第13話 ■達也■ 古い石造りの階段で

 俺が18個めのグラスを磨き終えようかという頃、彼女はハンカチを置き、カクテルグラスの上にコースターを伏せた。ハンカチをゆっくりと丁寧にたたみ直してから、静かに俺を凝視めてきた。俺が近づくとハンカチを手渡してきて、掠れる小さな声で「帰るわ……」と、呟いた。

「はい……ありがとうございました」俺は金森さんに締めのサインを送る。さほどの間を置くことなくチャージが届く。

(お! 安いじゃん。さすが痩せてもおらず、枯れてもいない金森さん。さり気なく粋なコトするな)湿っぽい思いも少し軽くなりながら、精算を見守る。

「ねぇ、たっちゃん、上まで送ってくれない?」

 チラリと金森さんと細谷さんを見やると、「行ってこい」のサイン。カウンターをくぐるとスツールの背を支え、彼女が降りるのをサポートする。

「……」


 先に立った金森さんが会釈を送りながらドアを開けてくれる。俺は不自然にならない程度に、そして嫌味にならない程度に彼女を支えながら古い石造りの階段を上がる。思いのほか彼女の足取りはしっかりしている。これなら大丈夫だろう。


 しかし踊り場を回る時、彼女はよろめき俺にもたれかかってきた。俺は壁に背を預け、彼女を抱きとめる格好になる。背中にあたる古い石の壁はひんやりと冷たくて、火照った身体には気持ちよかった。俺の腰に彼女の両手がまわる。さっき踊っていた時には肩にあった顔が、今は俺の胸に埋められていた。俺の両手は所在なげに宙を舞い、「どうしたらいいですかぁ?」と俺に問いかけてくるが、この両手のオーナーの俺だってそんなの判らないって。


 彼女の髪から大人の女の人の香りが漂ってくる。俺はいつもの倍のスピードでステップを踏む鼓動を悟られるんじゃないか、べらぼうなリズムを叩く心臓の音が聴こえてるんじゃないかと、妙なところが気になっていた。


 実際は、それほど長い時間ではなかったと思う。彼女はゆっくりと顔をあげると額と額を合わせてきた。


「ありがとう、たっちゃん……」

「いぇ……いや……あの……」

「何も言わないで……何も言わないでいてくれたのが嬉しい……」

「……」


「ありがとう……」

 大人の女の人の香りを一際強く感じると同時に、頬がすり寄せられた。

 唇の端と端が僅かに触れる。彼女の頬は涙の味がした。


 涙味のファーストキス。


 ゆっくりと身体を離すと、彼女は俺を押しとどめるようにして一人で階段を上がっていく。


 一段……また一段……ゆっくりと上がるたびに、ビルの入り口で四角く切り取られた銀座の灯りの中に、彼女のシルエットが儚げに溶けていった。



 シルエットが完全に消えるまで見守ると、俺は踵を返して階段をゆっくり降りる。

 石造りの階段に、ペタペタと雪駄がやけに響きやがる。

 俺は、なんとなくフワフワとした想いを胸に抱えながらカウンターをくぐった。


 その後の仕事の記憶はぶっ飛んでいる。

 でも決してマグマのせいじゃない。


 覚えていることは……

 カウンターに残されたカクテルグラスをいつまでも下げられなかったこと……。涙色に染まったハンカチを、ポケットにしまおうとした時に始めて気がついたんだけれど、綺麗にたたみ直されたハンカチに四つ葉のクローバーが挟んであったこと……。


そしてそれを見た瞬間に、堪えきれずにボロボロと涙を零していたこと……。


 17歳の春だったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る