第四章 Ⅰ どこまでも吹いて、どこまでも流れていく

 流れる風が頬を撫でていった。

 目にかかる前髪が後ろへとなびいていき、鮮明となった視界に広がるのは、一面の澄んだ青い世界。踏みしめている感覚のない足元には、真っ白な雲が伸びていた。

「ここ、どこだっけ」

 呟くと、イクセルは辺りを見回す。

 どこまでも広がる青、どこまでも続くような白い雲。

 そう思えただけで、雲の切れ間から覗く遥か下には地上が見えていた。眼下には自分が暮らすサーシディア共和国が一望でき、視線を移動させていけば、ファルア・イー=シディア大陸に存在する他の国々までもが視界に収めることができた。

「ああ……そうか。ここに来るのも、なんか久しぶりだな」

 少し懐かしそうに笑うと、目を閉じて深く息を吸った。身体の外だけじゃなく、内側からも風が吹いているような感覚となり、全身で生命の息吹ような温かい熱を感じていく。

「——とても、美しい景色ですね」

 他に誰もいないはずのしんとした世界で、鈴のような女性の声が響いた。後ろを振り返ると、先ほどまでは確かに気配もなにもなかったはずなのに、いつの間にか雲の上にひとりの麗人が立っていた。 

「……あんた誰だっけ?」

 どことなく見覚えがあるその相手に、イクセルは眉をひそめて素っ気なく聞いた。

 彼女はこの世のものとは思えないこの風景の中に在ってなお、より浮世離れした神聖な雰囲気を纏っていた。そんな相手にイクセルは普段と変わらない態度で接するが、彼女は気分をそこなった様子もなく柔らかく微笑んだ。

「私は、あなたと出会う運命だったものです。己に与えられた使命を疑問に思ったことも、疑ったこともありませんでしたが……実際のところ、少し不安はあったのかもしれません」

「……不安?」

 問いかけに対する答えがこちらの望んだものとまるで違ったが、イクセルは彼女の言葉が気になって続きをうながした。

「はい。ですが杞憂でした。貴方は私が想像をしていた——いえ、それ以上の勇者だったのですね」

 彼女の言葉にイクセルは眉を寄せ、困ったように押し黙ってしまう。しばらく間を置いてから、やがて躊躇いがちに口を開いた。

「あのさ。あんたがなにを言ってるのか、俺には分からないんだけど。勇者とかそんなんじゃないから……俺は」

 イクセルの言葉に、彼女は静かに首を振った。

 そして彼から視線を外すと、眼前の一面の青い空や地上に広がる雄大な景色を目に映していく。超然とした雰囲気のままに、それでも感嘆とした様子でふたりだけの世界に見惚れていった。

「いいえ。あなたは、これほどの高さにまで飛翔できる。この景色に立っていること自体が、あなたの秘めたる力を物語っているのです」

 イクセルはきょとんとした顔になる。いくつか瞬きしてから居心地悪そうに視線を逸らすと、風に浮かされる前髪を掴んで目元を隠すように下ろした。

「別に、そんなんじゃない。ここには……相棒が連れてきてくれるんだ」

「はい。イーヴァルさんですね。確かに、彼はとても優れた高位精霊でいらっしゃいます」

 彼女は頷くと、途方もない高さにいるこの雲の上の世界で、そのさらに上空を見上げた。

 そこには清々しい空の青を切るかのように、翠の光線が視界を横切っていく。弧を描いてこちらへと飛んでくるそれは、邪魔する者のいない空を自由に満喫するイーヴァルの姿だった。 

「ですが、どれほど優れた精霊であったとしても、その契約者に相応しい景色までにしか導けないのです」

 青空に透けるイーヴァルの美しい翼を眺めつつ、彼女は両手を広げた。この世界に流れる風の動きを感じとっては、泳ぐようにそのしなやかな指を遊ばせた。

「これほどの景色に到達できるあなたは、非常に高い感応力をお持ちになっています。大変に稀有な才能です。ですが……」

 彼女は目を閉じると、そのまま空間を泳ぐように、あるいはゆったりと羽ばたくような仕草でイクセルに近づいていく。目を閉じていたにもかかわらず彼女はぴたりとイクセルの目前まで正確に来ると、ぶつかることなく直前で止まってみせた。驚くイクセルに触れるかような距離で瞼を開き、自身と同じような色をした瞳を覗き込む。

「ですが、心のどこかで自ら枷をなされていますね。それらに縛られているゆえ、限界を超えられずにいられる。そのようにお見受けしました」

 至近距離で瞳を見据えられ、しかし逸らすこともできずに、イクセルは彼女のその見透かすような瞳に意識が吸い込まれていくようだった。

「枷から解き放たれて高みを目指すあなたは……いったいどれほどの領域まで到達し得るのでしょうか」

 吐息のかかる距離で囁くと、彼女は硬直するイクセルをその細い腕で抱きしめる。

「——精霊神タマナに選ばれし勇者よ。あなたには、風の巫女たる私と共に世界を救う宿命が定められています。これから先、幾多の試練と絶望があなたを待ち受けるでしょう」

「なにを……」

 震える声で、イクセルはそれだけをやっと呟く。

「——恐れや躊躇いを乗り越えていきなさい。あなたには、翼があるのだから」

 彼女はイクセルの背に回した手を滑らせ、互いの熱を分け合うように指先の感触に集中する。

 イクセルは、彼女が触れている部分が熱くなり蠢いているような感覚を覚えた。

 それは不快なものではなく、眠っていた器官が目覚めていくような心地よさで——まるで背中の神経が外へと飛び出し見えない翼を羽ばたかせているような感覚だった。

 彼女は身体を離すと、あらためてイクセルの瞳を覗き込んだ。

 イクセルも黙って彼女の瞳を見つめる。緊張した頬を彼女のその白くしなやかな指先で包まれる。

「あなたが壁と感じたすべてのものが遥か下に見えたとき——あなたは誰よりも速く、誰しもが到達し得ない高さにいるでしょう」

 言葉の意味は分からなかったが、それは不思議と染み渡るように心の奥底まで響いていく。

 彼女は優しく微笑み目を閉じると、イクセルの額へそっと口づけをした。


「私のすべてをあなたに。そして、あなたのすべてを私へ……」




「……ッ!」

 普段からやる気を感じさせない垂れた目を大きく開くと、イクセルはひどく慌てて上半身を起こした。辺りを見渡すと、ここは普段使っているオロフの家の一室で、自分はベッドではなく床で布を敷いて横になっていたことが分かる。傍らには弓と矢筒が置かれてあり、窓辺に佇むイーヴァルは静かにベッドのほうに視線を向けていた。

 イクセルがイーヴァルに倣ってベッドの上に視線をやると、そこには昨夜空からやってきた名前も知らない女が眠っていた。

 眠っていた脳が動き出し、現状の様を理解する。

 昨日は女があれから目を覚ますことはなく、不安は感じたもののイーヴァルを監視につけて一旦そのまま放置することにしたのだった。

 荒れた村の状況を確認し村中の大人たちが総出で夜を徹し、壊れた家々の補修作業や飛散したものの後片付けに追われてた。そもそも村を出る荷造りもしていたので、それが良くも悪くも影響し、家によっては引っ越し並みの仕事量になってしまったところもある。それらを手伝い終わりイクセルがくたくたで家に帰っても、彼女はまだ眠ったままだった。

 結局、なにか問題が起きたときに対処できるようにと、オロフの家でイクセルが一緒に過ごすこととなり——現在に至る。

 イクセルは天井を眺めながら事の顛末を思い出すと、自分が被っていた毛布を横に置いてあらためて彼女の顔を覗き込んだ。彼女は静かに寝息を立てて、ぐっすりと眠っていた。一応あれからも様子を窺っていたのだが、この分だと自分が寝た後も起きなかったんだろうと、そうイクセルは判断した。

「夢、か……」

 額に汗をかきつつ、短く呟いた。

 脳裏には夢の中で聞いた——現実には聞いた覚えのない彼女の声が再生された気がするが、かぶりを振って追い払う。

(夢だよな。さすがに……そうじゃなきゃ困る)

 嫌な汗を浮かべながら寝息を立てる彼女の顔を覗き込むと、夢での出来事が思い出され、自然と視線が薄く開かれたその唇へいってしまう。気づけば彼女が寝るベッドへ手をついて寄り掛かり、じっくりと人形のように美しい寝顔を観察してしまっていた。


「ダメだよ」


 背後のほうから突然に声をかけられて、イクセルは心臓が跳ねるほどに動揺した。身体が硬くなり、おかしな挙動でゆっくりと首を後ろに向けた。すると部屋の扉が僅かに開いていて、その隙間からシーラが半眼でこちらを見ていた。

「……ダ~メだよ」

 目が合うと、こちらがなにかを言う前にふたたび同じようなことを言ってくる。無表情でかつ冷たい声で言う彼女に、やっと身体ごと向き直って聞いた。

「……シーラ。なにが?」

 シーラはドアを開ききると、やはり無表情のままに、いやどちらかと言えばむすっとした顔で部屋に入ってくる。

「なんか、いけないコトしようとしてたでしょ」

 こちらにずかずかと近寄ってくるシーラに、彼女が毛布を踏みつけないように手に抱えて除けてやりながら聞き返す。

「……たとえば?」

 むっとしたまま一度天井を見上げると、シーラは恥ずかしそうな顔をして上目づかいで呟いた。

「キス……とか?」

「するかっ!」

 イクセルは、自身や周囲に身の危険が迫ってるわけでもないというのに、珍しく大きな声を出して否定した。しかしシーラは納得していない様子でこちらに詰め寄り、荒い息でまくし立てる。

「でも、顔近づけてた~! 私が来たときは寝てたみたいけど……昨日はなにも変なことしなかったでしょうね!?」

 大変な剣幕のシーラを手で制すると、イクセルは頭の痛くなる思いがしてこめかみを押さえた。

「あのな……。つーか、いつから来てたんだ?」

「ん、イクセルが起きる……一時間くらい前?」

 眉を八の字にして、シーラは指を一本立てながら答える。自分より早く床に就いていたとはいえ、一時間もじっと監視していた彼女の謎の執念に眩暈を覚えつつ、イクセルは嘆息した。

「いや、起こせばよかっただろ」

「……なんか悪い気がして。イクセル、疲れてるだろうから」

 シーラは伏し目がちに小さく言った。ちらちらと何度もイクセルを見上げるが、いざ視線が合いそうになると避けてしまう。多少頭が冷えてきて、今さらながらに自身の子供っぽい行動が恥ずかしくなってしまったようだ。 

「気を使ったのか。……それは、ありがとな」

 イクセルはいつもの調子で淡々と言うが、床をじっと見つめるシーラの頭をそっと撫でてやる。彼女にとって意外だったのか、驚いた顔をして撫でるイクセルの手に自分の手を重ねた。その手の感触に相好を崩し、嬉しそうに笑った。

「うん、えへへ。……それで本当になにもなかった?」

「ない。というか仮にあったとして、どんなことを想像していたんだ?」

 はっきり即答すると半眼で聞き返す。

 シーラはぎくりと固まり、両手を胸の前にもっていくと落ち着かない様子で指を戯れさせた。

「それは、えっとぉ。……裸で抱き合ったり、とか」

「そういう想像は、十年、早い」

 言うや否や、イクセルはシーラの頭に乗せたままの手に力を込め、逆らわずに膝をついた彼女に毛布を被せてそのまま部屋を出ていく。

「わっぷっ。……十年は言い過ぎだよぉ」

 毛布を頭から被ったシーラは去っていくイクセルの背中に不満げな声を浴びせるが、彼は気にせずに階段を下りて一階へと行ってしまう。

 部屋に残された少女は頬を膨らませて呻く。

 ふと気になって傍らで眠り続けるヒミィを見ると、その整った顔立ちに胸がちくりと痛くなった。周りの男性からの反応で、自分も恵まれた容姿をしているのは分かっていた。それでも肝心の想い人の日頃のそっけない態度に、どうしても目の前で眠る不確定要素な人物が気になってしまう。

「本当にこんな綺麗な人と一緒にいて、なにもなかったのかな……」

 ぽつりと落とすように呟き、毛布にくるまったままイクセルに触れられた頭に手を置く。彼の手の感触と熱、そして言葉や表情が思い出されていく。目を閉じて頷くと、くるまった毛布の匂いを嗅いで顔をほころばせた。

「うん。本当にジジみたいに枯れてるなぁ、イクセルは。……ふふ、そっかそっか。なにもなかったかぁ~」




 イクセルは一階に下りてくると、一度動きを止める。

 この家は階段を下りて右が台所、左が玄関もある居間のほうとなっているのだが、イクセルはとりあえずオルフに会おうと決めた。そうと決まるや否や、オルフの姿を捜して台所へと向かう。間髪入れずに居間ではなく台所へ向かったのは、そちらのほうから食欲をくすぐるいい匂いがしたからだ。

 台所に足を踏み入れると、肉の焼ける香ばしい香りが迎えてきた。見ると、こちらに背中を向けたオロフが調理をしている最中だった。別段気配を隠す理由もないので、足音をわざと立て聞こえるように歩いていくと彼がこちらへと振り返る。

「よう、イクセル。おはようさん」

「ああ」

こちらへの挨拶に短く答え、イクセルは手近な椅子を引き寄せて座る。

 目の前のテーブルには湯気を上げるケトルやティーポット、それにパンや男が雑に切って盛りつけた感のあるサラダなどが並べられていた。なにも乗せられていない空き皿には、調理をしている最中の肉が置かれるのだろう。そのままぼけっと調理をするオルフの背中を見ていると、彼が作業の手を止めてこちらへと向き直った。

「あの娘はどうした。話せたのか?」

 問いかけてくるオロフをテーブルの上で頬杖ついたまま見やり、彼の背後で聞こえてくる音、落とした火の余熱で焼ける肉のほうに意識を向けながら答えた。

「まだ寝てる。あのままずっと寝てたから……俺とは話してない」

 そうは言いつつも、自分の言葉にまるで自信が持てなかった。

(……話してない、よな。ずっと寝てたんだから。うん、話してない)

 胸中ではまだ夢の混乱を引きずっていた。そんなイクセルを変に思ったのか、オロフは片眉を吊り上げる。

「どうした? なんか変だぞ」

「……変にもなるさ。空から精霊に囲まれた女が落ちてきたと思ったら、そいつがずっと寝てて事情も聴けないんだからな」

 半分本音で答えて、夢のことは黙ったままかわしていく。正面のオロフはテーブルに手をつくと、渋い顔で大きく頷いた。

「そりゃそうだな。俺は、とっくに限界を超えてて理解しようとも思わんが。なにがなんだかさっぱりだ」

「……あの女は、やばいと思う。確実に厄介の種になるよ」

 分からないことだらけだったが、それだけは断言できた。昨日の出来事をそれほど異常なものだった。

 オロフは眉間にしわを寄せて唸る。

 出会ってから一年近くが経つが、オロフはイクセルの危険なものを察知する嗅覚に全幅の信頼を寄せていた——が、二階で眠る麗人がそれほど危険な存在には思えなかった。もちろんオロフとて昨日の光景を目撃しているのだから、イクセルの考えを否定してまで見ず知らずの女を庇う気などなかったが。

「確かに普通じゃない感じだが。……お前は、どうしてそう思うんだ?」

「軍艦が墜ちたって言ったろ。あの女の仕業かもしれない。たぶん、あいつは乗ってたと思う」

「な、なにぃぃぃっ? あのお嬢さんがやったっていうのかよ。根拠は?」

 オロフは驚愕して後ろに仰け反ったが、イクセルはそんな彼をちらりと見やり、換気のために開放されている小窓へと視線を移した。

「……風だ。イーヴァルを通して上空を見たとき、風の精霊が起こす強烈な反応を見た。それであの女が落ちてきたとき、勢いは違うけど同じなにかを感じたんだ。実際、昨日のは相当異常だったろ」

 自分の感じたままを話す。この辺りの話は契約者特有の感じ方なので、同意を求めつつもそれほどオロフの理解を期待していなかった。

「むぅ……で、ふねに乗ってたかもってことか。しかし、だったらなんで自分が乗ってた艦を攻撃するんだよ!? そもそも軍人なのか? そんな風には見えなかったが」

「分からない。正規の乗員じゃなく、捕虜の類だったのかもな。実際、無事に降りてきたんだから、逃げる算段で事を起こしたのかもしれない」

 すっと、瞳に翠の光を灯すと天井を見上げた。

 瞬間的にイーヴァルと繋がり、二階でいまだに眠り続ける女とシーラの安否を確認する。イクセルの部屋にはシーラの姿がなかったが、おそらく二階にある自室に戻ったのだろう。そう判断してイクセルは同調状態を解除した。ちょうど視界が元に戻ったタイミングでオロフが言ってくる。

「ってことは、なにか? 綺麗な顔してるが、とんでもないテロリストとかかもしれないのか?」

「さぁ、どうだろうな。ただ真相がどうであれ、どっかの軍隊があの女を捜しに来るかもしれない。そうなったら……かなり面倒だ」

「……だが俺たちは、ただ事情もわからずに彼女を保護しただけじゃないか。軍が来たとしても正直に話せばいいだろ?」

 胸中を占める不安な気持ちを取り払いたいのだろう、オロフは事態が悪いほうへいかないのではと楽観的な物言いをする。しかし相対する顔に浮かんでいるのは気楽さとはほど遠いものだった。

「……俺が、この村にいなければね。最悪、計画的なものだとして協力者と疑われるかもしれない」

 イクセルの脳裏には、この村に住む人々にとっておぞましい結末がちらついてしまっていた。ある程度の世界を見てきた彼にとっては、その類いの想像を禁じ得ないのである。

 先ほどまでと比べて空気が重苦しいものになったと感じつつ、オロフは息を吐いた。僅かに数歩だけ歩き棚の前に行くと、棚の中にいくつかある瓶のうちからひとつを選んで取り出した。瓶を手にしてイクセルの正面へテーブル越しに座り、テーブルの上に置かれていたティーポットへ瓶の中身である特製のハーブを振り入れて、その上からケトルでお湯を注いでいく。

「お前が、『纏いし者』だからか。そんなことってあり得るのか?」

 イクセルは沈黙したままテーブルの下で拳を握りしめていた。彼の覇気のない様子に、オロフは事態が思っていた以上に深刻なものだと理解した。

「まじかよ……。なにを、考えてるんだ?」

 オロフはその真意を測るように目を細める。イクセルは彼に視線を返すこともなく淡々と口を開いた。

「あの女を連れて、イーヴァルで飛ぶ。それで、どっかに捨てる」

 オロフはこけるように身をずらすと、盛大に唇をひん曲げた。言葉の内容そのものもだが、飄々とする態度に呆れてしまう。

「っおいおい。仮にそれをするとして、お前はちゃんと戻ってくるんだろうな」

 テーブルを指で叩くと、苦い顔をして訪ねた。イクセルは目を合わせないまま、黙り込んでしまう。

「……本気か?」

 オロフは頭を掻いてため息を吐いた。その声音に静かな怒りが込められていたことに気づくが、、イクセルはテーブルから視線を上げれずに呟く。

「ちょうどいい機会なのかもしれない。別件で他の面倒ごとも気になるしね……」

「別件? ああ、昨日の骨折した大男か。あっちは何者なんだ?」

 ポットの中で蒸らしていた特製レシピのハーブティーをカップに注ぎつつ、疑問を口にしてみた。差し出されるカップを受け取りつつ、イクセルは眉間にしわを寄せる。どこまで話すべきか悩んだが、結局はありのまま話すことに決める。

「……んん。密猟者の片棒を担いでて足抜けした男、かな。森で仲間と揉めてて殺されるとこを、俺が余計な邪魔をした」

 オロフは目を見開くと、口に含んだハーブティーを吹き出しそうになる。淹れたての熱さゆえに口にした量が少量だったのが幸いした。

「な、なにっ? 昨日一日でなんでそんなことになってるんだ、お前はっ!?」

「軽率だったよ。見殺しにすべきだった」

「いや、俺が言いたいのはそーゆーことじゃなくてだな……」

 イクセルは変わらぬ調子で淡々と言ってのけるが、オロフは肩を落として半眼を向ける。意思の疎通がいまひとつ噛み合っていない様子に、やるせなく口元が引きつった。

 イクセルはテーブルの上、自分を含めた家族分に用意された食事に視線を落とした。この家では当たり前の何の変哲もない食卓風景だったが、特別ななにかを見るような視線をする。

「……結局、村長が正しかったってことだろ」

「……なに?」

 オロフはテーブルに肘をついて組んだ両手に額をあずけていたが、放たれたものが意味深な言葉に聞こえて顔を上げた。彼の目に映るイクセルの顔は気怠そうで、そしてどこか達観した表情だった。

「『纏いし者』……ってか、力を持ってるやつは厄介ごとを引き寄せるってことさ」

「…………」

 オロフは組んだ両手はそのままに、口元を隠すように鼻先に当てて沈黙した。なにも言わずイクセルの話に聞き入ることにする。その雰囲気から、彼が本音を語ろうとしていると察したから。

 テーブルの上に置かれたイクセルの手が開かれ、手のひらが淡く翠に輝いてそこから弱い風が生まれる。それは些細なもので、僅かに二人の髪を揺らすと天井に向かって霧散してしまう。

「……力を持つと、選択を誤るんだ。普通の人間だったらそもそも選択肢自体がなくて、厄介ごとには近づかない。だけど、できる力があるやつには、いつも選択肢がつきまとう。困ってる人を助けるだとか、見捨てるとかね」

 うつろな口調で語る。

 手のひらの淡い光を感情の死んだ目で見つめ、握ったり開いたりを繰り返していく。オロフもその仕草を見やりつつ、一年近くなる関係で初めて吐露された彼の胸の内を——なにかの懺悔にも思えたそれを、真剣な表情をして聞き続ける。

「良かれと思ってしたことが、厄介ごとを引き寄せていく。回避することもできたはずなのに、選択を間違っていく。……そんなことばっかを繰り返していくんだ」

 自嘲気に笑い拳を握ると、あとに開かれた手からは光が消えていた。オロフは彼のその手に視線を落とし、静かに口を開く。

「……そんな日々に疲れていったから、お前はこんな退屈な村に居続けてくれたんだな。やっと、納得したよ。それで……そんな日々にも限界はある、か」

 イクセルは言葉を返せずに沈黙する。オロフはそんな彼の様子に嘆息し、まだ湯気が立つカップの縁をなぞると静かに呟いた。 

「みんな、そんなもんなのかね。契約者……『纏いし者』ってのは」

 言って、口元にカップを引き寄せ中身を啜る。

 それには答えずに、イクセルもやっとカップに口をつけていく。ほんのりとした僅かな甘さと抜けていくような爽やかさが味わいのオロフ自慢のレシピだったが、今日にいたってはあまり味が感じられない気がして、機械的にただ流し込んで渇く喉を潤しただけだった。

 互いが喉を鳴らす音を響かせるだけで、それからしばらくの間はふたりとも口をつぐんだままだった。そうして手にしたカップが空になったころ、オロフはふっと穏やかに笑った。

「俺はな、ずっと感謝しているんだぜ。あの日お前に、俺たち親子の命を救われたことも……その後の日々をにぎやかにしてくれたことも」

 空になったカップからなんとなく手を離せずにいたまま、イクセルは訝しげに聞き返す。どうにもピンとこない言葉だった。

「にぎやか……俺が?」

「おうともよ。そりゃ、お前は無口だったさ。こっちから口を開かなきゃ、ほとんど喋らないんだからな。……でも、お前が来てくれてからのシーラはすごく楽しそうだった」

 オロフは出会った当時を思い出しながら懐かしげに言うと、茶葉の瓶が置かれていた棚を見上げた。棚の側面には一枚のメモが張り付けられている。くたくたで年季の入ったそれはハーブティーのレシピが纏められたもので、大半がオロフの力強くやや無骨な字だったが、中には彼のものではない流麗な筆致のものが混じっていた。イクセルはその字が誰のものか知らされていなかったが、それがシーラの字でないことだけは知っていた。

「元から明るい子だったとは思う。だが、母親のいない生活の中であいつは……いい子過ぎてて、ずっとなんとなく寂しそうだったんだよな。……俺は情けない気持ちだったよ。父親として、勤めを果たせていないんじゃないかって」

 レシピのメモを見つめる目に熱いものが込み上げてくると、それが溢れないように目を閉じた。イクセルは、ただじっとそんな彼の話に耳を傾けていた。

「あれこれと気を揉んで、ずっと心配してきたんだ……へ、それがよ。どっかから新しい風が吹いてきたら、随分と生き生きとした顔をするようになっていったもんさ」

 オロフは目元をほぐすように指で揉み、にやりと笑った。彼はその潤む双眸でしっかりと正面を見据える——イクセルは、驚き顔で口を開いて固まってしまうのみだった。

「自分を卑下すんな。胸を張ってくれ。お前がこの村に来て、俺の家で過ごした日々は、意味があるものだったんだ。お前にとっても、俺たちにとっても」

 オロフは嘘偽りのない気持ちを真摯に、まっすぐにイクセルへぶつける。引き留めるつもりでした話ではなかった。もし『その時』が来たとして、落ち着いて言葉を交わせるか分からないので今のうちに伝えておきたかったのだ。

 イクセルは間の抜けたぽかんとした表情をしていたが、顔を伏せて静かに笑うと空のカップに両手を添えた。じっと、それを見つめる。いつからか、客用のものではなく自分専用になったカップを。

「……そうか。俺は、役に立ってたか」

「おう」

 オロフは当たり前だと言わんばかりに即座に答えた。その堂々とした態度が自分へ向けられた信頼だと気づき、イクセルは胸に熱いものを感じた。顔を上げ、カップを彼のほうへ突き出すように掲げる。

「……ありがとな、オロフ」

「こっちこそな」

 掲げられたカップに向けてオロフも自分のカップも掲げると、控えめな音を立てて合わせた。

 


 それからしばらくの間は、ふたりの間に会話はなかった。互いに沈黙を守り、香りと味をただ楽しんでいった。三杯めのハーブティーを飲んでいたとき、イクセルは思い出したように言う。

「そういや、あいつは?」

 言いながら、昨日はクライヴを名前で呼ぶことをしていなかったと気づく。それでもオロフには通じたらしく、台所の勝手口を指差した。

「ああ、スクラップ置き場に用があるって出ていったぞ。一宿一飯の借りを返したいとかなんとか言ってたな。そんなに悪い奴に見えなかったから自由にさせてたんだが……やっぱり、まずかったか?」

 オロフは苦笑いすると、困ったように頬をかいた。

「いや、大丈夫だと思う。けど一応様子を見てくるよ。それと一応イーヴァルをつけとくけど……念のためにシーラを下に呼んで、あの女からは距離を置いていてくれ」

 イクセルはハーブティーを飲みきるとカップを置き、そのまま立ち上がって勝手口へと向かう。オロフも立ち上がり、勝手口から表へ出ていく彼を呼び止めた。

「……イクセル! お前を縛ることはできないが、俺たちはお前を家族だと思ってる。それを忘れんなよ」

 家族——そう背中に声をかけられ、イクセルは足を止めた。

 普段は眠たげなその瞳を大きく開き、胸の内を一瞬で複雑な気持ちが駆け巡っていく。なにかが許されたような解放感と喜びを覚えるが、それと同時に消し去ってしまいたかった過去の痛みが声高にその存在を主張してくるような恐怖も感じていた。


「……よく、考えてみるよ」


 絞り出すように言うと、イクセルは振り返ることのないまま扉を閉めた。その怯えた子供のようにも見えた背中を見送り、オロフは今日だけで何度目かのため息を吐く。

(……覚悟は、しとかないといけないかもしれんな)

 気が重い心中ではあったが、イクセルに言われたとおりに娘を呼ぶため台所を出て二階へと向かう。階段の一段目を踏んだときにはじめて上を見上げ、そこでオロフは息を呑んだ。喉を鳴らして固まり、やがて歯を食いしばるとやりきれない顔で階段を上がっていく。最上段まで上がりきることなく足を止め、途中の段でうずくまるシーラの隣に腰を下ろした。 

「大丈夫か? ……聞いてたのか」

 隣で丸まる娘の背中を、オロフは心配する顔で眺めた。シーラは踏み面の上に両膝を抱えて座り、顔を隠すように膝へ埋めていた。彼女はオロフの問いかけに顔を隠したままでこくりと頷く。

「あたし、耳がいいから」

 短く答えると、両膝を抱きしめるように抱えた手に力がこもる。その声は、か細く震えていた。

「……イクセル、いなくならないよね」

 その表情を窺うことはできないが、声の調子からは涙交じりに話してるのだとオロフには思えた。ふたりが話していた間中シーラは声を殺して泣いていたのだと悟り、娘の健気さと意志の強さにオロフは優しい笑顔を浮かべた。

「いてほしいと思ってる。だが、あいつは風のような男だ。誰にも、止めることはできないのかもな」

 言いながら、自慢の娘の頭を撫でる。シーラの抱えた膝の間からは、涙がこぼれ落ちていった。

「そう、だね。イクセルは、風だね。…………わかってる、わかってるんだけどっ……! でも、でもいやだよぉぉ……」

 シーラは肩を震わせて泣きじゃくった。

 オロフはそんな娘を黙って抱きしめる。あらためてこの一年間——三人で築きあげてきたものの重み、大きさを実感していく。オロフは不意に込み上げてくるものを感じ、思わず自分の目頭も熱くなるのを感じた。脳裏にはこれまで三人で過ごしてきた思い出が蘇ってくるが、おそらくシーラも同じなのだろう。堰を切ったように泣く娘の頭を胸に抱いて、オロフの目尻からも堪えきれなかった涙がこぼれていった。

 ふたりとも理解していた。

 約二年前、親子が抱える痛みが限界を迎えたときにふたりの関係も限界を迎えようとしていた。

 そんなときに、風は吹いたのだ。

 それは一吹きで抱える悩みや苦しみを飛ばすほどではなかったけれど、ずっとふたりの傍に残って少しづつ胸の内の痛みを削っていてくれた。

 その風は長い時をかけて癒していってくれたのだ。どこにも行かず、ふたりの元にとどまり続けてくれたこと、それは奇跡のようなものだった。

 だから、ふたりは予期していた。いつかは終わるのだと、風を囲って捕まえることなどできないと頭のどこかで理解していたから。

 ただ、理解に覚悟が追いついていなかっただけで。

 ひたすら残酷に、その時は目前に迫ってきていた。

 それを思うと涙が止まらないのだ。それほどに、ふたりはその風を愛したから。

 いつもでも嗚咽の声が響いていった——


 そうしてどれほど経っただろうか。

 ある程度心の整理がついて落ち着いたころ。親子で泣きはらした顔を寄せ合っていると、ぽつりとシーラが呟いた。

「…………父さん」

「ん?」

 しっかりと娘を抱きすくめる父の腕の中で、彼女は小さく息を吸うと、まだ涙の溜まる目を細めて笑った。


「……ありがとうね」

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