第四章 Ⅲ 巫女に選ばれた勇者

 それほど広くない台所に、フライパンの上で油が跳ねて肉の焼ける音が響いていく。それは実に香ばしく、腹を空かした者であれば涎を大量に生みそうな実に食欲をそそる匂いを伴っていた。

 しかしテーブルに頬杖をつくイクセルは、ひたすら無表情で寄ってくる煙を手で追い払っていく。別にその匂いが嫌いなわけでも、なにかの意地を張っているわけでもなかった。ちらりと視線を下に落とすが、そこには己が十数分前に平らげた食事の跡があった。背後でオロフが焼いてる肉とまったく同じもののほか、同じく彼が用意したパンやサラダなどを一通りすでに食べ終えたのだ。とうに腹は満たされ、ジューシーな肉の焼ける匂いにげんなりとさえしていた。

 視線を元に戻すと、いつもの半眼で正面で肉を頬張り続ける女をじっと見つめる。ヒミィと名乗った彼女の前には、綺麗に空になった皿や器が二人前以上は重ねられていた。つまり、彼女が今嬉々として切り分けているステーキは三枚目ということなわけだが。

「——いや、巫女じゃないだろ」

 イクセルはぼそりと呟くと、視線を横にずらした。

 彼女の隣に座るクライヴは、横目で彼女の健啖ぶりをまじまじと凝視していた。帰り道で置き去りにされ、ひとりでこちらに到着したときには怒りと悲しみがあったようなのだが、起きて動く巫女——と彼が強く主張する彼女を見てからはそちらに視線が行きっぱなしだった。

 彼自身も大柄な体格をしているためか二人前をぺろりと平らげたが、隣の細身な女性の食べっぷりになんともいえない顔をしている。

「いや巫女じゃないだろ、これ」

 今度は、はっきりと聞こえるようにクライヴに言う。彼はさすがに自分に話しかけてるのだと気付き、彫りの深い顔を困ったものにさせると瞬きを繰り返した。どうも隣の大食いが、伝承で伝え聞く神秘的な巫女像に当てはまらないと薄々思い始めたようだ。それでも彼は慌てて首を振ると、制するようにこちらへ手を向けてくるのだが。

「いや、いや待て。少し大食いがなんだ? なんだって言うんだっ!? 神話の物語の場面みたく空から降ってきたんだぞ! 巫女か、そうじゃなくても神様の使い的なほらアレだよ絶対的ななにかだよ間違いないっていや絶対にそうだって」

 説得力はまったくないのだが、こちらに反論されたくないのか、やけくそ気味に勢いよく早口でまくし立ててくる。

 勝手に追い詰められていくクライヴのその表情を楽しむわけでもなく、イクセルはヒミィへと視線を移した。彼女は三枚目のステーキ、その最後の一切れを口に放り込んだところだった。苦しげな様子もなく、幸せそうに噛み締めていく。

(……いったい、どういう女なんだ。こいつは……)

 胸中で嘆息しつつテーブルの横、自分の足元に立て掛けてある弓矢に視線を落とす。

 彼女が凶行に走った場合に対処できるように——いざとなれば射殺せるようにと傍らに置いていたのだ。抑止力を見込んで堂々と持ち込んだのだが、ヒミィは特に気にした様子もなく、イクセルは彼女という人間の素性や思惑を測りかねていた。

 彼女の皿が空になると、見計らったようなタイミングでオロフが追加の皿を差し出してくる。

 こちらと隣に座るシーラの間から彼の腕が伸びていき、ヒミィが受け取る皿の上には湯気を立てた熱々のステーキが載り、そこにはオロフ特製のスパイスとソースが添えられている。

 オロフの引っ込む腕を見つつ視線に入ったシーラの表情を確認すると、彼女は目を丸くしてヒミィの食べっぷりに見入っていた。

 全員の注目を浴びるが、ヒミィは動じた様子もなく『四枚目』のステーキを切り分けて次々と口に放り込んでいく。

「……いや、やっぱり違うだろ」

 冷めた目でヒミィとクライヴを交互に見るが、クライヴは下唇を突き出した渋面のまま押し黙っていた。形勢が悪いと完全に自覚している顔だった。

 背後では、オロフがケトルを沸かし始める。いい加減に彼女の食事も終わりだろうと踏んで、食後のお茶を準備するつもりのようだった。

「綺麗な人……だね?」

 見えない位置でこちらの裾を引っ張り、シーラが囁いてくる。ヒミィの立てる咀嚼音以外は静かなものだったので聞き逃しはしなかったのだが、どう返答したものか悩みあらためてヒミィの顔をよく観察してみた。

 痩せすぎということはないが、全体的に細い印象を受ける。

 肌は白く、本来であれば儚く線が細い美女といった評価なのは間違いないだろう。

 しかし、わざと厚めに切った最後の一切れを頬張る彼女はリスのように頬を膨らませ、まるで無邪気な子供のような感じすらあった。

 さすがに限界なのか、あるいは食に夢中になっているように見えてもオロフの動きをしっかり把握していたのか、これが最後だといった様子で味わっているようだ。

 黙って彼女を見つめているとシーラがふたたび裾を引っ張ってくるが、イクセルの目には正面のヒミィが非常に食い意地の張った女として映り、素直に綺麗だと同意しがたいものがあった。

「——ふぅ……実に食材の生命力を感じる躍動感のある食事でした。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」

 満足げに言うと、ヒミィは胸の前で手を組み頭を下げた。彼女の述べた感想にはピンとこなかったが、とりあえず頷いてみせる。

「やっとまともに話ができそうだが、結局あんたは何者なんだ?」

「いや、巫女ですが」

「いや、さらっと言い切るなよ。つーかそれが本当だとしても、もう少し具体的に話せよ」

 わざわざ手振り付きで即座で突っ込むと、ヒミィは顎に手を当てて考えるように目を閉じた。

 隣のクライヴが期待を込めた目で彼女を見ていた。

 ヒミィはぱちりと目を開くと、落ち着いた笑顔を浮かべる。周囲の面々には、なにか彼女の様子が変わったように感じられた。

「——では、あらためまして自己紹介を。私はヒミィ・ベルと申します。精霊神タマナ・エレ=シディアから神託を授けられた風の巫女です」

 ひとりを除き、全員がきょとんとして固まってしまう。クライヴだけは腕を掲げガッツポーズのような態勢で喜んでいる。

 オロフとシーラはそれぞれ困惑した表情でイクセルを見てくるが、ふたりに視線を返すことなくヒミィを睨みつけた。もっとも睨まれる本人は涼しげな顔で微笑みを浮かべているだけで、その様子が得体の知れない彼女をより謎深く思わせる。

「……納得されていないご様子ですね。では、ひとつお遊びをしましょうか。あなたの考えを当ててみせましょう」

「……なんだと? 俺の考えを読むってのか?」

 イクセルは戦慄し、息を呑む。そんなことができるわけないと強く思うが、一方でこちらを覗き込むヒミィの瞳に、自分という人間が暴かれていくような居心地の悪さを感じてしまう。

 他の者も緊張した面持ちで——クライヴは興奮しすぎて顔がすごい形相だが、事の成り行きを見守る。

 視線が絡み合うイクセルのものと同じような翠の瞳を細め、ヒミィはその口を開く。

「ふむ。ずばり、あなたは————私のことを巫女を騙る大食いのペテン師だと思っていますね?」

 全員が盛大に肩すかしを食らい、力が抜けて態勢を崩した。

 なにやらクライヴが泣きそうな顔で落ち込んでいるが、それは別にいい。

 イクセルは内心でほっとしつつ、呆れ顔をする。

「いや、それは読みというか……単に分かり切った考えを言ってみただけだろ。つーか紛れもない事実だろうが」

「いえ、今のは冗談です。お遊びって言ったじゃないですか」

「……おい、そろそろいい加減にしろよな」

 しれっと言ってのけるヒミィに、とんでもない脱力感を覚える。

 彼女の隣のクライヴが、期待する心が復活でもしたのかまたしても表情を輝かせている。オロフは苦笑していたが、シーラは手に汗握るといった様子でヒミィを見つめていた。

「では————オレンジ、白、茶、虎柄」

「…………っは?」

 ヒミィはイクセルから順に、シーラ、オロフ、クライヴを指差ししていった。

 全員が意味が分からずに首を傾げたが、唯一ひとりだけ色ではなく模様を言われたクライヴが驚愕の顔で慌てて視線を地面に落とす。

「……? おい、どうし——」

「バンダナと一緒の色ですか。見かけによらず、派手なのがお好みなのですね」

 こちらを揶揄するような彼女の言葉に、イクセルは戦慄して視線を落とし——そして悟った。クライヴが目を向けたのは、地面ではなく己の『股間』だったのだということに。

 イクセルたちの様子を見て、遅れてシーラとオロフもヒミィの言った言葉の意味を理解する。

「え、やだぁ……!」

 シーラは悲鳴のような声を上げると、耳を真っ赤にしてスカートの裾を押さえた。

 オロフは混乱した様子で全員の顔を見まわし、己の股間に何度も視線を送る。

「っちょ、ちょっと待て、どうやった? 今のは精霊魔法か……!?」

 イクセルは上擦った声で問いかけるが、ヒミィは超然とした顔でこちらを見返すだけだった。

「すげぇぇ……! 巫女の力を以てすれば、直接見なくても他人の下着の色がわかるのか! こいつは本物だぜ、兄弟……!」

「アホか! そんな力が巫女のもんだって言われて素直にありがたがれるかっ! 兄弟でもないわっ!」

 感極まった声で言うクライヴにイクセルは動揺して珍しく声を張り上げるが、律儀にどうでもいい指摘をするほど混乱もしていた。

 ヒミィを除く全員が騒ぎ立てていくのだが、その喧騒をかき消して注目を引くような甲高い音が突如として鳴っていき、一同は一気に静まり返る。 

 音の正体は、オルフが火にかけたケトルが沸いたことを知らせるものだった。

 固まる他の者を置いて、義務感からなのかオロフはぎこちなく動き出すと火を消してケトルをテーブルの上へ移動させた。彼はそのまま戸惑う表情でハーブの瓶が並ぶ棚へ歩いていく。

 シーラとクライヴはがその動きを目で追っていくが、イクセルは超然と微笑むヒミィから視線を外さなかった。

「おい。さっきのは結局なんなんだよ。精霊魔法の反応は感じなかった気がするが、どういう仕掛けなんだ?」

 イクセルは代表して沈黙を破っていくが、やはりヒミィは答えなかった。しかし彼を無視する彼女は、棚の瓶へ手を伸ばすオロフへちらりと意味ありげな視線をやる。 つられてイクセルもそちらを見るが、ただオロフがブレンドしたハーブを選んでるだけの姿だった。が————

「……手前の列の一番左端と奥の列の左から三つは、あなたが考案したレシピではありませんね」

「——っ!?」

 瓶を手に取っていたオロフは驚愕するように息を呑み身を硬直させると、ヒミィが指摘した左端の瓶を凝視する。

 彼女の言葉に、イクセルはレシピのメモの——オロフとは違う字のものを思いだしていた。隣のヒミィも口元に握った両拳をあてて絶句する。

 オロフはヒミィの横顔を見ると、やっとの思いで声を振り絞った。

「なんで……?」

「先ほど頂いたお食事は、とても刺激的でしたが味付けに一貫性がありました。あなたはいろいろな事柄に遊び心をもって挑戦するお方のようですが、とはいえ習慣的な物事にはある程度定められた『好み』が存在します。そちらの棚に並ぶブレンドされたハーブも、種類は多いですが決められた『好み』の法則に従って作られていますね。……ですが、手前の左端と奥の三つだけは、その法則性に囚われないもの——あなたの『好み』からは大きく逸脱したもののようです。ですから、同じ製作者のものではないと判断しました」

 ヒミィはオロフのほうを向くこともなく、視線をイクセルに合わせたままですらすらと淀みなく述べていった。

 オロフたち親子は複雑な顔で押し黙るが、クライヴは己の胸に湧き上がる驚きと歓喜でどうにかなってしまいそうな若干危険な顔をしている。

「……本当に『視えて』いるのか。瓶の中身や、それ以外も……?」

 信じられないといった顔でイクセルは呟く。ヒミィが言ってることが真実なら、それはまるで神の眼のように思えた。

「——私が寝かせていただいていた部屋はイクセルさんが借りているもので、階段を挟んで向かいがシーラさんのものですね。部屋の机には痛んだ矢が大事そうに飾られています。一階のオロフさんの部屋には、台所に収納しきれなかったスパイスやハーブの一部が置かれていますね」

 淡々とヒミィは己の力を、それによってもたらされた情報を口にしていく。

 シーラはヒミィを恐れるように見るが、同時に不快感を顕わにした。彼女は気恥ずかしげにイクセルを窺うが、彼と目が合うと逸らしてしまう。イクセルはシーラの部屋に立ち入ったことはないが、ヒミィの言う矢の正体には察しがついていた。

 オロフを見ると、眩暈を覚えたようで背を向けた棚に身をあずけて手で顔を覆う。

 クライヴだけがひとり興奮のボルテージを上げていくが、イクセルはそちらをどうでもよさげに見やり、弓にいつでも手を伸ばせるようにと意識を整える。

 なるほどなと、胸中で納得する

「——やっぱり、あんただな。あの艦隊を墜落させたのは。確かに、そんな力を持っているなら軍隊を翻弄することも平気でやってのけそうだ」

 こちらの指先や筋肉の緊張は伝わってしまっているのだろうかと自問しつつ、身を襲う重圧や緊迫感はまるで戦場にいるかのようなものに感じ、弓を掴めるように開かれた手のひらが汗でじっとりとしめっていく。

 ヒミィに対する警戒は強まるばかりだが、とはいえこの場には他の何をおいても守り抜きたいと願う存在——オロフとシーラがいる。彼らを巻き込まないように細心の注意をし、最悪の展開に発展していかないよう状況をコントロールする必要があった。

 そのオロフたちは、ついに放たれた核心を突いた言葉にぎくりと身を強張らせたままだ。彼らのヒミィに対する印象は、どこか世間ずれしてはいるものの悪人でもなければ、まして常軌を逸した力の持ち主であるようには見えていなかったのである——『先ほどまで』は。

 食事を済ますまでは、その視線に明確なものが込められてはいなかったかもしれない。しかし、今は明確にヒミィは恐れの対象として見られていた。 

「……正確には、飛べなくさせただけですよ。ちゃんと無事に不時着するまでは面倒を見てあげました」

 彼女はイクセルの鋭い視線に動じることなく、淡々と言う。この場の誰に恐れられ誰に睨まれようとも、どこ吹く風といったふうで気分を害した様子はなかった。

 イクセルは内心で舌打ちをする思いだったが、置かれた状況を正しく見極めるために冷静でいようと心掛ける。

「……連中は何者で、あんたの目的はなんなんだ。あのふねに乗ってたんだろ。なぜ自分が乗艦していたってのに、たくさんの命を危険に晒してまでイカれた真似をする必要があったんだ」

「……関係のない他人の命に対しても真摯なんですね。良かったです、運命を共にするあなたが心優しい人で」

 彼女はいたって真面目に返すが、イクセルはぐらかされたと思いうんざりする。

「おい、答えになってな——」

「夢の中でお話したとおりです。私は、精霊神タマナ・エレ=シディアより世界を救う神託を授かりました。そして、あなたは私を守護する勇者として、世界を破滅に導く邪悪と戦わなければなりません。ですので——」

「ちょっと待てって……! 夢? 精霊神? 神託、勇者だと……? 俺が夢の中であんたと話したことは、実際にあったことだっていうのか」

 イクセルは非難の声を遮られたが、並べられていく言葉を聞くに堪えられなくなり、今度はこちらから遮っていった。

 ヒミィは笑顔で頷くと、彼の問いに答えていく。

「はい。イーヴァルさんに橋渡しをしていただきました。ですので、あのときに言ったとおりです。……私はすべてをあなたに奉げます。そしてあなたにも、私にすべてを奉げてもらいます」

 さらりと言葉を紡いでいくヒミィは涼しげで、かつ有無を言わせぬ独特な雰囲気に包まれていた。それは気ままに吹く風のようで、たとえ何度言葉を遮られようとも否定の言葉を浴びせられようとも、彼女の伝えようとする意思は誰にも止めることが叶わない——そう思わせるほど超然としたものを感じさせた。

 すっかり傍観者と化していたオロフとシーラは、困惑の表情を浮かべる互いの顔を確認し合い、続いてイクセルの顔に目を向けると彼から逸らせなくなってしまう。相変わらず正確な事情が呑み込めたというわけではなかったが、ヒミィの言葉のわかるところだけを拾うと、つまりこれはおとぎ話の最初のようなものに思えた。世界を救うための旅に出る巫女と、その彼女に選ばれた勇者の邂逅の場面ということになる。

 ふたりはイクセルを『特別な人間』だと考えていたので心のどこかで高揚した部分と、それを認めれば三人の関係に決定的な答えが出てしまいそうで拒否したい部分、このふたつがない交ぜとなって複雑な思いが胸に溢れていた。

 しかしオロフとシーラのふたり、そして期待通りの展開に歓喜の表情を浮かべるクライヴたちの視線が集められる先では、震えるほどに怒るイクセルが立ち上がり握る拳をテーブルへ強く叩きつけた。

「————勝手に決めるな……! 俺は…………俺は、面倒ごとは嫌いだ。そんなのは、御免なんだよ……。悪いけど、あんたの見込み違いだ。勇者とやらは、他を当たってくれ……」

 叫び声とテーブルの上で揺れる食器たちの鳴らす音だけが響き、後はしんと静まり返る。

 思わず心の内を爆発させてしまったが、怒号を浴びせられても悠然と構えるヒミィの視線に耐えられなくなり、イクセルは避けるように顔を伏せた。

 クライヴは明らかな不満顔だったが、イクセルの言葉と表情から彼なりに察したものがあるのか、特にいつもの調子で口を挟むこともなかった。それでもため息を吐き、すべてに納得したという表情でもなかったのだが。

 オルフとシーラは困り顔で目配せをする。親子にとってここ数分のイクセルは『彼らしく』なく、それは約二年で家族同然とまでなった彼の初めて見せる表情や態度だったのだ。

「……イクセル? あの、大、丈夫……?」

 隣で立ち上がったままのイクセルを見上げ、シーラはテーブルに叩きつけられた彼の手にそっと触れる。しかしイクセルは彼女を見ることなく、テーブルに視線を落としたままで固まったように動かなかった。

 兄同然に——もしかしたら家族のそれとは別の感情を抱いてきた彼の初めて見せる表情に、シーラはどうしていいかわからずに狼狽えるしかできない。自分の不甲斐なさに呆れ、彼女自身が落ち込みたくなる心境だった。

「とりあえずだな、茶でも飲んで落ち着かないか。ちょっと……ってかかなり、ぶっ飛んだ話だしな」

 目に見えて普段の様子と違うふたりを思い、オロフは場の空気を変えようと彼なりに気を利かせる。場のほとんどの者が彼の言葉に反応する余裕を持っていなかったが、ひとりヒミィだけがにこやかに頷いた。

「そうですねぇ。……しかし、このままだとお茶の用意が足りませんね。お客様のようですよ、オロフさん」

「……ん? 客?」

 言われた意味がわからず、オロフは首を傾げて聞き返した。

 イクセルは、はっとして顔を上げる。彼は台所の入り口を見つめるが実際に意識が向けられた先はそこではなく、この場所からは見えるわけもないのだが、彼の注意は家の玄関のほうへ向けられていた。

 数秒後、微かに扉を叩く音と誰かの声が聞こえてくる。こちらの反応がないと知るや否や、それらは次第に強くなっていった。

 ヒミィを除く全員の注目が、彼女に集中していく。緊張の面持ちで見られるが、当の本人は特にどうということもないような風情だった。

「……今のも、わかった、の?」

 恐る恐ると、シーラがヒミィへ尋ねる。彼女は微笑みを浮かべた顔をこくりと下げた。

「すげぇぇ……」

 ヒミィの横でクライヴが、背後のほうから聞こえてくる音を気にしつつ感嘆の声を上げた。

 イクセルは彼ほど単純かつ素直に、ヒミィに対する称賛の声を上げる気にはなれなかった。家の外にまで及ぶ彼女の人知を超えたその知覚力に、正体の解らぬ不気味さを感じてしまい彼の中では警戒心が募っていくばかり。

(周囲の状況を知ること自体は、その気になれば難しくない。問題は……こいつが精霊魔法を『使った形跡がない』ことだ。反応を隠すことはやれなくもないが、適切な装備も無さそうなのに……それほどの術者だってのか?)

 胸中で彼女の力について思案するが、腑に落ちる結論が導き出せずに重々しい息が出ていく。

「っと、とにかく無視はできん。行ってくるわ……シーラも一緒に来てくれ」 

「え……う、うん」

 いかに一目置く契約者のイクセルがいるとはいえ、オロフは娘を残して席を外すことに抵抗を覚えた。その気持ちが通じたのか、あるいはやっとこちらに向いたイクセルが頷いたためか、シーラはためらいながらも腰を上げる。

 ふたりが台所を出ていくのを見届けると、イクセルは自室の窓辺に残したイーヴァルと短く繋がる。一瞬、瞳に光が灯ると胸中でひとりごちた。

(……なるほど、やっと様子を見に来たわけか)

 オロフたちより先にイーヴァルを通じて家の外の光景を確認したイクセルは、露骨なものではないが安心したように息をついた。ヒミィから離れることができずにオロフたちに同行しなかったが、彼女を捜してやってきた望まぬ客だという可能性も危惧していたのだ。しかし、それは杞憂に終わった。

 玄関口に立つオロフは叩かれる扉をゆっくりと開け、緊張した顔で扉の外を覗いた。

 外にいたのはひとりではなかった。

 村長を先頭に、十を優に超える村人が立っていたのだ。とりわけ村長の脇を固めるものたちは、村の中における発言力があるものたちの顔が並んでいた。

「村長。他の皆も……あ~、えっと……なんの用だ?」

「遅いぞ。なにかあったのではと気を揉んだじゃろうが、馬鹿者め」

 圧を感じさせる光景にたじろぐオロフに、村長は顔を合わせて早々に毒づく。

「あ~すまない。少し立て込んでいたもので……」

 頬をひくつかせて言うが、眼前の老人の細められた目は大きく開かれてしまう。

「なに、やはりなにか起きたのか? シーラは無事なのか?」

 普段は好々爺とした穏やかな人物なのだが、血相を変えて家の中を覗き込んでくる。

 こちらへ身を押し出してくる村長に待ったするように両手を上げ、オロフは背後を見やった。オロフの背後から隠れるように佇んでいたシーラが顔を出し、おずおずと集まった村人たちを見まわしていく。

「え、なに? なんで皆いるの?」

「なにを言っとるか。昨日空から降ってきた女をあずけていたゆえ、お前たちの身が心配でこうして集まってきたのじゃろうが」

(……ったく、よく言うぜ爺さんも。おおかた、こっちからの報告を待つのに焦れて多人数を引き連れて来たんだろうに。しかも、どうせイクセルが帰ってくるのを窺ってたんだろうな……)

 オロフは見事な愛想笑いを浮かべる。内心では軽い失望感を感じもするが、一方で村長の見事な取り繕い方に舌を巻いていた。とはいえ今まで上手くやってきた間柄ではあるし、別段この村を去るつもりもないのでオロフは穏便に済ませようと頭を下げた。

「あぁ、すまない。彼女がさっき目覚めたばかりで、まだ要領得ないとこだったんでね。特に身の危険も感じなかったんで、皆には後で声をかけようと思ってたんだよ。なぁ、シーラ?」

「っうん、そうだよ。皆、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ! イクセルとイーヴァルもいるから!」

 急に声をかけられて驚くが、シーラはオロフに調子を合わせてヒミィに問題がなことをアピールする——実際には、彼女が村にとって脅威になるかどうか明らかになってもいなかったが。

 村長はオロフたち言葉に安堵の息を漏らした。彼の背後に並ぶ村人たちも強張っていた表情を幾分かやわらげる。

「そうか……では上がらせてもらうぞ。村長として昨日の異常な事態を捨て置けぬのでな」

 オロフは村長の言葉に頷くと、横に身を引いて家の中へと招き入れる。彼も奥へと歩いていく村長の後に続こうと思ったが、ぎょっとして驚くと身を固まらせた。村長に続くようにと、村人たちが次々と家に入ってきてしまうのだ。

「ちょ、ちょっと待て。全員で入る気なのか!? さすがに狭くなるから人数を絞ってだな……!」

 家主であるオロフは当然に居間に収まる許容人数をよく知っているので、強硬して押し入っていく男たちに揉まれながら必死に制止の声を上げた。しかし男たちは構わぬ様子で進んでいくと、居間を占拠していく。

 若い面々はちゃっかりと好意を寄せるシーラを流れに巻き込んでいき、競うように彼女の近くをキープしようと奮闘する。

 村において重要な役に就いている年かさの男たちはさすがに落ち着いた風情を匂わすが、彼らも昨晩のことが頭から離れずに緊張しっぱなしであった。

 彼らの視線は泳いでいく。

 目的である『彼女』の姿を捜して。 


『————私を恐れる必要はありませんよ。こちらには、あなたたちに危害を加える気はありません。ですので、どうぞお心安らかにして力を抜いてくださいな』


 村長をはじめ、村人たちは聞こえてきた声に驚愕してぴたりとその場に立ち尽くす。得体のしれぬ女の声に驚いて、みっともなく狼狽えだしたというわけではなかった。その女の声が『直接』に『耳元』で響いたから、彼らは身がすくんで動けなくなってしまったのだ。彼らに唯一できたことといえば、互いに目配せをして、幻聴ではなかったということを確認するだけだった。

 静まり返った居間に、奥のほうから近づいてくる足音だけが鳴っていく。

 全員の視線がそちらへ向けられると、イクセルが空から落ちてきた女——ヒミィを隣に伴って歩いてきた。彼の表情は渋面で固められていたが、ため息を吐くと観念したように横で微笑むヒミィを紹介する。

「あ~、こちら風の巫女とやらのヒミィ・ベルさん……だそうだ。悪意はないみたいだが、こちらの行動が筒抜けになるっぽい力があるようだ。なんで、下手な小細工はしないほうが身のためだぞ。ちなみにどこぞの軍艦を墜落させてきたらしいので、危険度は未知数だな」

 眼前に並ぶ顔ぶれに大それたことが行えるとは思わなかったが、集団心理で愚かな決断をしないようにイクセルは彼らにはっきりと釘を刺しておいた。

 彼の言葉に、少なくない割合で村人たちが動揺した様子になる。身じろぎの仕方からいって武器でも隠し持っていたのだろう。自衛のためなのだろうが、果たしてそれを本当に使うかどうかの点についてはイクセルの中で凄まじく懐疑的だった。それでも万が一にも馬鹿な真似はさせられないので、あらかじめ牽制できたことに一安心していたのだ。なのだが——


『——ちょっと。そんな失礼な紹介がありますか。皆さんが余計に怖がってしまうではありませんか』


 ヒミィのこちらを非難する声が聞こえてくる。

 耳元の感触と彼女の口調から、イクセルは自分ひとりに届けられた声なのだろうと判断して彼女の様子を窺った。隣の彼女は薄く唇を開き、どうも器用に口内で言葉を紡いでいたらしかった。こちらを見もせずに、村人たちには大衆向けの笑顔を浮かべて取り繕っているようだ。

「……か、風の巫女じゃと? 本当なのか、イクセル……!」

 沈黙を破り、やっと村長が発言した。

「巫女のことはよく知らないが……こちらの女性が及び知れない力の持ち主ということは確かだよ。その一端は、俺だけじゃなくてオロフたちも見てる」

 場がざわめき出し、それぞれオロフやシーラの顔に注目していく。視線を集めた彼ら親子は、戸惑いの表情で忙しく首を何度も降っていった。

 どよめく村人たちは慌てて膝をつき、ヒミィを敬うように頭を下げていく。

「巫女って本当にいたのか。っもしかして、俺たちすごいことを体験してるんじゃ……?」

「でもさ、なんでこの村に? 昨日のあの感じじゃ、やっぱり俺たちの村を滅ぼしにきたんじゃないのか……」

「馬鹿っ! 滅多なことを言うんじゃない! 巫女様の前なんだぞ……!」

「巫女って言えば、未来を予言する賢人様だろ? この村を良くするために神が遣わさったんじゃ……」

 喧騒と化した場を眺めて頬を掻くと、イクセルはちらりと隣のヒミィに視線をやる。助けを求めたわけではなくどちらかといえば余計なことを言うなという気持ちを視線に込めたつもりだったが、彼女は理解したのか頷くと手を広げ、語り聞かせるように言葉を紡いでいった。

「……私は精霊神タマナ・エレ=シディアの神託を受けてこの地に降り立ちました。しかしそれは、この村を滅ぼすためでもなければ、残念ながら祝福を授け繁栄を約束するためでもありません。ある方に出会うため、私はこの地へとまいりました」

 どよめきつつも、村人たちはヒミィの言葉に耳を傾けていた。

 神聖な雰囲気をまとう巫女然とした堂々たる佇まい、そして口上である。

 しかしイクセルは彼女の口振りから、話題が好ましくないほうへと向かいつつあることを悟った。止めようと口より先に手が伸びたが、彼女は予見していたかのようにあっさりとこちらの手を掴み、そのまま両手で包み込んでしまう。

「……そう、私はこのイクセルさんと出会うためにやってきたのです。彼に神からの神託をお伝えし、運命を受け入れていただくために」

「……運命?」

 村長が代表して恐る恐ると聞き返すが、ヒミィは彼ではなくイクセルをじっと見つめて話を続けていく。

「はい。私はタマナから、破滅をもたらす邪悪なものから世界を守護する役目を仰せつかりました。そしてその運命を共にする勇者こそ、このイクセルさんなのです。イクセルさんには災厄を祓う光——悪を打つ聖なる矢として、私と共に旅に出てほしいのです」

 場がしんと静まり返り、ほとんどの者がポカンとした表情をしていた。

 無理からぬことであると、当の本人であるイクセルも呆れる。周囲のこちらへ向けられる視線にさまざまな感情が込められていると気づくが、そのどれもが気分を良くさせるものではなかった。

「いや、だからやらんと言って……」

 半眼で口を挟むが、彼の言葉は最後まで紡がれはしなかった。


「——どうして!? 契約者って世界にたくさんいるんでしょ……? どうしてイクセルじゃなきゃダメなの? やだよ、連れてかないで! 私から、家族を奪わないでよ……!」


 シーラのそれは、魂を降り絞るような叫びだった。

 普段ほがらかな少女の突然の変貌に、誰もが驚きを隠せなかった。

 イクセルも、オロフも——そして叫び声を上げた彼女本人ですら。

 シーラは息を乱し小さな肩を揺らすと、呆然として口元を押さえた。オロフが周囲の男たちを押しのけて寄っていき、彼自身やるせない表情で震える娘を抱きしめる。 

「…………シーラ」

 イクセルの口から彼女の名だけがこぼれたが、その続きの言葉を紡ぐことはできなかった。

 彼にはヒミィに付き従うつもりなど欠片もなかった。だが、それとは別に彼はこの村を出ていく決心を固めてしまっていたのだ。誰に相談するわけでもなく、ましてや唆されたわけでもなく、自分の意思でそう決断をした。

 その意思が胸にある以上、シーラを傷付ける言葉しか言えやしないというのに——どうしてそれを平気で放てようか。

 躊躇いが、長い沈黙を生んでいく。ただ、彼女を笑顔にすることも、震える身体を抱きしめることさえもできずに。


「——残念ですが、あなたの願いは彼には叶えられません。もちろんあなたが望めば、応えようとするのでしょうね。ですが彼がその努力をしたとしても、与えられた宿命が許しはしないでしょう。それが力ある者の……『纏いし者』の定めなのです」

 ヒミィの静かに透き通る声が響き、その残酷なまでに無慈悲な言葉によって沈黙が破られた。

「……え?」

 涙が浮かぶ顔を上げ、シーラはヒミィの冷静で感情のない顔を見た。

 彼女は距離のあるシーラをじっと見据え、淡々と言葉を紡ぐ。この場の他の誰にでもなく、彼女だけに向けて。

「あなたの望む先に、幸福な結末はありません。そこに至るまでの過程に価値を見出すというのなら、意味はあるのかもしれませんが……。ですが、そうなってもらっては困ります。私とイクセルさんには与えられた時間に限りがありますから」

 ヒミィはぴしゃりと突き放し、堂々たるまでに自分の都合を前面に押し出した。

 イクセルは唇をきつく結び、拳を握りしめる。

 ヒミィ・ベルという人間と言葉を交わしてから、まだいくらの時も経っていない。彼女という人間をなにも知らないし、解らないままなのだ。だが、そのなにもわからない彼女について、ひとつの確信めいたものが浮かんでいく。

(……こいつは、俺という存在を正しく認識しているわけか。俺がどんな生き方をして、どんな選択をするのか……それを知ってる)

 思考を——もっと重要な奥底の部分を覗かれた気がして、気味の悪さと畏怖が胸を支配していった。握られた拳に、より強い力が込められていく。

「どの程度の過去を語ってこられたのかは存じません。イクセルさん、あなたのこれまでの日々は血にまみれたものと……それらから逃げることの繰り返しだったのではないですか?」

 イクセルを襲ったものは、脳天を撃ち抜かれたような衝撃だった。

 いや、身体中に穴を空けられたような感覚だったのかもしれない。

 大きく目を開き、とにかく眼前の彼女を見つめた。

 彼女の瞳に浮かんでいたものは、こちらを軽蔑するものでも咎めるものでもないように見えた。敢えていえばそれは、期待が込められたものだったのかもしれない。

「よくぞ耐え抜いたものです。ですが……もういいいでしょう? 安穏とした暮らしに罪悪感を覚えているはずです。どこかで起きてる悲劇に、知らぬことだと自分を騙すことにも限界を感じているはずです」

 ヒミィはイクセルに触れあう距離まで近づいていき、つま先を立てて背を伸ばすと、彼の耳元で囁くように言った。

「この村で過ごされたオロフさんやシーラさんとの日々は、疲弊したあなたの心を癒していってくれました。ですが、代わりに増えていった傷みもあるはずです。だから、もう終わりにしませんか? もう十分に翼を休めたはずですよ……」

 慈しむように優しく言うと、呆然と立つイクセルの背に腕をまわして抱きしめた。夢であった出来事をなぞるように、在りもしない器官に触れるような動きでその背を撫でていく。


「——恐れや躊躇いを乗り越えていきなさい。あなたには、翼があるのだから」


 それは、夢の中で出会った彼女に言われた言葉だった。

 脳裏にさまざまな記憶が蘇っては通り過ぎていく。

 これまでの人生における誰かとの出会い……そして別れ。

 オロフとシーラとの、三人の家族になっていったこれまでの日々。

 ————そして、誰かの遺した最後の言葉。


 葛藤が表情を歪ませていきイクセルは視線を伏せるが、すぐ目の前に立つヒミィが視界から消えるわけではなかった。

 傍から見ればそれは、恋人同士の甘い抱擁のようにも見えたかもしれない。互いに息も熱も鼓動すら感じれる、それほどの距離でふたりの時は止まってしまっていた。

 逃げるように思え目を閉じることもできずに、ただ情けない顔をした自分を彼女の瞳越しに見つめた。

「っ俺は……俺、は……」

 それは子供のようで、言葉とはいえない意味のないものだけが繰り返された。

 互いの顔だけを大きく映す視界で、ヒミィは眉を下げると憂いの笑みを浮かべる。彼女はそっと身を離していき、言葉を紡げずに固まるイクセルの唇へとその白く柔らかなの指を押し当てた。

「いいのですよ。あなたは、自分の言葉に強い責任を感じてしまう人なのですね……潔癖なまでに。あなたにとって約束事がそれほど重いものだというなら、一日だけお待ちしましょう」

 微笑みながら言うと、向き直って他の面々——主に村長に視線をやった。

「……というわけで、もう一晩だけお世話になりたいと思います。明日にはこの地を離れ、皆さんにご迷惑をお掛けしないと約束します。それと遠見の力を持つ私が誓って断言しますが、軍が大挙して私を追って来るということもありませんので安心してください」

 ヒミィは敢えてオロフではなく村長の顔を見たまま言った。彼を蔑ろにしないことで村を治めるものとしての顔を立たせたのだろう。

 村長はまわりの男たちと目配せをして頷き、緊張した様子でヒミィに答えた。

「そういうことでしたら、なにも言いますまい。ゆるりと休まれよ」

 自尊心が守られたためか、納得したことをやや尊大に伝えると老体は腰を上げた。長たる彼が場を去っていたため、他の者たちも後を追って退席していく。

 やはりヒミィを恐れているのか、奇異の視線を向けていく者こそ多いのだが、その場に残るような胆のあるものはいなかった。

 ほどなくして家は狭苦しさから解放され、その光景はがらんとしたものとなった。


 イクセルは躊躇いがちにオロフたちのほうに目を向けると、シーラをなだめ落ち着かせる彼と目が合った。彼は疲れた顔をしていたが、こちらに向けて意味ありげな苦笑を浮かべる。どこか諦観したものを感じさせるその表情から、自分の思いが伝わっているのだと理解した。

 ふたりに対してどういう顔をすればよいのかわからなくなり、イクセルは顔を伏せる他なく、それだけが今の自分にできる精一杯のことであった。

 しばらく黙って床を見つめていたが、ぎこちない足音を鳴らして大柄な影がこちらの足元に伸びてくる。圧を感じさせるその気配を見上げると、クライヴがなんともいえない気まずそうな顔で立っていた。

「いやぁ、なんかアレだな。緊迫した感じだったな……」

「……いたのか。茶々入れがなかったから、消えたのかと思ってたよ」

 素っ気なく言ってのける。実際には彼におざなりに接することで心の均衡を保たせていたりするので、内心で感謝の念を抱いていたのだが。

 そうとは知らないクライヴは、渋い顔のままギクシャクとして口を開いていく。。

「いや、なんというか……さすがに場の空気を読んでだな。というか……大丈夫か?」

「ああ……たぶん」

 こちらを気遣う言葉に頷いてみせるのだが、イクセルは自身の精神状態がボロボロなことを自覚していた。

 微妙な空気が流れていき、また沈黙が場を支配していく。しかしクライヴは逡巡の様子の末、イクセルに対して急に頭を下げた。

「——兄弟、すまなかった」

 イクセルは突然のクライヴの豹変に目を丸くして驚くと、その下げられた頭を呆然と見つめた。その言葉や行動の意図するところがわからなかった。

 イクセルからは見えぬ顔を厳しいものにし、クライヴは切実な声を絞り出していく。

「俺は、自分のことばかり考えて舞い上がっちまってた。すげぇことが始まるんだって、勝手に盛り上がって……。巫女さんの話は実際にすげぇことだけど、それって望まぬ人間には重荷でしかないんだよなぁ……本当に、すまなかった!」

 クライヴは懺悔するように言った。

「……意外だな。あんた、そういうふうに考えたり謝ったりするヤツだったんだ」

 ポカンとした表情から一転、イクセルは思わず吹き出しそうになる。これまでの彼とは違い、誠実に己の心情を吐露していると思ったのである。それでいて、クライヴがこちらに己を重ねたのだとも思った。すべてを語らずに不器用に胸を痛める彼をイクセルは憎からず思い、呆れ顔に微笑を浮かべる。

 顔を上げると、クライヴもぎこちなく微笑んだ。

「なんかな、強制的にってのは……やっぱり違うよな。ちゃんと通じ合えていないっつーか、無理やりっつーか」

 クライヴは鼻の下を擦り、照れを隠すように腕を組んでいく。 

 ふたりの間に穏やかな空気が流れていった。


「ちょっと。黙って聞いてればなんですか、人を無慈悲な性悪女のように」


 余裕の表情を浮かべることが多かったヒミィなのだが、今は胡散臭いものでも見るようなジト目をイクセルたちに向けていた。

 不躾な視線を浴びつつ、イクセルはこちらも負けじと冷めた半眼で彼女を見る。

「……そうじゃないとでも思ってたのか。相当な面の皮の厚さだな」

「むっ、重ね重ね失礼ですよ。少しは巫女として敬い、礼を尽くしたらどうなんです? 今までお会いした人たちの中でもとびきりに無礼ですよ、イクセルさん」

 互いに力のこもらぬ睨み合いのような状態に陥り、牽制するように——というよりかは子どもの喧嘩のような言い合いに発展してしまう。 

「知るか。勝手に威厳を落としていったくせに、なに言ってんだ。悔しければその馬鹿みたいな胃と、度を越した食い気をどうにかしてみせろ」

 にべもなく突き放し、腹を叩くような仕草で彼女を挑発する。

 ヒミィは赤みが差した頬を膨らませると、胸の前で構えていた両手をぐるぐると回した。

「なんとひどい方でしょう……! 私、傷つきました。あなたの心無い言葉に心をひどく傷つけられましたよ! 責任とってください! 乙女の胸の痛みをその身で実感してください!」

 子どものように振る舞う彼女を気怠げに見下ろしつつ、でたらめな軌道で振り回される腕から距離をとっていく。

 むくれたまま追いかけてくるヒミィから逃げていると、堪えきれないといった調子のか細い笑い声が聞こえてくる。イクセルはきょとんとした顔で声のほうを見ると、顔を伏せたシーラが肩を震わせて笑っていた。

 隣に立つヒミィも彼女のほうを見つめ、イクセルを追いかけ回すのをやめると嬉しそうに微笑んだ。

「……やっと笑ってくださいましたね」

「……あ、えっと……あの」

 ヒミィと目が合ったシーラは、隠れるようにオロフの背後へとまわってしまう。そんな彼女を追いかけていくと、ヒミィは己の背で娘を支えるオロフの横に立ち、伏せられたシーラの顔を覗き込んだ。膝を折り、ヒミィは彼女の顔に掛かる髪を指先でよけていく。目元が露わになった彼女の顔を見て、その涙の痕を優しい手つきで触れた。

「せっかくの可愛らしいお顔ですのに、曇ったままではもったいないです。……先ほどは辛い思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。ですが、あなたを苦しめることは本意ではありませんでした」

 ヒミィは穏やかに言うと、困ったような様子のシーラの頭を撫でた。

 イクセルはオロフと顔を見合わせ、事の成り行きを静観することにする。

 ヒミィと出会ってからというもの、彼女の言動や行動には状況を大きく引っ掻きまわされひどく混乱しっぱなしだったが、巫女を名乗る彼女には人の心に訴えかける不思議な『なにか』があると——イクセルはそう感じていた。

 彼女はシーラの瞳を覗き込み、穏やかに言葉を紡いでいく。

「すべてをご納得いただくのは難しいことだとわかっています。ですが……あなたはもうわかっていますね?」


 それは、十五歳の少女にかける言葉として不適当なものだったのかもしれない。

 逃げ場のない圧力のようなもので、捉えようによってはひどく残酷なものだろう。

 抽象的で、卑怯な駆け引きにも思えてしまう。

 しかし、それでもシーラは控えめに、けれどはっきりと頷いたのだった。


 ヒミィも頷き、優しげな口調で語りかける。

「シーラさんは、誰より近くでイクセルさんを見てきた人です。ですので、お知りになっているはずですね。彼がどれほど優れた力をお持ちになり、どんな御方なのか……」

 彼女の言葉に、シーラはふたたび静かに頷いた。

 自分の胸の内を、どれほど短くてもいい——ちゃんと言葉として伝えなきゃと思ったのだ。

 だから、彼女は口を開くと短く言った。


「うん……わかってる。ちゃんと、わかってるんだよ」


 シーラはもたれる掛かるようにして身体をあずけていた父の背中から離れると、深呼吸をして後ろへと振り向く。

 背を向けていた父は、守るように傍にいてくれた。

 そして涙で滲む視界の向こう、彼はただじっとこちらを見つめていた。

 ぼやけた視界の中でも、確かにわかったのだ。

 心配するように見つめてくる、普段は素っ気のないイクセルの優しい瞳が——


(知ってたよ……この人はすごい人なんだって。助けてくれたあの時から、知ってた……)

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