無色透明世界

武上 晴生

無色透明世界

 電車のドアが開くと、重苦しい熱気と蝉の大合唱とが同時に吹き込んできた。

 後ろから人に押されるのはごめんなので、いの一番に降車するのが僕の決まりではある。が、この日ばかりは、すぐに足を踏み出してしまったことを後悔せざるを得なかった。痛々しい日差しが、全身を貫いてアスファルトを焼く。顔を上げると映る、煩いほど青々とした光景にはもう見飽きてしまった。

 重いからだに鞭を打って、人の波に当たらない、寂れたベンチの横まで移動して振り返る。小さなドアから溢れ出してきた何百もの人間が、皆同じ顔で同じ方向に流れていった。

 恐怖。いや、滑稽か。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと眺めているうちに、大方潮は引いてしまった。


 そこに、ぽつりと1つ、取り残された人の姿があった。電車を待っているようでもないし、電光掲示板を見ているようでもない。ただ、不思議な方向を向いて、突っ立っていた。

 素知らぬ顔をして横を通り過ぎようとしたが、彼の手に白杖が見えてしまったので、声を掛けるしかなかった。


「白杖の方、大丈夫ですか」

 顔を覗き込んでみて、驚いた。盲者では、ない。そうとしか思えなかった。

 目はしっかりと開いており、盲者独特の気色などは見られない。その瞳は、見るのも恐れ多いほどに透き通り、深みを帯びていた。

 彼はこちらを見ると目を細め、笑顔で答えた。

「どうもありがとうございます。そう話しかけてくれる人は久しぶりですね」

 身長も年齢も同じように見えるのに、どこかかけ離れているようにも思えた。


 腕をお貸ししましょうか、と聞くと、彼ははにかみながら手を振って断った。

「実は、目は見えているんですよ。

 君のことも見えてはいるんです」

 えっ、と声を出して驚く。

 彼はまた笑って、しっかりとした足取りで歩き出した。

「ただ、何というか、見え方が違くってですね」

 会話に少し間が空く。彼は、考えるように空を見上げ、下を向き、首を傾げ、音を立て息を吸い込んだ。

「透視持ち、とでもいうのかな?

 すべてが透き通った水や、ガラスなんかで出来たように、透明に見えるんです。

 まあ、透視とは言わないかもしれないですけど」

 僕も首を傾げた。

「それじゃ、何で白杖なんかを」

「透明、ですからね。意外と地面に落ちている物なんかが危ないんですよ」

 カラン、と足元で音が鳴り、彼が立ち止まった。空き缶が落ちている。ほらね、とでも言いたげに、彼は缶を白杖で二、三度つついて、拾い上げた。気付けば、僕は持ちますよ、と手を差し出していた。

 不思議そうに手渡されたそれを、太陽に透かしてまじまじと眺める。

 銀色に輝くこの缶の、内側に僅かに残る水滴、向こうを汚す土、その更に向こうにある電線、歩道橋、その中を急ぐ人間、遥か先の入道雲、空。

「難しいですね、見えない世界を想像するのは」

 言いながら彼の方を向くと、彼もまた僕の方を見ていた。視線に気付くと、我に返ったように一瞬目を見開き、すぐさま元に戻し、そうですね、と一言返した。

 そのあとは、しばらく沈黙が続いた。


 改札へ向かう階段に、もう人気はない。静かな階段を上り、線路の上を通って、その先の階段を降りれば改札がある。

 いつもより妙に力が入って、わざと一段一段をしっかりと踏みしめてみる。彼も僕のペースに合わせて、ゆっくりと足を動かしていた。

 歩道橋を渡り終え、視線の先に終着点が見えてきた。軽くため息をついたとき、不意に、緩んだ口が静寂を破ってしまった。脳内を反復し続けた言葉が、大気中に零れ出る。


「自分の世界だけ、すべてが透明って、辛くないんですか」


 そこに存在するはずのものが、誰にでも見えるものが、自分の前でだけ姿を見せない。誰の前でも堂々としているやつらが、自分の前でだけ透き通って、いないふりをしている。

 その悲しさも、虚しさも、この世の誰ひとり分かりやない。共有できるわけがない。

 存在を示してくれない物体。

 理解をしてくれない人間。

 無論、いじめでもないし、差別でもない。けれども、目に映るものは、孤独。そんな世界。

「すみません。僕、透明って、昔からなんか苦手で」

 彼が、こちらを向いたのがわかった。

「透明なものって、存在はしているのに、ないことにされがちじゃないですか。

 惑わすくらいなら、いっそ消えてくれ、って何度も思ったんです」


 透明な視界の持ち主は、最初は呆気にとられているようだったが、話し終わると口角を上げてふふっと笑った。

「面白いですね、君は。

 影が薄いとかなにかで悩んでいるのですか?

 まるで、君自身が透明で、透明なものの気持ちを代弁しているように思えます」

 僕もつられて、つい息をもらす。あながち間違っちゃいないです、影がないんです、と。

 彼はまた笑顔を見せると、すっと正面を向いた。

「私は、透明なこの世界が好きですよ。透明は、絶望していませんから。

 寧ろ、透明なものは私の前だと、主張してくれます。

 いや、誰の前でも、本当は叫んでいるのかもしれないですね。

 普段は、弱くて、人に見られていない物体ほど、頑張って姿をあらわそうとしているんです。

 君の手に持つ空き缶みたく、見えているのに見えないふりをされるものも、きっと誰かに気付いてもらえて、拾ってもらえたら喜んでいます。

 私はそれで幸せすら感じます。出会えた喜びと言いますか。

 それに……いや、それだから、ですかね。

 透明って、綺麗じゃないですか」

 彼はここまで言い切ると、僕の方を向いて、あなたも綺麗ですよ、と付け加えた。

 僕は少し戸惑い恥じらい、彼に向かって控えめな笑顔を見せた。


 改札口は、もう目の前まで来ていた。

 お互いに、今日はありがとうございました、また会えるといいですね、などと言い合い、手を振って別れを告げた。

 そのとき、突然きゃあ、という悲鳴が辺りに響いた。

 見ると、ひとりの女性が、こちらを指差して震えている。その人差し指の延長線には、僕の手と空き缶が。

 はっと気が付いて、慌てて空き缶をゴミ箱に捨てる。

 戸惑う彼の姿が見えて、口早に言い放った。

「ごめんなさい。あなたといると、つい自分も普通に存在しているように思えてしまって」

 『透明』な僕は、改札を飛び越えて走り去った。

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無色透明世界 武上 晴生 @haru_takeue

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