第二章 Ⅲ 契約者
見上げた空は、翠に輝いていた。
黒い雲が所々に光を覆うが、強い勢いをもつ風がそれらを散らしていく。
村の面々のほとんどが空を見上げ押し黙ってる中、不安そうな表情のシーラが誰に向けるでもなく不安げに呟いた。
「な、なに? あの空……」
イクセルはそれには答えずに走りだし、オロフの家へと駆け込む。
自分が使わせてもらっている部屋に滑り込むように入っていき、愛用の弓と矢筒を手に取るとすぐさま踵を返した。手にした矢筒を背に掛けながら表に急ぐ。変わらずに空を見上げてた村人たちが不安でざわついていた。
(頼む、イーヴァル。繋がってくれ……!)
イクセルは目を閉じると精神を集中させ、心の中でイーヴァルに語りかける。
瞬間、涼しい風が耳元を吹き抜けていき、目を開けるとその瞳は淡い翠の燐光に包まれていた。
「おい、イクセル……」
目の前に来たオロフが戸惑った様子で話しかけてくる。しかしそれには応えない。イクセルは焦点の定まらないぼんやりとした瞳に光を灯し、沈黙する。
(——よし、繋がりは切れていない)
イクセルは視界に広がる世界に集中する。
しかしそれは彼の身体の前で村人たちがひしめく光景ではなく、遥か上空を飛翔するイーヴァルが見てる空の中の景色だった。
イーヴァルの視界に同調するイクセルは人の目ではけっして及ぶことのない遥か遠方を収め、翠の光を放つ風が激しく渦巻く中、周囲の雲を汚すように黒煙をまき散らす軍艦の存在に気づく。
さすがに視界の奥で小さく見えた程度のものなので、細かな全容を捉えることはできはしなかったが、それでもイクセルはある程度の状況を漠然と理解する。
一度目を閉じると燐光は消え、元の視界に戻っていた。
目の前に立ってこちらを見ていたオロフに身を寄せると、周囲に聞こえないように小声で囁く。
「……空の上に軍艦がいて、なにか問題があったみたいだ。たぶん不時着すると思うけど、進行方向は<地の国>だから村に直接の被害はないと思う」
「……なにっ!? 軍艦って、戦争か? なんで、何処と何処の国だ……!?」
オロフは同じように小声で囁くが、唾を吐き慌てまくし立ててくる。イクセルは眉を寄せ、先ほど見た光景を思い出しつつ言ってみる。
「それは、分からない。撃ち合いをしている様子じゃなかったけど……。一応、見てくる」
「っちょっと待て……! 危険じゃないか? 行くなら、せめて俺も」
偵察のための支度をするべく急ぎ振り返るオロフを、イクセルは腕を掴んで止めた。付いて来たさそうな彼に、陰鬱とした顔でかぶりを振る。
「いや。あんたは最悪のことを考えて、村の皆に指示をしておいてくれ。荷物をまとめて、いざとなったらここを離れられるようにしとくんだ」
喧騒が起こり落ち着きを失った人々を順に見回しつつ、イクセルはシーラの姿を捜す。混乱した人の群れの中にシーラの姿を見つけるが、彼女は同世代や年下の子供たちに囲まれていた。どうやら騒ぎの最中に泣き出した子供たちを必死になだめていたようだ。
イクセルがそちらを見ていると、オロフも視線を追って娘の懸命な姿を見つめた。彼は拳を握りながら苦い顔で呟く。
「マジかよ。ここは他所からの移民ばっかりで、二十年掛けてやっと村として安定してきたってのに……」
イクセルは彼に掛ける言葉が見つからなかった。握っている弓へと視線を落とした。自分が今すべきことは言葉を紡ぐことではなく、行動することだ。
「とにかく、よろしく。……もし直接被害が及ぶようなら、俺が『撃ち抜いて』みる」
イクセルは昏い表情で言い、そのままオロフから離れて群衆の間を駆けていく。
置いていかれたオロフは走り去っていくイクセルの背中に声をかけた。
「おい、イクセルっ! 気をつけろよ!」
返答のないままその背中が小さくなっていくが、彼が握る弓——その弓に埋め込まれた精霊石の翠の輝きに期待を込めた。
突然に聞こえてきた父の声にシーラははっとして辺りを見渡した。
視界の端で、イクセルが村を出ていくのを目撃する。
声をかけようと息を吸ったときには遅く、彼はあっという間に視界の外へと消えていってしまった。
「っごめん、ちょっとごめんね! ……父さんっ、イクセルはどこに行ったの⁉」
周りの人だかりを押しのけて進み、シーラは困惑した顔でオロフの所へとやってくる。オロフは駆け寄ってきた娘に頷くが、緊張を隠しきれずに厳しい顔をしてしまう。
「ああ、様子を見てくるらしい」
「え? そんな、ひとりで危ないよ! だめだよ、そんなっ……!」
「ちょっと待て、あいつならきっと大丈夫だから!」
オロフは慌てて手を伸ばし、言うや否や駆け出していってしまいそうなシーラの手を強く握った。シーラはその手を振りほどきこそしないものの、気が動転した様子で視線を父と村の出口へと行ったり来たりさせる。
「大丈夫だ。落ち着けっ、シーラ! ここで、あいつ以上に頼りになる男なんていないだろう?」
「だけどっ! だけど……」
娘の力の抜けていく手に視線を落とし、オロフは握っていた手をそっと離した。俯くシーラの顔に手をやってこちらを向けさせて、その不安そうな瞳を覗き込む。
「あいつだって無茶はしないさ。今はそれよりも、もしも村を離れても困らないように急いで荷物をまとめるんだ。いいな? 俺は村長と皆にも言ってくるから」
オロフは娘を安心させたい一心で力強く笑ってみせる。彼は娘の頭を撫でてからその場を離れると、村人たちに荷造りするように促しつつ村長を捜すべく走った。
父の背を見送ったシーラは空を見上げた。
目を閉じて手を組み、風が泳いでいく空に祈るように呟く。
「……ちゃんと帰ってきてよ、イクセル」
巨大樹が立ち並ぶ森の中を疾走するイクセルの脳裏にあったのは、これから先に待つ未知の軍艦のことなどではなくで今日のシーラの泣き顔だった。
(……ずっと一緒に、か。これはつまり、そう言われてしまう程度には長く居過ぎたってことだよな)
一気にかなりの距離を走り抜けると立ち止まり、大きく息を吸い、乱れた呼吸と鼓動を落ち着かせるように努めた。荒い呼吸に苦しみながら額に掛かる長い髪をかき上げて、手の甲で額に噴き上げた汗を拭う。
「はぁ、はぁ。っくそ、なまってるな。平穏な生活が長すぎたか……。この分だと、あまり精霊魔法も連発するわけにはいかないか」
乱れた呼吸そのままに呟くと、近くの立派な巨木にもたれ掛かり、疲労した身体を少しの間あずける。
(最近、また夢を見る頻度が上がってきた。……もう潮時か。ああ、そうだよな)
胸中でひとりごち、気怠げな顔をして目を閉じる。
そうして僅かなときの間に身体を休ませていると、すぐ近くで木々が揺れる音がした。慌てた様子もなく静かに目を開き、音が聞こえたほうを向くでもなく、正面の大木をぼんやりと見つめる。
心地よい清涼感のある風が身体を吹き抜けると、肩にイーヴァルがとまっていた。
「……イーヴァル」
相棒の精霊の名を呼び、身体をあずけていた幹から身を起こして立ち上がる。そのまま歩き出すが、再会したばかりの精霊は翼を広げて飛び上がり、近くの枝の上へと着地した。
そちらを特に気にした様子もなく、イクセルは歩いていく。
通常、空を自由に飛行できるイーヴァルとでは移動速度に差が出るため、彼が先行するイクセルを後から追いかけることも少なくない。そのために今回もいつものように前を歩いていくが、しばらくすると胸に妙な違和感を感じ追ってこない相棒のほうへと振り返ってみる。イーヴァルは先ほどの位置からぴくりとも動かずに、イクセルの進路方向とは逸れた方角をただじっと見続けていた。
「……どうした? なにが気になるんだ」
イクセルが問いかけようとも、イーヴァルは身じろぎ一つしない。
息を吐いて相棒が見つめる方を向くと、イクセルは目を閉じてイーヴァルとの同調を開始した。一瞬後に開かれた瞳は淡く翠に輝き、その視線は遥か先の光景を眼前のことであるかのように捉える。
イクセルは視線を動かすことなく腰元に挟んでいたバンダナを取ると、前髪をかき上げてその上から巻き付けた。
前髪が掛かることのなくなった光を放つ瞳を細め、胸中でひとりごちた。
(————やれやれ、これは面倒くさい)
街道からは外れた森の中で、地元の人間でも旅行者でもない者たちがたむろしていた。
そこにいた大半は、一言で言うと柄が悪い男たちだった。全部で八人はいる男たちは、大きめの特殊装甲車両にそれぞれ立ったままもたれ掛かり、あるいは背をあずけて地面に腰を下ろしていた。
休息をとっているような様子だったがその内の一人、顔に傷がある痩身の男が立ち上がる。男の足元には、この場で唯一の女性が手足を縛られた状態で倒れていた。
艶のある黒髪が肩口まで伸び、透き通るような白い首筋にかかる。
大抵の男が生唾を呑むような絶世の美女なのだが、頬がぶたれたように赤く、口元には猿ぐつわを噛まされた。
傷の男は足元に転がる女を嗜虐的な目線で一瞥すると、頭上を見上げて声を張り上げた。
「……どうだ、さっきの軍艦の様子は。やはり追手か……!?」
それは一言で表すなら、鎧を纏った巨大な人形といったところだろう。
より正確に言うなら人の形をしているのは上半身だけで、下半身は箱型をしていた。その底部には巨大な球体が設置されている。まるで舟を漕いでいるか、あるいは棺桶から上半身のみを起こしたような見た目をしていた。
その全高は二階建ての家を優に超え、厚い装甲に覆われた全体は角張り、見る者に堅牢堅固な印象を与える。
人が搭乗し操るこの大型兵器こそが、この世界で繰り返される戦争で活躍する主力の兵器——機動鎧装と呼ばれるものだった。
傷の男の呼びかけに応えるように、機動鎧装の胸部装甲が展開し、その内部から男が現れた。
男は日によく焼けた大柄な身体つきをしており、しっかりとした鼻筋と突き出た額など、総じて彫りの深い顔立ちをしていた。その顔にむすっとした不貞腐れた表情を浮かべ、表情そのままに愛想なく言い放つ。
「——いや。紋章や識別番号を偽装していたが、あれはたぶん<火の国>の艦だろ。さすがに異国の軍の部隊が俺たちを捕まえに来たってことはないだろうから、問題はないはずだ。そもそも、昨日の今日でそんな大事になってたまるか」
下からだと上の男の顔がよく見えなかったのか、傷の男は気にした様子もなく頷くと安堵したように息を吐く。
「そうか、安心したぜ。ブツを運んでる本隊ともはぐれちまったからな。さっさと合流しようぜ」
傷のある男はにやけながら言うと、周囲の男たちに立ち上がるように手で促す。 その様子を上から見ていた男は、我慢ならないといった様子でこめかみに筋を浮かばせて下に向かって怒鳴り散らす。
「……元はといえば、あんたが最後にいらん挑発したせいだろうが! こっちはお嬢さんを人質にとってる時点で逃走は確実だったんだ! 打ち合わせの時に散々念を押しただろうがっ!? 連中を相手に、ちゃんと駆け引きは成立していたんだ!」
頭上から降りかる怒鳴り声に眉間にしわを寄せると、傷のある男は小馬鹿にしたように笑った。
「へ、分かるもんかよ。相手はあのシュタインローゼだったんだぞ。こっちが本気だって分からせないと、人質の意味だってねぇだろうが」
「……そいつはどうも。入念に探りをいれて連中の血の結びつきの強さを把握したことも、苦労の交渉の末に人質解放の誠実性を信じ込ませたのも全部無駄になったよ! ありがとうよ!」
日焼けの男は機動鎧装のコクピットから飛び下り、装甲の曲面を利用して一気に降りてくる。そのまま傷のある男のほうへ向かい、指を立ててがなる。
「ついでに言わせてもらうと、こっちの信用がなくなった以上連中が追撃してくる可能性が高まったんだよ! マジで人の努力を無駄にしてくれやがって!」
「へ、胆が据わってねぇ野郎だな。追って来るっつーんだったらよ、こっちの本気を見せつけて連中の意思を挫いてやればいいのさ。なぁ、嬢ちゃん? 確かテレージアっていったっけか」
こちらに近づいてくる日焼けの男を鼻で笑うと、傷のある男はしゃがみ込み足元のテレージアの髪を掴んで上半身を引きずり起こす。得意げな顔で彼女の瞳を覗き込む。後ろ手に拘束されている彼女は呻き、吊り気味の目元をさらに吊り上げてただ男を睨むことしかできなかった。
「おい! なにをする気だっ⁉」
「待て待て。クライヴ、落ち着けって」
日焼けの男が手を伸ばして怒鳴ると、周囲で傍観していた男たちが集まりだす。そして数人がかりで彼が暴れないように、その肩を押さえてしまう。
傷の男は腰の鞘からナイフを引き抜き、冷たい刃をテレージアの頬にひたひたと当ててみせる。相手の表情を愉快そうに観察すると、クライヴへと振り返り言った。
「指を切り落として捨てて置くのさ。追って来る連中に警告する為にな」
傷のある男は己の傷痕の近くまでナイフを掲げると、挑発するようにひらひらと揺らしてみせた。
揺れるナイフの冷たく鈍い輝きに目を細め、クライヴは激昂して声を荒げる。
「よせっ、ディエゴ……! これ以上火に油を注いでどうするっ⁉ 一生追われ続けることになってもいいのか!」
「うるせぇ! 意気地のねぇ坊ちゃんは黙ってろ!」
傷の男——ディエゴは殺気だった顔でクライヴを睨みつけた。
身体を裏返すためにテレージアの方に向き直った。だがその瞬間、周囲にいた仲間が声をかけて彼を制止する。
「まぁ、待てよ。この女せっかく見た目がイイんだ。綺麗なうちに遊んでおこうぜ」
割って入った男は下卑た笑みを浮かべると、足元のテレージアに近づき屈んだ。彼女が身に着けるロング丈のスカート、そのスリットから覗く美脚を舐め回すように凝視した。
ディエゴは片眉を上げると訝しげに男を見るが、少し考える素振りをすると同じように下卑た顔で笑う。
「なるほどな、そいつはイイ。こんな上玉、しばらく抱いてなかったしな。へへ……」
ディエゴはテレージアの足を撫でつけはじめた男を押しのけ、ナイフで足を拘束していた縄を切断した。左の足首を掴んで脚をむりやりに開かせ、そのまま脚の間に自分の腰を割って入れさせる。
ナイフをテレージアの顔の横へと勢いよく突き立て、興奮した顔を寄せていくが、彼女は心を折った様子もなく気高く凛々しい表情で睨みつける。
「へっ、この状況で大した女だな。さすがに傭兵団の頭領の娘なだけあって、胆が据わってやがる」
にやけ顔でテレージアの首筋に顔を埋めると、果実を思わせる香水の匂いを吸い込む。甘い香りを楽しんだディエゴは上体を起こし、睨む彼女服を破ろうとの胸元に手を掛けた。
「……おい。せめて順番を譲れ。そのくらいには、俺はあんたらに貢献しただろ」
服を破ろうと手に力が込められたその瞬間、凌辱の様子を後ろから見ていたクライヴが渋面で権利を要求した。
突然の意外な言葉を受けディエゴは眉をひそめるが、気味悪く笑うと素直にテレージアの上から立ち上がり退いていく。すれ違いざまにクライヴの肩を叩き、そのままある程度の距離をとった。
「お前さんには、ブツを捌くルートも手配してもらう予定だからな。さっきは悪かったよ。へへ……仲良くやろうぜ兄弟」
ディエゴは親しげに笑いかけるが、その実内心では獣のごとく堕ちたその様を——自身と同じく尊厳や誇りを手放したクライヴを嘲笑っていたのだ。
クライヴはにやけるディエゴと周囲を無視し、テレージアの横に添い寝するように腰を下ろした。ムードのない渋面のまま、失望したように冷たく睨む彼女に顔を寄せていく。身体をまさぐりながら頬に軽く口づけをし、そのまま左の耳たぶを噛む素振りをして小さく囁いた。
「……合図したら、そのまま目の前の車両に向かって走るんだ。襲撃に備えて鍵は刺さったままだから、動くはずだ。運が良ければ、あんたを捜しに来てる連中にも合流できるかもしれん」
「……っ⁉ んんっ、ぅぅんんん……」
至近距離で大きく開かれた瞳には、戸惑いの色が浮かぶ。
クライヴは覆いかぶさり反対の首元へと吸い付き、細くとも肉感的な身体を抱きしめるように背中に両手を回す。首筋を舌で舐め上がっていくと、今度は右の耳元で囁いた。
「手の縄を切る。連中に気づかれたくない、嫌がる素振りをしててくれ」
「……ん、ぅぅんんんん。んぁ、んんんんぅ……!」
テレージアが上げる声にならない悲鳴に、背後の男たちが盛り上がり手を叩いては笑う。クライヴは袖口に隠していた極小のナイフを取り出し、縄に刃を当てて慎重に引いていった。演技を看破されぬようにと、自由な片手を彼女の身体の上で踊らせる。
「っんんんっ! んふぅ、んんんぅ……!」
「謝って許されることじゃないが、すまなかった。……俺は、こんなつもりじゃなかったんだ」
テレージアの身体を傷つけぬように最後まで慎重にナイフを滑らせると、ついに縄の繊維が千切れていった。そのまま後ろ手の彼女にナイフを手渡しておく。
顔にあぶら汗を浮かべつつ、彼女の腰に触れていたもう片方の腕を自分の胸元にやる。ボタンを外す素振りをしてみせ——実際にボタンを外していくのだが、その途中で胸元から薄い円形の装置が顔を出した。背後の連中にばれないよう、片手を器用に駆使してそれを掴み取り出した。装置を自分の身体で上手く隠しつつ、指先でテレージアの瞼を閉じてそのまま手のひらで目元を覆う。
クライヴは短く息を吐き覚悟を決める。
装置の側面を強く押し込むと、目をきつく閉じて背後に投げ捨てた。
間の抜けた顔でディエゴたちがその装置を視線で追うと、彼らの足元で跳ね表面が割れ剝がれ落ちていく。そして直後には、露わになった内部から激しい閃光が一面に瞬く。
「——っおわ!? なんだ、クソっ!」
眩い光に焼かれた目元を押さえ、苦しみのたうち回るディエゴたち。
クライヴは目を開けて立ち上がり、彼女の身体の上から転がると叫んだ。
「今だ! 走れ走れっ……!」
声に反応して立ち上がり、油断なく辺りを見渡した。即座に状況を認識すると、足元に刺ささるディエゴが突き立てたナイフを引き抜き、車両へと駆け出していく。
道すがら両手に構えたナイフを一閃し、目元を押さえながら立ち上がる男たちの喉を切り裂いていった。
「え、ぐ。な、に……」
「ぅぐ、あがぁっ……!」
短い悲鳴と空気を漏らし、首元から血を噴き出した男たちは地面に倒れる。あまりに一瞬の出来事だった。血だまりに沈む彼らは、今度こそ立ち上がることはなかった。
テレージアは巨大な大型車両に乗り込み、逡巡することなく必要な操作するとドアが開いたまま急発進させた。車体を振り回す挙動でドアが勝手に閉じ、あとはそのまま器用に木々を避けながら進んでいく。最後にサイドミラーで後ろのクライヴに視線を送るが、僅かな逡巡したのちに結局は走り去っていく。
クライヴはそれでいいと、小さくなる車両を笑みを浮かべて見送った。
顔を覆っていた男たちがのろのろ立ち上がる。
「……ぐ、くぅ。ってめぇぇ! なんのつもりだ!? 俺たちを裏切る気かよ!」
ディエゴはなんとか開いた目元に涙を浮かべ、滲む視界にクライヴの姿を確認すると激昂して叫んだ。怒声を浴びるクライヴは、相手に負けずに血色ばんだ顔で叫び返す。
「いい加減、あんたらのやり方には付き合いきれねぇんだよ! 俺はこの件から手を引くぜ!」
車両が小さくなって消えていくのを為すすべなく見送ると、ディエゴは狂ったような笑みを浮かべて言い放つ。
「……ぬるいクソ野郎だと思ってたが、そこまでバカだったとはな。今更抜けられるかよ! どうしても手を切りたかったら死ぬしかないぜ、イカレ野郎っ!」
ディエゴが手を掲げると、背後で目をこすっていた男たちが視界が不十分のままにクライヴへ襲いかかっていく。
「く、うおおあぁぁっ!!」
クライヴは雄叫びを上げ、ひとり、またひとりと重い拳を叩き込んだ。拳を受けた相手はしたたかに倒れ込むが、やはり多勢に無勢。ほどなく数人がかりで身体を押さえつけられ、動きが封じられたたところに左足を鉄板で強化されたブーツの足先で鋭く蹴られた。苛烈な激痛が、クライヴの足から全身へと駆け巡る。
「くぅうああああああぁぁぁぁっ……!!」
クライヴは血反吐混じる絶叫を上げるが、男たちに身体を押さえられている為に足を庇うことはもちろん身じろぎすらも容易にできない。
「ふん、折れたか? もしそうでなくても、全身の骨が折れるまで痛めつけてやるからな」
ディエゴは蹴った足先の感触に快感を覚えると、愉快そうに笑った。
それから周囲の男の腰の剣へと手を伸ばし、勢いよく引き抜いて大仰な身振りで構えてみせる。そのまま冷酷に笑うと、狙いを右足に定めて構えた剣を振り下ろす。
だが、振り下ろされた切っ先がクライヴを傷つけることはなかった。
「ぐぅ、うおおぉぉぁぁぁぁぁぁっ! な、なんだっ⁉」
ディエゴの絶叫が上げられ、剣は足元へと放り捨てられた。
剣を握っていたはずの彼の手には、一本の矢が抜けていかんばかりに深々と貫通していた。震える手の貫通した両の穴から、鮮血が滴り落ちていく。
「矢だとぉ……ぐぅう、一体どこからっ⁉」
矢の刺さった手を押さえながら、苦悶の表情でわめき散らす。クライヴを押さえつける男たちも余裕のない顔で周囲を見渡す。だが————
「あぐうぅっ!? く、クソッ!」
「っ追手か!? 畜生、どこから撃ってきてやがるんだ!? っぎゃあぁ!」
「ひぃ……うわああぁぁぁ! ぐぅおっ!」
立て続けに矢が降り注ぎ、寸分の狂いもなく正確に、クライヴを押さえる男たちの手や肩を刺し貫いていく。男たちが次々にもんどりを打って倒れていき、阿鼻叫喚の中心でクライヴは唖然としてその様子を眺めていた。
『……そのまま去るというなら、命までは奪わない。立ち去れ』
痛みで突っ伏す男たちの耳に、直接囁かれたように声が聞こえてくる。ディエゴは忌々しげに歯軋りしながら呻く。
「うぐぅ、耳元で声が……風の精霊魔法かっ……!」
「お、おい、どうする……!?」
ディエゴが憎しみのこもった目でクライヴを睨みつけると、仲間の一人が狼狽してこちらの顔色を伺ってくる。問いかけておきながら頭には保身しかないということを、彼らのその情けない表情が物語っていた。
ディエゴは堪えきれぬ怒りのままに絶叫を上げ、無事なほうの手で落ちた剣を拾うとクライヴの頭上へと振りかぶった。
「……ううぅぅぅぅ、っ畜生おおおぉぉぉぁぁぁああああああぁぁぁっ!!」
翠に煌々と輝く光に包まれ、遥か先のディエゴを目標に狙いすますと、イクセルは涼しい顔で矢をつがえた弦を引き絞る。
その矢は今まで使用した木製のものとまるで違っていた。
全体が翠色の金属のような独特な硬質感を持ち、先端である鏃がより禍々しく鋭い形状をしていた。羽根からは尾を引くように翠の光線が伸び、後方へ緩い螺旋を放射状に描いていく。
この矢をつがえて弓を構えたイクセルの姿は、あたかも光の翼を羽ばたかせているかのごとく幻想的なものだった。
イーヴァルが視せてくれる視界の先で、傷の男が剣を拾い上げた。その行動を予想していたかように表情を変えぬまま、イクセルはただ静かに呟き、その指を弦から離した。
「——やれやれ。本当、面倒くさい」
イクセルが解き放った矢は翠の閃光となり、知覚することを許さない神速となって木々の隙間を突き抜けていった。
「……っな、ぅぐぅあああああああああぁぁぁぁぁっ!?」
翠に輝く閃光がディエゴの背面に大きく逸れて突き刺さり、地面が抉られように炸裂した。それだけでは終わらずに、同色の風の刃が不規則な軌道で周囲を切り刻んでいく。風の刃の発生点に比較的近かったディエゴは全身を切り裂かれ、狂ったような悲鳴を血しぶきと共に上げると、白目を剥いて倒れていった。
「うわああぁぁぁぁぁっ……!!」
「っなんだぁぁぁぁあああああああ!?」
他の男たちも悲鳴を上げると、風の刃を身体のどこかしらに浴び鮮血にまみれて崩れ落ちる。己の悲鳴で周囲の音などろくに分からないはずだが、それでも先ほどと同様に耳元で囁く声が聞こえた。
『最後の警告だ。これは、おまけのサービス』
目の前で起きた惨事に、クライヴ頭を頭を抱え身を低くして蹲っていた。そんな彼の頭上を、翠の燐光纏う鳥が猛烈な勢いの風を連れて飛んでいき、この風が吹き荒ぶとあちこちで倒れていた男たちを巻き込んで彼方へと運んでいく。
「……な、んだこりゃぁぁぁぁぁぁ!?」
「っおわああああぁぁぁぁぁぁっ……!?」
男たちが口々に悲鳴を上げるが、無情な風がそれごと掻き消していき、やがて男たち存在はクライヴの視界から外れてそのまま吹き飛んでいった。
「すげぇ……」
クライヴは感嘆したように独り呟く。
彼はきょろきょろと辺りを見回し、ほどなくして周囲の巨木の間を縫って飛ぶ先ほどの鳥の存在に気がつく。吸い込まれたように視線でその姿を追い、すぐにそれが普通の生き物ではないことを悟った。
「風の……精霊?」
透けるように希薄で淡い翠のその精霊は、その優雅で美しい翼を広げてクライヴの頭上を旋回する。やがて、木から伸びる一際に太い枝へととまった。
クライヴは精霊に視線を奪われ、呆けたようにぼんやりとしてその姿を見続ける。
どれくらいの間、そうしていたか。
ぼけっとクライヴが精霊を見上げていた間に、森の奥から何者かがこちらへ近寄っていた。
頭をバンダナで覆ったその青年は、辺り一面血だらけの惨状を見ても動揺しなかった。まるで表情を変えることもなく、平然とクライヴに寄ってくる。
目の前まできた青年が手にする特異な形の弓を見て確信すると、クライヴはやや緊張して声をかける。
「……あんただろ? さっき助けてくれたのは。恩に着るよ。ありが——」
「礼はいいよ。それよりさっきの女、無事に逃げられるんだろうな」
感謝の言葉を遮ると、倒れた木々のほうに目を向けた。それらは逃走の際に
が倒していったものだ。
あまりに淡々と言う青年に気圧されると、クライヴは面食らって言葉に詰まるが慌てて返す。
「あ、ああ……。たぶん、大丈夫なはずだ。捜索隊が出てるから、きっと合流できると思う」
「なら、いいか。面倒ごとに巻き込まれたのは久しぶりだから……正直、少し困ってる」
イクセルは彼に頷くと、言葉とは裏腹にやはり淡々と言った。
困惑している様子の目の前の大男は放っておき、鎮座して動かないままの機動鎧装を見上げる。次に、女性が逃走の際に殺害したふたりの死体を順に見やる。
(さっきの奴ら、大人しく引き下がるかな。殺すべき、だったのかも)
目を伏せると、弓を握った手に僅かに力が込もる。
己がとった行動の選択が正しかったのかを自問自答すると、それが誤りであったような気がしてきて苛立ちが募ってしまう。
一転して不機嫌な様子になる青年を窺い、クライヴは後頭部に手をやりながら申し訳のなさそうな顔をした。
「あんた、この近くの村の人間か? その、悪かった。なんか巻き込んじまって……」
イクセルはクライヴの足を見下ろすと、その場に屈んでそのまま足を黙々と触診して状態を確認していく。触れるたびにクライヴが上擦った悲鳴を短く上げ、イクセルは眉をひそめて嘆息した。
「……世話にはなってるけど、村の人間じゃない。だから困るんだ。俺の不用意な判断で村を危険にさせたかもしれないから」
「そ、それは大丈夫だ! 追手が掛かってるから、連中もわざわざ戻る危険は冒さないっ! と、思う……たぶん」
クライヴは喉を鳴らしまたも慌てると、手を振ってイクセルが危惧するところをどもりながら否定する。そのまま額面通り受け取るには、非常に怪しいものだった。
「そうか。……あんた、コレ折れてるな。ちょっと待て」
淡々と呟き、イクセルは立ち上がると弓を持って踵を返した。
倒された木の傍まで行くと、手頃な枝を目掛けて弓を振りぬく。
この弓の最大の特徴である両端の翼は硬質で、先端が刃のように鋭く尖っていた。弓の翼を剣のようにして何本か枝を切断すると、形のいいものを選んでクライヴの元に戻る。
「あんた、なにか縛るもの持ってないか?」
「あ、ああ。そういえばさっき切った縄がその辺に……」
テレージアを助ける際に縄を切断したことを思い出し、クライヴは周囲を見渡した。すると先ほどの風で吹き飛んだのか、近くの木の枝に縄が引っ掛っていた。
視線を追ったイクセルも縄の存在に気づき、その木の下まで行くと高く跳んでみせてあっさりと枝を掴んだ。そのまま身体を持ち上げると枝にまたがり縄を回収していく。
散らばった縄をすべて回収し終え木から飛び降り、ふたたびクライヴの所へ戻る。回収した縄を弄りながら、難しい顔をした。
「切れてるから、少し短いな。結んで継ぎ足しながらやってみるか……」
「助けてもらった上に手当てまで……なんか、すまないな。自己紹介が遅れたが、俺はクライヴだ。この借りは必ず返すからな!」
イクセルは聞き流しながら、切れた縄を結んで長さを足していく。そのまま作業を続けてさっさと終わらせたかったのだが、こちらを不満げに見つめるクライヴの視線が鬱陶しかったので一応自己紹介を返すことにした。
「……イクセルだ。別に、そんなものはいい。気にするな」
こちらの名前を聞くや否や、クライヴはその表情を明るくさせて——というよりなぜか熱のこもった暑苦しい顔をした。
「しかし、さっきの凄かったな! こんな森の中で、木々の間をすり抜けて矢を命中させてよっ! しかも最後のなんだよ、アレはっ!? あ、いてて……!」
クライヴは手ぶらで弓矢を構える素振りをして鼻息荒くまくし立てた。大袈裟に身体を動かしたからか、折れた足から走る激痛に顔をしかめる。イクセルは縄の長さと枝の大きさを確認しながら呆れてため息をつく。
「大人しくしてろよ。ほら、足出せ」
クライヴの足に枝を合わせ、位置を調整していく。作業の手に遠慮がないため、当然にクライヴは悲鳴を上げた。
「おわっ!? ぐ、ぐぐぅ……。なぁ、あんたただの契約者じゃねーよな。もしかして『纏える者』……なのか?」
涙目になりつつも、クライヴはにやりと笑う。値踏みするような視線だが、それは縋るようというか、どこか祈るようでもあった。
こちらを期待を込めた目で見つめてくるが、イクセルは特に相手をせずに無視して足の添え木作業を続けていく。枝を押し当てて黙って縄をきつく巻いていくと、急にクライヴの身体が小刻みに震えだした。何事かと思いさすがに手を止めて様子を見るが、クライヴは両の拳を天に向かって突き上げ歓喜の雄叫びを上げた。
「よっしゃあああぁぁぁぁっ‼ ……へ、へへ。やったぜ、ちくしょう! あ、痛ってっ!? いつつ……なぁ、あんた旅をしてる流れ者なんだろ? 俺と一緒にデカいことしようぜ! 俺たちはいいコンビになるっ!」
急な世迷い言をのたまうクライヴを、半眼で見下ろす。
イクセルは縄を握ったまましばし時が止まるが、縄を巻いていき最後にきつく結んで添え木を完了する。こちらの反応をほったらかしに勝手に盛り上がる様子のクライヴに、冷たく言い放つ。
「足だけじゃなくて、頭も打ってたのか? なにワケわからんこと言ってんだ」
「俺はマジだぜ! あんたの力と俺の商才があれば、絶っっ対に天下を取れるっ!」
クライヴはこちらの態度など気にした様子もなく、上半身を起こしてくると顔を必要以上にこちらに寄せて根拠なく力説する。イクセルは避けるように後ろに身を引きつつ、半眼で拒むように片手を上げた。
「出会ったばかりのやつを相手に、なに言ってんだよ。俺は、ひとりが好きなんだ。誰かと組むなんて御免だね」
「っそ、そう言うなよ……兄弟。これからお互いを知れば、これ以上ない相棒になれるって」
「しるか。とどめを刺されて放置されたくなければ、寝言は寝て言え」
あさっての方を向いて冷淡に言い捨てた。
クライヴは引きつった作り笑いを浮かべて唸る。さすがに目の前の男がごり押しが通じるような相手ではないと気づいたのか、その表情がやや陰っていく。
イクセルはとどめと言わんばかりに、気怠げな表情で自分の意思を伝える。
「相棒ならもういる。つーか兄弟って言うな。嫌なもんは嫌だ。あとなにより……」
ここで一旦間を開ける。ピクリとも動かずに、同じ表情、同じ姿勢のままで。
「……なんだ?」
クライヴは緊張の顔で聞き返してくる。そんな彼にやっと視線を向けると、イクセルはやはり気怠げな表情で言い放った。
「面倒くさい——」
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