第三章 Ⅰ 絶望は暗く、その身を潰す

 暗い夜の闇に抵抗するように、焚火の炎が空へと向かって伸びる。

 いくつかある焚火を男たちが数人ずつで囲み、それぞれのグループが暖をとっていた。その中のひとつ、全体をまとめる立場のクルスが同席する場で、全身に包帯を巻いたディエゴが沈黙を破った。

「クソがっ! あの野郎、土壇場で裏切りやがって! 必ず見つけ出してブチ殺してやるっ…!」

 場にいるすべての男たちの視線がディエゴに集中する。離れたところで暖をとっていた者たちも、なに事かと注目した。

 彼らは、代表のクルスが集めた裏の世界を生きる荒くれ者たちだ。人相悪く一見して堅気ではないと分かる雰囲気の集まりだった。

 そんな彼らを囲うように周囲には大型の特殊車両や機動鎧装の姿が並んでいた。並ぶ機動鎧装はそれぞれ年季が入ってたり傷んでいたりと様々だが、数と武装の質で言えばちょっとした軍の一部隊に匹敵するものだった。

 この場に集まる兵器も人員も、今回の大仕事のためにクルスが用意したものだ。有名な傭兵団から『特別なブツ』を横取りするための備えだったが、話を持ち掛けてきたクライヴの手際の良さのおかげもあり今回はほとんど出る幕がなかった。

 結果的には無駄な出費となってしまったが、保険は常に必要だ。しかもそれが命を懸ける生業なのだから、安く考えるわけにはいかない。だからこそ、クルスは必要経費と割り切って引きずらない。実際、損害が発生しなかったこともあり分配しても儲けは余裕で余りある。今後のことを考えれば、金回りが良いとアピールできることは幸いだ。なにせ、金でしか信頼関係を築けない連中なのだから。


「クソ、クソ、クソがあああぁぁぁ……!」

 再度、ディエゴの怨嗟の声が響いた。

 これまでもその都度に人員や手口を変えて悪行の限りをつくしてきたが、そういった類の者たちで構成されているためか仲間意識などは希薄で各メンバーのつながりも必要最低限だ。お互いをよく知らない間柄だったが、しかしディエゴの短気さは十二分に知れ渡っているようで、もう見飽きたと視線を外す者、またかと嘲笑する者など各々で反応していく。

「なんだよ。見つけたときはもう助からないと思ったが、全然平気そうだな。やっぱりカトルシディアの魔法の水はすごいな。半死人が元気になっちまった」

 同じ焚火を囲む仲間のひとりが、皮肉っぽい笑みを浮かべて言う。他の面々はよせと言いたげな視線をその男へ送った。

「ああぁっ⁉ こっちは笑いごとじゃねぇんだぞ! なんならテメェも同じ目にあってみるか……?」

 嘲りに敏感に反応すると、今にも噛みつきそうな剣幕で吠える。

 耳を大量のピアスで装飾した男は、両手を上げて降参するように首を左右に振った。

「いや、悪かったって。俺はただ、また不死身のディエゴの逸話が増えたと思ってさぁ」

 クルスはため息を吐くと、今度こそ右隣にいるその男を視線で制した。

 男は悪びれない様子だったが、一応はその口をつぐむ。焚火を挟んでクルスの正面に座るディエゴは、収まりがつかない様子で男を睨んだままだ。

 この場にはもうひとり、身体の大きい肥満の男がいた。

 この場は、組織の中核である四人の幹部で焚火を囲んでいた。

 肥満の男は周りの顔色を窺い、けっして口を挟まず静かに暖をとっていた。実際には熱いくらいなのだが、黙って暖をとる振りをすることで場の注意を引くことを避け——特にディエゴの八つ当たりの対象から外れようと努めていた。

「災難だったな。まさか俺たちと別れた後にそんな状況になるとは。しかし、これでクライヴ抜きで化け物の取引先を探さないといけなくなったな」

 いまだ怒りの収まらないディエゴの包帯姿を眺めると、クルスは労わる言葉をかけた。この程度で納得する相手でないことは分かっているので、同時に話題を変えるようにも心がける。

「まぁ、なんとかなるんじゃねぇか? ヤツの素材は機動鎧装にだって使われてるんだ。買い手なんざ、ごまんといるだろ」

 軽薄そうに笑う男が、態度そのままに気楽なことを言う。

 クルスもさして心配はしていなかった。セイバーサウルスが生きたまま手に入ったのだ。欲しいと声を上げる奴は大勢いるはずだ。

 正面のディエゴが立ち上がる。それで話題の変更は失敗に終わったと悟り、密かにため息を吐いた。

「そんな話はどうだっていいんだよ! コケにされて悔しくねぇのか⁉ 奴を捜そうぜ!」

 正面のクルスに向かって叫んでくる。激昂こそしているが、リーダーである彼を説得できなければ自身の願いが叶わぬことを理解しているのだ。

 クルスはあくまで冷静に相手の怒りに歪んだ顔を見返すにとどまるが、隣の男はかまってやりたいようで面白がるように割って入った。

「いや、そんときの襲撃はシュタインローゼの連中だろ? クライヴも今頃は死んでるか、拷問でもされてるんじゃないか」

「馬鹿っ、ちったぁ頭を使えよ! あれが連中だったんなら俺らを逃がすワケあるかよ。きっとあの野郎が俺らに隠してた仲間だったんだ……!」

 ディエゴは怒鳴り、あのとき矢で貫通された己の手を睨むように見つめた。

 射抜かれていないほうの手も、腕全体が風の精霊魔法でズタズタにされたのだ。直後は身体中が似たようなもので満身創痍だったが、特別な治療薬でここまで回復した。まだ安静にしておくべきだが、いまだ感じる痛みと沸騰するような怒りのせいで黙って休んでいることができない。

「ってことはなにか? つまり最初から裏切るつもりで伏兵を用意してたってことか?」

 眉を吊り上げてこちらを見る男を怒りをぶつけるように睨み、傷口に障ってもかまわない勢いで叫ぶ。

「そうに決まってるだろ! 俺たちはハナから舐められてたんだ! このまま黙ってられねぇだろ⁉」

「そうは言うが、シュタインローゼだって辺りをうろついてるんだ。野郎を殺すどころか、このままだったら俺たちの方が危険なんだぜ」

 静観していたクルスもさすがに口を挟む。

 彼にとっては全体の利益と自身の身の安全こそが最重要なので、実のところクライヴを目の敵にしてまで追う必要性を感じていなかった。天秤に掛けても、得するどころか失うものが大きいように思えたからだ。しかし、目の前のディエゴはそう簡単に納得する男ではないし、実際に腹に据えかねた様子でわめき散らす。

「うるせぇっ! 俺は利き腕を潰された上に全身ズタズタにされたんだぞ⁉ このまま黙って引き下がれっかよ!」

「の、わりにはよく動くじゃねぇか。見た目ほど大した傷じゃなかったんだろ」

 ピアスの男は愉快そうだった。これ以上の面倒ごとは御免だと嘆息するクルスは、そちらを手で制する。

「おい、やめろナシオ。ディエゴも落ち着けって。なにも見逃すとは言ってないだろ? とりあえず仕事を済ませて今後の見通しを立ててからだな……おい、ディエゴ!」

 クルスの言葉を最後まで聞くことはなく、ディエゴは背中を向けてその場を後にした。その後姿を見送ると、クルスはやれやれと嘆息する。

 同様にディエゴを見送ったナシオは場に残ったふたりの顔を順に確認する。クルスは渋面で頬杖をついていた。次に沈黙を守り続けた正面の太った男と目が合い、彼が露骨にほっとしたような顔をしたために堪えきれずに噴き出した。



 クルスたちと別れたディエゴは、怒り心頭で歩き続けた。

 並ぶ大型車両たちの横を通っていき、どこを目指すでもなく歩き続ける。

 道中こちらを見る男たちの視線が自分を馬鹿にしているように思えて、胸の内にはますます黒い感情が蓄積されていく。

 ひたすらに歩き続けていくと、やがて最後尾である特別大きな車両の前まで来てしまう。民家ひとつ分ほどありそうな巨大な檻と連結したそれには、周りに見張りが五人ほどついていた。    

 ディエゴは檻のすぐ側まで歩いていくが、見張りのひとりで見知った顔の男がこちらに気づき、確認するように手に持った照明を向けてくる。

「よう、ディエゴ。どうした、ブツの確認でも頼まれたのか?」

 言いながら近づく眼鏡を掛けた男を一瞥すると、ディエゴは彼を無視して鼻を鳴らして目前の檻を蹴った。突然のその行為に、眼鏡の男が血相を変えて駆け寄る。

「っおい……! やめろ、なんのつもりだよっ……⁉」

 眼鏡の男は慌てた様子だったが、けっして大きな声は出さずに言った。彼は背後の檻を気にする素振りをし、ディエゴを遠ざけようと肩を押す。運の悪いことに意図せず触れられた箇所が傷口の真上だったため、その痛みにディエゴは呻いた。

「ぐっ、てめぇ……! この包帯が見えねえのか! ぶっ殺すぞっ!」

 ディエゴは激昂し、身体の中で比較的無事だった頭部で相手に頭突きを食らわす。幸か不幸か眼鏡が吹き飛ばずに済み、鼻を押さえて後ろに後退していく。彼はそのまま勢いよく檻にぶつかってしまう。背後の檻の中から生暖かい湿った空気が吹いていった。そしてほぼ同時に、やはり背後から地に響いていくような低い唸り声が聞こえてくる。

「ひっ……うわぁぁぁっ!」

 眼鏡の男はひどく取り乱すと逃げるように檻から離れ、ディエゴの横を転がっていく。

 ディエゴは男のほうを気にすることなく檻の中を凝視した。

 ただでさえ暗い闇夜の中、その巨大な檻は星の光を防ぐように暗幕が掛けられていた。足元に落ちた眼鏡の男の照明を拾うと、暗幕を軽くめくりながら光で檻の中を照らす。そこには、常人であれば悲鳴をあげて直ちに立ち去る光景があった。

 ごつごつとした鈍い光沢の鱗。

 人の胴体をを容易く両断してしまいそうな鋭い爪。

 極めて巨大な二足歩行の爬虫類————恐竜である。

 それもこの恐竜は特異な特徴を有していて、背中には刃のような大きな突起物が複数本突き出ていた。

 セイバーサウルスと呼ばれるこの種は中央大陸の生態系の中でも一、二を争う獰猛で危険な恐竜で、桁外れな生命力と俊敏性、そしてその最大の特徴である刃や骨格は恐るべき強度と威力を誇っていた。人類の持つ最強かつ代表的な兵器である機動鎧装をもってしても、並の装備ではセイバーサウルス一匹に最低でも五機は必要といわれる。

 そんな凶悪な存在のセイバーサウルスなのだが、檻の中この個体は手足を拘束され、身体の各所が鎖で檻につながれていた。低く唸る口元は、本来であれば禍々しい牙が覗くのだろうが、特製の拘束具で覆われている。背中の刃も鉄板で挟んだ上に鎖を巻かれていて、完全にその自由を奪った状態だった。

 照明に照らされたセイバーサウルスは、縦長の瞳孔の瞳を鋭く細めると、口元を覆う拘束具の下から轟くような低音が響かせる。その迫力は、たとえその身が拘束されていたとしても誰しもが恐怖で後ずさりするだろう。しかし、ディエゴは臆した様子もなく、その類いの感情が麻痺してしまったかのように檻へとさらに近づいてく。

「……あぁん、なにガン付けてんだよ? 檻の中のトカゲ風情がっ!」

 叫ぶや否や、ディエゴは手にした照明を檻に叩きつける。

 ぶつかり合う金属音とそれに反応するセイバーサウルスの唸り声を聞き、後ろで倒れていた男は泡を食って立ち上がると上擦った声を上げた。

「っな、なにしてんだよ! なぁ、頼むからやめてくれよっ……」

「うるせえ、引っ込んでろ!」

 思わずディエゴの肩に触れようとするが、睨みつけられるとぴたりと手を止め、同じ轍を踏まないようにと己の両手を慌てて引いた。

 周囲を警戒していた男たちも何事かと集まってくるが、騒ぎの元凶が誰であるのかを確認すると、またかと呆れつつ巻き込まれるのを嫌って離れていってしまう

 ディエゴは変わらぬ剣幕で怒鳴り続け、ついには矢で射抜かれた右手までも檻へ叩きつける。

「おい、やめろってっ……! 傷が痛むんだろ? もう休めよ、ディエゴ」

「うるせぇ! 俺に指図すんな! 見張りなんてつまんねえ仕事しかできない分際でよっ! どいつもこいつも、なにもかもがムカつくんだよ……!」

 叫び、狂ったように拳を檻へ打ち続けると、巻かれた包帯に血が滲んで広がっていった。眼鏡の男はごくりと息を呑んでその様子を見ていたが、ディエゴのある変化に気づき、ぽかんとした顔で後ずさった。血が滲み真っ赤に染まっていたはずの腕から、気がつけば黒い煙のようなものが立ち込めていたのだ。

 傷口から溢れ出てくるように生まれるそれは、右手だけにとどまらずに、最終的にはディエゴの全身の傷口から噴き出ていく。全身が包まれていくその姿は、まるで黒煙を纏ったようだった。

「っおい、ディエゴ……? おまえ、それ……」

 眼鏡の男は震える声をやっとの思いで絞り出すが、黒煙を纏ったディエゴは意に介した様子もなく、血走った目をして拳を檻へと叩きつける。やがて特殊な合金でできたそれが歪みはじめたころ、黒煙は周囲を覆いつくして視界を完全に奪ってしまった。

 結局それが、この男が最期に発した言葉であり、最期に目にした光景だった———— 



 ディエゴが去った後、クルスたちは焚火の前で酒を飲み交わしていた。

 色気のない容器に入った酒を一気に喉に流し込み、クルスはげんなりとした顔で頬杖をつく。

「しかし、ディエゴにも困ったもんだな。元々怒りっぽいやつだったが、最近特にひどくないか?」

「あぁ、ひどいひどい。あの調子じゃ、そのうち仲間から刺されんだろうぜ」

 クルスに同意して、ナシオが芝居がかった様子で大きく頷いた。彼は安い酒をただ習慣的に身体へと流し入れ、愉快そうに口元を歪める。

「……そりゃ、あんな大怪我したんだ。少し大目に見てやろうぜ」

 ナシオの正面で焼けた肉を頬張る男が、この場の誰を見るでもなく、焚火で炙られる次の肉から目を離さずに言った。

「へっ、やっこさんがいなくなったらよく喋るじゃねーか。どうせ庇うなら本人様がいるときにしてやりゃいいものを」

 ナシオが皮肉気に言うと、巨漢の男は丸い身体をさらに丸めて肉を齧り続ける。ディエゴ本人の前でそんな真似をしようものなら、彼のプライドを傷つけ怒りを買うことは必至だ。互いにそれが分かっているので内心ではナシオに腹を立てるのだが、表に出すことはなく噛みしめた肉と一緒に飲み込んでいく。

「つか、そんなに食ったらまた太るぜ~マルコス」

 ナシオは言い返してこない巨漢——マルコスの大きく出っ張った腹を見て嘲笑する。それでもやはり、マルコスは黙って肉を食すのみだったが。

 クルスはそんな部下たちの様子に苦笑する。手元の酒が空になると安酒の瓶を掴むが、彼はすぐには注がず瓶をしかめた顔で眺めた。

「やれやれ。さっさと大金掴んで豪遊したいぜ。あいつもそうすりゃ——」

 クルスが最後まで言いきる前に、突然に耳をつんざく轟音が地鳴りと共に響いた。驚くクルスが握る瓶が揺れ、その中の酒が派手に跳ねて波立つ。ナシオも手元の酒を溢し、一気に酔いが醒めた顔で立ち上がる。

「おい、なんだ今の音っ…⁉」

 質量のあるものが跳ね飛ばされて地面に激突するような音だった。そして続け様になにか硬質な物質が同じく硬質な物体を引き裂くような強烈な音がする。

「っなんだ? なにごとだっ!? 敵襲か⁉」

 寝入っていた者たちもこの騒音に目を覚ましたが、これによって怒鳴り合う声があちこちで響いていき、辺りはより騒然としたものとなっていく。

「……まさか、化け物の拘束が解けたのか?」

 クルスは喧騒の中ふらつきながら立ち上がり、呆然として呟いた。その様子を酒が入っているにもかかわらず青白い顔で見ると、ナシオは悲鳴のような声をあげた。

「おいおい、嘘だろ⁉ シュタインローゼの移送車両をそのまま頂いてきたんだぜ……連中自慢の高硬度合成金属の拘束具が、引き千切られたってのかよっ⁉」

 唾を吐かれるようにわめかれ、クルスは渋い顔で呻く。

「っ分からん……もしかするとシュタインローゼの連中が取り戻しに襲撃を掛けたのかもしれん。お前、先に行って様子を見てこい」

「はぁぁ⁉ 嫌だよ、なんで俺がっ!」

 クルスは露骨に首を振るナシオを置き去りに、隣で固まっていたマルコスの肩を叩いて走っていく。マルコスが慌てて立ち上がりクルスの後を追っていく。その場で難色を示すナシオへクルスが振り返り言う。

「俺は、搭乗者連中を集めて機動鎧装を出す! つべこべ言わずにいいから行けって!」

 クルスはそう言い捨てると、そのまま機動鎧装のほうへ走っていってしまう。残されたナシオはその背中に届くよう精いっぱい声を張り上げた。

「ちっ…! 今回の取り分、絶対に大目に寄越せよなぁ!」

 クルスに大きく後れをとるマルコスの背中を一瞥しつつ、ナシオも身をひるがえして反対のほうへと走り出す。苦し気に息を吐き、アルコールを入れたことを後悔しながら喧騒の中を駆けていった。途中で誰かのバイクを勝手に借りて目的地へと急ぐ。道中でひっくり返った車両を通り過ぎ、ひしゃげて大破したそれが先ほどの音の正体だったのだと理解した。したところで、むしろこの先へ進む思いが鈍るだけだったが。

 それでもナシオはクルスに一目置かれている組織の幹部だ。今の地位にいることで旨い思いも散々としてきた。今後もそれを続けていくためには、仕事をこなせる能力があることを誇示していかなければならない。

(くそ、最悪だ。最悪だが、いくしかねぇか……!)

 内心で悪態をつきつつも前に進むと、ぱたりと人気がなくなっていく。どうも見張りについていた大半が逃げ出してしまったらしい。道中で行きあった者たちに状況を訊ねればよかったと後悔するが、意を決してそのまま奥へと進んでいく。

 バイクの照明だけが先を照らす頼りだったが、辺りには誰かが落としていった明かりが残り、より大きな光源として大破して燃ゆる車両たちが周りを照らしていた。


「おい、なんだよこりゃ……」


 目的の場所だったセイバーサウルスの檻の前まで来ると、力のない呟きが漏れた。そこにあったものは、元の強固で厳重な原形を留めておらず、もはや檻とは呼べないただの残骸だった。セイバーサウルスを拘束していたあらゆるものが砕け飛び散り、特殊な合金で作られていたはずの格子はそのほぼすべてが両断されていた。

 危険な香りならこれ以上ないほどした。

 それでも覚悟を決め、バイクを降りてより状況を観察する。なにかの液体の上を歩いていき用心深くセイバーサウルスの行方を探す。しかし、付近には誰もいなければ死体もなく、周囲にはセイバーサウルスの影さえもなかった。あらためて辺りを見渡してみると、火花を散らして燃え上がる車両からの炎が足元に広がる液体が血の海だったと教えてくれる。

 ナシオはごくりと喉を鳴らして後ろへ下がったが、なにかに蹴躓いてしまう。血の海に両手をついて倒れると、飛び散った血で顔と身体を派手に汚した。

 理性が焼き切れたように呆然として、足が引っ掛けたものをゆっくりとした動作で確認すると、それを引き寄せて手に取ってみる。ぐっしょりと紅く濡れたそれが、ナシオは一瞬なんだか分からなかった。ほどなくして、それが誰かの腕だと気づく。あまりに真っ赤に染まるそれが、血を限界まで吸い取った包帯のせいだと知ると、それが誰の腕だったのかが分かった気がした。

「……う、あぁ……あ、はぁ、はぁ……」

 この場にいてはいけない。

 そう分かっているはずなのに、血の海に浸る足は凍ったようにぴくりとも動かなかった。そうして現実感のない光景を虚ろに眺めていたら、尻に敷いた血の海に波紋が走った。低い音を立てて、重い振動がこちらへ歩くように近づいてくる。ナシオの脳はそれをクルスたちが機動鎧装で駆けつけたのだと、そう思った。しかしそれは間違えようもないほどに聞き慣れた機動鎧装の足音ではなく、なにより音の間隔からいって複数のものではなく、この足音は単体のものだった。

 身体が、いまさらに激しく震え出す。

 この身にこれから起きることを、無意識に理解してしまっているのだ。視線が忙しなく血の海をさまよっていき、そしてナシオは最後にきちんと理解した。これだけのおびただしい大量の血だというのに、手に握る腕のほかに、誰の死体の欠片もないその理由を。

 背後の振動が近づくたびに震えが激しくなり、目元からは許しを請うように涙が溢れ、嗚咽する歯の根が合わない口からは胃の中の酒が吐き戻された。口元を汚したまま、叫ぶこともできずに呟く。

「嘘、だろ。うそだろ、なぁ………………頼むよ」

 風と勘違いするほどの生温い息を大量に背後から浴びせられ、祈るように呟いたが、ナシオの視界は一瞬で鮮血の世界から真っ暗なものとなった————




 クルスは狭い箱の中、機動鎧装のコクピットにその身を置いていた。

 コクピットには計器類や機器が所狭しと並べられるが、ちょうど視線の位置、空間の中段部が搭乗者を中心にモニターがぐるりと回るように設置されていて、まるで大きな輪の中に身を置くような感覚だ。両手、両足をそれぞれ操作に必要な機器の定位置に置き、モニターから外の視界を確認すると深く息を吸った。

「——よし。全員、準備はいいな?」

 自分ひとりのコクピットの中でクルスは言うと、首を左右に向けた。

 機動鎧装にも様々な使用があるが、クルスたちの扱う機体は頭部が稼働しない全方位型カメラを採用している。この仕様の特徴は周囲の状況を確認するためにいちいち頭部を動かす操作をしなくとも構わないところだが、その代わり操縦者がコクピット内に反映される外部映像に対して直接己の視界を向けなければいけなかった。複雑な稼働をオミットしているので故障する危険性を考慮せずに済み、また整備補修が容易なため比較的安価で入手できる機体ではあるが、操縦者には負担がかかりやすい負の部分も持ちあわせていた。

 頭部に備えられたカメラが、周囲に立つ仲間たちの姿を内部のモニターに映し出す。この世界の戦争において主力兵器である機動鎧装が自機を含めて計十四機。

 人を模した巨大な兵器たちであるが、この場にあるものはどれもが二足歩行の同じ構造の型をしており、基本的に全身が薄いグレーで統一されていた。

 すべての機体が<火の国>に複数あるうちの一工房で生産されたもので、量産機であるこれらは外見上の差異はほぼないのだが、右側の肩の一部分にそれぞれ番号と色が振り分けられている。この世界において一般的に広く普及する機動鎧装の識別方法だ。 

「ったく、なんなんだよ今回は。ケチのつきっぱなしじゃねぇか」

 クルス機の隣に立つ青い肩の機体が、スピーカーで不満げな声を外に響かせた。

「ガス、腐るのは後だ。儲けがふいになるかって状況かもしれん……」

 クルスが同じようにスピーカーで声を発する。

 指揮官としてそのまま先頭をきって機動鎧装を歩行させていくが、今度は緑の肩の機体が隣に並んで語り掛けてきた。

「ナシオが帰ってこない。あいつとディエゴの機体をそのまま遊ばせておくのは、もったいないんじゃないか? 誰かを適当に放り込むべきじゃ?」

 聞こえてきた声はマルコスのものだった。足を止めることのないように操作しながら、クルスはマルコスに返事をする。

「いや、それこそ時間がもったいない。どのみち、操縦できるやつもいないんだ。壊すのが前提ってんじゃ、出撃させる旨味がない」

 言うとクルスはそのまま部隊を引き連れて進んでいく。

 機動鎧装の背すら越す巨大な樹木の間を通っていき、独特な駆動音と振動を伴う大きな足音を立てながら、セイバーサウルスを捕獲してるはずの特殊車両を目指し夜の空の下を歩く。人間のそれとは違い巨体ゆえに一歩の歩幅が大きいため、大破した車両たちの横を通り過ぎて短い時間で目的地に到着する。

 しかしクルスは息を呑むと、自分たちの到着が遅きに失したことを悟った。

 セイバーサウルスを拘束していた檻は見るも無残な残骸と成り果て、辺りを見張っていたはずの者たちの姿は忽然と消えてしまっていた。倒された車両からは炎が夜空を裂くように勢いよく燃え盛り、照らされる機動鎧装の足元には赤い鮮血が染みのように広がり大地を汚す。

 状況は酷いものだった。周囲に死体がないことと、肝心のセイバーサウルスの姿がないことがその異様な不気味さに拍車を掛けている。

(なんだ、この状況は……いったいなにが起きたんだ。ナシオのやつはどうした……?)

 クルスはひどく混乱していた。ほんの少し前までは、皆で勝利の美酒に酔いしれていたのだから。

 たとえそれが、実際には不味い安酒だったとしても。

 たとえ、ディエゴや一部の者たちが不満の声をあげようとも。

 たとえこれから先、腕利きの傭兵団に狙われたとしても。

 それらを帳消しにして余りある財を手にするチャンスを、確かに手にしていたはずだったのだ。これから先、自分たちはさらに勢力を拡大していき、より強者としてその名と存在を知らしめていくはずだったのだ。

 そうであったというのに、クルスの胸中を占めるものは、現状自分たちの未来が悪いほうへ向かってしまっているという予感だけ。

「まさか……本当に拘束を解いて逃げ出したのか?」

 ガスの声が沈黙を破る。

 呆然としていたクルスははっとして正気を取り戻す。

 生きている以上は、まだ最低限すべきことがある。それは、この場を殺されずに生き残るということだ。

 後ろ向きな気分であっても無理やりに気を引き締め、同じように固まっていた部下たちに指示を出そうとする——だがクルスがそうしようとしたとき、何処からか底気味悪い唸り声が低く響いてきた。

「ど、どこだ。どこなんだよっ⁉」

 ガスが代表するように狼狽した声をあげたが、他の皆も同様に機動鎧装の中で怯え、震えているだろう。

 クルスはセイバーサウルスの位置を探るために索敵機能を操作する。が、何故なのか反応するのは味方機ばかりだった。

(なぜだ。なぜ、見つからない?)

 僅かな瞬間クルスは索敵操作に気をとられていたが、その合間に木々の間からなにかが高速で飛来してきた。反応すらできなかったひどく小さなそれは、隣に並んでいたマルコスの機体の頭部へ直撃した。カメラの位置で砕け、へばりつくように残る。

 他の面々の位置からは、赤い斑模様の球のように見えていた。砲撃の類ではなく、実際にマルコスの機体が無事だったことに、クルスは冷や汗をかきつつ安堵の息を漏らす。

 しかし、マルコスの視界、操縦席のモニターに大きく映し出されたそれは、人の生首——その残骸だった。鮮血にまみれた顔面の大半はこそげ落ち、頭蓋骨が砕けた頭部からは脳が大きく露出している。辛うじて判別できるのは損傷の少ない左の目元くらいだが、マルコスは吸い寄せられるように別の一点を凝視した。所々が千切れてしまっているが見覚えのある、無数のピアスで飾られたその耳を。大きな仕事を成功させるたびに増やされていった輝きたちだが、内心で密かに羨んでいたそれらを、マルコスが忘れるはずもなかった。

「っひ……ナ、ナシオォォォっ⁉ うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……‼」

 マルコスは体格のせいで窮屈な操縦席でもがくと、涙目で絶叫をあげた。

 彼の叫びを聞いて全員が驚き、各々が慌ててモニターを拡大するように操作しだした。マルコスの機体にへばりつく赤い点の正体が人間の生首だと知ると、いち早く確認したものから口々に声を上げていく。

「ナシオだってっ⁉ それ、ナシオの頭なのか……⁉」

「マジかよ……あの化け物にやられたってのか」

「落ち着け、落ち着けって! と、とにかく背中合わせで周囲を確認するんだ! 近くにいるってことだぞ!」

 クルスはざわめきだした周囲を制しようとするが、誰よりも付き合いの長いナシオの死に、内心では誰よりも動揺していた。

 機動鎧装を全機出撃させるまでは時間が掛かる。それを見越した上で、先行偵察に最も信頼するナシオを行かせたのだ。彼から報告の無線が入らなかったので嫌な予感はしていたが、まさかこんな形で死んでいたとは。

 索敵反応では相変わらずセイバーサウルスを捉えることができない。このことも、クルスの焦る気持ちに拍車を掛けていた。

 全機が索敵を行うが、お互いの機体反応しか確認できない。静寂が辺りを包んでいた。

「うっう、ひっくっ、ちくしょう、なんでこんなことにっ……」

 マルコスの嗚咽だけが闇夜に響く中、機動鎧装に備え付けられた大型のライトが周囲を照らしていく。全員が極限まで緊張を高め、モニターが映す外の映像を凝視していた。

「……ッ! い、今なにか。なにか、見えたような」

 マルコスの隣にいた機体から怯えた声が上がり、そちらのほうを警戒する全員が注目すると正面の木々が揺れた。マルコスは画面を拡大させ、ライトの光を浴びて反射する巨大な刃を木々の間に確認する。

「うわぁぁぁっ!? いた、いたぞっ……! あそこっ———」

 マルコスが叫ぶと同時に目前の大木たちが薙ぎ倒されていき、闇夜に紛れるような黒い影がそのまま突進してきた。

 クルスたちは巨大な怪物を避けるように回避行動をとったが、味方機に挟まれていたマルコスの機体は迫るセイバーサウルスに回避が間に合わずもろに刃を浴びた。巨大な身から突き出る特大な刃は、見た目にそぐわぬ鋭さでマルコスの機動鎧装を容易く切り裂いていき、胸部から胴を両断され、上半身と下半身に別れた機体が派手な音を立てて地面に倒れていいく。

「っマルコス! おいおい、マジかよ。機動鎧装の装甲がまるで役に立たねぇぞ……!」

 ガスが嘆くように叫んだが、クルスにそちらへ構っている余裕はない。

 機体を操作して装備した機銃を相手に浴びせていく。クルスに続いて仲間たちも攻撃していくが、セイバーサウルスは刃をはじめとする身体の硬所を利用し、弾丸や砲撃を防いでしまう。

 セイバーサウルスは巨体に似合わぬ俊敏性を発揮してクルスたちの陣形を乱していくと、翼のように広がる背中の鎌状の刃で、一気に複数体の機動鎧装を仕留めていく。

(——なんだ、こいつは。本当に、俺たちが横取りしたあのセイバーサウルスなのか? 明らかに巨大化しているし、それにあの黒い身体と煙はなんなんだ……⁉)

 仲間の機体が切り裂かれて宙を舞っていく中で、クルスは相手の異様さに戦慄していた。彼らが最後に見た姿からは同じ個体と思えないほどに、目の前のセイバーサウルスは大きく変化していたのだ。黒く染まった体表からは正体不明の黒い煙が噴き上げ、倍ほどに大きくなった身体には強靭な刃がその数を増やして生えている。己の目を疑いたくなるほどに短時間で劇的な変化をみせていた。

「……なんなんだよ、この化け物は! 檻に入ってたときよりデカくなってるじゃねぇか⁉」

 セイバーサウルスの変化に言及してガスは叫ぶと、小型の追尾ミサイルを発射した。至近距離で放たれたミサイルはセイバーサウルスに命中し、闇夜を照らす大きな爆炎を広げる。とっておきの一撃だったそれは火の精霊魔法が大量に込められた高価な特製品で、彼にとってまさしく最後の切り札でもあった。

 精霊魔法の衝撃に息を呑むクルスは、機体を爆炎から逃れるように後退させて距離をとった。

「どう、だ? やったのか……?」

 呟くがそれに応える者はおらず、誰しもが燃え上がる火柱を見つめつつこれで終わりであってくれと祈っていた。しかし思い虚しく、火炎の中からはその色を侵すような漆黒の煙が立ち上っていき、炎が覆いきれなかった四肢が動いたのだった。怒るような唸りを上げて、セイバーサウルスは身を包む炎を払っていく。

 攻撃箇所をよく見てさえすれば、そのただれた表皮から有効打であったことが分かるのだが、目の前の怪物を前にしてその場の全員が恐怖に飲み込まれてしまっていた。

 全員が硬直する中であっても、セイバーサウルスは容赦なく殺意を向けてくる。 ひと跳びで手近な機体へ強襲して押し倒すと、己の手足で相手の四肢の動きを封じ、大きく開いた口で胸部へと噛みついていった。禍々しく並ぶ強靭な歯で耳障りな音を立て、鋼をものともせずに喰い千切っていく。砕けて散らばっていく機動鎧装の破片に混じり、真っ赤な肉片が口元からこぼれ落ちていった。

「……っやってられるかよ、こんなもの!」

 仲間のひとりの機体が弾を打ち尽くした装備を捨てて身を軽くし、その場を離脱するために背を向けて走り出す。彼に遅れて、ガスや他の者たちも逃げるように後を追っていく。

 クルスはコクピットで暴れ回りたい心境だったが、なんとか自制を働かせて近接装備の大型ダガーを引き抜く。それを構えながらガスたちへ呼びかけた。

「っおい、退くな! ここで退いたら、儲けどころか大損害なんだぞ⁉」

「冗談じゃねぇ! こんな化け物、相手にしてられるかよ! 装甲が紙同然なんだぞ⁉ 死にたきゃ勝手に一人でやってろ!」

 吐き捨てると、ガスたちは躊躇することなくクルスを置いて走っていった。

 セイバーサウルスと相対するクルスは背を見せることができずに睨み合うが、目の前の漆黒のセイバーサウルスは一際大きな咆哮を上げ、異常に発達した健脚で地面を蹴るとクルス機の頭上を軽々と飛び越えていく。そのまま弾丸のような勢いで宙を飛んでいき、身を捻り回転しながら周囲にあるものを切り裂きつつ着地した。

 一瞬で惨劇が行われた。

 なます切りにされて残骸として散らばる機体もあれば、切り倒された巨木に潰されて身動きのとれない機体もあった。そのまま木と共に足元に転がる機体を踏みつぶすと、セイバーサウルスは背から伸びる刃に目を向けた。刃の切っ先に、ガスの搭乗する機体が腹部を貫通されて引っ掛かっていた。

 ぎょろりとした目を細めると、首をガスの機体へと寄せていき、力なくぶら下る脚部めがけて噛みついた。脚部を口の中へ収めると、そのまま刃が刺さる機体を揺すっていった。腹部に刺さる刃が、異音を立てて小刻みに操縦席がある胸部へと向かっていく。

「ひっ、やめてくれ……殺さないでくれぇぇぇぇぇ‼」

 クルスが呆然と見ている前で、搭乗部の開閉機能が壊れたのか、あるいは刃を受けた際の衝撃で怪我でもしたのか、ガスは機体から脱出せずに絶叫を響かせた。しかし機体の上部へ向かう刃は止まることなく機体を切り裂いていき、ついには胸部へ到達するとガスの絶叫も止んだ。

 肩から刃が抜け、落とされたガスの機体が地面へ沈む。その様子をただ茫然と見ていたクルスは、ひとりになった戦場で呟いた。

「……なん、なんだ……こいつは。まさか、噂で聞いた変異進化をしてるっていうのか? 俺は、いったいなにを相手にしているんだ」

 呟きに反応したのか、セイバーサウルスが背後のクルス機のほうへと向きを変えた。呆然としていたせいで、唯一の逃走のチャンスが失われた。

 クルスは接近されることを嫌い、先制して両手に構えたダガーのひとつを投擲すると相対したまま後ろへと下がる。セイバーサウルスはダガーを避ける素振りもせずに、足元の残骸たちを踏み散らかしながら突き進んでいく。ダガーは命中こそしたものの、黒煙に包まれた身体に弾かれてしまいあらぬ方向へ飛んでいく。

「くそっ、やはりダメか……! くそ、来るんじゃない!」

 クルスはこちらへ突き出された刃を残ったダガーで受けとめようと試みるが、こちらのちっぽけな兵装とは比較にならない質量のそれは、ダガーを握る腕ごと貫いて破壊してしまう。切っ先が胸部を引っ掛けていき、装甲を抉りながら機体が倒されていった。機体が地面を削るように激突し、襲う衝撃に操縦席が激しく揺られ、クルスは悲鳴も上げられずに脳髄を揺さぶられる。

「ぐっ、くぅ…………」

 操縦席を守る装甲が大きく切り裂かれ、その傷跡からは外の景色が覗けるほどだった。破損した破片で傷つけたか、額からは血が流れる。数秒ほど意識を失ってい、操縦席に響くけたたましい警告音にクルスはぼんやりとした目を開ける。握ったままの操縦桿が反応しないことに気づかされ、クルスはひどい眩暈に抗うと身体を保護していたシートベルトを外していく。

「最悪、だ。まさか、ここまで運がついていなかったとはな……」

 ひとり呟いていくが、激しく揺さぶられた脳は正常な判断ができずにいた。

 なんのためにベルトを外すのか、それを外して外に出たとしてどうするつもりなのか、錯乱したクルスにはなにも考えられなかった。

 正式な開閉口が壊れて機能しないので、正面の裂かれてできた穴から這いずるように抜け出した。力の入らぬ四肢では身体を支えきれず、頭から地面に突っ伏してしまう。

 額を濡らす血の感触に、はじめは自分のものだろうとぼんやりと考えたが、顔全体にまで広がった血の量に違和感を覚えた。顔を上げると、血の海の中、臓物が飛び散る人の断面が目に飛び込んできた。大量に血液を失ってしぼんだそれは、マルコスのものだった。機動鎧装ごと両断された彼は、操縦席に収まったままこちらに腹の中身を露出させていたのだ。

 思いのほかクルスの機体が吹き飛んでいかなかったのは、マルコスの機体がストッパーの役目を果たしたかららしい。

 マルコスの死体から目が離せずにいたが、少し視線をずらすと、倒れたマルコスの機体越しにセイバーサウルスがこちらを覗き込んでいた。暗闇の中でも爬虫類の獰猛な瞳と目が合うと、クルスの喉からは壊れたような笑いが漏れていった。


「……は、ははははは…………っうわああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」

 

こちらへ近づくセイバーサウルスの口元は、食い散らかされていった仲間たちの血で真っ赤に染まっていた。

 絶叫を上げるクルスはひどい悪臭と熱気を感じる口内へと収まり、肉と骨が断ち切られる鈍い音を自らの身体で鳴らしながら、セイバーサウルスに咀嚼されていった——

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