第4話 ■翔子■ Falling Down

 へぇ……バーってこんな風なんだ。いつも仲間内やあの人と行くのは居酒屋が多かったから、この空気は新鮮。ざわざわとした居酒屋とは違い、時間がゆっくりと流れるような落ち着いたところだ。女一人だし、銀座のバーって敷居が高いのかなと店内に入ってから一瞬頭をよぎったけれど、どうやらそれは杞憂に見える。案内されたカウンターには妙に若いお兄ちゃんが入っていた。そのお兄ちゃんは妙にリズムがいい。会話もそうなんだけれど、所作に無駄が無く流れるようだ。こういうのって持って生まれたセンスに加えて、経験値がものをいうと思う。若い割にはいい師匠の揃った環境に居るんだろうことがわかる。一応私の仕事はお客さまの人となりを把握して、そのクライアントの背景に思いを馳せることも重要なのですぐ人間観察してしまう……イケナイ……あの人がまた顔を出す。


 自棄の裏返しで私も妙にいつもよりハイになっているのを自覚していた。カクテルなんて詳しくないからお兄ちゃんのお勧めにのってみることにする。モスクワにラバがいるかどうか知らないけれど、この琥珀色のカクテルは美味しい。このお兄ちゃん、私の好みを良く判ってるな、ちょっと無茶ぶりしたけれどね。


 お兄ちゃんのつくるリズムとカクテルのお陰で、私はこのひとときをとことん楽しみたくなった。

 BGMはフロアマネージャーさんが選曲したものを流しているそうだ。このカウンターに案内してくれた人で、第一印象は(ただものじゃない)だった。30代半ばで渋さがスーツを着て歩いているような人。全体は柔和そうな印象なんだけれども、シビアなオーラを後ろに背負っているような感じ。恐らく深い経験を重ねていて、そしていい耳しているんだろうな。

 2匹めのラバをお兄ちゃんの会話とともに楽しんでいると、大好きなサンタナのヨーロッパが流れ始めた。サスティーンの効いたこのギターを聴くといつも胸がきゅんとなってしまう。

 ちょっとイタズラ心をくすぐられた私は、この若いお兄ちゃんをいじってみたい衝動にかられた。

(今日くらいいいよね!)

 ヨーロッパで踊るってことはチークだ。なんだか世の中に疲れた風味になっていた今日の私は、この妙に若いお兄ちゃんのアンバランスさが気になっていたのかもしれない。バーに居ること自体に違和感があるような年代に見える、その若さというピュアな空気に包まれたくなったんだろうな。私は、ほんの一時でもいいから色々なことを忘れたかったんだね、きっと。



 この間のヴァレンタインの日、「おや?」と胸騒ぎがした。その頃はあの人がなんとなくよそよそしいな、と感じ始めていたところだった。これまではどんなつまらないプレゼントでも、あの人は澄んだ眼を輝かせて「嬉しいよ、ありがとう」と微笑んでくれたのに、今年は目線が外れていった。

 今日のランチ、あの人と私のテーブルだけは空気が重く、淀んでいた。あの人は来月いっぱいで退職し、帰省するのだと言う。あの人は、しがらみだとか実家がどうだとか何だとか、つまり言い訳ってやつをポツリポツリとテーブルの上に置いていった。それらは私の耳に入ってはくるのだけれど、頭は空回りするばかりで理解するのに恐ろしく時間がかかった。きっと理解したくなかったからだろう。このところ私の中でくすぶっていた不安は負の確信へと姿を変えながら、もう両手では抱えきれないほどの重さになっていき……やがて私の眼に映るものは、ほとんど食べられることのなかったカルボナーラのお皿だけになっていた。カチャリと音をたててお皿に落ちるフォーク。

 あの人は最後につぶやくように「ごめん……」という言葉を私の爪先に落とし、その背中は今日急激に遠くなっていった。

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