第2話 浮雲
第2話
「浮雲」 著作者:乙音メイ
(手下「お頭、お頭! ちょっと耳にしたんですが、羽振りのいい日本の会社が、俺らの国でのさばってますぜ。一丁締めてやりますか?」
お頭「ほう? 何してるんだ?」
手下「へい、鉄道の枕木を商いして、これが馬鹿にもうけてるって話でさあ」
お頭「「俺たちの国まで来て、何だとお! 俺たちは、お尋ね者でやりにくくなって商売上がったりなのに。仲間七十人お
と、頭は町で聞いた話を受け売りして手下に言いながら、憤慨した。
山賊たちは、商売で馬鹿儲けの日本の会社のことが嘘偽りないことを調べあげ、いつどこで襲うかを考えた。いつも軍人が同行していて、狙う隙がなさそうだった。
手下「どうやったら軍人がいない時を
お頭「あのお
手下「ああ、もういっそ日本まで遠征しやすか!」
どうしたわけか、手下の一人が何気なく言ったことが、頭を含め、みんなの本気に変わっていった。内乱の多い中国では、もう一攫千金の儲け話はなかなかなさそうだった。
山賊連中は一年近くかけて綿密な計画を立てた。その景気のいい会社は南の島から材木を買っているらしい、ということまで調べが進んだ。
手下「日本の南の方にあるらしいですぜ。その材木のおかげで戦時も今も景気がいいらしいってんでさあ」
お頭「大きな船を手に入れなければなんねぇ。それと、もっと仲間もな」)
*
山賊連中は、景気のいいという会社のことは棚に上げて(屋○島で偶然出会うまでは……)、主には材木目当てに、黄海を南下して徳○島、屋○島など林業の盛んな各地に来日した。山から切り出した木は、まず、川に落として運び出す。連中は各地の川を調べた。流刑船をジャックして、徳之島、種子島、屋久島に着いたのが、1946年9月のことだった。
その七ヵ月後1947年4月、日本の人気作家、林芙美子は屋久島を訪れた。屋久島在住のある人から、
「島に来て、話を聞いてください」
と、強く要望されたためだった。林芙美子がまだこれほど有名でない時代には原稿を持って、よく出版社めぐりをした。そのときの感謝の気持ちから、売れっ子になってからも原稿依頼を断ったことがなかった。
東京に住んでいる者にとって、屋久島は外国のように遠かったが、実際に何度も海外に行ったことのある芙美子の起動力は誰にもまして高かった。
品川に出て、東海道線など国鉄を乗継いで山口県まで、丸二日かかった。門司港から船に乗り、再び国鉄に乗って九州を縦断した。鹿児島港に着いた。しけのため宿で三泊し、芙美子は朝九時出航の照国丸に乗った。芙美子は、船のたくさんの乗船客が、一様に「金魚」の入った鉢を手にしているところを目撃している。
芙美子は(以下【 】内は林扶美子の『浮雲』から)、
【「序ついでに、船を見て来たが、仲々いゝ船だ。屋久島通やくしまがよひでは一番いゝ船だらうね。船へ乗る奴が、みんな、金魚鉢を持つてるンだ。屋久島には金魚がないのかね……」】
と、作中の登場人物である富岡に言わせている。
他にも、扶美子としてもとても目を引く光景だった金魚たちのことを、紀行文の中にも記しているので紹介したい。
【曇天ではあつたが、航海はおだやかさうであつた。この船では、一等機關士の方の好意で、誰よりも早く乘船する便宜を受けた。デッキに乘り込んだ人達が、どの人も、金魚鉢を手にぶらさげてゐた。種子島や、屋久島には金魚がないのかも知れない。薄陽の射したデッキのベンチに、どの人の手にも、小さい金魚鉢がかゝへられてゐるのは、何となく牧歌的である~林扶美子著『屋久島紀行』より】
*
金魚は中国浙江省が原産地。そして、浙江省と言えば天台山。天台山は天○宗(法○宗)の霊山とされ、中国人の信仰を集めている山だ。深大寺と言えば「そば」、「もみじ万頭」と言えば広島を思い起こすように、中国人にとって「金魚」と言えば、「天台山」なのだ。
二時頃に種子島に着き、ここで大勢の人が、金魚を手に手に降りて行ったことも、芙美子は見ている。それらの人には迎えが来ていた。
7か月前の1946年9月に種子島に密入国した中国人山賊が迎えに出ていたのだ。その中には枕木と船で有名な大会社の社長に雇われ、連絡船の仕事をする者もこの種子島にいた。
種子島の離れ島、馬毛島は1944年に、海軍の防空監視所ができて、無人島にされたが、山賊たちの格好の隠れ場所だった。日本の政策で、戦後の農民開拓団が広く募集されていた時期だった。満州で開拓団として帰ってきてから、また農民開拓団になる日本人も多くいた。好機と見た山賊たちは中国に手紙を送った。こちらにも法○経やそれを信奉する日本人があることをつたえて、その
港で出迎えた山賊たちは、金魚を手にした初対面の人に、手を振った。
金魚の団体がみんな降り、一等客室は快適だったが、船の乗船客でない者が港から上がってきて、探検と称しては、船内のあちこちの部屋をお構いなしに開けてみるという蛮行を繰り返していた。
それらの人々がいなくなり、船内は再び静けさを取り戻し、夜9時まで停泊していることに、芙美子は多少の退屈を感じた。それよりも、自分を待ち詫びている、という人に早く会ってみたかった。出航の午後9時までは長かった。
その時の印象を林扶美子は『浮雲 』の第60章の中で書いているので、少し抜粋してみた(以下【 】内は林扶美子の『浮雲』から)。
【何の為に、こんな処に、夜の九時まで、船が碇泊してゐるのか、富岡には不思議だつた。積荷をするにしても、桟橋には、大した荷物も出てはゐない。
二人とも上陸はしないで、船のなかで、夜まで過した。夕方になつて、船の甲板には、きらめくばかりのイルミネーションがとぼり、騒々しいばかりに、拡声器から流行歌が流れた。
甲板や廊下を下駄で走りまはるものや、飲み屋の女の嬌声も聞えた。幾度となく、富岡達の部屋のドアを開けて、なかを覗きこむものもある。富岡もゆき子も、この無作法には驚いてしまつた。
「屋久島も、こんなところかしら……」
ゆき子が、毛布にもぐり込んだなり、心細気に云つた。
~林扶美子作『浮雲』より】
*
夜が明けたというのに、空は
芙美子はそれが不気味に見えて、少し不安を感じた。宮之浦港に寄港し、安房港から岸までのはしけ船に乗っている間に、着ているものがそぼ降る雨にすっかり濡れてしまった。午前9時頃芙美子は、安房港に降り立った。港には、待ち人である屋久島町の役人、屋○島営林署のふたりだった。案内されてつり橋のたもとにある宿に宿泊した。そこで話を聞いた。
*
屋久島来島から7ヵ月、1947年11月、芙美子は『浮雲』の連載を始めた。屋久島でふたりの役人に聞いた実話と、旅の間に観察した様子から構成を考えた。ある新興宗教の、まったく油断がならない裏の顔、これに釘を刺しておかねば、という役人の気持ちを汲んだ。芙美子自身も直観で、その闇を理解した。
これから書く男性主人公の、屋久島赴任地での悲劇が、二葉亭四迷の『浮雲』の主人公、下級官吏の恋を扱った話と、自分が思い描いた伏線となる恋愛話が、芙美子の中で重なって思えた。そこでタイトルも『浮雲』にしてみた。完成させた後、変えることも視野にあった。二葉亭四迷にあやかって芙美子も、気楽な感じにすらすら書き終えたかった。
そのようにスタートしたのに、それでも芙美子は、なかなか確信に触れることができなかった。これまで知らなかった世界が、その真黒な暗い淵を覗かせていて、圧倒されそうにも思えたからだった。
恋人同士の痴話話と、冬の枯れてしまったすすき野のような寂しげな風情と、戦後の民主主義の思想も取り入れて、ぽっかり口を開けている奈落から、できるだけ遠くに避けていたかった、という様子が窺える。けれど、新興宗教を早くから、恋愛痴話ばなしの裏に忍ばせておくことは忘れなかった。屋久島での取材中、いろいろ話をしてくれた人たちの直観と、自分が歩いて見聞きした現実を、重要なことだとわかっていた。大切なことだと思っていた。自分の深いところで理解していた。
なかなか確信に到達しないままだったが、『浮雲』の連載は人気もあり、好調だった。けれど、話がいよいよ佳境に入るというところで、あたかも完了したかのように一旦、終了させた。そのまま単行本にもなり、映画化もされた。しかし本当は続きの原稿が存在している。
*
屋久島来島から四年後、芙美子は自宅で亡くなった。その半日前、取材のために二軒の料亭で飲食をした。一件目は、まさしく仕事の取材のためだった。
二件目では、これは、
(「6月27日にでも会って内密の話がしたい」)
と、6月23日に、屋久島から無線電話でアポイントメントがあり、芙美子が、
(「その日は仕事の先約がある」)
と、伝えると、
(「一件目の用談場所に近い赤坂の料亭で、いつまでもお待ちしている」)
と言われて、そこで接待されたのだ。
アポイントメントをした相手というのは女性だった。
女性は、林芙美子の代理の者として料亭の予約をし、屋久島を6月24日土曜日の昼、照国丸で鹿児島港まで行き。その晩は九州で一泊して、翌日の25日、本州に入り一路東京へ向かった。
『浮雲』の連載が終わって、二ヵ月。ここで終わる話ではないことを女性はよく知っていた。顔を覚えられていなかったことがわかり女姓は、屋久島を愛する島の役人になりすまして、他に何を知っているのかいろいろ聞き出してみた。案の定、やるほかなかった。砒素を各料理の中に少しずつ盛った。
この使者は、屋○島営林署の官舎の身の回りの世話をした女中として『浮雲』の中で描かれている人物、その本人だった。田○館の下男夫婦の女房である。
作品中には、「屋○島営林署の官舎」とあるが現実には、「田○館」の、ある一室のことだった。営林署に限らず、船で来島した人は、その宿に泊まる人が多かった。
芙美子に話をした人物は営林署の役人で、「田○館」を官舎代わりに使用するのが習わしになっていた。当時、船は1週間に一便程度だったから、必然、宿は必要だった。
屋○島営林署の役人ふたりは、前日、熊本営林署の二人を港まで迎えに出た。そのまま田○館に案内した。仕事で来た二人と翌日、約束をしていた。屋○島営林署の役人ふたりは、嵐のため今日は宿でゆっくりしてもらおうと言いに来た。玄関から声をかけたが、宿のおかみさんは出てこない。玄関を回って、外から部屋をのぞいてみた。すると、天井も壁も、血が吹いて染まっている。それを下男夫婦が新聞紙で覆い隠している。恐ろしさにすぐその場を離れた。
下男下女はいても、その日以来、主人夫婦もその男の子もいない。搔き消えてしまった。誰かに話すにも恐ろしい。屋○島営林署の役人ふたりは、誰が味方かよくわからなくなっていた。あの下男下女の夫婦を見て、そう思ってしまった。島の外の人に聞いてもらいたい。それが林芙美子だった。戦時中、ペン部隊として活躍した作家だった。国のためにはこの人が信頼してよさそうだと考え、来てください、と屋○島営林署の役人ふたりは島に招待した。
芙美子が役人ふたりに聞いて描写したその部屋は、その役人たちが「官舎」代わりに使用していた「田○館」のことだった。芙美子は、その部屋をそれと知らずに描いたのだった。そればかりか宿泊もしてしまった。その時の様子は『屋久島紀行』にある。
「大きい宿なのに女中たちがいなかった」
と、そう扶美子は書いている。
【十一時頃、バスは宮の浦の部落へ着いた。村の入口で、若い巡査が珍しさうにバスのヘッドライトに照されて立つた。巡査に○代館といふ古い宿屋を聞いて、私達はバスを降りた。宮の浦の部落はみんなランプであつた。磯の匂ひがした。宿屋は案外がつちりした大きい旅館であつた。女中がゐないのも氣に入つた。無口なおとなしい女主人が、ランプをさげて、二階の廣い部屋へ案内してくれた。橘丸ははいる樣子でせうかと聞くと、多分大丈夫でせうといふ返事だつた。~林扶美子著『屋久島紀行』より】
*
料亭に現れた芙美子に毒入りの料理を食べさせた後、田○館の下男夫婦の女房は、屋久島には帰らず、そのまま夫を屋久島に残し、鹿児島市内に在住した。数十年後、県議会議員をしたが、大学の文学部の卒論で、「林芙美子」を取り上げる女学生が多く、いつも秘密の発覚を恐れ、残りの人生を後悔しながら送ったという。娘が度々、日舞の稽古にかこつけて屋久島からやって来てくれることが唯一の慰めだった。最後は老齢で亡くなった。今現在、田○館の下男だった方は種子島でひとり、余生を送っている。
この下男と下女の夫婦は、林芙美子の『浮雲』の最終部分を読んで、あのとき熊本営林署の二人連れの宿客を送ってきた、屋○島営林署の役人ふたりに、急場を凌ぐために新聞紙を血染めの壁に貼っているところを見られたのだと気付いた。田○旅館の下男夫婦は、すっかり山賊に馴染んでしまっていた。
それで女房と手分けして口をふさぐことにした。
(「聞いてほしいことがあるのです。何もかも打ち明けます」)屋○島営林署の役人ふたりは、下男だった男に呼び出された。
元下男は、宿に押し入ってきた台湾北朝鮮中国山海賊のことを話し、熊本営林署の二人の遺体がどこにあるかを示すために、屋久島の役人ふたりを案内した。橋の上の中ほど川下側で下を指さし、
「ここです」
と、聞いたそのとき、藪の中から飛び出した山海賊たちに体を持ち上げられて川に投げ捨てられてしまった。1951年6月23日金曜日午後4時46分即死。
こうして、安○の森林管理署本署から出向いた役人ふたりは、田○館の元下男だった夫に殺された。翌日二十四日、ふたりの遺体は田○海岸に打ち揚げられた。後に森林管理署本署の敷地内に神社が建てられた。
その翌日1951年六6月24日、田○館の元下女で元下男の女房の方は、林芙美子に会いに船に乗った。
芙美子が毒を盛られ、その急性ショック症状の苦しみ様を新進画家の夫が見ている。夫は妻に聞いたとおり、続きの原稿を、たくさんある遺稿の中から発見している。職業柄、顔の広い妻の大勢の仕事先や仲間に相談した。しかし、小学生の子供も事故死してしまった。
*
林芙美子の『浮雲』は、1949年3月から約八ヵ月、雑誌『風雪』に連載され、続きの章を、暗い淵から逃れるように『文學界』に場を変えて発表した。それは、雑誌『風雪』の連載を終わらせて約二月後のことだった。芙美子は『浮雲』の続編を1949年12月から、1951年(昭和26年)4月まで、この『文學界』に執筆連載した。
この『文學界』での連載を終えた芙美子は、このとき、すべてを書き上げていた。屋久島に滞在した一週間の観察描写と、それ以外の、屋久島の実在者営林署の人物から聞いた実話のその後の展開も。
芙美子は、核心部分を載せた全編、『浮雲・三部作』を単行本として、更にもっと大きな安全な出版社から出版する話が決まっていた。
これまで発表した分の『浮雲』も、映画化された浮雲の映画も人気だったし、もう安全な気がしていた。話を聞きに屋久島を訪れたときの紀行文『屋久島紀行』も、『文學界』に『浮雲』の執筆連載途中、1950〇年7月に「主婦之友」社から発表し、屋久島に舞台が移ることの下地を、さりげなく事前に犯人たちに公表しておいた。が、特に何も起こらなかったため、翌年の1951年に入って、屋久島をちらっと見せておいて、二作目の『浮雲』はまた終了させてみた。
屋久島の営林署官舎での凄惨な血の場面を表現した後、恐ろしさに再び囚われ、やはりまだ反応を見てみたかったのだった。芙美子は、その二か月後この世を去った。
山賊子孫の三世も、林芙美子を文学的な視点からと見せかけて何やら書いているが、真実は隠しおおせない。
『浮雲』の続きは、いずれ世に出る運命を持っている。
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※林扶美子作『浮雲』https://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/52236_58934.html
林扶美子作『屋久島紀行』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/4989_24353.html
リンクは自由とのことで、青空文庫さんに感謝いたします。
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