った精霊が出ていけるような作りになってるんだ。飽きたら勝手に出ていけばいいわけだから、精霊たちに害はないぜ」

「そうか……。今回の被害は大きかったけど、なんとか村もやっていけそうだな」

「おう。ああ……できればこの装置で風車が回るところが見たかったぜ」

 安堵して晴々とした様子のイクセルとは対照的に、クライヴは特別製の『ランタン』を名残惜しいといった表情で見つめた。そちらを見やり、イクセルは太陽の位置を確認すると目を閉じて溜息を吐いた。

「まぁ、そいつはムリな願いだ。そろそろ出発しないと俺たちに都合の悪い連中が来ちまうかもしれないからな……」

 イクセルの言葉に、笑みを消したヒミィが真面目な顔で頷いた。クライヴも心底残念そうな顔をしていたが、仕方ないと肩をすくめてイクセルに頷いてみせる。

 オロフとシーラ、そして村の人々はイクセルの言葉に表情を暗くした。いよいよ、別れの時がきた————イクセルは感慨深げに周りを見まわしていった。

 

 流れてきたよそ者の自分を拒まずに良くしてくれた、村長や大人たち。

 素っ気ない自分にも、怖がらずになついてくれた小さな子どもたち。

 なにかと理由を付けてぶつかってきた、気持ちが不器用な少年や青年たち。

 そして誰よりも優しく接して、自分などを家族として迎え入れてくれたオロフとシーラ。

 一気にこの村で過ごした日々が蘇ってくるようで、イクセルは鼻先にツンとしたものを感じた。

 しめっぽい別れが苦手な彼は、涙を流すくらいならと笑った。イクセルの思いを汲んだ村人たちも、オロフもシーラも笑った——目元に涙を湛えながら、精一杯笑顔をうかべる。


「——じゃあ、世話になったな。元気で」


 短く言うと背を向けて、荷物を背負ってそのまま歩き出していく。ヒミィもオロフたちに会釈してイクセルの後を追い、クライヴもバイクに跨って走り出す。

 その道のりを歩くイクセルは、決して後ろを振り返らなかった。

 大事な人たちには思いを伝えられたから、後ろを振り返る理由はない。

 そしてふたりは思いを返してくれたのだから、後ろを振り返ってはいけない。

 力強い笑顔を浮かべたオロフと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑うシーラのその優しさと心遣いに報いるため——決して止まらずに歩いていく。

 



 そしてどれほど歩いただろうか、気づけばイクセルたちの背後には村の姿が見えなくなっていった。道中を誰も口を開くことなく進んでいったが、ヒミィは隣を歩くイクセルの顔を見上げ呟いた。

「強情な人ですねぇ。……少しくらいなら甘やかしてさしあげましょうか?」

「あほか……」

 真顔で言ってきたヒミィを静かに一蹴し、イクセルはそのまま歩いていく。クライヴはバイクを器用に低速で走らせノロノロと少し前を進んでいたが、耳ざとくふたりの会話を感じとって後ろへ振り返った。

「ん? なんか言ったかー?」

「……別になんでもない。いいから進めって。つーか、さっさと機動鎧装の様子を見て来いよ。盗まれててもしらないぞ」

 イクセルは仏頂面で手を振り、クライヴになんでもない事を伝える。言われたクライヴは訝し気な表情を浮かべたが、

「……わかった。先に行ってるけど、ちゃんと後から合流してくれよな! 絶対に裏切りはなしだぜ、兄弟!」

「……あ~、わかったわかった。ちゃんと追っかけるから信じろよ『兄弟』」

「……! おう、じゃあ先に行ってるぜ! また後でな~!」

 クライヴの調子に合わせてやると、彼はご機嫌な様子で走り去っていく。イクセルは静かになったと息を吐いて進むが、後ろから服の裾を掴まれて足を止めた。ヒミィの悪ふざけや戯言に付き合える気分じゃないイクセルは、疲れた声で訊く。

「……今度はなんだ」

「あの方は足手まといになるので、このままふたりで逃げちゃいましょう」

 イクセルは即座に頭を抱えた。ヒミィの言葉がこちらの想像の範疇を超えていたのである。確かに彼女の言うことももっともなのだが——

「……なにを言うかと思えば。別にあいつに借りがあるわけじゃないが……そうもいかんだろ」

「私とふたりきりの甘々で胸がときめく生活になにか不満がおありですか? なんですか勝手な都合で早々に破局を迎えて都合の悪い女はポイ捨てして新しい女を誘惑するんですか」

「なんなんだよ、その俗っぽい発想は。やっぱりあんた巫女じゃないだろ……。あとなんかコエーんだけど……」

 やはり付き合いきれないと言った様子で、掴む彼女を振り払って歩き出す。背後で彼女がため息を吐く音が聞こえたが、構わずに歩いていく。ほどなくして彼女がけっこうな早足で追ってくる気配を感じたが、怒ってこちらを追い抜くつもりなのだろうと思い、特別注意を払わなかった————すると。


「——のわっ⁉」


 間の抜けた声を上げ、突然背後から膝に衝撃を受けたイクセルは前のめりに躓いた。膝カックンで鋭い感覚をもつ戦士を倒すと、ヒミィは意地の悪そうな顔をしてイクセルの正面にまわった。

「あのなぁ……」

 イクセルが抗議の声を上げようとヒミィを睨むが、彼女はこちらのバンダナに手を掛けるとそのまま勝手に押し上げてしまう。髪の生え際が露出するほどにずらすと、なにが面白いのか額を見て笑った。

「勇者イクセル——このたびの戦い、まことに見事でした。貴方の勇敢さ、気高き覚悟に私は心が震え……そして安堵しました。私の選択は間違っていなかったのだと」

 急に雰囲気が変わった彼女に面食らい、イクセルは呆然とただその美しい顔を見つめた。

「これから貴方と私、ふたりを待ち受けるのは過酷な試練の連続でしょう。その優しい心は砕かれ、絶望に苛まれて苦しむのかもしれません。そして……私を恨むでしょう。ですが、私は恐れません」

 ヒミィはイクセルの額を白い指先で撫でていき、続きの言葉を紡いだ。


「これは誓いです。貴方と、選ばれし聖なる精霊を信じ、私のすべてを奉げます。これから先なにがあろうとも……私の意志とこの誓いが変わることはありません。どうか、それを忘れないでください。勇者イクセル——私の心はいつまでも貴方と共に……」


 ヒミィはイクセルの額に口づけをする。

 それは、あの夢の出来事の再現ような唇の感触だった。

 

 これが、それぞれ出会いと別れを繰り返してきた二人の出会い。

 過酷な運命を背負った、巫女と勇者の出会い。

 こうして、後の歴史で世界を救ったとされる二人の伝説が始まる————

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