第3話 出会いもあるぞ、うつのみや

     『転機』


 トラウト娘との激闘からおよそ一か月。またしても東北自動車道・宇都宮インター周辺はGW恒例の大渋滞に見舞われていた。レジャーへ向かう行楽客が大挙して押し寄せたためである。県内各地のレジャー施設はアルバイトの高校生部隊を大量投入して、雲霞の如き観光客の襲来を迎え撃つのだ。観光業が大きな収入源となっている栃木県にとってGWは戦争なのである。しかも戦場は観光地ばかりではない。農村でも一大イベントを迎えようとしていた。いよいよ田植えが始まるのである。

 雪解けの澄み切った水が大地に張り巡らされた水路を巡り、干乾びた田畑を潤してゆく。水が張られた水田はまるで一枚の巨大な鏡のようだ。青空を映し込んだ水田に周囲を囲まれた街は、空中に浮遊しているようにも見える。緑の畦を刺繍する色とりどりの小さな野花。その間を羽音を鳴らしながらミツバチが行き交う。寝ぼけガエルは騒がしく鳴きつづける。五月の栃木は命が一斉に活動を始める季節なのである。

 完全に自然と一体化している立派な門構えの古い農家に目をやれば、その軒下には今年もツバメの夫婦が訪れていた。庭先では巨大なコイのぼりの親子が口いっぱいに南風を受け止め、優雅に尾を振っている。昔からほとんど変わらない田園風景は、まるで何百年も前から時間が止まっているかのように感じられるだろう。だがこんな長閑な風景の中にも、危険が潜んでいることをご存じだろうか? 日差しが一段と強まるこの季節、何の遮蔽物もない昼下がりの農道は紫外線がダイレクトに降り注ぐ危険地帯と化すのである。

 日傘をさした由紀は農道を避け、いつもとは違う道を歩いて職場へ向かっていた。たとえ世間が連休であっても、老後に備えて貯蓄をしなければならぬ独り者には休む間などないのである。働けるうちに働くしかないのだ。近ごろの由紀は誰よりも早く出勤して新たなる秘技の習得に取り組んでいた。若い嬢にはまだまだ負けないというプロ根性が彼女を駆り立たせるのである。

 そんな由紀の歩みを遮るように一台の自転車が止まった。いや、これを単に自転車と呼んでしまうのは語弊があるだろう。ロードレーサーと呼ばれるタイプだろうか? スポーツカーのように官能的で、有機的な彫刻を思わせる流線形のフォルム。先進のテクノロジーが詰め込まれた極限の造形美。素人目にも一般的な自転車とはまるで次元の違うものと認識できる。綺麗にワックスがけされた純白のフレームが照りつける日差しを反射してまぶしく輝いていた。

「お姉さん、探しましたよ」

 彼の年齢はまだ二十代の前半であろう、精悍な顔立ちの中にもどことなく幼さを残した青年である。バイクから降りた彼の引き締まった筋肉質の体は、まだ五月の初旬だというのにブロンズ色に日焼けしていた。由紀は日差しのせいで幻を見ているのではと自分の目を疑った。

「ボクですよ、ほらっ、あの時に・・・」

 青年は興奮した様子で何かを必死に伝えようとしていたが、由紀の耳にはまったく入ってこなかった。八重歯をのぞかせる彼の口元には、「さぁ取ってくれ」と言わんばかりにご飯粒がひとつ貼りついていたからである。

『ドキューーーーン』

 心臓を撃ちぬかれたような衝撃で由紀は息も出来なくなっていた。心の奥で永らく眠りについていたあの厄介な母性本能が、メラメラと真っ赤な炎を上げてお目覚めしてしまったのである。通りの反対側では自転車に乗った学生たちが通りすぎようとしていた。青年はキリッと表情を引き締めて振り返ると彼らを呼び止めた。

「君たち、待ちたまえっ」

 青年はママチャリを止めて怪訝そうに振り返る男子学生にむかって親指を立てると、得意げにポーズを決めてみせた。

「二人乗りは危険だぜっ!」

『ドキュキューーーーン』

 由紀のハートは少女のようにときめいた。心臓は高鳴り、立っていられないほどの激しい目まいに襲われる。彼は何の用があって私を呼び止めたのだろう? 名前は? 住所は? 電話番号は? 彼女はいるの? 聞きたいこと話したい事が頭の中をぐるぐると駆け巡る。なんの前触れもなく訪れた運命の出会い。由紀は今後の展開に大きな期待を抱いたのであるが、その当ては見事に外れてしまうのであった。由紀が浮かれ頭であれやこれやと想像している間に、青年は忠告を無視して逃げていった学生たちを鬼のような勢いで追いかけ、その場を走り去ってしまったのである。

「あぁっ、ちよっと、ちょっとちょっと!」

 一陣の風のように走り抜けてゆく青年の後ろ姿。由紀は大魚を逃がしたマグロ漁師みたいに未練がましくずっと見送り続けるのだった。


    『再会』


 あの日の出会いを想い浮かべては、頬を赤く染めてモジモジ。マドラーで氷を突つきながら口元をゆるめてニタニタ。そんな由紀の奇妙な行動に視線を送りながら、男はニヒルに頬をほころばせた。

 哀愁のジャズバー『サンレイ』のマスター(のちに伝説のヒーローと知る)である。

 祝勝会を開いたあの夜、マスターは市民病院に搬送され精密検査を受けたのであるが、幸いにも異常は見つからずに一泊で退院することができた。しかしそれ以降のマスターは少し頬が痩せてしまい、以前にも増して濃密な哀愁を身に纏うようになってしまった。

「小林さま、なにか良い事でもありましたか?」

 マスターが声をかけると由紀は勿体ぶった風に返した。

「えっ~、分かりますか?」

「もちろんです。最近の小林さまは何かこう、キラキラと輝いていらっしゃいます」

「あのねマスター、わたし恋しちゃったみたいなんだ。キャハッ?」

「ほぉぅ、それは素敵なお話ですね」

 マスターはさも驚いたといった顔で応じた。知らぬ者の目には、年の離れた二人は仲の良い親子のように映るかもしれない。だが二人はかつて、お互いを敵として激しく対立していたことがあるのだ。由紀が飲み比べ勝負で唯一引き分けになった相手、それこそがマスターなのである。


 バブル景気の真っただ中、戦後のヤミ市から続く古い商店街を取り壊して高級リゾートマンションを建設する計画が持ち上がった。当時は日本中のいたる所で、よく見られた光景である。そして開発を請け負ったディベロッパーと、立ち退きの要求に応じようとしない地元住民との間に激しい衝突が生じたのも、お決まりのパターンといえるだろう。だが今回の件に関しては、ここから先が他所とはちょっと違う意外な展開となった。和解へ向けて何度も交渉を重ね、慎重な話し合いを続けた結果、なんと飲み比べで決着がつけられることになったのである。そのとき住民側の代表を務めたのがマスターであり、業者側の代表が由紀であった。不沈艦の噂を聞きつけた業者が由紀に勝負の代理人を依頼したのである。その筋では有名だった二人の直接対決はたちまち話題となり、秘かに賭けが行われるなど、多くの見物人が押し寄せる事態となった。かくして商店街の運命をかけて二人の戦いが始まったのである。

 序盤からハイペース・ハイピッチの熱戦が繰り広げられたという。ボトルは次々と空にされてゆく。店内すべての酒を飲み干すと場所を変え、どちらかが倒れるまで延々と飲み続けるのである。そんな死闘と呼ぶにふさわしい名勝負に変化が現れたのは、五日目の夜が明けるころだった。

「ば、バケモノだっ・・・ うぅっ」

 そう呻いてマスターは崩れ落ちた。すかさずレフリーがカウントをとり始める。マスターはロープを掴んで懸命に立ち上がろうとしたが完全に平衡感覚を破壊されてしまっており、虚しい足掻きを繰り返すことしかできなかった。そして無情のテンカウント。業者サイドは勝利に湧き立ち、会場は割れるような歓声に包まれた。不沈艦が連続KО記録を更新したのである。ところがこの判定には副審から物言いがついた。そしてビデオによる審議の結果、この勝負はWノックアウトの引き分けとなってしまうのであった。勝ったように見えた由紀も実は立ったまま白目を剥いて失神しており、さらに大量失禁までしていたのである。勝利へ対する飽くなき執念を見せたマスター。最後まで沈まなかった由紀。両雄の健闘に観客は惜しみない拍手を送ったといわれている。

 なお余談ながらその後に行われたルール改定により、現在では試合中の失禁・尿モレ・脱糞は反則負けとなってしまうのでご注意ねがいたい。


「運命の王子さまに出会ったのよ」

 由紀は焦点の合わぬハートマークの視線を遠くに泳がせていた。

「王子さま? っははは、まさかぁ」

「ほんとよマスター、白馬に跨っていたわ」

 由紀は酔った頬をゆるませながら、早くも王子との甘い新婚生活に思いを馳せていた。キッチンで晩ごはんを作りながら王子の帰りを待つ美人若妻という、空想ならではの配役である。美人妻は精力が付くようなスタミナ料理ばかりを揃えて、王子の帰りを待っていた。寝室にはすでに枕を二つ並べた布団がセッティングされており、その枕元にはティッシュ3箱とクズ入れ、そしてインターバルの間にノドを潤し、失われた水分とエナジーを素早く補給するための栄養ドリンク類が用意されている。仕事から帰った王子を過激なスケスケ悩殺ランジェリー&エプロン姿で出迎えた若妻はこう言うのだ。

「あなた、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも・・・ ぐふふふふっ」

 獲物を見つけたブチハイエナよろしく、薄気味悪い笑顔で舌なめずりをする美人妻。そんな限りなく膨らむ由紀の妄想がいよいよ佳境に入り、いざコトに及ばんとしたときであった。不意に店のドアベルが音をたてたために由紀の思考はプツリと途切れてしまったのである。思わず非難の眼差しを入り口に向けた由紀であるが、そこに立つ人影を目にした途端、あやうく吹き出しそうになってしまった。

「ぶぅぅぅっ、う、ウソでしょ?」

 こんな偶然があるのかと疑いたくなるような抜群のタイミングでドアの向こうに現れたのは、あの日に出会った白馬の王子その人であった。酔って幻覚を見ているのかと思い、由紀は両目を擦ってみたが幻は消えなかった。彼はカウンター席でポカンと口を開けて座っている由紀に気が付くと微笑みを浮かべたまま近づいてきた。

「やぁ、また会いましたね?」

 王子の方から先に声をかけてきた。そればかりか、彼はさらにこう続けたのである。

「あの、ご一緒してもいいですか?」

『ドッターンっ』

 由紀は盛大に鼻血を噴いて椅子から転げ落ち、大開脚したまま意識を失ってしまった。


 十分後・・・

 由紀の隣には王子の姿があった。彼はカウンター席に腰を下ろし、心配そうに眉をよせながら由紀の顔を覗き込んでいた。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

「は、はいっ、この位ぜんぜん平気でぇ~す。あははははっ」

 マスターに喝を入れられ意識を取り戻した由紀は額におしぼりを当て、血に染まったティッシュを鼻に詰めながら、それでも元気に明るく笑ってみせた。近年稀にみるビックチャンスを前にして呑気に倒れている場合じゃない。この稀有な機会を逃すものかと、由紀は積極的に会話をリードしたのである。

 彼の名は秋葉カズキといった。私立・宇都宮大学、スポーツ工学科に在籍する現役大学生である。少し照れながら話す彼の様子、頭を掻くしぐさに由紀のハートは熔け落ちる寸前だ。体の芯がジンジンと火照った。現在つき合っている彼女がいないことを入念に確認する。ルックス、服のセンス、話しやすさ、頭の良さ。すべての面で高得点をマークする逸材である。酒グセも悪くはなさそうだ。苦節47年、由紀の絶え間ない努力が奇跡を招きよせたのである。話題が市民ボランティアに触れると彼は交通指導員をやっていることを明かし、急に表情を引き締めて語りはじめた。

「ボクは県内の交通事故を少しでも減らしたいんです。そのためには正しい交通ルールの実践をもっともっと普及しなければなりません」

「わぁ~、立派な活動ですね」


 栃木県には交通死亡事故多発の非常事態宣言が発令されていた。本県を南北に貫く日本の大動脈、国道4号バイパスは高速道路と見まごうほどに整備されており、田園風景が延々と続く弾丸ストレートはスピード感と距離感がマヒしてしまうために大きな事故が頻発しているのであった。また市街地では高齢者が絡む事故が増加していた。交通事故によって得をする者など一人もいない。事故は被害者・加害者のみならず、係わった全ての人を不幸にしてしまうものである。しかしそれが分かっていながら危険運転をするドライバーのなんと多いことか。特に携帯・スマホの登場以来、運転者のモラル低下は顕著であり、もはや看過することの出来ないものとなっている。聞けっ、スマホ片手にハンドルを握る愚かなドライバーたちよ。どんなに車の性能が向上しようとも運転者の扱い方しだいで自動車は凶器と化し、当事者のみならず大勢の人生を狂わせてしまうのだ。

 カズキの話しは聞いているだけで耳が痛くなるような内容ばかりであった。由紀はしきりに頷いて熱心に耳を傾けているように見えるが、頭ではまったく別のことを考えていた。彼女の本当の狙いは適当に相槌を打ちながら酒を勧め、彼がほどよく酔うのを待っていたのである。そろそろ頃あいだろう。

 由紀は酔った風を装って彼の肩に体を預けた。自転車が趣味と言うだけあって、太ももの筋肉など由紀のウエストよりも太そうである。

「ねぇ、ちょっと触ってみてもいい?」

 由紀は彼の返事も待たずに素早く腕を伸ばした。

「いや~ん、すっごく太いっ。たっくましい~」

「わわわわわっ、由紀さん、そこは違う違う、うううっ」

 由紀が彼のドコをどうしているのかはご想像にお任せしよう。場所柄もわきまえず、やりたい放題の由紀にマスターはずっと何か言いたげな顔をしていた。由紀がカクテルの五杯や十杯で酔うような、そんな可愛い生き物でないことは誰よりも良く知っている。


 その昔、竜宮城で接待を受けたと言う太郎さんがそうであったように、楽しい時間と言うのは実際よりも短く感じてしまうものであるようだ。夢のような時間は瞬く間に過ぎていった。由紀はもう服の上から触るだけでは我慢できなくなっていた。彼の熱い肌に直に触れたい衝動を抑えきれなくなった彼女は、イチかバチかの賭けに打ってでた。

「ちょっと飲みすぎちゃったみたい。家まで帰れそうにないわっ」

 いつか見たB級シネマのワンシーンを思い出し、由紀は流し目をくれながら少し鼻にかかった甘ったるい声で精一杯色っぽく囁いてみせた。すると彼はその脅迫まがいの言動に嫌な顔をするどころか予想外の申し出をしたのである。

「ボクで良ければ送って行きましょうか?」

 どうせ断られると思っていた由紀はあまりの嬉しさに芝居を忘れ、元気に片手を上げて返事をしてしまった。

「はい、お願いしま~す」

 カズキに支えられるようにして席を立った由紀は、店を出る直前にチラッと後ろを振り返ってマスターに視線を送った。マスターは小さく頷いてそれに応える。二人の間で交わされた謎のアイコンタクトにはこんな意味が込められているのだ。

『今夜モノにして見せるっ』

『ご武運を!』


 店を出たカズキは片手で純白のレースバイクを押しながら歩いていた。その背中には妖怪・子泣きジジィさながら由紀がしがみ付いている。恍惚の表情を浮かべた妖怪は必要以上に体を密着させながら行先の指示を出していた。むろん真っ直ぐ帰るつもりなどない。男性にしては細身の彼であったが、その背中は想像していた以上に力強く逞しいものであった。いつもサイフが落ちていないかと下を向いて歩いていた由紀にとって、肩越しに見える街明かりはキラキラとまぶしく輝いて見えた。鼻孔をいっぱいに膨らませて彼の髪の香りを吸い込む。最高だ。最高だ。

 調子に乗った妖怪は形の良い彼の耳に息を吹きかけた。

「ちょっ、由紀さん、くすぐった、うわっ」

 通行人の向ける羨望の眼差しが気持ちいい。ずっとこうして密着していたい気もするが本当の楽しみはまだこれからである。


「由紀さん、本当にこの辺りなんですか?」

「分かんな~い」

 由紀を背負ったまま散々歩かされたカズキはさすがに疲れを見せはじめ、足取りもだんだんと重たくなってきた。酔った由紀の道案内に少々の不安を感じ、辺りをキョロキョロと見まわした彼は、派手に明滅する電球に縁どられた奇妙な看板に目を止めた。『空室あり』と読み取ることができる。むろん貸しアパートの話しではない。そうなのだ、由紀は道に迷ったフリをして、カズキを妖しいネオンが煌めくラブホ街へ誘導することに、まんまと成功していたのである。

 ここからが勝負だ。

 もし土壇場になってから彼が急に怖じ気づき、なんだかんだと理由をつけて抵抗するようならその時は、後頭部に一発喰らわせて・・・

 貞操の危機を察知したわけではなかろうが、カズキはピタリとその歩みを止めた。そして次の瞬間、由紀の体はふわりと宙に浮きあがり、カズキの背中から投げ出されてしまったのである。それは常人にはまったく気づくことの出来ない一瞬のできごとであった。しかし、EVО化した由紀の視力はカズキの神速の動きをハッキリと捕えることができた。由紀が空中に放り出されると同時に青白い閃光が数回瞬き、カズキの姿がアンドロヒーローのものへと変化したのである。純白に青いストライプの入った強化コスチュームを身に纏ったカズキは車道へ飛び出すと、スマホ片手に制限速度を無視して向かってくる乗用車に強烈なケリを叩き込んだのである。車道には身動きが取れずにうずくまる仔猫がいたのだ。

『どかぁ~んっ!』

 爆発音がしたことで人々は初めて現場に目を向け、炎上する車の前でそっと仔猫を抱き上げるカズキの姿をみつけた。事情が呑み込めると、人々はカズキに賞賛の拍手を送った。彼こそ、宇都宮競輪が誇る最新スペックの第八世代型アンドロヒーロー。県道の安全と交通秩序を守る栃木県公認ヒーロー準2級ライセンス保持者、シクロスター・カズキング?だったのである。

 昨年秋に行われた宇都宮の市街地を駆け抜ける国内最大級の自転車ロードレースで、先導車を務めるという華々しいデビューを飾った彼は、春の交通安全週間で指導隊長を務めるなど、県内ではよく知られた存在だった。もちろん由紀もテレビや街角に貼られたポスターなどを通じてよく知っていた。

「ウソでしょっ!」

 由紀はしたたかに打ち付けた尻をさすりながら立ち上がった。カズキは仔猫を歩道に降ろすと慌てて由紀の元へ駆け戻ってきた。

「驚かせてしまって済みません、大丈夫ですか?」

「騙したのね?」

 由紀は酔ったフリを解除して身構えた。実はエルマから強化細胞EVОの秘密を探るために敵が現れるだろうと忠告を受けていたのである。

「由紀さん、落ち着いてください。ボクは騙すつもりなんてありません」

「競輪関係者だって言わなかったじゃないっ」

 競輪・競馬・競艇・パチンコ。それは由紀にとって呪いの言葉といえた。彼女の半生は元カレがギャンブルで作った借金を返済する、ただそれだけのために費やされてきたのである。ときに公園の錦鯉で空腹を満たし、神社のハトで飢えをしのいだ。あの惨めなサバイバル生活を、そう簡単に忘れることなど出来るわけがない。

「由紀さんは何か誤解をしています。競輪は人々に夢とロマンを与える大切な職業です」

「その言葉はもう聞き飽きたぁ~~っ、うわぁ~ん」

 公園のコイ泥棒は涙声で叫びながらその場を走り去った。その足元は実にしっかりとしたものであったという。


      『短冊』


 7月に入り鬱陶しい梅雨が明けると、季節はすっかり夏めいてきた。連日三十五度を超える猛暑日が続き、どこまでも見渡せる広い空には、綿飴みたいに大きな入道雲がポッカリと浮かんでいた。

 そんな中、復興を遂げたオリオン通り商店街では、毎年恒例となっている七夕まつりの準備が着々と進められていた。笹竹に取り付けられた五色の飾りや短冊が、サラサラと乾いた音を立てながら風に揺れている。その脇に設けられた記帳台の前には、紺地に金魚柄の浴衣を着こなした由紀の姿があった。普段は見せない真剣な眼差しを老眼鏡の奥に浮かべた彼女は、国語辞典並みの細かな文字で願いの数々を書き連ねていた。歳を重ねるごとに願い事は増えるいっぽうで困る。

「遅くなってごめん」

 由紀の背中越しに声をかけたのはカズキであった。由紀は短冊を手で覆って隠しながら慌てて振り向いた。

『ドキューーーーン』

 カズキの姿を捉えた瞬間、由紀の魂は震えた。同じく浴衣すがたで現れた彼の帯位置が、某アニメのキャラクターを彷彿とさせるほど胸元で結ばれていたからである。年下の男はどうしてこうも母性を刺激してくるのだろう。由紀はカズキの帯を締め直しながら、もう逃れられない深みにドップリとはまり込んでしまった自分を自覚していた。

 例のラブホ連れ込み未遂事件があってから数週間。由紀とカズキの二人は密会を重ねるようになっていた。今日でもう何度目かのデートである。身分を偽って近づいてくる男は信用できない。これは由紀が現場で学んだ哲学である。あの夜、サンレイに現れたのだって偶然にしては出来すぎだと感じていた。この出会いはエルマが開発した新技術を盗むために計画された何者かの罠である。そう考えた方が全てのつじつまが合う。しかしそれでも由紀は彼と会うことを決断したのであった。もうすぐ五十と言う年齢を考えれば、これがラストチャンスになるかもしれない。いくら悩んでみても彼の本心を知ることなど出来ないし、臆病になりすぎて大切な未来を台無しにしてしまってはいけない。人生はギャンブルだ。そう言ったのは由紀の元彼であるが、由紀はカズキの言葉を信じてみることに決めたのだ。それが渡良瀬川の橋の上で、不吉な別れ歌を口ずさみながら考えた末の結論だったのである。

 合流した二人はまず食事に向かった。宇都宮市民といえば朝から晩までずっとギョウザを食していると思われがちであるが、一部の特異な人を除き、それはもちろん大きな誤解である。産直へ行けば朝取りの新鮮な野菜や旬の果物が簡単に手に入る土地柄のため、宮っ子たちはバラエティーに富んだ豊かな食生活を送っているのである。美味しいものに囲まれて舌の肥えた彼らを満足させるために料理人は並々ならぬ趣向を凝らし、日々その腕を磨いている。生産地ならではのリーズナブルな料金設定も市民にとっては心づよい味方だ。二人は何を食べようかと散々悩んだ末に、結局ギョウザ定食と生ビールを注文した。

 食事を済ませた二人はカズキの提案で八幡山に登った。名前に山と付いてはいるが、数分歩けば頂上に到着してしまうような、ちょっとした丘と言った程度のものである。市内を一望できるその山頂には、かの有名なランドマーク『宇都宮タワー』がちょこんと鎮座していた。訪れた者に感想を聞くと、東京タワーにデザインが似ているとか、寂れた感がたまらないとか、物悲しい気分になれるなど、廃墟マニアの間では好評を博す人気の裏観光スポットとして知られている。確かにその佇まいはミニチュア版の東京タワーである。券売機でチケットを購入してエレベーターに乗り込むと、十数え終わらぬうちに展望フロアーに到着してしまう。しかしこの小さな電波塔は東京タワーから送られてくるテレビ電波を県内一円に中継するという重要な役割を担ってきたのである。あまり認識されてはいないが、その功績は計り知れないほど大きい。テレビ放送が開始される以前の栃木県民といえば、まだ生活水に井戸を使い、ハチの子やイナゴなどの昆虫を食卓に飾るような文明とは無縁の生活を営んでいたという。買い物といえばダイエーではなくダイユーであり、もしくは近くのオータニであったそうだ。しかしこのタワーによって都会の文化が紹介されるようになると県民の意識は劇的な進化を遂げ、現在のような立派な文明社会を築くに至ったのである。なお本家の東京タワーがその役割を終えスカイツリーが電波の発信元となった現在においても、宇都宮タワーは現役バリバリである。

「由紀さん早くっ」

「はぁはぁ、ちょっと待ってよ」

 山頂まで続く石階段を先行するカズキはそう言って由紀を急かした。しかし普段から浴衣なんぞを着なれない体では裾が足にまとわりついて、とても走るどころではない。また下駄という履物も階段を駆け上がるのにはおよそ適してはおらず、コケないようにするだけで精一杯であった。そんな由紀の様子をからかうように、階段に沿いに植えられたアジサイの葉陰からカエルたちの合唱が聞こえてきた。

『コケロ、ケロっ、コケロ、ケロっ・・・ 』

 例の一件以来、どうも両生類は苦手になってしまった由紀は下駄を脱ぎ捨てて素足になると、裾をヒザまで捲り上げて一段飛ばしで階段を駆け登っていった。


「ボクはこの景色を見るのが好きなんです」

 誰もいない山頂の展望台で確かにカズキはそう言った。しかし眼下に広がる夜景は100万ドルと呼ぶにはかなりキビシイ状態であった。言葉の意味を量りかねた由紀が首をかしげると、カズキは子供の様にハシャギながら頭上を指差した。

「ほらっ、由紀さん見てください」

「わぁ~、きれ~い」

 二人の頭上には見渡す限りの星空があった。視界を遮る高いビルが一つも無い、360度の大パノラマ。宇都宮の夜空には天の川が横たわっていたのである。赤い蠍は長い尾を地平線に浸し、大きな翼を広げた白鳥は天頂を静かに渡ってゆく。手を伸ばせば届きそうな天然のプラネタリウムを見上げていると、宇宙の広大なスケールと途方もない時間の流れを感じてしまう。それと比べたら人間の一生など瞬きする間のほんの一瞬にすぎないであろう。その中で二人男女が巡り合うというのは本当に奇跡のような確率であり、それは運命と言い替えても決して大げさではないはずだ。

 湿り気を帯びた少しヒンヤリとした風が由紀の髪飾りを揺らしなが吹き抜けた。彼女は風にゆれる商店街の七夕飾りを思い出していた。目の前に見える一つ一つの街明り。それは短冊に願いを込めた人々の生活の灯火であり、明日に願いを託して生きる希望の明かりなのだ。インスタ映えする派手さはどこにも無い。しかし慎ましさを感じさせるこんな夜景こそ、この街には似つかわしいものに思えた。自由で大らかな風土に育まれ、豊かな自然と共に生きる栃木ピーポー。この街明りを決して絶やさぬように目を配り、人々の暮らしを守るのが由紀たち超人戦士に課せられた使命なのである。

 星空を見上げながらカズキは自分の生い立ちを語り始めた。活動的な今の姿からは想像もつかないが、幼い頃の彼は車椅子での生活を送っていたというのだ。原因は交通事故であるという。カーブを曲がりきれずに対向車線へ大きくはみ出してきた過積載の暴走四tトラックと、彼の一家が乗り込む乗用車が衝突したのである。残念ながらこの事故で彼の両親は亡くなり、カズキは二度と歩くことが出来ない体になってしまった。

 当時、エルマのEVОは一般に公開されてはいたものの、戦闘力に特化した技術であったために、いろいろと不都合な事態が生じていたのである。例えば最初に作られたEVО和牛などは口から火を吐くは、角がドリルになるわで、まったく手の付けられない状態であった。殺処分したくとも刃物をまったく寄せつけず、終いには牛舎を破壊して仲間とともに逃亡し、いまでは野山を自由に駆け回っているのだという。常識的な理論の通用しない極めて難解なEVОは、まだ誰も実用化に成功してはいなかったのである。


 カズキには『ハル』という歳の離れた優しい姉がいた。

「カズくんの足は私が治してあげるわ」

 それが彼女の口癖だった。同じく事故に巻き込まれながら奇跡的に軽傷で済んだ彼女は医者になるために猛勉強の毎日を過ごし、県内一の難関校、シムロ医科大学に見事合格を果たした。そしていよいよ念願だったEVОの実用化に取り掛かるべく、独りで研究室に籠ると、自らの肉体を用いて恥ずかしすぎてちょっと人には言えない実験や、いけない遊びに没頭したのである。何日も部屋から出てこないことさえあったという。そんな充実した研究生活を過ごした彼女は、なんと次世代型EVОの技術開発に成功してしまうのである。この功績によってハルは一夜にして富と名声を手に入れることになった。医学界はもとよりマスコミにも大きく取り上げられ、天才と謳われた、あのドクター・インパと並び称されたのである。ところが当の本人は世間の反応になどまったく関心を示さなかった。大学附属病院が設立したEVО研究所の所長に就任した彼女は、今も一人で研究室に籠り続けているのである。


「お姉さまはモテるんでしょうね?」

 カズキの姉ならばきっと美人であろうし、才能と地位とお金を持っているのであれば男が放っておくはずはないだろう。由紀はそう思ってたずねてみたのであるが、彼は微笑むだけで何故か答えてはくれなかった。


 カズキが自身の少年時代を語っていたのは、時間にするとおよそ30分ほどであったろうか? そのわずかな間に、あんなに穏やかだった天候はウソのように一変してしまっていた。宇都宮市の上空は雷雲に覆い尽くされ、叩きつけるような土砂降りの雨に見舞われてしまったのである。不気味な雷鳴が夜の街に轟く。あのとき由紀の髪飾りを揺らした少しヒンヤりとした風やカエルの合唱は夕立の前触れだったのである。

 どうせ知らぬであろうが、宇都宮は雷都という別名があるほど全国でも指折りの雷多発地帯なのである。その理由は山地と平野の境目に立地するという独特の地形に起因するといわれている。日中、魔県で生み出された猛烈な熱波は栃木県の南部を干瓢しか栽培のできない不毛の荒野としながら北上を続け、夕刻に宇都宮市の上空へと到達する。そこで山間部から吹き降ろす冷たい空気の壁と激しく衝突することで、次々と雷雲が生み出されるという仕組みである。

 本場の雷はひと味もふた味も違う。『ピカッ、ゴロゴロゴロ・・・ 』 などという生ぬるい表現では到底ものたりない。視界が完全にホワイトアウトするほどの凄まじい閃光に網膜を焼かれた直後、耳がバカになって自分の叫びも聞こえない、まず日常生活では耳にしたことも無いような途方もない大音響が頭上でバリバリバリッっと炸裂するのである。天を引き裂くような爆音と咆哮が二、三時間のあいだ。ときには一晩中、途切れることなく大気を震わせ続けるのだ。

 もちろん雨風も相当やばい。

 猛烈な勢いで発達した低気圧は台風の直撃を上回る暴風と竜巻をもたらし、遮る高いビルの少ない市内を唸りを発しながら縦横に吹き抜けてゆく。街路樹は根元から薙ぎ倒され、折れた枝葉やゴミくず、そして下校中の小学生がその強風に吹き飛ばされてゆくのだ。

 石つぶてとなって地表に叩きつける大粒の雹は車のフロントガラスを穿ち、カーポートの屋根を粉々に破壊し、農産物にも甚大な被害を与える。そして千のドラムが叩かれるような雨音。滝に打たれているのとほとんど変わらないデカ粒の大雨の中では、目を開けていることはおろか、呼吸をすることも困難になってしまう。下水溝からあふれた水はマンホールの蓋を持ち上げて至る所で噴水をつくり、一気に水位を増した河川は濁流となって橋を押し流す。荒々しく猛威をふるう大自然には手加減とか遠慮といった概念はない。

 この世の終わりが来たかのような光景に、他県民は生きた心地もしないハズだ。ところが幼い頃からすっかり慣れっこになっている栃木県民は、親しみを込めてカミナリを雷様と呼び慣わしてきた。雲や風の様子、テレビやラジオの電波の乱れなど、身の回りの様々な現象から雷雲の襲来を敏感に察知すると、素早く洗濯物を取り込み、落雷による過電流から電化製品を守るためにブレーカーを下ろす。そして懐中電灯を片手に息を殺しながら雷様が通り過ぎるのを待つのである。シーズン中はほぼ毎日行われる大迫力のアトラクション。息を呑むほどの美しさと破壊的な荒々しさの両方を、これほど至近距離で体感できる街は他にあるまい。

 落雷により停電が発生したために街灯や信号機は消えてしまい、市内は暗闇に閉ざされていた。非常用街灯のわずかな明かりを頼りに二人は手を繋いで走っていた。真っ暗な街に稲妻が走る。一瞬、真昼のように照らされた街の風景が、残像となってまぶたの裏に焼付く。由紀が上げる悲鳴も激しい雨音によってかき消されてしまう。二人とも全身ずぶ濡れであったが大ハシャギして走り続け、カズキのマンションへとたどり着いた。エレベーターは使えず部屋までは階段を駆け上がった。鉄製の重たいドアが金属音をたててガチャリと閉ざされると、少しだけ耳に静寂が戻ってきた。部屋の中は真っ暗である。カズキは照明のスイッチを何度か操作したが、やはり点灯はしなかった。

「参ったなぁ。ちょっと待っていて下さい、今タオルを持ってきます」

 カズキが暗がりの玄関を手探りで上がろうとしたときであった。その無防備な背中に、あの妖怪が再び飛びついたのである。

「わわっ、ちょっと由紀さん。痛たたっ」

 振り向こうと体をよじったカズキは、信じられないような力で玄関マットの上に押し倒されてしまった。仰向けにひっくり返った彼は慌てて起き上がろうとして、その動きを止めた。カズキの腹の上には浴衣の裾を大胆にまくり上げた妖怪が馬乗りに跨っており、床に両手をついて彼の動きを完全に封じ込めていたのである。

『ビカッビカビカッバリバリバリバリィィッッッ、ズドドドォォォーーーン』

 すぐ近くに落ちたようだ。鉄筋コンクリート製のマンションが身震いする。目を刺すような閃光が窓辺から差し込み、続けざまに雷鳴が轟く。この大音響の中ではカズキがどんなに悲鳴を上げようとも隣人は気付いてくれないだろう。

「カズキくん」

「ゆ、由紀さん? な、うっ」

 カズキは抵抗する間もなく唇を奪われてしまった。真っ暗闇で何も見えなかったことだけが、せめてもの慰めであったと言えるだろう。アーメン。


 雷雨は夜半を過ぎても収まる気配をみせず、より一層激しさを増していくようであった。懸命の復旧作業にもかかわらず市内のいたる所で停電が続いていた。増水した河川の水かさが危険水位に迫ると住民の避難が開始され、各ボランティアにも応援の出動要請が入った。避難所ではすでに炊き出しが始められていたが、交通規制、避難誘導、救助活動、物資配給など、やるべきことはまだまだ沢山あった。様々な団体が力を合わせて困難に立ち向かう。荒れ狂う大自然の前では人間の力など到底及ばない、無きに等しいちっぽけな存在である。しかし助け合い協力し合うことで、人は大自然に立ち向かうことが可能になるのだ。困難こそが人々を結びつけ、絆を育み、生活を支えるのである。

 栃木県と聞いて何を連想するかと当の県民に問えば、ここには何んもねぇべと言って寂しげに笑うであろう。でもそれは大きな間違いだ。あまりに身近で、あまりに普通であるために、気づいていないだけなのだ。ここにあえて記そう、栃木県には海以外のすべてがあるのだと。幸福な人生と豊かな生活を送るために必要なものは完璧に整っており、むしろこれ以上は何も要らないほどなのである。栃木が好きだ、栃木が好きだ、やっぱ、栃木が一番だっぺっ! 全てを洗い流そうとするかの如く、県民を試すが如く、雷様は一晩中猛威をふるった。何かが新しく生まれ変わろうとしていた。


 嵐のような一夜が明けた。

 フルラウンドを戦い終えた由紀は今までに感じたことのない幸福の中で目覚め、窓辺に訪れた小鳥のさえずりをベッドの中で聞いていた。孤独なのは由紀だけではなかった。カズキもまた寂しさを背負いながら、先の見えぬ暗闇の中を彷徨う旅人だったのである。求め合う二つの魂は、ついに安らぐ場所を互いの中に見つけたのだ。二人一緒にいられるのならもう何も要らない、何も怖くない。ベランダから見える街並みは朝もやに包まれ、静かな寝息をたてている。山々の清涼な空気が魔県の熱波を跳ね返したのである。回転灯をつけて雨上がりの街をパトロールする車両を見送りながら、カズキは言いにくそうに目を伏せた。

「由紀さん、お願いがあります。ボクにドクター・インパの正体を教えて下さい。会って話がしたいんです」

 由紀は二人の前途に不吉な黒雲が湧き立ち、ゴロゴロと言いながら接近してくるのを感じていた。雷様は通り過ぎたと思っても決して油断をしてはならない、往々にして戻ってくることがあるからだ。


     『疑惑』


「うそ~、彼氏できたんですか?」

「なんだってっ!」

「えー、本当ですか? 写メみせてくださ~い」

 その日、熟女愚恋隊の詰所はちょっとした騒ぎになっていた。由紀のスマホの待ち受けがカズキとのツーショット写真になっていたことから、二人の交際が発覚したのだ。どんな些細な変化も熟女の目は見逃さない。仲間たちに囲まれた由紀は質問攻めにあっていた。

 仕事は? 学歴は? 年収は? 貯金は? 持ち家か? 親と同居か?

 熟女ならではの細かなチェックは失敗した数々の経験から学んだものである。由紀は二人の出会いから熱い一夜を過ごすまでを多少の脚色を付け加えながら話し、その中でカズキがサイクルスターであることを明かした。

『バリンッ』

 グラスが割れる音に目を向けると、黙って酒を飲んでいたエルマが血相を変えてこちらを睨んでいた。

「なにぃ? ならば我らを探りに来たスパイではないかっ。間違いない、奴の狙いはお前の体だ。私が新たに開発した71の秘密を盗むつもりだなっ」

「違います、体を狙っていたのはむしろ私。彼はとっても純粋な人です。心からこの街を愛し、みんなの幸せを望んでいます」

 由紀はカズキに向けられたスパイ疑惑を慌てて否定したが、エルマはまったく警戒を緩めなかった。由紀が弁護しようとすればするほど、エルマは鋭い目をギラギラと光らせて疑いを深めていったのである。

「由紀、それがお前の弱さだ。口では何とでも言うが、男などどいつもこいつもみんな同じだ。お前は利用されているだけだっ」

「いいえ、カズキ君は違います」

「まさか洋服や高級時計を買い与えてはいないだろうな?」

『ギクッ』 図星だった。

 由紀は彼の誕生日に自転車用の高級空気入れをプレゼントしたばかりであったのだ。

「せ、先生には関係のないことです」

「いい加減に目を覚ませっ! そんな若くていい男が理由も無くお前に近づいてくる訳ないだろう、裏があるに決まっている。何度ダマされれば分かるんだっ」

 エルマの言葉は痛いところを的確に突いてくる。そのなんの遠慮もなくズケズケとものを言う態度に、由紀は黙ってはいられない怒りを覚えた。

「どうして先生はそんな考え方しか出来ないんですか? そんなんだから、いつまでたっても彼氏の一人も出来ないんですよ」

「なにぃ?」

「自分が男にモテない根性ワルの上げ底女だからって、他人の幸せにケチつけるなんて最低だわっ」

「幸せ? 由紀、お前は幸せなのか?」

「幸せに決まってるじゃない!」

 この日を境に由紀は軍団の活動に参加しなくなってしまった。めでたく彼氏持ちとなった者は退団するのが決まりとなっているからだ。仲間が開いてくれたお別れ会には大勢が集まり由紀の幸せを祝ってくれたのだが、最後までその席にエルマが姿を現すことは無かった。


 エルマと袂を分かち、由紀は新たな人生を歩み始めた。カズキとの交際は大方の予想を裏切り、怖いくらい順調に続いていた。新しくアパートを借りた二人は先週から同棲を始めていたのである。古くて小さい部屋であったが、由紀はずっと憧れていた生活をついに掴み取ることができたのである。

ところが高まる幸福感とはまるで反比例するように、由紀の心は次第に落ち着きを失い、不安でいっぱいになっていったのである。要するに彼女は自分に自信が無かったのだ。彼に愛されるような魅力など、自分には何一つ無いと思い込んでしまったのである。こんな年上の自分に彼は本気で好意を持ってくれているのだろうか? もっと魅力的な若い娘は他にいくらでもいるハズだ。そしてあれ以来言い出しはしないが、彼はエルマに会って何を話そうというのだろうか? エルマの言ったように、彼は何らかの目的を持って近づいてきたのではないか?

 際限なく浮かび上がる様々な疑問符。由紀はそれらを無理に忘れようとしていた。何か余計なことを聞いてしまったがゆえに、やっと手に入れた幸せを失ってしまうのが怖かったのである。今が良ければそれで十分だと自分に言い聞かせるのだった。



 予定論に従えば、人の運勢は誕生星座や星々の運行などによって定められており、どんなに努力をしようとも予定された危機を回避することは出来ないといわれている。それが正しいかどうかはさておき、その日が由紀の運命を大きく変化させる転換点であったことに間違いはあるまい。ある日の深夜、仕事中の由紀に『今すぐ会いたい』 というカズキからの意味深なメールが届いた。由紀は仕事着のナイトドレスに上着を羽織っただけの格好で、指定された神社の境内へ向かった。しかし到着してみるとそこにカズキの姿は無く、代わりに一人の女が佇んでいた。かなりの美人であるが、どこか他人を寄せ付けないような冷たい印象を感じさせる女だ。

「小林由紀さんですね?」

「だれですか?」

 女はカズキの姉、ドクター・ハルだと名乗ったあとでこう切り出した。

「あなたにぜひお伝えしたいことがあるの。カズキはね、あなたを監視するために送り込んだ私たちのエージェントなのよ」

『ババァァァァ~ン』

 どこかの交響楽団の奏でる不協和音が由紀の頭に鳴り響いた。

「ウソよ、そんなの絶対にウソだわ」

「信じなくても構いません、ですがこれは真実なのです」

 そう言う女の顔立ちは確かにカズキとよく似ていた。どうやってカズキのスマホからメールを送信したのかは分からぬが、実の姉ならばそのチャンスがあっても不思議ではなかろう。ただ気になるのは、彼女の様子が由紀をダマしていることに耐えきれなくなって知らせに来たなどという雰囲気ではないことだ。言葉使いこそ丁寧であるが、その裏に冷酷な何かが秘められている気配を感じさせる。危険な相手だ、本能がそう訴えかけてくる。由紀はハルを問い質した。

「それを言うためにわざわざ?」

「いいえ、お呼びたてしたのは他でもありません。あなたはドクター・インパが何を企んでいるのかをご存じですよね、それを教えて頂けませんか?」

 それはこっちのセリフである。エルマが何を企んでいるのか、などとたずねられても由紀には答えようがなかった。それに仮に知っていたとしても教える義理など無かろう。

「嫌だと言ったら?」

 由紀がそう答えると、今まで氷のように冷たい表情だったハルは初めて口元に薄い笑みを浮かべた。

「ふっ、こうするしかありませんね」

 ハルの言葉が終わるや否や、由紀の足元がグラリと大きく揺れた。どんなに酔っても沈まない不沈艦が支えを失ったようにヒザを落とし、地面に両手をついて辛うじて体を支えている。ほとんど土下座に近い体勢である。地面にはぼんやりとした赤い光を放つ円形の魔法陣が描かれていた。闇夜に浮かび上がるその様子は、さながらスポットライトに照らされた温泉ストリップのステージのようであり、由紀の体はまるで強力な磁石に吸い寄せられるようにその中心に引きずられてゆくのであった。嫌な予感が止まらない。

「何なのよ、これはっ!」

 魔法陣が生み出しているのはブラックホール並みの超重力であった。由紀はフルパワーで脱出を試みたのであるが微妙に体の向きを変えるのがやっとであり、もがけばもがくほど衣服を引きずり下ろされてしまうのであった。さして大きくない由紀の胸が超重力によってモチのようにのびる。ブラの肩ヒモはもう切れた。嫌な予感は確信へと変わった。

「ほぅ、さすがですね。しかし無駄ですよ。例えあなたでもこのマシンが生み出す超重力から逃れることなど不可能です」

 そう言うカズキの姉、ドクター・ハルの背後からアンドロナースの一団が現れた。いつの間にか由紀は完全に包囲されていたのである。重力発生器本体から発せられるカン高いモーター音が静謐な境内に鳴り響く。ドクター・ハルは落ちつきはらった様子でナースの手から巨大な電子銃を受け取った。

「ご心配いりません、これはただの麻酔です。素直に話していただけるのなら手荒なことは控えるつもりでしたが、仕方ありませんね。直接脳に聞いてみることにしましょう」

「ちょっと待ってよ、私は何も知らないわよ」

「そうやってトボケても無駄です。脳内スキャンして、全てをハッキリとさせましょう」

 ハルが銃を構えた時だった。胸騒ぎを感じて由紀を探しまわっていたカズキが、この境内にたどり着いたのである。

「姉さん、何をしているんだ。止めてくれ、こんなやり方は間違っている」

 二人の間に割って入ったカズキにハルは呆れ顔を向けた。

「カズくん、あなたは自分の任務を忘れてしまったの?」

「ボクはもう少し時間をくれって頼んだはずだっ」

「時間ならたっぷりあげたじゃない。あなたの遊びに付き合っている暇はないのよ」

「姉さんボクは、うぐっ」

 ハルはカズキの言葉を最後まで待たず、いきなり彼に向かって電子銃を放った。撃たれた反動でカズキは大きく体を仰け反らせながら魔法陣の中に倒れ込み、由紀の傍に引きずられていった。

「ね、姉さん、なぜだっ?」

「バカな子ね、よく見てごらんなさい。どこにでもいる普通のオバサンじゃないの。あんまりお姉ちゃんを困らせないで」

「違うんだ、由紀さんは・・・」

 ハルが由紀に向かって改めて麻酔銃を構えた時だった。

『ヒュゥゥゥゥーーーン』

 唸りを上げていた重力発生装置が突然停止してしまったのである。

「なに、どうしたの?」

「分かりません、急に・・・」

 ナースが慌てて復旧を試みるもマシンは全く応答しなかった。計器類は完全に沈黙したままである。ハルは周囲に視線を走らせた。単なる故障か? それとも・・・

 マシンのトラブルは由紀にとって逃げるにはまたとないチャンスであった。しかし超重力によって体力を奪われてしまった体では、もう脱出は不可能であった。ゴムの伸びきってしまったパンツを履き直すだけで精いっぱいである。そんな混乱を極める境内に、からかうような女の声が響き渡った。

「どうした? 困っているのなら手を貸すぞ」

 唐突に投げかけられたその声に皆が視線を送った。社殿の陰からセクシーフォーメイションを組んだ熟女軍団が出現したのである。先頭に立つエルマの手には引き抜いたコードリールのコンセントが、これ見よがしに握られていた。それは重力発生器へと真っ直ぐに伸びている。

「しまったっ」

 状況を把握したハルは地団太を踏んで己の迂闊さを悔しがった。今となっては何を言ってももう遅いのであるが、万が一に備えてバッテリー式の予備電源をキチンと備えておくべきだったのである。久方ぶりに登場したエルマは主役は自分だぞ、と言わんばかりのもったいぶった足取りで悠々と由紀の元へ歩み寄った。

「だから言ったじゃないか、若い男が本気でお前を相手にするわけがないと」

「せ、先生」

 エルマは由紀に数枚の写真を手渡した。そこにはカズキが国恋本部へ出入りし、幹部と思われる数人の人物と密談している様子が収められていた。やはり由紀の知らないところでカズキは他者と繋がりを持っているようである。予期せぬ邪魔者に主役の座を奪われたハルは、思い出したように苛立ちをぶつけた。

「ドクター・インパ、EVОを金儲けの道具としか考えられない医学者の恥さらしめっ」

「ふんっ、医者が金儲けしてなぜ悪い? みんな普通にやってるぞ」

 おいおいおいおいおいっ! 本人にその自覚は全くないとはいえ、エルマの発言は世間に誤解を与えかねない不謹慎なものであった。ここに訂正してお詫び申し上げる。とにかく栃木県医学界の最高峰は熱い火花を散らしながら対峙したのである。

「ところでハル、聞けばお前も35を過ぎてまだ独り身だそうじゃないか。どうだ、そろそろ我々の仲間に加わらんか? さすればお前の知りたがっている、我らの真の企みを教えてやってもよいぞ」

 エルマの提案はまさに一石二鳥、棚からぼた餅、渡りに船ともいえるグッドアイデアに思われた。しかしハルは、その折角の誘いをきっぱりと断ってしまったのである。

「勘違いしないで欲しいわ。私は医者や弁護士や実業家や政治家など、数多の名士の誘いをすべて断って独身を楽しんでるの、一人でするのが好きなのよ。あなたたちと一緒にしないでちょうだい」

「貴様ァァァーーーっ、一人くらいこっちに寄こさんかぁ~~~っ」

 ハルの言葉に激高した数人の熟女が、エルマの指示も待たずに先陣を切って飛び出した。だが護衛のアンドロナースに捕まってしまい、その拳はハルには届かない。ナースにボコられてなお止まぬ仲間たちの闘志にエルマは胸を熱くしていた。

「ふんっ、後悔することになるぞ。お前たち、やっちまいなっ」

『うおおぉぉ~っ』

 因縁の対決である。アンドロナースと熟女コマンダー、双方の実力は互角であろう。激戦は間違いないと予想された。ところが勝負は呆気なく決してしまうのであった。ナースは日々の激務のため心身ともに疲弊しきっており、満足に戦える状態ではなかったのである。

「由紀さん、しっかりして下さい」

 戦闘の最中、麻酔によって体の自由が利かなくなったカズキは、地に這ったまま由紀に声をかけた。

「カズキくん、お姉さんの言ったことは本当なの? あなたは私たちを探りに来たスパイなの? ねぇ正直に答えてちょうだい」

 由紀が問い質すとカズキは思いつめた様子で答えた。

「それは本当です。だけど信じてください、ボクはあなたを心から愛しているんです」

「ふざけないでよっ、信じられるわけないじゃないっ!」

 着替えを済ませた由紀は、服に付いた汚れを手で払いながら立ち上がった。そしてせめて最期くらいはと、精一杯の笑顔を作ってみせたのである。

「さよならカズキ君、私はあなたの事が本当に大好きでした」

「何を言っているんだ、由紀さんボクは、ただ・・・」

 カズキは声を詰まらせながらまだ何かを言おうとしていた。しかし今さら何を聞いたところで、由紀はもうカズキの言葉を信じることなど出来ないのである。もしエルマの助けが間に合わなかったら、今頃どんな目にあわされていたのだろうか。おいしい所を独り占めして大満足のエルマは無い胸を反らして、勝ち誇ったように二人の間に割って入った。

「ふふふっ、やってくれたな、サイクルスター・カズキング」

「ドクターインパ、くっ」

「ピュアな女心を弄んだ罪は重いぞ」

 仲間を傷つけられ、怒りに満ちた吸血熟女の群れが舌なめずりしながら近づいてくる。それに対してカズキは身構えることすら出来なかった。

「聞いてくれ、ドクターインパ。ボクは・・・」

「やかましいぃぃぃっ!」

 エルマは吠えた。その百雷の如き凄まじい迫力と、ガン細胞でさえ萎縮すると言われる鋭い眼光に射抜かれたカズキは思わず息を飲んだ。

「こうなったのは全てお前の行動の結果だ、言い訳など男のすることではないっ」

 エルマによって最後の審判が下された。

「公営とはいえど競輪は立派なギャンブル。たとえお上が許しても我らが許さないっ」

「うぅぅっ」

「連れて行け」

 熟女軍団が一斉に襲いかかりカズキを生け捕りにした。縄できつく縛られたカズキは巣穴へと運ばれていく。由紀とエルマの二人はそれを静かに見送った。

「よく頑張ったな」

「えへっ、また独りになっちゃった」

 そう言って由紀は笑顔でおどけて見せた。しかしそんな由紀の小芝居などでエルマの目を誤魔化すことは出来はしない。一発で見抜いてしまうのだ。

「バカ、無理をするな」

「うわぁぁぁ~~っ」

 由紀は今度こそ本気で泣いた。体を震わせて幼い子供のようにエルマにすがりついた。信じていた相手に裏切られて、そのたびに悲しい思いを繰り返す。なんど失敗しても懲りない自分の愚かさを、今度こそ心から痛感した。こんな思いをするくらいなら初めから信じなければ良かったのだ。男など所詮は他人である。もう決めた、これからは男を信じることなどはせず、独りで生きて死んでいく。たとえ寂しくとも平気である。

「すまん、もうこんな思いは誰にもさせやしないっ」

 その腕に由紀を抱きかかえながら、エルマも決意を固めていた。何度も繰り返される腐の連鎖を断ち切るには、武力による全面戦争によって事を決するしかないのだと。病巣を根こそぎ取り除くような大手術が必要なのである。戦力的に優位な今ならば予てからの計画を実行に移すことが出来よう。そう、ハルや国恋が危惧していた通り、エルマには由紀にも知らせていない秘密の計画が存在していたのである。

「あとは私に任せろ。おい誰か、部屋まで送ってやってくれ」

 由紀は仲間に抱きかかえられるようにしてその場を後にした。

 風が出てきた。

 小雨が降りはじめた。

 遠くで稲妻が光った。

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