第二章 Ⅱ 風の巫女

ヒミィを乗せた飛行軍艦はサーシディア共和国の東、隣国の<地の国>との国境付近上空を飛んでいた。共和国の中央より東の空には浮島がほとんどないため、艦隊はより高度を取りそしてより早い速度を出して進んでいく。


 艦隊が飛行する空の下には広大な森林地帯が広がっていた。

 この森林地帯は地の精霊の影響によって豊かな土壌を持ち、風の精霊が運ぶ風に鍛えられたその巨大な木々は中央大陸最大の高さを誇っている。また優れた土壌によって豊富な果実や作物が実る土地でもあり、内乱続きの火と地の両国から流れてきた難民が根を張ることもる。


 国境付近の上空を飛行する艦隊の旗艦。

 その艦内の厳重な警備の一室では、ヒミィとラミナが隣同士で腰掛けて話に花を咲かせていた。

 ラミナは腰を下ろすように進言されても頑なに断っていたのだが、ヒミィの有無を言わせぬ強引さと人を煙に巻く独特の会話術によって口説かれ、結局は折れることとなり彼女の隣に座ってしまった。

「————だから実は、ヨハナのことを兄さんとコンラートが好きだったのが分かって……」

「なんと⁉ ヨハナさんとコンラートさんは、ラミナさんの仲良し三人組の面々ですよね。そこにまさかのお兄さんが介入するとは……。ラミナさんは実に複雑な立ち位置だったんですねぇ」

 ヒミィは素っ頓狂な声を上げると、難しい顔をして何度も頷いていく。

 自分の話にころころと表情を変えて相槌を打ち、大袈裟に返してくる彼女の反応がくすぐったくも嬉しくもあり、いつの間にかラミナも表情をほころばせていた。

 ヒミィなりに状況を組み立てて表現しているのか、ひっきりなしに両手の指を交差させては離してみたりとしている。そんな彼女の様子が微笑ましく思えた。

「はい。ヨハナにコンラートが恋心を抱いていたなんて、ずっと一緒にいたのに気付きませんでした。それに、まさか兄さんまでそうだったとは……。しばらくは兄とも家の中で気まずい思いをして過ごしていました」

 天井を見上げつつ、過去の思い出を懐かしむ。

 ずいぶんと昔のことだ。まだ、只々無邪気に過ごすことができていた子ども時代の思い出。不思議な心持ちだった。長いこと思いだすことができなかったものを、蓋をして閉じ込めていた記憶を、またこんなにも明るい気持ちで語らうことができるだなんて。

 ヒミィは薄っすらと赤みが差す己の頬を両手で包むと、興奮したように足をばたつかせる。

「くふふふっ。なんだかよいですねぇ。なんというか、甘酸っぱいとでも申しましょうか!」

「当時の自分としては、板挟みになってただ息苦しかったんですけどね。でもまぁ、子供の頃のいい思い出です」

 はしゃぐ巫女を横目に、懐旧の念にかられて微笑んだ。

 そう、いい思い出だった。

 隣のヒミィは胸の前で手を組むと、高揚とした顔で息を荒くする。

「ふぅは~、よいですねぇ。わたしも、いつかはそのような————」


 急に途中で言葉を止めると、すっと立ち上がる。

 つい先ほどまでの子供のような無邪気さは消え去り、時が止まったかのように、その表情にはいかなる感情も浮かんではいなかった。

 不審な様子に気づいたラミナも立ち上がる。突然のヒミィの変化に戸惑いつつ彼女へ声をかけた。

「巫女様……? どうかされましたか?」

 ヒミィはこちらを見ることもなく、黙って視線を足元の床へと落とす。

 倣って視線を落とすが、彼女がいったいなにを見つめているのか、そもそも彼女の視線が本当にこの部屋より先に届いていないのか、それすらも定かではない気がして畏れに息を呑んだ。

 じわじわと嫌な予感がしてくる。戦士としての勘と兵士として培ってきた経験が、ラミナの中で警鐘を鳴らしていた。

「…………思っていたより、早く出会いましたね」

 ヒミィは超然とした巫女の顔のままで静かに呟いた。

 そこに微かに浮かんでいたものはなんだったろう。喜びか、あるいは諦観か。

「巫女様……今なんと?」

 少しの躊躇いの後で呟き、ヒミィはようやくこちらのほうを向いた。ラミナの中の警戒心が上がる。真意の読めぬその表情に、なにかしらの覚悟が混じっている気がしたのだ。

「ラミナさん。あなたとは、もう少しお話してみたかったのですが……。残念ながら時が来てしまいました」

 ヒミィは穏やかに微笑んでみせた。そして目を閉じると、両手を宙へと掲げた。

 見えないなにかを撫でるかのように、その白く可憐な指先を泳がせる。

 ふたたび彼女の目が開かれた時には、その翠の瞳から淡い輝きが溢れ、次第に全身が碧い燐光と風に包まれていった。閉じられた空間の中を風が舞っていく。

「周囲の艦のすべての皆さんに念を押して伝えてください。私を追うことよりも、全員の身の安全に力を尽くすべきだと」

「ッ!? 巫女様、なにを……!」

 ただならぬ気配を感じてラミナは手を伸ばす。しかしその手は風に阻まれてヒミィに届くことはなく、それどころか狭い部屋の中を駆け巡る暴風にこちらの身を浮かされしまい、この部屋の唯一の出入り口である扉へと強く叩きつけられる。

「ぐっ!? あうぅ……」

 短い悲鳴と肺から空気が漏れ、ラミナは脳を揺らす衝撃に床へ倒れるとそのまま意識を失った。彼女が気を失う直前に見たヒミィの顔は、恐ろしいほどに感情の存在しないものだった。

 昏倒したラミナを冷たく見下ろして呟く。

「……さて。では始めましょう。力を貸してください、精霊たちよ」 

 ヒミィを指揮するように腕を振った。

 燐光を纏いし風があたかも竜のごとく唸りを上げ、補強された強固な床板や四方の壁を穿ち貫いていく。とてつもない衝撃が部屋と艦全体を揺らす。

 輝きを伴った小さな竜巻の槍が耳をつんざく異音を奏で、掘削機のように艦内を削り蹂躙していき、その勢いままに艦の甲板と底を貫いていった。そして空中へと飛び出していったその竜巻は、周囲に展開していた護衛艦すらも同様に貫き破壊してしまう。

 異常事態の艦内からは乗組員の悲鳴とけたたましい警報がうるさく鳴り渡り、次の瞬間にはそれらをかき消してしまうほどの強烈な爆発音と衝撃が炸裂した。



「…………つぅ。なに……が……?」

 どれほどの間、意識を失っていただろうか。

 辺りに響く衝撃と騒音、身体を押すように流れる強い風にラミナは目を覚まし、ぼんやりとした目で変わり果てた部屋を見回した。少し前まではヒミィと談笑していたというのに腰掛けていたベッドも無残に砕け散り、部屋の様相はまるで違うものとなってしまっていた。

 ラミナは背中に走る痛みを押し殺し、猛威を振るう暴風の中で身を起こそうと身体に力を込める。渾身の力で立ち上がろうとしつつ腰に手をやるが、そこには普段帯刀している剣がないことを思い出し舌打ちをした。

 強烈な風にさらされ目を開くことさえも難しいが、そんな状況の中であっても確かにはっきりとヒミィの声が耳へ届いてくる。

『——風の精霊たちの力を借りて、機関部を破壊しました。周囲の護衛艦も一つ、同様の状態です。いずれ墜落するでしょうが、艦隊の『纏いし者』たちが一丸となって事態に当たれば、死傷者を出さずに不時着できるでしょう。余計なことに力を割かなければ、ですが』

 ラミナは耳元に手をやるが、響く声が自然な伝播でこちらに届いたものでないことに気づいた。集中して耳を澄ますと、艦内のそこらかしこで同様にヒミィの声が響いてることにも気がつく。

『私を追わないでください。どうか、人命に重きを置いた判断をしてくださることを祈ります』

「…………巫女様っ!」

 叫び、這いずりながらも闇雲に手を伸ばすが、ラミナの手は強風の中でむなしく宙を切っていく。暴れる風にいいように身体を弄ばれ、天井や壁に叩きつけられた後には床に押し付けられるように倒れ込む。

(なん、なんだ。いったい……なに、が————え?)

 身にかかる圧力と息苦しさでふたたび意識が薄れそうになった瞬間だった。

 翠の燐光がラミナを包み込む。

 包み込む燐光は、周囲の風からその身を守るかのような逆風を発生させていた。恐る恐る目を開けてみると、先ほどまでの苦しさから解放されていた。光が満ちる幻想的な視界の中で、微笑を浮かべたヒミィと目が合う。

「あなたや艦隊の人々に迷惑をかけてしまうこと、本当に申し訳なく思います。どうかご無事で」

 翠の燐光と風を纏ったヒミィはラミナに恭しく一礼した。別れの挨拶を終えた彼女は、床板に空いた大きな穴に向かい歩いていく。おそらくその穴から脱出するつもりなのだろう。

 その光景をラミナは唇を噛んで見つめた。骨を折ってはいまいが、全身の打撲による痛みで表情が引きつった。痛みに喘ぐ最中、身を包む風の影響で動けることに気づき、痛む身体に活を入れて立ち上がる。

 立ち上がったタイミングで背後から金属が軋む音がした。振り向くと、衝撃で変形していた扉がむりやりにこじ開けられていき、その隙間からブラムがこちらに身を乗りだしていた。

「ラミナ、無事か?」 

 ブラムは強風を浴びて厳めしい顔をさらに厳しいものにすると、目を細めて視界の中にラミナの姿を確認する。

 こちらにかかるブラムの問いかけに短く頷いてヒミィへと向き直り、今にも穴に飛び下りそうな彼女に駆け寄った。二人の間に走る風によって、伸ばした手は拒絶される。その隔たりをこちらの身を包む燐光は中和せず、どうやらヒミィにとって都合の悪い働きはしないようだった。

「待ってください! 私にはあなたが必要なんです! どうかお待ちをっ……!」

 それは張り裂けるような悲痛な叫びだった。

 ヒミィは今にも穴底に踏み出しかけていた足を止めて振り返り、翠に輝く瞳でラミナを見つめる。

 人と思えぬ神々しい空気を纏うヒミィに、ラミナは祈るような心持ちでいた。

 だが、そんな彼女にヒミィは静かにかぶりを振った。


「————私を差し出したとしても……きっと、あなたの望む答えには辿り着けないでしょう」


 たった一言。

 その一言でラミナの表情は凍りつき、心臓が止まってしまったかのように全身が硬直した。

 ヒミィは優しく微笑み、最後に慈愛に満ちた、そしてどこか憐憫のまなざしを送ると背後の穴へ倒れ込むように落ちていく。 

「巫女様、あなたはっ……⁉ 待ってください! お願い、行かないで……!」

 ヒミィが落ちた穴へと身を放り出す勢いで手を伸ばすが、同時に身体を包んでいた燐光と風が消失し、ラミナは強烈な不可に耐えられずに穴へと吸い込まれる。

 艦外へと放り出された瞬間、逆さまの世界を輝きながら降下していくヒミィの姿が視界の端に映った。

 ああ、だめだった。すべてが終わってしまった。

 このまま自分も落ちていくのだと思い、死の予感に自然と目を閉じた。

 直後には腹部に強烈な痛みが走る。

 気がつくと空中で揺られていた。

 ぼやけた視界の中でラミナが見たものは、ハルバードを艦の穴に引っ掛けるように突き刺しそれを支えにぶら下るブラムの姿だった。

 腹部を力強く絞める物の正体が彼から伸びる尻尾だと理解した瞬間、ラミナは日が暮れはじめた空を見つつ気を失った————

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