第四章 Ⅳ 『纏いし者』
あれからしばらくは、五人で取り留めのない話をして過ごしていった。
これから先に下されるイクセルの決断をシーラが受け入れられたのか、それはその場の誰にも判断できるものではなかった。しかし、輪の中のシーラは楽しそうに笑い、その姿にイクセルは心の中で安堵していたのだ。
談笑の中心で常に話題を提供してくれていたクライヴにも、密かに感謝したりもした。
そしてあっという間に時が流れていき、夕方になるとヒミィがお腹を空かせたと言いだした。
健啖さが発揮された昼食から時が経っていたとはいえ、彼女を除く全員が驚いた顔で凝視すると、さすがに照れたようで羞恥の表情を浮かべたのだった。
彼女の要望どおり早めに食事の支度をすることとなり、蓄えに余裕があったことについてイクセルはオロフからあらためて深く感謝されるのだった。
「いえ、少々力を使い過ぎたといいましょうか……。疲労した体力や諸々を回復させるためには、やはりしっかりとした食事をいただきませんと……」
——とは、食事中のヒミィが前人未到の記録を打ち立てた際、周囲に向けて言い訳のように述べられた彼女の言葉だった。
ちなみに、それに対してイクセルは——
「……じゃあなんの疲労もなければ、食う量は常人並なのか?」
——という問いかけを彼女にしたのだが、結局ヒミィは黙してなにも語らなかった。
彼女はよく食べよく笑い、それを眺めていた他の面々も笑顔を絶やすことはなかった。合間合間にクライヴが軽快に話を咲かせていき、場は大いに盛り上がったものになる。
かくして、イクセルがこの家に身を寄せて三人の暮らしがはじまって以来、最高ににぎやかな夜が過ごされていった。
明りのない暗い部屋。
それは目を閉じているのとそう変わりはなかったはずだが、イクセルは瞼を閉じることなくぼんやりと天井を見つめた。
連日の精神的な疲れがかえって神経を高ぶらさせ、眠ることができなかった。倦怠感を訴える身体はついでに硬い床の感触にも悲鳴を上げている。さすがに布を重ねて敷いているが、やはり身体を休めるものとしてはいまひとつだった。
「……眠れませんか?」
隣のベッドで横になるヒミィが、小さな声で静寂を破る。
彼女も起きていたことは、その呼吸から気がついていた。相手も同様だったのだろうが、今の今まで互いに沈黙を守ってきたのだ。
「ああ……なんだか思いだすことが多くてな」
無視するのもなんだと思い、イクセルは彼女に答える。
「怒っていますか? 不条理なものに巻き込まれたと……。それともまだ私を疑っていますか?」
「いや……どっちもない。巫女ってのはまだよくわからないが、少なくともあんたは騙そうとしてるわけじゃないと思う。うっとうしいし迷惑だけど、怒ってもいない。……不条理なことには慣れてるしな」
すくに言葉を返してくると思ったが、ヒミィは沈黙したままだった。まさか急に眠ったわけでもないだろうが、イクセルは構わず独り言のように呟く。
「……まぁ、今回みたいにワケがわからないのは初めてだけどな。ほんと、なにがどうなってるんだか」
やはり起きていたのだろう——頭上からは微かな衣擦れの音が聞こえ、暗闇の中でヒミィの声が囁かれた。
「……はい。巻き込んでしまったこと、申し訳なく思います。ですが、私もタマナから使命を授けられたものとして真に優れた勇者を必要としていました……あなたのような」
「よくわからん……俺は、こそこそ狙い撃ちすることしか取り柄がない。あんたが求めてるものとは違う気がするけどな」
嘆息して言うが、ヒミィが今度は即座に否定してくる。
「いいえ、間違いなくあなたですよ。私の魂が、あなただと教えてくれるんです。私にとってはあなただけが特別なのですよ」
彼女のはっきりとして自信に満ち溢れた声に、イクセルはふたたび嘆息した。額に掛かる髪をかき上げると、居心地悪そうに口を開く。
「なんだかな。正直むず痒いだけで、なんて言ったらいいものか……。ただ、あんたは正しいと思ったよ」
「……正しい、ですか?」
「ああ。あんたは俺に『逃げて』きたって言っただろ。そのとおりなんだよ。俺は、ずっと逃げ続けてるのさ」
それは自分を恥じるような、また揶揄するような声色だった。
暗い部屋で横になり、会って間もないよく知らぬ女に胸の内を語る。そんな自分らしからぬ行動にイクセルは驚きもするが、これも彼女の持つ魅力がなせる業なのか不思議と嫌な気はしなかった。
イクセルはふと、彼女はいったいどんな顔をしていたのだろうかと気になった。こちらから窺うことはできないが、僅かに身じろぎする気配が音と共に伝えられてくると、彼女は問いかけてくる。
「よろしければ、お話を聞かせていただけませんか?」
そう言われるだろうと——この展開を覚悟していたイクセルは、静かに語りだす。
オロフとシーラには語ることができずに秘してきた、己の過去の物語を。
「……俺がまだ小さい頃、武装した盗賊団に住んでた村が襲われたんだ。皆、あっさりと殺されていった。まるでゴミみたいに、なんでもないことのように、意味もなく死んでいった。友達も、近所に住む人たちも……父さんと母さんも」
暗闇の中で脳裏に浮かんでいくものは、ひどく朧げなものだった。時がそうさせるのか、忘れてしまいたいという願いがそうさせるのかは——イクセル本人にはわからなかった。ただ悲惨なものであったという真っ赤な光景を思い出し、細部を思いだし過ぎないようにと正しく働くかもわからない自制を掛けつつ、古い悪夢の続きを語った。
「当然、俺も死ぬんだと思ったよ。だけどそうはならなかった。助けられたんだ、たまたま通りかかった契約者に。そいつは凄腕の『纏いし者』で、あっという間に盗賊団をやっつけてったよ。俺は悲しくて……怒りで気が狂いそうだった。助けてくれたそいつに言ったんだ。『なんでもっと早く来てくれなかったんだ』ってね」
暗闇の中でイクセルの独白だけが静かに響く。
ヒミィは相づちも打たず、静かに聞き手に専念していた。
イクセルが奥底にあるものを懸命に吐き出してくれているとわかっていた彼女は、ただ黙って彼の過去と気持ちを受けとめるべきだと判断した。事実、イクセルはヒミィからの反応がなくとも続きを紡いでいった。
「ひとりだけ生き残ったことが、許せなかったのかもしれない。苦しかったし、後ろめたかったんだ。だから、そいつに八つ当たりをしたよ。もっと早く来てさえすれば、皆が助かったんだって……そうやって誰かを憎んでいれば、痛みから逃げられた気がしたんだ」
それは、懺悔のようなものだった。
呆れるくらいに愚かで幼かったかつての自分の、しかし当時の自分が確かに抱いた正直な思いである過去の告白。
「そいつはおかしな奴で、身勝手なことばっか言う生意気なガキをなんでか引き取って育てるんだよ。それから俺はそいつと、そいつが率いてた傭兵団の仲間になった。俺にとっては……第二の家族だったな」
闇の中でふっとイクセルは笑みをこぼした。
語られていくその時代は、彼にとって黄金のように輝かしく大切な日々の記憶。
真っ暗な天井を見つめていた瞳が、まるで眩しいものを見るように細められる。
「一緒に生きていって、そいつへの感情は憧れに変わっていった。助けを求める人たちのもとに駆けつけては悪を切り倒していくその姿に、どうしようもなく憧れたんだ。なにもわかってはいなかったくせに……馬鹿みたく、ただ彼の背中に憧れた」
イクセルはうっすらとした笑みを浮かべて言う。
暗がりの中では人の浮かべる表情などわかりはしない。
しかし、イクセルのほうを見さえしないヒミィには、彼がどんな顔をしているのかが——微笑みながらも目に熱いものを湛えていたことが、わかっていた。
彼女は悟られないように静かに驚き、その薄い唇からは力が抜かれていき静かな吐息が漏れた。
「俺が契約者の素質があるとわかったとき、そいつはいい顔をしなかった。知ってたんだ、その道を進めば終わらない地獄が待っているって……。だから、そいつはこう言ったんだ——『面倒ごとからは逃げて逃げて逃げ切れ』って」
イクセルの声の調子が僅かに低くなり、ヒミィはそのことに気づくと同時に静かに語る彼の鼓動の変化にも気がついていた。その乱れていく鼓動にヒミィは思う——おそらく、ここから先に語られる部分こそが、彼が己の奥底に秘して封印してしまいたかった過去なのだろうと。
やはり口を挟むことなく、ヒミィは彼と同じように漆黒の天井を見上げ続けた。
「愚かなガキだった俺は、わかってなかった。いや、本当はわかっていたはずなのに否定した。俺にとってそいつは英雄だったから……彼の明かした弱音を、認めたくなかったんだ」
語るたびに、表情を失っていく。
胸中では、鈍い痛みのような深い後悔が広がっていた。
あくまでも表情を殺したまま、涙の浮かぶ双眸を冷たいものとして暗闇を覗き続けた。
「それで数年したら……あっけなくそいつは死んだ。傭兵団のほかの皆も、全員。また俺は、ひとり無様に生き延びたよ」
イクセルは目尻から耳元へと流れていく涙を自覚すると、隠すように腕を乗せて目元を覆った。事実は消えないし実は意味のないものだとしても、それでも泣き顔を晒してはいたくなかったのだ。
それらをすべて把握しているはずのヒミィは、なにも言わずなにもせず、ただイクセルから紡がれる物語に聞き入った。すぐ隣で横になる彼の、深く息を吸う音が聞こえてくる——
「彼と約束したことは三つ。命を弄ばない。面倒ごとは避ける。そして……生き続けること」
それぞれが、彼という人間とって自らを成す大事な根幹たるものであり、特別な憧れを抱いた男から送られた言葉たちであった。
ヒミィは暗闇の中で頷くと、得心がいった様子で口を開く。
「それが、今のあなたの核となる部分なのですね。恩人の意思を尊重して生き続けることが……その方との約束を守ることが、あなたにとってはなにより大事なことで……」
彼女の呟きは静かで、闇に消えていってしまいそうなほど穏やかで優しい声音だった。イクセルはそんな彼女の言葉に目元を隠したままで首を振ると、露わにしている口元に自嘲するような笑みを浮かべた。
「でも、守らなかったんだ。契約者になったことで思い上がっていた俺は、憧れていた彼の真似事をして旅を続けた。だけど、力の及ばない足掻きを何度も繰り返すうちに……すべてが彼の言うとおりになった。彼にはわかっていたんだ。契約者として……『纏いし者』として生きれば、それは彼と同じ道を辿ることになるってことを」
それは、無様な醜態を晒す告白だった。
かつて憧れ心酔した男の言葉を否定し、自分は迷わず突き進めるとうそぶき、挙句の果てに嘘を真なものに変えられなかった男の負け犬のような人生。
彼にとっては、それは罪と同然のものだった。
しかし、ヒミィは迷える者に救いを与えるかのように、慈しむように言葉を紡ぐ。
「誰かを救えずにきたこと……その救えなかった人の数はやがて大きく積み上がってしまい、やがて罪の意識として浮かんだそれは……あなたをひどく苛んでいったのですね」
イクセルは息を吞むと、腕を寝具に見立てた布の上へ静かに下ろす。力のないやるせない表情をし、彼女に最後の罪を告白した。
「それで、逃げだした。彼との生きるという約束を理由にして、助けを求める人たちから目を背けて逃げてきた。ずっと……」
絞り出すように、己の罪の告白を終える。
物語を補完するように、押し黙る彼の代わりにヒミィが言葉を紡ぐ。
「そして、居場所を見つけた。オロフさんとシーラさんは、あなたにとって三番目の家族となったのですね。——私のこと、さぞ嫌な女と思われているのでしょうね……あなたの大切な居場所を奪ってしまおうとしているのですから」
ヒミィの声の調子に変わりはない。しかしイクセルは、彼女の様子がどこか違ったものに感じ——もしかしたら見えぬその表情には、なにか変化があったのかもしれないと思いを巡らせる。
誰かの人生に深く干渉してしまうこと。
それこそがイクセルがもっとも嫌いなことであり、恐れてもいることだった。
自分にとっては忌むべき行為だが、神から与えられた力でそれをしなくてはならない彼女の顔が気になった。
暗闇の中ではやはり見えはしないが、果たしてどのような表情を浮かべていたのか——
「あんたが言ったことは正しい。自分をごまかすのにも、もう疲れた。逃げ続けるのはいい……だけど、オロフとシーラを理由にはできない。俺が誰かを見捨てる理由を、ふたりに押し付けるわけにはいかない」
別に相手を慮る意図があったわけでもなく、自分の意思を否定しないために彼女を肯定する。
言葉どおり、これ以上の『逃げ』を繰り返さないために。
一種の意志表明のようなものだったが、隣からはくすりと笑う気配が伝わってくる。
「——はい。やはり、あなたは見込んだとおりの御方でした。最初はなんて失礼で妍介孤高な人かと思いましたが、不器用で繊細なお心をお持ちでいらっしゃっただけだったんですねぇ。いやぁ、安心しました」
と、からかうような調子でヒミィが言った。その声色が楽しげなものだったので、イクセルは急に恥ずかしくなると顔をしかめて毒づく。
「言ってろよ、くそっ」
イクセルの頭上から、彼女が身じろぎをする音とベッドの軋む音が響いてくる。どうやら真っ暗闇の中でこちらを見下ろしているらしかった。
喜色をはらんだ声で、ヒミィは悪びれることなく言ってくる。
「はい。これからも、そんな大変に繊細なイクセルさんと面白おかしく寄り添っていきたく思いますので、どうかよろしくお願いいたしますね」
「よろしくできるかっ! ……まだあんたと一緒に旅するとは言ってないだろ。勇者云々含め、まだ保留中だ」
先ほどまでの重々しい空気から一転し、どこか軽薄そうな物言いに変わる彼女へ思わず叫び声で返す。イクセルは今が夜中だということを思いだし、途中から声の大きさを気にしつつこちらの意思を伝えた。
やはり見下ろしているのだろう、幾分近くなった距離からヒミィの声が聞こえてくる。
「またまた~、本当に素直じゃないですねぇ。イクセルさんのそういったところは可愛らしくもあるのですが、そろそろ従順な態度で接していただけると私が大変楽で嬉し——」
愉快そうにまくし立てていた彼女は、途中で言葉を切ると身を起こすような物音を立てた。実際に彼女はベッド上で身を起こしたのだろう。傍に感じられていた気配が遠のいたようにイクセルは思った。
疑問には感じたが、おかしな彼女のことなので構わずに会話を再開させた。
「おいこら、なんだ。この際だからその人を舐め腐った腹黒い本音を聞いてやろうじゃないか」
しかし、ヒミィは挑発するようなイクセルを無視するとベッドを軋ませ、続けて彼が横になる床も微かに軋ませた。
イクセルは混乱した。顔のすぐ側に伝わった振動と音、そしてその気配から、どうも自身の頭上を跨ぐようにして彼女が立っていると推測したからだ。
「……おい、なんのつもりだ」
どうせ見えはしないのだが、スカート姿だった彼女を思い浮かべて反射的に目を閉じる。
ヒミィは彼の問いかけには答えず、窓に掛かるカーテンを開け放った。
夜間の活動のないこの村は、無用な明かりが灯されることもなくひっそりと静寂を保っていた。
月明りだけが照らすその光景はいたって平和そのものである。
もっとも、彼女が見ていたものは窓から覗ける眼下の光景などではなかったのだが——
「やれやれ……これでは村長さんとの約束を反故したようで、なにやら罪の意識に苛まれますね。一応言っておきますが、私は関与してませんから。妙な邪推をして陰謀女に仕立て上げないでくださいよ」
ヒミィはため息をひとつ吐き、面白くもなさそうに一気に言い切る。
拗ねたように呟かれた言葉の意味がわからず、イクセルは眉をひそめて聞き返した。
「……は? あんたの言ってることは相変わらずなにも理解できん。なんなんだ?」
「まったく……私を敬い崇めないから、そうして察しが悪いんですよ。もっとこう……ああ急いでいるので、とりあえず私が『視えている』ものを共有してあげます」
あんまりな言い分なうえ、やはり彼女の言葉の意味がわからずにイクセルは益々混乱した。静かに狼狽えていると、すぐ目の前に光が灯る——否、光が灯るのはイクセル自身の瞳だった。
「……え?」
その感覚はイーヴァルとの同調状態に近いものだった。
微かに異物が混じるような違和感が感じられるが、今までも行われてきたものと同じように視界が実際に目が移す光景とは別のものへと切り替えられる。
その視界に広がっていたのは、星と月明りの僅かな光に照らされる森——その光景を空の上から見下ろすものだった。
「ちょ、ちょっと待て。なんだこれ……!? イーヴァルをこんな所まで飛ばした覚えはないぞ……!」
自身に起こる異常な事態に、イクセルは堪らず声を上げた。視界内の浮遊する感覚と仰向けの体勢にギャップを感じてしまい、飛び上がるように上半身を起こす。
身を起こした際にヒミィのスカートを頭部で引っ掛けてしまうが、とりあえず無視してくれたのか頭上からは静かな嘆息と声が聞こえてくる。
「それはそうでしょうとも。イーヴァルさんなら、召喚器の中にいらっしゃいますし……。まぁ、仲介として私たちの間に入っていただいてはいるのですが」
「……だから、わからないって。コレはあんたが視てるもの……で、いいのか?」
イクセルは戸惑いつつも言うと、いよいよもって彼女が巫女という特殊な存在であることを認めるほかないと思い始めていた。契約が結ばれた当人同士以外の者が、特殊な繋がりである精神回線に自由に割り込んでくる——そのような行為、どんな契約者でも不可能だ。
そんな彼の思いを知ってか知らずか、ヒミィは彼女なりに状況を伝えようとつらつらと語る。
「はい。正確には、未契約の精霊たちの自由な目をお借りして捉えてる光景ではありますが。私の知覚領域を直接つなぐよりも、こちらからのアングルのほうが状況をより客観的に理解していただけるかと思いまして」
「よく、わからん。なにかが……あんたにとって好ましくないなにかが起こっているってのか?」
彼女の言葉を聞きながらその静かな森の姿を眺めるが、ある程度の範囲を一望できるほどの遠距離さと夜の暗さのせいで、イクセルは特別異常を感じることもなかった。
とはいえ緊張を解くこともなく、注意深く遠く離れた光景を注視する。
出会ってから一番真剣で、余裕のない声でヒミィが呟く。
「はい。この地に住む皆さんにとっても————来ますよ」
促され、少しの違和感も見逃さないようにと神経を尖らせていくが——なんのことはなく、その違和感は大きな変化として現われた。
「こいつは……」
ごくりと息を呑んで、呟いた。
その変化は、たとえなにに気をとられていたとしても見逃すほうが至難なほどに、激しく大げさなものだった。
なにせ——『森が割れていく』のだから。
眼下に広がる広大な森に亀裂をいれるように、夜の空の下でも異彩を放つ黒いなにかが、獰猛に駆けていき勢いよく巨大な木々たちを押し倒していった。
イクセルは知っている。
国境周辺に伸びる木々は特殊なもので、齢を重ねた巨木であれば機動鎧装ですら排除するのに手間が掛かるほどの強度を誇ることを。
それらをいとも簡単に切断し、小枝を払うような気軽さで押しのけていく異様な存在に、イクセルは己の目を疑った。
イクセルが啞然としていると、ヒミィがそうさせたのか視界が正体不明の存在へと寄っていく。
それは、すべてが漆黒の異形の怪物だった。
大型の肉食恐竜を思わせるフォルムだが、機動鎧装数体分に匹敵する巨大な体躯、牙や爪が本来の用途を逸脱したかのように肥大化し、もっとも目を引く背中には鎌を思わせる巨大な刃が幾つも並んでいた。
「背中に……刃? っもしかして、こいつセイバーサウルスなのか!? クライヴが言ってたやつが逃げ出してきたのか……!」
戦慄しつつ憶測を声に出すが、視界外のヒミィが間をおかずに肯定してくる。
「詳しい事情は存じ上げませんが、どうやらそのようですね。進行方向からいって、奇跡でも起きない限りは間もなくこちらへと到達してしまうでしょう」
「通常の個体ならやってやれないこともないが……こいつはなんだ? 俺の知ってるセイバーサウルスってのはもう少し可愛げがあったはずだ。変異進化したのか……?」
「変異進化——なるほど、『今は』そう呼ばれているのですか。ふむ……なにやら格好よさげな上に間違ってもなさそうな響きですね」
低く呻くイクセルとは対照的に、ヒミィはどこか呑気さを感じさせる発言をする。彼女に背を向けるイクセルは緑に光る目元を半眼にし、焦燥感に追われて唸るように言葉を吐いた。
「この状況でアホか。正体に心当たりがあるならさっさと言え……!」
言い終わるや否や視界が元の光景へと戻り、暗がりの中で扉のあるほうを見つめていた。
イクセルは背後へと振り返り、窓の前に立つヒミィを見上げる。
月明りの冴え冴えとした光を背負う彼女は、その端整な美貌から感情を消し去り粛々と呟く。
「あれこそが我々が倒すべき仇敵。黒煙の魔女の歪んだ祝福に侵されし哀れな生き物の成れの果て——黒の呪縛眷属です」
「黒の、呪縛眷属? ……どこかで聞いた覚えが」
イクセルは眉をひそめる。どこかで聞いたような気がするが、それをはっきりと思いだすことができない。思案する顔の彼にヒミィは頷いた。
「おそらく『正しい神話』を伝えるものと出会ったことでもあったのでしょう。現在においては、巫女を除くものでその存在を知る人はそう多くはありません。実際に目の当たりにした方でも、神話に登場する魔女と結び付けることなど極めて稀でしょうから」
イクセルが渋面で髪をかき上げると、いつの間に手にしていたのだろうか、ヒミィは彼愛用のバンダナを差し出してくる。いつもの半眼でイクセルがバンダナを受け取ると、彼女はそっと微笑んだ。
「『纏いし者』であれば対処は可能です。そうでなければ困ります。あれら世の理から外れた存在を消し去るためにあなたを選んだのですから」
「……面倒ごとは御免、なんだがな。村の連中を巻き込まないように戦うのは至難だぞ。もとより俺は正々堂々と正面からやり合うのは苦手だからな」
言うと立ち上がり、素早くバンダナを身に着けていく。
彼のその様子を見つめながら、女神のように悠然と微笑む彼女は胸を張ってぴしゃりと非情に言い放つ。
「泣き言は聞きたくありませんし、甘えは許しません。私が見込んだ勇者なのですから、あなたは退かず恐れずに戦い勝利を手にします」
イクセルは苦笑を禁じ得なかった。
彼女の妄言が現実としてすぐ傍まで駆け寄ってくるわけだが、それを現実にしてしまう最後の一押しは他ならぬ自分自身によって為されるのだ。
つい先刻までは、頑なに否定していた自分自身の手で。
その滑稽さと緊迫した状況に、いつもの自分なら『逃げている』ところだ。
昨日までとはなにもかもが違ってしまった現状に——胸中で複雑に渦巻くものに対して浮かべられたイクセルの表情は、やはり皮肉気な笑みだ。
「……面倒くさい。おい、住人の避難くらいはあんたに任せてもいいんだろ」
「引き受けました」
彼女は短く答えると目を瞑った。
その身が緩やかな風と翠の燐光が包まれていく。
一瞬後には、思わず耳を塞ぐ甲高い音がイクセルを襲った。
「……っ」
頭を割りかねない勢いで鳴り続ける異音に、両の手で耳を塞ぎつつヒミィを睨むようにして見つめた。が、こちらが文句を言ったり彼女が口を開く前に——
「わぁ! え、なになにっ……!?」
階段を挟んで向こうの部屋から、シーラが上げる悲鳴が聞こえてきた。
階下からは、オロフとクライヴの野太く喚く声も聞こえる。
イクセルは呆然とヒミィを見ると、彼女はニコリと笑いかけてくる。
気づけば村中で同じような奇声や怒声が上げられていた。
「おい、なんなんだこの音は!」
「私にわかるわけないでしょ! あんた、外の様子を見てきてよ!」
「……えーん、おかあさーん! わたし耳がおかしくなっちゃったー!」
これは、つまるところヒミィ流の『警戒警報』ということだ。
イクセルはそう理解すると、弓を手に取り素足で跳んだ——窓の外へと。
「……イーヴァル!」
空中で叫ぶと、身体を風が包み着地の衝撃を和らげた。受け身をすることもなく降り立ち、イクセルは警戒の視線を周囲に走らせていく。
ヒミィの警報が止み、代わりに村中で沸き起こる喧騒が響いていった。
動きの早い家々は、ぽつぽつと明かりが灯されていく。
周囲の混乱をよそに、今度はヒミィの声が村のすべての人々に届けられる。
『——お休みのところ大変失礼いたします。緊急事態ゆえ、皆さん直ちに起きて避難してください。命にかかわる大問題ですので、どうか迅速に行動してくださるよう願います。繰り返しますが、そのまま寝ていらっしゃると非常に危険です。具体的には問答無用で死にます』
巫女として適切なのか定かではないその声を聞きつつ、イクセルは精神内でイーヴァルに呼びかけを行い、即座に彼を召喚した。
辺りからはチラホラと外に出る者も現われ、イクセルの弓を構えて精霊を使役する姿に何事かと驚く村人たち。中には村長の姿もあったが、なにかを言う前にヒミィの『続報』が届けられる。
『魔女の力を授かったセイバーサウルスが一匹、この村を目指して進行中です。そのままでいらしたら間違いなく皆さんお亡くなりになること必至ですので、お早く避難しましょう。……そうですね、死にたくない方々はオロフさんの家の裏手にでも集まってください。押し合いになってはかえって危険ですので、どうか冷静に動かれますように』
ヒミィの問答無用の『放送』を聞き、周囲がふたたび喧騒に包まれた。
巫女の言葉はそれなりに効果があったのか、村人たちは血相を変えて家から飛び出していく。
こちらを窺いながらすれ違う人々を横目に、イクセルはやはり苦い顔を禁じ得なかった。
(っなんつー性格の悪い女だ。邪推だとか陰謀云々と言ってたのはこのためか……)
彼女の企みに気づくと、呆れながら胸中でひとりごちる。
「イクセル!」
「ぅおい、兄弟! どうした、なにごとだっ⁉」
背後からオロフとシーラ、それにクライヴが声をかけてくる。そのまた背後ではヒミィが集まってきた村人たちの相手をしていたが、こちらと目が合うと笑みを浮かべて頷いた。
イクセルはため息をついて犬を追い払うような仕草でヒミィに手を振り、目の前まで慌てて駆けつけて来たオロフたちに集中する。
「いったい、なにが起きてるんだ? やっぱり巫女さんを捜して軍隊が来たのか……!?」
真っ先にオロフが余裕なく口を開き、そちらを手で制しつつ短く答えた。
「詳しく説明してる暇はないんだ。とりあえずヒミィと一緒にいてくれ」
はじめてヒミィの名を呼ぶと、視界の端で目ざとく彼女がこちらに手を振ってアピールする姿を捉える。とりあえずそちらを無視して心配顔のシーラに向き直り、彼女の頭に手を乗せる。
「少し、怖い思いをさせちゃうかもな。とりあえず、まぁ……がんばるよ」
「うん……無理はしないでね」
「そんなに根性ある男じゃないさ、俺は」
遠くから響いてくる木々が薙ぎ倒されていく音に怯えていたが、シーラはイクセルを見上げてこくりと頷いた。
地面に伝わる振動からその震源がこちらに近づく距離を測るとシーラたちを背にし、遥か遠くを睨みつける。
「さっき巫女さんがセイバーサウルスって言ってたが……まさか」
「あんたの尻拭いしてくるよ……『兄弟』」
顔を青くするクライヴを冗談めかした言葉でかわし、イクセルはそのまま村の広場へと駆け出す。
(約二年ぶり、か。いけるよな——相棒)
周囲に人影が無いことを確認し、深く息を吸う。
手元の弓——月の冷たい光を受けて輝く翠の精霊石を見つめ、今度は深く息を吐いた。
脳内で、身体を脈打つものを風の流れに変換するようにイメージしていく。
イメージは身体を突き抜け、実際の風となりイクセルの全身を包んでいった。
周囲を旋回するイーヴァルが翠の粒子をまき散らしながら、自らも翠の輝きへと転じる。
やがて、それは小規模な竜巻と化してイクセルを飲み込んだ。
「イクセル……!」
風から娘を守るようして立つオロフ。シーラはその背後から、目前の事象を呆然としつつ驚嘆の声を上げた。
オロフもシーラも、そしてクライヴも。
いや、彼らの背後——ヒミィを中心として固まる人々も。
誰もが一様に驚愕の表情を浮かべ、激しい風にもかかわらず目の前の光景から目を離せずにいた。
光る風が巨大な鳥の形に見えるが、刹那の後にはやはり巨大な人の像へと姿を変える。
翼を有する光の巨人。
その神秘的な後姿を食い入るように見つめながら、クライヴは顔を破顔させた。
「へへ……やっぱすげぇじゃねーかよ、兄弟」
光が収束してはじけ、一際に眩しく瞬いて消える。
後に残るのは、鎧を身に着けた人のような姿を模した巨人。
風の精霊イーヴァルと契約したイクセルが『纏いし』翼持つ巨人——『精霊鎧装』の姿だった。
見る者を圧倒する重厚さと迫力だったが、全体的にエメラルドの輝きに覆われた流麗な形状の鎧は、その巨体さであっても軽やかな印象を与える。
腰元には、イクセルが所持していたものに酷似しつつもより大仰な飾りが付加された弓が保持されており、背面からその姿を見上げていたオロフたちにはまるで鳥の尾を連想させた。
翼をはじめ各所には純白の飾りや模様が施され、天の使いであるかのようなその優雅な姿は、とても戦闘の為のものであるとは思えぬほどに美しいものだった。
村の家々に灯る明かり、そして何人かの村人が照らす携帯照明に照らされながらイクセルの精霊鎧装はゆっくりと振り返った。巨人と真っ正面から向き合った人々はどよめき、あらためて息を呑む。
精霊鎧装を初めて目にした者で特に視線が惹きつけられるのは、顔に当たる部分——その独特の面構えだろう。
精霊鎧装は甲冑の兜のような頭部を持ち、その兜の下の顔に当たる部分は仮面舞踏会を思わせる仮面の形状をしているのだ。
白く無機質な仮面には型抜きされたような黒い目元、そこから傷跡もしくは涙のように伸びるスリット。その他にも流線形や球状だったりと、複数の黒い模様のようなスリットが刻まれていた。
白いキャンバスに描かれたアートのような仮面に誰しもが釘付けになっていると、沈黙していた黒い目元に翠の光が灯る。それは幽鬼が灯るようにも、輝く瞳のようにも思わせる。
血液が循環していくかのように、生命力——この場合は精霊力が駆け巡っていき、エメラルドの装甲が鮮やかに輝いていく。
精霊鎧装から放たれる風に髪を揺られながら、シーラは目前の輝きに魅了されて呟いた。
「綺麗……」
「……ああ。それに、凄いな……想像してたよりも、何倍も」
娘の呟きに頷き、オロフも感嘆とした声を漏らした。周囲の村人たちもそれぞれ思い思い言葉を呟き、傍の者たちへと投げかけていく。
クライヴは辺りのざわめきに負けないように腕を上げて主張しながら、ありったけの息が続く限りの大声で叫んだ。
「くぅ~、イカすぜ兄弟! 最高にカッケェェェェェェェェェェェェ……‼」
暗がりの中、イクセルはふっと笑った。
それはクライヴの様子が面白かっただけではなく、長いブランクを経て無事に『纏えた』ことに安心する自分の滑稽さに対してもだった。
イクセルが暗がりの中にいるのは、その身が夜の空に浮かんでいるからだ。
実際には機動鎧装のものと似通った操縦席に座しているのだが、機動鎧装のそれとは違い操縦席を除くおおよそ全てが外の景色を映し、このため夜空の暗闇に浮かぶような世界が広がっているのだった。
操縦席の両の手が添えられるのは操縦桿ではなく、特大の翡翠を思わせる透き通った大きな珠の上へと置かれている。イクセルのその両手の甲には精霊鎧装の仮面と似た紋様が浮かぶ——ただし、こちらは黒ではなく淡く輝く翠のものだ。
イクセルが視線を下に向けて念じると、はしゃぐクライヴたちの顔が拡大して映し出される。
順に彼らの顔を確認していき、最後にヒミィを見た。彼女は、どこか満足げな表情を浮かべてこちらを見上げていたが、イクセルは皮肉気な笑みを浮かべて呟く。
「面倒くさいが……まぁ久々に飛ぼうか、相棒」
イクセルの呟きに答えるように、鳥の鳴き声のような高く涼やかな音が響いていった——
「わっぷ⁉」
「むぉ……⁉」
オロフとシーラは間の抜けた声を上げ、身体に伝わる衝撃に腰を抜かしそうになる。周囲の者たちも同様で、吹き上げた強い風に悲鳴を上げて仰け反っていく。
クライヴが屈強な身体を活かして耐えてみせ、腕で顔を庇いつつも前方から視線を逸らさなかった。
風を発生させた元凶はその翼を羽ばたかせ、巨大な質量をものともせず軽やかに空へと飛び上がっていった。あっという間に遥か高くへ上昇し、夜空に翠の軌跡を残して飛び去っていく。
「はは、すっげぇ……」
周りの者たちが呆けた顔で尻もちをつくなか、ひとりクライヴだけが感激した様子で呟いた。
オロフとシーラは高揚した中に一抹の不安を感じさせる顔をし、言葉を発することなくイクセルが飛んだほうを見据える。
強風に晒されても悠然と立ち続けたヒミィは、この場のそれぞれの表情や言動を確認する素振りもなく把握しつつ、心中で祈った。
(頼みましたよ、イクセルさん。……偉大なる神タマナよ。どうか、あなたの剣たる勇者に加護をお授けください——)
黒いセイバーサウルスは、『ある一点』を目指しひたすらに駆けていた。道中にいかなる生き物と遭遇しそれが鳴き声を上げて逃げ惑おうとも、世の理から外れた怪物は一切関心をもたずに進んでいく。
前方に向けて背中から伸びた黒刃で、道を阻むようにそびえ立つ巨木を切り倒していく。それらを踏み倒し、いかにその身を木に強く打ち付けようとも、セイバーサウルスが動きを止めることはなかった。轟音を立てて進み、時折速度を落とすと鼻先をひくつかせて匂いを嗅いでいく。殺意の対象の位置を確認し、進行方向に違いがないことを知るとふたたび全力で駆けていった。
たったひとりを殺す——セイバーサウルスはただその欲求に支配されて走る。身を包む黒煙が、匂いの元の人物を殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くさないと治まりがつかない憎悪を滾らせていくのだ。元より単純な脳は抗うことのできぬ毒に侵され、疑問を抱くこともなく殺意を増幅させていく。
だが、セイバーサウルスは低い唸り声を上げると動きを止めた。
巨木を緩衝材として利用し、足元から土煙を上げながら急停止する。
鼻先で猛烈に息を吸いこみ、匂いを確認していく。
セイバーサウルスは本能で『違和感』を感じていた。なにか嫌なものが、自分のもとへと近づきつつあると——本能でそう感じていた。
しかし、その『違和感』の正体の正確な位置までは把握できずにいる。
威嚇目的で、轟くような低い唸り声を上げた。
鋭い瞳が闇に包まれた巨大な木々の奥のほうを睨めつけていく。
だが、それらは無意味な行為だ————彼の敵は『地上にはいなかった』のだから。
直後。雲を切り裂く翠の閃光が空から降り、セイバーサウルスの背へと直撃した。
「グルルルラァァァァァァァッ!」
爆発するような閃光に包まれ、絶叫を上げるセイバーサウルス。
背中に与えられた衝撃は刃を数本へし折り、大きな穴を穿った。翠の閃光がもたらしたものはそれで終わらず、幾つもの風の刃が生まれると、セイバーサウルスの身体を切り刻んでいく。
「ッグラアァァァァァァ⁉」
漆黒の巨体を、翠の風の刃が撫でていき、強靭な体表を抉っていった。
続けて空を切る音が鳴り、セイバーサウルスは地面を素早く蹴ると後ろへと跳ぶ。一瞬後には先ほどと同様の翠の閃光が接近し、一本が直前までセイバーサウルスがいた場所に炸裂し、もう一本は前足を掠めていった。
後退して『矢』の直撃こそ避けたものの、ふたたび発生する風の刃に晒され傷を負い、怒りに満ちた絶叫を上げるのだった。
セイバーサウルスは刃を畳むように狭めると、前方の森へと跳躍した。巨体を無理やり木々の間へと押し込んでいき、上空にいる敵から身を隠す。
眼下でセイバーサウルスの動きを追っていたイクセルは、獲物の驚異的な身体能力に冷や汗をたらして呻いた。
「……なんて化け物だ。風の重刃を二発くらってピンピンしてるとはな」
イクセルが纏うイーヴァルは、空中で弓を構えたまま制止していた。背後の翼は動くことはないが、宙に浮いたままの姿勢を維持できるほどの風を噴出させていた。
僅かに身を傾けて位置を調整すると視界を拡大し、森の中へと姿を隠すセイバーサウルスの姿を捉えていく。
漆黒の怪物は闇に紛れるように佇み、ぎらつく双眸でこちらを凝視していた。禍々しい形相は強力な威嚇効果があるが、さすがの怪物も遥か上空を飛ぶ相手にはなす術が無いようだ。
「あの反射神経とデカい図体に似合わぬ俊敏性……想像以上だ。一本捨てるつもりで放ったってのに、二本目を避けやがるのかよ」
憂鬱なため息を吐いてしまう。射程距離のアドバンンテージから余裕をもって相手の行動を観察できるが、実のところこちらが優位に立ち回れることなど『その程度でしかない』のであった。
(初撃は、居場所を悟られていない不意打ちだったからこそ命中した。しっかりと睨まれてる今の状況じゃ、かなり接近しないと掠りもしないだろうな……)
セイバーサウルスも本能的にイクセルの戦法を見切ったのだろう。
挑発するように威嚇し、そして異常に発達した四肢を駆使して巨木の頭頂部へと登ってくる。矢が放たれたとしても回避する絶対の自信が、セイバーサウルスの一見無謀とも思える行動へと表れていた。
(やれやれ、どうしたもんかな。しばらく纏って戦闘をしていなかったから、矢にはまだ余裕がある……同時に複数矢を放って動きを止めてみ——)
「——っておい、マジかよっ!?」
頭の中で攻撃プランを練っていたが、眼下で起こった異常な事態にイクセルは思わず叫んだ。
黒煙が損傷部位を集中的に覆っていくと、一瞬後には元の状態へと戻っていってしまう。折れた刃までは完全に復元しないが、それ以外の傷は完治しているように思えた。
「癒しの精霊魔法……が使えるようには見えないな。くそっ、あれが理から外れた魔女の祝福ってやつか……!」
脳裏でヒミィの言葉が思い出され、吐き捨てるように言う。
戦慄を覚えつつも、ただ眺めているわけにはいかなかった。イクセルの意識と同調するイーヴァルは彼の制御を受け入れ、高度を落としつつ次なる攻撃の準備に移る。
腕が後ろへと回されると、翼の一部分が開閉し中から矢が出てくる。矢とは言っても人間が扱うそれとは大きく違い、鏃が大きく張り出た鋭角な形状を成し、矢を構成するすべてが非常に硬質な素材で精製されたものだった。
精霊鎧装の用いるその特殊な矢を翼から受け取り、即座に構えてセイバーサウルスに狙いを定める。弓の弦に当たる部分は翠の光線ようになっており、つがえた瞬間に光が充填されていくかのように輝きだす。
(矢に余裕はある。——けど、精霊魔法を込めていく以上は無駄撃ちはできない。俺たちの消耗が先に限界を迎えるだろうからな……)
イクセルはただ矢を放つだけではなく、今までの攻撃すべてに風の精霊魔法を込めていた。
矢自体を風で包み威力を増すものだが、それに加えて矢が命中すると周囲を切り刻む風の刃が発生する魔法でイクセルの必殺技とも言えるべきものだった。大きく力を消耗するそれは、並の機動鎧装であれば一撃で撃沈させる切り札のひとつであり、同じく並のセイバーサウルスであればとっくに勝負は決まっていたことだろう。
しかし、相手は通常の個体とは大きく一線を画す存在だったのだ。
常軌を逸した身体能力と強度、そして刃や爪などの圧倒的な物理攻撃力。
加えて、黒の呪縛眷属として備えられた尋常ならざる再生能力。
どれもが極めて脅威なものであり、それらの危険性はイクセルに接近を躊躇わせるが、だが距離を詰めなければ決定打を与えられないと判断させるほどの難敵だった。
もっとも、この漆黒の怪物は秘められた力のすべてを解放したわけではなかったが——
(……なんだ? なんか、黒煙の揺らぎに違和感が……)
必殺の矢に力を込めながら、イクセルは狙いを定めたままで降下していく。
距離がある程度まで狭まったら急降下し、不規則な動きで翻弄しつつ矢を放つ腹づもりでいた。だが、狙撃手として培われた違和感を感じとる観察眼、そして数々の修羅場をくぐってきた戦士の勘と経験が、眼下で唸る敵の姿を見て不吉な警鐘を鳴らさせる。
相変わらず巨木にしがみついたままのセイバーサウルスだったが、空中のイーヴァルに向けてその大きな口を開いた。全身を覆っていた黒煙が薄くなり、開いた口元の一点で濃くなっていく。 その黒煙を湛えた口元の周りに黒いヒビのようなものが走り、景色が歪んでいった。
イクセルは相手の様子から完全に危険な兆候だと見てとり、身構える。
(この嫌な気配————来る……!)
夜空をさらに黒く塗りつぶすかのような漆黒の線が、放射状に伸びていく。空間を歪めながら上空へと放射されるそれは、驚異的な高速でイーヴァルの目前まで迫ってきたのだった。
「くっ、こっの……!」
なんらかの攻撃が来るだろうと予期していたため危なげなく回避した————はずだったのだが、黒線とでも呼ぶそのものを回避に成功しても、空間を歪ませるヒビに引っ掛かり衝撃が身体を貫いていく。
「くぅ……」
内部にまでダメージが及んだわけではないが、イクセルは呻き声を上げると苦痛に表情を歪ませた。
機動鎧装の性能を遥かに凌ぎ、単騎で優に数体を降すと評される精霊鎧装。
戦場を駆ければ戦況を大きく変えるといわれる一騎当千の存在であるが、その操縦方法こそが最大の弱点でもあるのだ。
精霊と意識を同調させて制御する精霊鎧装は、より深く繋がるほどに正確無比な操縦を行える。しかし、深く繋がるほどに一体化する精神は、精霊鎧装が受ける外的要因————つまり痛覚などの本来不必要なものまで共有してしまう。このことや精霊魔法などによる精霊力の消耗を併せ、精霊鎧装は爆発力こそ凄いとされるものの長期の戦闘には不向きとされていた。
イクセルは痛みに耐えながらも腕が動くことを確認し、踊るように追ってくる黒線を回避しながらセイバーサウルスへ向けて矢を放った。
いまだ黒線を吐き続ける怪物に避けるすべもなく、イーヴァルが放った矢に貫かれて風の刃に身を切り裂かれる。
「グゥオオオオオオォォォォォォッ‼」
黒線が止み、代わりに痛みに苦しむ咆哮が上げられた。
身体を支える前腕に深い傷を負うと、セイバーサウルスは木にしがみついていられなくなったのか手を離しそのまま落下していく。
イーヴァルによって放たれた渾身の精霊魔法は周りの巨木もろとも巻き込んでいたらしく、派手な音を立てて地面に激突したセイバーサウルスの上へと落ちていったのだった。
イクセルはこちらは墜落しないようにと姿勢を制御し、空中でイーヴァルを制止させる。
引かぬ痛みに顔をしかめるが、油断なく木々に圧し潰されたセイバーサウルスを睨めつけた。
「……やった、よな」
疲労を隠せない声で、イクセルは祈るように呟いた。
立ち上がるな。
そのまま、くたばれ。
心の中でそう強く願った。
しかし、かつて世界に災厄をもたらした魔女の呪いは、そう容易いものではなかった——
「——マジかよ。なんて化け物だよ、くそっ……」
眠たげな垂れ目を閉じそうなほどに細め、身に圧しかかる木々を揺らして動く黒い怪物を見つめた。悪態をつきつつ、緩んだ精神に活を入れる——気合いを入れ直したところで、どうにかなる相手なのかと後ろ向きな考えが脳裏をよぎっていく。
だが相手はこちらの泣き言など聞き入れてくれるような生き物ではないし、実際に咆哮を上げて巨木を押しのけて睨みつける恐ろしい形相は、間違いようもなく慈悲の類とは無縁なものだった。先ほど同じように黒煙が蠢き、傷付いた身体を癒してしまう。
「くっ……」
セイバーサウルスが一歩こちらに踏み出したのと同時に、翼を羽ばたかせ強い風に運ばれて後方へと距離をとる。
瞬時に翼から矢を取り出して構えるが、しかしセイバーサウルスがこちらへと追撃する素振りはなかった。
「……なんだ?」
距離を詰めてこないセイバーサウルスに、ふたたび黒線が吐かれる危険性を考慮して身構えるイクセル。やはり全身を包む黒煙が薄くなる——が、鼻先を不気味に鳴らす怪物はその首を後ろへと向けたのだった。
一際大きな咆哮を上げ四肢の筋肉が膨れ上がると、止める間もなく『村のほう』へと跳躍した。
「なっ……⁉ っ行かせるかよ!」
反射的に、宙へと舞ったセイバーサウルス目掛けて矢を放つ。特に精霊魔法を込めずに放ってしまったそれは、夜空の暗さと同化するように跳ぶセイバーサウルスの腹部へと突き刺さる。
矢が命中したというのに相手はこちらを気にした素振りもなく、ふたたび森の中へと消えていった。そのまま、セイバーサウルスが駆けていく音だけが鳴り響いていく。
「……!」
イクセルは舌打ちし、空中を飛んでいく。
飛行しているこちらのほうが、機動力では分がある。すぐにでも、セイバーサウルスを追い抜けるだろう。
問題は、追い抜いただけではどうにもならないということだ。
戦闘が長引けば不利になっていくのはこちらだし、なによりこれは守り抜く戦いなのである。最悪、建物や施設に被害が出てしまうことは許容範囲だが、オロフとシーラはもちろん、クライヴや村人たちが殺されてもイクセルにとっては敗北だ。
逃げずに立ち向かうと決めた戦いだが、最終的に敵を排除すれば良いという独りよがりの勝利では意味がない。それではなにも変われてなどいないのだから——
脳裏に夢で見たヒミィとの邂逅が思い出される。
「こんな様で……本当に俺は、あんたの言うような奴になれるのか……!」
眼下に鋭い視線を走らせながら、絞り出すように叫んだ。
同時刻 村の外れ
ヒミィと村人たちは、風車のある丘を目指して途中にある牧草地へ差し掛かった頃だった。
娘を一番に心配しつつ周囲にも気を配っていたオロフは、ひとり歩くのをやめて立ち止まってしまったヒミィに声をかける。
「おい、どうした巫女さん」
彼女はオロフに言葉を返す——というより、覗き込んでくるオロフを気にした様子もなく独り言のように呟いた。
「……あまり旗色が良いわけではなさそうですね」
オロフは眉をひそめるが、なにかを言うより早く隣を歩いていたシーラが声を出した。
「なに? イクセル、ピンチなの……⁉」
彼女は不安そうな顔でヒミィに尋ねたのだが、当の本人はきょとんとした顔をする。
「ありゃ……もしかして私、また口から出しちゃってました? 嫌ですねぇ、悪い癖なんですよ。直さないといけませんねぇ」
「ちょっと……! ごまかさないでください。なにか、見えたんですか……⁉」
「おい、シーラ。落ち着けってっ」
掴みかかる勢いのシーラをオロフが諫める。その様子を関心なく眺めて、ヒミィは飄々と言う。
「イクセルさんは、ただ今苦戦中です。ですが心配はいりませんよ。彼は、私が選んだ勇者ですから。こんな序盤の試練で躓くはずはありません」
彼女が巫女であるということ以外に特にその言葉に説得力を持たせるものはなかったが、オロフたちがポカンとした表情をするほどには自信満々な態度だった。
なんと返したものかと思案していたオロフは、周囲の光景を見てふとある疑問が浮かんだ。
「あれ? クライヴのやつがいないぞ? 巫女さん、あいつは……」
「あの人だったら、最初から来ていませんよ。足の調子が悪いとのことで、なにやらバイクで追いかけると仰っていましたが」
「いやいや、バイクならとっくに俺たち追いついてるはずだろ。もしかしてトラブルなんじゃないか……?」
心配顔で尋ねるオロフに、ヒミィは緊迫感のない声で唸る。
「ふーむ。では、様子を見てみましょうか」
「おう……おう?」
オロフはヒミィの言葉にとりあえず頷いたが、いまだに彼女の人知を超えた知覚力に戸惑いを覚えていた。
ヒミィは意識を集中させると、巫女のみに許された特別な力で後方にある村の視覚的情報を確認していく。
オロフの家を中心にして周辺情報をその場にいるように把握していくと、すぐにクライヴの姿を発見する。ヒミィの視る彼は、確かにバイクに跨っていた。
エンジンはかなり以前から掛けられていたようで、特に走行するのに問題があるようには見受けられない。だというのに、ハンドルに置かれた手はアクセルを開く様子もなく、そもそも彼は何故かオロフたちと合流するはずの風車があるほうを向いておらず、逆方向の方角——イクセルが交戦しているほうを向き真剣な眼差しで戦いの行く末を見守っていたのだ。
上空では、翠の輝きから同色の光線が放たれ夜の闇を裂いていく光景が見てとれた。
クライヴの目的がなんにせよ、こちらに合流する気が無いのは明白だった。
クライヴのいる村の状況を観測しつつ、ヒミィはため息をついた。
オロフとシーラ親子は緊張の面持ちでヒミィの言葉を待つ。そんな彼らに向けて、ヒミィは困ったように笑った。
「おやおや……。私としたことが、まんまと騙されてしまったようです」
いまひとつ緊迫感のないヒミィの表情と言動に、オロフとシーラは緊急事態であると受けとめられずに親子そろって眉を八の字に寄せた。
同時刻 村の周辺の上空
イクセルはあれからも矢を射続けていた。
しかし、その命中率は極端に落ち込んでいた。より正確に言うのなら、村のほうへと向かった際に放ったものを最後にまるで命中させられていなかった。
その要因の最たるものとしては、セイバーサウルスが森の中へと身を隠しなおかつ俊敏に移動し続けていたことであった。
追跡を開始してすぐに、イクセルはある違和感に気がついた。
それは最初に接触したときとは違い、セイバーサウルスが潜む周辺の木々が派手に切り倒されていないという一目瞭然の変化だったのだ。
あの巨体では窮屈な森の中を十分に動くことは難しく、ましてこちらの目から逃れるような機敏な挙動など不可能なはずだったが、追跡を振り切ろうとするその姿を発見してイクセルは納得するのだった。
セイバーサウルスは、その姿を明らかに縮小させていたのだ。おそらく本来のものと思われる大きさまでサイズダウンしており、黒煙を纏ったままより俊敏性に特化した状態へと変化して追跡を逃れていたようだった。
こうなると、並外れた強度を持つ巨木たちはセイバーサウルスを守る防壁のようなもと同様となり、よりシビアな狙いを要求されたイクセルの精神は激しく消耗していった。
二年近くに及ぶブランクもより疲労に拍車を掛け、精度は本来の六割ほどまで低下してしまう。
そうこうしていた間に、目前には村の明かりが拡大せずとも認識できる距離まで来てしまっていた。
「くそ、皆はちゃんと避難できたのか? 巻き込むわけにはいかな……」
セイバーサウルスを追い抜いて村の上空で制止し、眼下の光景を確認していった——そして見つけてしまった。バイクに跨りこちらを見上げるクライヴの姿を。
「ば、馬鹿かあんたっ⁉ なんで逃げてないんだよ……!」
イクセルはこちらの声を外に伝える。下から見上げるクライヴは青白い顔に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「兄弟の雄姿を見届けずに、なにが相棒かっ⁉」
「問答無用のアホかっ! そんなことのために命張ってんじゃねーよ!」
「大丈夫だ! 最悪森の中に入ってしまえば、バイクのほうが機動力が上だ!」
堂々と無茶なことを叫んでいるが、イクセルは彼の勘違いの中身に思い至り絶句し、余裕なく叫んだ。
「……っ、そりゃ通常のセイバーサウルスが相手の場合だろ⁉ 今相手にしてるのは……変異進化したぶっ飛んだ化け物だから、バイクで躱し続けるのは無理だって!」
「な、なにぃっ⁉ え、俺死ぬの⁉」
とんでもない無茶——絶対に勝ち目のない命懸けのギャンブルに挑むところだったと気づき、クライヴは青かった顔をさらに顔面蒼白にして慌てふためく。イクセルは彼の迂闊さに心底腹を立てながら矢をつがえ、即座に村の入り口付近に向けて放つ。
ちょうど猛烈な勢いで突っ込んでくるセイバーサウルスの足元に突き刺さると、片手で数えられる程度の風の刃が相手を押し返すように舞っていく。セイバーサウルスは僅かに体表を掠めつつも背後へと跳び、やはり致命傷たりえなかった。
「そうはさせない! させないからさっさと逃げろよ……!」
切迫した声でクライヴに叫ぶと、イクセルはついにイーヴァルを地上へと着地させた。敢えてセイバーサウルスの近接射程に入ることで、クライヴに向いた注意をこちらにあらためさせるためだ。
「う、くっ…………げ」
イーヴァルがもたらす風圧を堪えるように、クライヴは押さえつけてるんだがしがみついているんだか分からない体でバイクに抱き着く。風が収まったタイミングで顔を上げるとイーヴァルの脚の間から覗く視界の向こう、黒煙を纏う全身が真っ黒なセイバーサウルスと目が合ってしまう。
恐怖心を煽る狩猟者の瞳。具体的な死の予感を感じさせる鋭く立ち並ぶ歯と大きな爪。そして異様な存在感を放つ背中の刃——すべてが他者を害し殺戮するためのものだ。
クライヴが身震いをしアクセルを開いてエンジンが唸った瞬間、その音をかき消すように目の前の怪物が咆えた。
「グルルル……グラアァァァァァァァァァ!」
「……行け!」
翼から矢を複数本同時に引きだすと、イクセルはクライヴへ向けて叫んだ。彼が言われたとおりにバイクを発進させると、それに反応してセイバーサウルスが正面へと駆け出してくる。
かつてない接近距離のためか、イクセルはなんの小細工もなく飛び込んでくる相手の動きを訝しく思うが、こちらも駆け引きを行なえる距離ではないため同時につがえた四つの矢を一気に解放した。まだ近くにいるクライヴを気遣い風の刃を発生させるものではなかったが、保護と加速する効果の精霊魔法により、放たれた四つの矢はそれぞれセイバーサウルスの四肢を貫き地面へと縫い付ける。
(——まただ。なんなんだ、この違和感は……)
これまでで最大の成果とも言える攻撃を成功させておきながら、イクセルの胸中は言い知れぬ不安に満ちていた。背の高い木を内包する森に比べて、村の拓けた地形のほうが断然と回避し易かったはずなのである。であるにも拘わらず、正面切って突進してきた敵の狙いはなんだったのか……いや、そもそも交戦中の自分を脇に置いて村へと向かった理由はなんであったのか。
刹那の間に疑問が脳裏を駆け巡っていく。
とはいえ、悩んでも詮無きことだ。複雑に物事を考えすぎて、目の前のチャンスをふいにしてしまっては元も子もない。イクセルはそう自分に言い聞かせると、セイバーサウルスにとどめを射すために矢を取り出して弓につがえる。
確実に引導を渡すために、頭部へと狙いを定めた。移動中は的とするには小さく挙動も不安定だった為に外していたが、身動きのとれぬ今なら外す心配もない。
殺意を指先に込め、射ようとしたその瞬間——
「お~い、やったなー兄弟……!」
イクセルの真横、村の外れに向かうところでバイクを停車させたクライヴがこちらに振り返って手を振っていた。本来はイーヴァルの背後へ真っ直ぐ進むのが最適なコースだったのだが、セイバーサウルスが突撃した際にとっさに横に逸れてそのまま突っ走ってしまったのだろう。
性懲りもなく余計なことをするクライヴを後で絶対に殴ろうと誓いつつ、今は無視をしてセイバーサウルスにとどめを射そうと弦を引き絞る。
「グルルル……。グルラァァァァァァァァァ‼」
「……⁉」
クライヴの声に反応するように、セイバーサウルスが激しく身を暴れさせていく。イーヴァルの矢は鏃が大きく攻撃的な形状をしているため、貫通した段階で神経を多く破壊するのでまともに動かすことなど不可能のように思えた——少なくとも一般的な感覚に照らし合わせれば。
この最後の詰めの段階にきてなお、イクセルは『黒の呪縛眷属』との戦いの神髄を理解しきれていなかったのである。
恐怖心に駆られて、イクセルが矢を解き放すのと——
あるいは、狂えるセイバーサウルスが地面に縫い付けられた四肢を自ら破壊していくのは、どちらが先だったのか。
結果として、矢は頭部を逸れて背中から伸びる刃に激突し相殺するように砕け、セイバーサウルスが瞬間的に吐いた黒い球体がイーヴァルの胴体へとめり込み、そのまま後方へ吹き飛ばされてしまう。
「っぐあああぁぁぁ……!」
腹部を中心に広がる猛烈な痛みに声を上げ、姿勢制御も行えずに村の民家を圧し潰しながら倒れていく。自身が立てた騒音としては最大のものを上げて倒れ、色鮮やかだった装甲は彩度を失い暗くなり、仮面の目元も灯していた光を消失する。
それでもイクセルは、衝撃と激痛に身動きのとれぬままでセイバーサウルスの様子を窺った。
四肢を失い地面へと伏した状態だった。普通であれば文字どおり手も足も出ない状態、むしろ無いのだから出しようもないといったところだ。
しかし、イクセルは衝撃で頭に霞が掛かったような状態でもじっと観察を続け、事が想像どおりの展開へ運ばれていくと自嘲げに笑った。
(……やっぱり、そうなるわけ)
気怠げな視線の先、イクセルが見た悪夢そのものの出来事。
漆黒怪物は気味悪く身体を跳ねさせると、切断面から黒煙が立ち昇り、瞬く間に新しい四肢を生やしていってしまう。
新たな脚で立ち上がりこちらへと一歩踏み出すが、首を横に向けてクライヴの姿を凝視していく。イクセルにとってそれは、真新しい既視感に襲われる光景だった。
(そうか……この化け物の狙いは、あいつ、だったのか。あの野郎、こいつの横取りの件で黙ってたことでもあるんじゃねーだろうな……)
ぼんやりとした思考の中でも考えること自体は放棄せず、イクセルは素早くクライヴの姿を一瞥した。彼はこちらを案じた表情を浮かべていたが、イクセルとしてはさっさとこの場を離れていってほしかったのが本音で、叫ぶ余力がありさえすればそう叫んでいたことだろう。
セイバーサウルスが殺意の対象であるクライヴへと駆け出していく。
速やかに残虐に、クライヴを切って刺して潰して噛んで引き千切って、喰って殺すため。
イーヴァルの仮面に翠の光眼が灯り、装甲にふたたび輝きが戻る。
イクセルは死力を尽くして精神を奮い立たせた。
極限の狭間で自問自答していく。
何故、すべてを見捨てて逃げようとしない?
なんのために今まで逃げ続けてきたんだ?
数年間かかった問いに、ほぼ一日程度の付き合いの女が答えをくれた。
逃げた過去を払拭するためじゃない。
今日を逃げずに、明日へ繋げるために。
そのために『纏っている』のだから——
それは、地面を圧力で歪ませるほどの力強さだった。
無事だった家々を倒壊させ、流していってしまうほどの強さ。
圧縮された空気に押し出され、イーヴァルは倒れたままの姿勢から一気にセイバーサウルスの背へと飛び乗った。
「グルルルラァァァァァァァ!」
セイバーサウルスは咆哮を上げつつ、イーヴァルを背負ったままで止まることなくクライヴ目指して疾走していく。——が、背に張り付いたイーヴァルが逆向きに風を発生させて飛行すると、そのまま腕を巧みに動かしてセイバーサウルスに取り付き、持ち上げながら上昇していく。
眼下にはクライヴが走り去っていく姿が確認できた。彼の安全が確認できると、ほっとして力が抜けるどころか逆に漲ってくる気さえする。
(さて、どうする……。今までの攻撃じゃ再生されるのがオチっつーのはわかった。なら『最大火力』でぶっ放すしかないが……!)
今度こそ決着をつけるべく、胸の内で最適な攻撃方法を模索していった。すると——
≪——最初からそうすべきでしたね。このセイバーサウルスさんは黒の呪縛眷属としては新参者のようでしたが、悪い人たちを存分に殺して穢れた黒い魂を大量に吸収されていたご様子。チマチマと生半可な攻撃を繰り返すだけでは割に合わないというものですよ≫
突然ヒミィの声が聞こえてくる。いや、それは正確には耳元に届けられた『音』ではなかった——とはいえイクセルには、その声の正体など皆目見当もつかなかったが。
脳内で響く呑気な声に、自分以外は誰もいない空間で半眼になる。
「……いつもと伝え方が違うようだとか見てたのかとかクライヴの件とか、言いたいことは山ほどあるが。とりあえず俺が一番に怒ってんのは——知ってたんなら最初に言え!」
≪いえいえ。いかな私と言えど、すべてを初手からお見通しというわけにはいきませんとも。なんとな~く察してはいました程度と言ったところでしょうかねぇ≫
命懸けの——それも自分以外の命まで天秤に乗せられた茶番劇。
どこまでからが彼女演出に因るものか知る由もなかったが、それらを己の望むままに進めていったヒミィに本気で怒りが湧く。もっとも、飄々とする彼女がイクセルの剣幕に動じることはなかったが。
イクセルも大して期待してなかったのか、先に片を付けるべき案件について話を進めた。
「……うるせーぞ、性悪が。……まぁいい。最大火力を撃ち込むってのも良しとしよう。だが、どこで放ってんだ? イーヴァルの火力性能をあんたがどこまで把握してるのか知らないが、地上への被害を考えたらこの俊敏な化け物相手に気軽に放つわけにはいかないぞ……」
≪うるさいです。言ったじゃないですか? 泣き言も甘えも許しません。……ただ一言申し上げるとするなら、貴方には『翼』があるじゃないですか≫
こちらの懸念をにべもなく一蹴してしまうヒミィに良くない感情を覚えたが、最後の言葉からイクセルの脳裏にあの夢での彼女の言葉が思い出されていた。
あからさまな嘆息を吐いてやり、イクセルはこちらの表情も把握してるであろうヒミィに吐き捨てた。
「つくづく嫌な女だな。……面倒くさい」
≪私はイクセルさんは中々に可愛らしい人だと思っていますのに、ひどいですねぇ。……ではご健闘をお祈りしています≫
楽しそうな響きを残し、イクセルの中からヒミィの気配のようなものが遠ざかって消えていく。
聞いているかわからないが——たぶん聞いていたであろう彼女に向けて、半眼で毒づいた。
「ほざいてろ。……じゃあ、いくか相棒。もっと高くへ————」
同時刻 風車下の丘にて
「——ねぇ、あれってもしかして……!」
ヒミィと村人の皆が一様に丘の斜面を登っていた頃、不意にシーラが月が浮かぶ夜空を指差した。オロフをはじめとした村の人々も、彼女の指した空を追って見上げていく。
シーラの指差した先の光景を知っていたヒミィは、彼女に頷いてからゆっくりとした動作で同じように空を見上げた。
「はい、そうですよ。イクセルさんとイーヴァルさんです」
「……すごい、綺麗」
シーラは感じ入ったように夜空を眺めた。
そこには、翠に輝く流星が地表に向けて墜ちるのではなく月に重なるように上昇していく。
「さっきも同じようなことを言ってなかったか? でも、確かに綺麗だよな。……ん? シーラ、覚えてるかあの形っ⁉」
オロフは娘の言葉がイーヴァルが精霊鎧装化した際と同じものだったと指摘したのだが、それは先ほどとは別の姿だった。彼らは熱を上げて、夜空を飛翔していく巨大な『鳥』の姿を見つめた。その巨鳥は、黒い煙を吐き出す恐竜のような影を掴み、さらなる高みへと羽ばたいていく。
その姿に見覚えがあったオロフは興奮した様子する。シーラも感極まった表情を浮かべて頷いた。
「うん……! あれ、あのときの! 私たちを助けてくれたときの……!」
親子の熱が伝染していくように、辺りが本日何度目かの喧騒に包まれていった。
不可抗力とはいえ、イーヴァルに家を潰されたとは知らない近所の気の良い男は——
「あれがイクセル君か……。さっきも思ったが、我々はとんでもない人物と共に暮らしていたんだなぁ……」
シーラを巡って一方的に突っかかっていた若者たちは——
「……やばい奴に喧嘩売ってたかもな、俺たち」
「っ、別にあんな奴……。凄いのはあいつじゃなくて、連れてる精霊だろ⁉」
「……今度は付き合わないからな。巻き添えにすんなよ~」
村の未来を担う若者たちのささやかな裏切りを耳にしていた、村の顔役のひとりは——
「……今度がありますかな、村長?」
村民の前では長たる態度をもって臨むことを心がけている村長は——
「さてな……すべてはあやつが決めることじゃ」
などど言ってはみるものの、実際にイクセルが『纏いし者』としての活躍を目の当たりにした村長は内心で手放すのが惜しいと考えており、彼が用心棒として残りあるいはそれ以上の働きをしてくれれば村は安泰だと夢想していた。
それぞれの思いを抱えた村人たちから離れたところにいたヒミィは、周囲の喧騒に紛れる様にぼそりと呟いた。
「起源形態ですか……あれほどの綺麗な仮面だというのに、本当に困った方ですねぇ」
困ったと、誰に聞かれるわけでもなくそう呟いたヒミィ。
その表情は、子供の間違いを可愛さが勝ってしまい叱れぬ母親のようだった。
サーシディア共和国 東部上空
イクセルが纏うイーヴァルは、その姿を人ではなく鳥へと変えていた。
起源形態と呼ばれるこの姿は、一部の精霊鎧装しか可変することができず——特に纏いし者が人間の場合は、この形態に可変可能な精霊鎧装は極めて稀である。
起源形態とは、固有の精霊鎧装の起源——つまり纏いし者の契約の相手である精霊そのものの個性を発現させる状態だ。普段の精霊の姿を模した精霊鎧装化となるので、イーヴァルの起源形態の場合はもちろん鳥の形状をとる。
この形態の特徴は、精霊のもつ形状に着目したポテンシャルが部分的に大きく強化されることにある。
イーヴァルが強化されるのは飛行能力の上昇。
最高速度、航続距離、高度限界点、これらが通常時と比べて飛躍的にに向上するのだ。
そんな起源形態のイーヴァルは通常時の腕部分に当たる足でセイバーサウルスを保持し、イクセルの反応が追いつける限界の速度で上昇し、翠の軌跡で夜空を切っていく。
(矢の残り、俺とイーヴァルの消耗を考えれば……失敗は許されない一発勝負になるな)
胸の内で覚悟を決めさらに上昇を続けようとした————その時。
「グルルルゥゥ……グラアァァァァァァ‼」
鳥の姿で飛行するイーヴァルが激しく揺らされる。
「ッ……この野郎、おとなしく最後の景色でも堪能してろ————くっ⁉」
イクセルは毒づくように呟くが、落下に対する恐れも理性もないのか、セイバーサウルスは激しく身を揺らした。
漆黒の身体が不気味に蠢くとメキメキと異音を立て、セイバーサウルスの背の刃が肥大化すると、急速に進化を遂げて付け根の可動域を増やしていった。進化した刃をより自由自在に振り回し、イーヴァルの装甲を切り刻んでいく。
「ぅっ⁉ ……っくぅ! か、はっ!」
背部から腹部に刃を貫通され、声にならない悲鳴が漏れる。幸か不幸か翼は無事だったので、痛みによる影響で失速こそしてしまうがそのまま跳び続けていく。
(翼が無事とはいえ、このままじゃ時間の問題か……)
セイバーサウルスは依然として咆哮を上げて暴れる。眼下の光景が満足のいく遠さになったことを確認すると、イクセルは薄く笑った。
「そんなに自由になりたきゃしてやるよ————じゃあな、化け物」
腹部に刺さった刃が暴れて抜けていく感覚を感じつつ、イクセルはセイバーサウルスを空中で解放した。
さすがに翼を生やすほどの芸当はできないのか、あるいはここまでの戦いで力を消耗しついに余力がなくなったのか、空へと運んだイーヴァルから離されると、セイバーサウルスは重力に負けて地表へと落下していく。そのまま墜落すれば尋常ではない衝撃に身を破壊されるのだろうが————イクセルは黙って見送る気はなかった。
イーヴァルは空中で反転してみせると、地上目掛けて高速で飛んでいく。翼から噴き出る風で推進力を得て加速し、さらに重力を味方にして突き進むと一瞬でセイバーサウルスを追い抜いていった。
セイバーサウルスを大きく引き離し、地表間近でふたたび反転すると起源形態を解除して人型に移行する。満身創痍の身でゆっくりと浮上しつつ、弓と矢を構えた。
「……また地面と再会できると思ったか? そうはいかない。残念ながら、お前の死に場所はここ————空の上だ」
その言葉が聞こえたわけでも、まして理解できたわけでもないだろうが、黒いセイバーサウルスは空を震わせる大きな咆哮を上げた。
イクセルは冷たい双眸で『的』に狙いを定める。
イーヴァルの装甲から翠の粒子が舞い散り、白い紋様が眩く輝いていく。仮面を走るスリットに同様の光が灯り、落ちてくるセイバーサウルスを睨む眼も白く輝いた。
つがえる矢も純白に輝き、それは放たれると空中に舞う粒子を纏いながら空を切り裂いていく。
幾重に重なる風の刃を引き連れて、白い輝きは漆黒の怪物の罪を裁くように邪悪を消し去った————肉片ひとつ残さず、その存在のすべてごと。
光と化した矢が炸裂した後は雲を含む一切の存在が消し払われてしまい、空に浮かぶのは夜の闇を舞う白い輝きと、より鮮やかになった月明りを浴びるイーヴァルの姿だけだった————
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