第1話 屋久島の1946年 昭和21年 9月



第1話

   

   屋久島の1946年(昭和21年)9月


「今から72年前のことを教えよう」

と言う、重々しい男性の声がした。縄文杉だった。1月31日のまだ暗い早朝、今日はミシェルの誕生日だ。私は急いで書きとめた。


   *


 昔、日本の戦後のどさくさに乗じて、中国台湾祖国の山河≪サンガ≫を見限り、敗戦国とはいえ、比べればまだ豊かな日本で、暮らしたいと思った密入国者の連中がいた。

(「ばれないようにするには、まずは、根っからの日本人になりきるんだ。おい、いいな!」

「お頭、解った! みんな、頑張んべぇ!」

「おう!」

連中は、男も女も不安と新天地への期待に胸を膨らませ、威勢よく返事をした。)


   *


 日本人に成りすますためにはまず、土着の宗教を信奉している振りをすることだと考えたのだろう。「成りすまし」の歴史は意外と根深い。


 日本は仏教国、と考えても、その土地その土地で宗派も違ってくる。そこでまず、土地の教祖的人物や寺を信奉しておけばいいと考えた。13世紀の日○さん(法○経創始者)や、別のところ、例えば屋久島では17世紀中頃の泊如竹≪とまり・じょちく≫さんという人物がいた。


 真面目に善なる生き方を説いた本人たちは大迷惑なのでは、と思うし、また思い浮かべると滑稽だが、日本人が話しかけてきたとき、言葉少なに、お経の出だしを唱えつつ教祖を祀り上げ、反対に喝を加えたりもしていた。それに、布の太鼓を作って、それを打ち鳴らしながら移動すれば、何やらの修行中に見えて話しかけられることもなく都合がよかった。これは仲間中に受け入れられた。


 土着の宗教の教祖的人物や寺を信奉し、後から功績をたたえて祀り上げれば、扇動者として自分が頭になれるし、日本人にいい塩梅に成りすませる。この土着の宗教の信奉者に成りすます作戦は、日本の各地で成功した。

 

   *


 平和な日々を生きていくことに専念しておけば、多分、本人たちにも日本にも良かった。普通ではそのような暮らしを考える。が、その前に連中は、戦後のどさくさの中、日本人の戸籍を得るため、一つの集落丸ごと、住人(氏名)を殺し、その人の家(番地)を奪うという大罪をすでに犯している。

 戸籍上の年齢はどうでもよかった。というか、日本語の慣用数字が読めなかった。何とかなると考えた。それよりも、近隣に他の家があれば、はて? どなただろう、と思われるので、連中は、小さな集落に狙いを定め、各地の辺鄙な場所を目指した。


 それが1946年9月の屋久島でも起こっていたことだ。

 連中は、夜になって宮之浦の崖の下にたどり着き、過疎の山間の材木商の建物をめざし川を上って行った。藪が払われ整地された場所があった。現在「ゆの○○のゆ」がある場所だ。家が並んでいた。ここは木材置場か? 山賊が様子を探っていたら、真夜中だというのに男が外に出てきて、そして見つかった。


 山賊の一人が、ぱっと飛び出し、男の口を手でふさいだ。そして、聞いた。

(「ゥイヤァ、ファンチュンシュギィ!《騒ぐな》フォンチンツェン、ナアギィ!《金はどこだ》」)

どすの利いた中国語だった。


 強盗の狙いはどこの国でも同じだと思い、宿の下男は、宿とは別の主人の家に案内した。主とその妻と息子の三人は、妻、主、息子の順に起こされ、縄で縛られた。そして、手提げ金庫を持って、川床まで20メートルはある橋の上に、連れて行かれた。夜の真っ暗な川は、轟々と速い流れの音だけがしていた。風が強く吹き始め、嵐になりそうだった。


 一方、仕事で来た二人連れの泊り客の部屋にも、手下が襲い、二人はあっけなく殺されてしまった。二人の亡骸は手下に担がれて、主の家族が連れていかれた宮之浦川の橋まで運ばれた。

 

 山賊たちは手提げ金庫を開けるように身振り手振りで、宿の主に言い寄った。開けたくなかった。こんな悪者に、20年頑張ってきた大切な宿の、運営資金を渡すことができなかった。客が投げ捨てられた。すでにこと切れていたことは、見ればわかった。主はこんなことをする者たちを許せなかった。次に、主の妻が生きたまま川に投げ込まれた。あっという間のことだった。主は急いで金庫を開けた。にもかかわらず、子供も生きたまま川に投げ捨てられた。山賊の女の高笑いが聞こえた、と思ったそのとき、大勢に持ち上げられ、主も同じ運命をたどった。


 それは、中国台湾での暮らしぶりを窺わせる、手慣れた仕業だ。下男夫婦は生かしておいた。飯炊き、食べ物調達、周りのスパイなどの用事をさせるためだ。


 宿は、泊まり客のいた部屋が、二人のどから噴き出した血で染まっていた。宿として使用して、見られてはまずい状態だった。 天井は拭いたが、返って大きなシミになってしまった。壁も土壁であるため、すでに血がしみ込んでいてどうしようもなかった。おあつらえ向きの左官屋を頼めるまでは、壁に新聞紙を貼っておくより仕方なかった。

 顔なじみの者や、町の役人が来たときなどは、下男夫婦の女房を女主人に仕立て、女中は置かず、当面を乗り切っていくほかないだろうということになった。ここは、シミの付いた部屋以外は仲間の根城にするつもりだ。


 人里からは離れていても、山には、宮之浦の里から山仕事で出かけていた人が何人かいた。丑三つ時、野宿をしていた人たちは嵐の気配を感じ、本格的な嵐になる前に宮之浦の自宅に帰ろうと山から下りることにした。途中、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。橋の近くまで下りてきて、離れた場所からその様子を見てしまった。人が次々と川に捨てられている様子を。

 男女の大人ばかり60人くらいはいただろう。多勢に無勢で、助けてあげられなかったことが後々まで悔やしいと思った。そこで地面に穴を掘って叫んだ。


 まったくほかの、ある人も悔しかった。機転を利かせ、公共の建造物の名前に後世の島民へのヒントを残した。二つ三つあるうちの一つに、「熊本営林」と刻まれた橋がある。「ゆの」二つの命への鎮魂と犯人への警告の意味がある。この橋から無残にも投げ捨てられたのは、熊本営林署の職員のの二人も含まれていた。


   *

 

 翌日の晩のこと、連中が次に向かったのは、安房川だった。そこで屋久島に古くから住んでいた、「○《と○り》屋」という姓を持つ材木問屋相手の船宿の主人○《と○り》家の三男が商う若い夫婦以外、宿で働く人々が襲われ、犠牲者となった。もう少し川上の左岸には屋敷があると聞いた。

 

 次はそこが襲われた。たくさんの材木が置いてある集落だ。番頭夫婦以外は、主もろともたくさんの働き手たちも子供も、皆おかまいなしに殺されてしまった。普段静かな夜のV字渓谷にたくさんの悲鳴が、大風のうねる音の中につんざくように混じりながら、反響しながら、安房川河口まで広がっていった。その異様な風のような人のような悲鳴に、眠りを破られて目覚めた人も多かった。


 安房の家々では、この晩を境に、昼でも雨戸を少し開けるか、まったく閉めきって暮らす日々が1~2年続いた。

    

 翌日、○《と○り》氏らの亡骸は、穴を掘って燃やされた。昼間その煙を見たたくさんの安房の人たちは、大風に時折かき消されてはいても悲鳴も聞こえた未明のことをいろいろ噂し合った。船宿に泊まっていた客は夜が明ける前に船で沖に運ばれ、海に葬られたあとだった。 


 戦後の復興期間で引き揚げてくる人はあっても、宿屋に泊まりに来る旅人は少なかった。生かして拉致した集落の番頭夫婦と船宿にいた若い夫婦を教師にして、日本語を覚えるまでの学習機関としてはこれがよかった。連中は、拉致した夫婦を恐怖で飼い慣らし、食物の調達や用事を何でもやらせた。用事で外に出すときには、一人は必ず人質として残した。


 集落を襲うときは全員だったが、連中は二手に分かれて暮らした。集落に流行病が起こったことにして、「主人の遺言で代が替わった」と番頭に言わせた。番頭夫婦に仕事を教わりながら、山賊連中は○《と○り》家の生業を続けた。○《と○り》氏も田○氏も流行病で亡くなったのではなく殺されてしまったのだ。


 そのころ急に疎遠になったり、音信不通になってしまった宮之浦、安房に暮らしていた親族はいないだろうか。正当な戸籍回復と事業継承者、相続者を、亡くなった○《と○り》氏と田○氏は今なお望んでいる。


   * 


 安房川河口の200メートルほど奥の右岸の、転げ落ちそうなほど急な階段の上には、台湾の商売の繁栄を司る神を祀るための、小さな神社が建立されていて、今も、中国台湾から密入国した山賊連中の子孫の2代目と3代目が、この神社をひっそりと守っている。


 屋○島警察署の裏手、国道77号線の「安房」バス停近くの高台にも、この同じ神を祀る神社がある。こちらはもっと後に建てられた。


 宮之に元々あった宿、田○館の周辺は、元の主の遺言を装い、島に寄贈することになった。今は公園となり、旅館跡には、公共の温泉場が建っている。

 安房の、トロッコの終着地、(旧、あるいは真贋の真の)○《と○り》家屋敷があった集落場所は、ここも寄贈されて公園とグランドに整地されている。


   *


 その時も、その後も、人を疑わない温和な大和人やまとびとで構成されている屋久島の人々のことを、自分たちの狡猾さと比較して(「日本人なんてちょろいものさ」)と、妙な信念体系の基準で、ことさら卑下したのかもしれない。子羊の群れの中に、突然、特別獰猛なコヨーテが乱入していったも同然だった。

 そして味を占めた連中は戸籍と家の次は財産、とばかりに次の作戦に打って出た。


   *


 それは現在、まるで宗教と同じように浸透している、日本で、すでに成功している事業に、さりげなく入り込み、悪の道に誘い込むことだ。

 これもとんとん拍子にうまくいった。ふんだんにお金があるので、連中を小童≪こわっぱ≫扱いしているうちに、軒先どころか、母屋を取られてしまうのだ。

 事業主が、えっ! と思ったときには、犯罪の片棒をすでに担いでいると自覚せざるを得ない状況にある。これでもう抜き差しならない関係だ。

 出てきた杭を、放っておくと危ないと言葉巧みに説得し、うちでうまく処理しますからと、打つことを進める。その上前≪うわまえ≫は、次々と撥ね続けられる。古くは武士道、茶道などで馴らした精神的なものの見方をする生粋の日本人が、だんだんおかしくなっていく。そのような仕組みがある。これを最前線で行っているのが、台湾北朝鮮中国密入国者連中だ。


   *


 連中はまず、日本人になりすますために、

「喝!」

と脅すことから始めた、現在はフランス政府も認定したカルト、また、セクト教団として有名だ。


 詳しくいうと、日本に浸透している事業には学校の教師や国家の公務もある。カルトの成員は、隠密だ。堂々と、

「自分はカルト教団の成員です」

とは言わない。何しろ、台湾北朝鮮中国の山河を見限り、コッソリ日本人になりすましたおじいさんたちが山の奥で始めたことなのだ。大勢の中に紛れ、1対1のときに、いくつかある符丁で確認される。咳払いもその一つだ。


 独特の冷たいまなざしの人も多い。目が、何故か笑うことが出来ないのだ。もし今後、咳払いされたら、こちらでも咳払いしてみてはどうだろう? いろいろ考えると面白い。案外、世の中が明るく爽やかに、軽くなっていくかもしれない。




 

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参考~泊如竹(とまり・じょちく)

屋久島安房の出身。京都の本能寺・鹿児島の正興寺での修業の後、藤堂高虎、琉球王尚豊に仕え、寛永17年(1640)頃、島津第19代当主光久に侍読として仕えることになったが、屋久島の森林資源、中でも屋久杉の活用について献策したと言われ、これを契機に、屋久杉の一般的活用が始まったとされている。

http://www.realwave-corp.com/02learn/02/index.htm

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