第2話 ■翔子■ 春なのにな
街が私の気持ちに寄り添うように黄昏れている。雲のない西の空に夕焼けの名残りの赤色がうっすらと残っていた。黄昏(たそがれ)というのは、元々「誰そ彼」が語源だってあの人が言ってたっけ。向こうからやってくる人影が判別しにくくて、「あれは誰だろうか?」となる夕暮れ時のことだと……まったく昔の人は……こういうのを風流って言うんだろう。ダメだな……夕暮れの街を歩いているだけでもあの人が顔を出す。もう出てこなくていいのに。
今朝までは、昨日までと同じ日常が積み重なって行くと思っていた。というより、そう信じていたかっただけかもしれない。ここしばらくあの人の態度が以前とは違ってきていると感じていたから。
私は5年前の春に、日本橋にある中堅どころの企業に入ることができた。ちょっとエッジの効いたアンテナの高い企業で、憧れの職種につくことができて私の身体中にはヤル気が溢れていた。でも浮わついた学生気分と実社会のギャップは明らかに存在していて、小さいけれど挫折や後悔もいくつか味わった。もちろんそれらをすべて豪快に吹き飛ばす達成感で震えたこともある。
入社当初、同期は一人ずつ別のプロジェクトに就いた。私は3年先輩がチームリーダーを務めているプロジェクトに参加させていただき、そのチームでは本当に様々な眼を啓いてもらうことができた。毎日毎日、自分が成長していることを実感し、充実していた。「独りで悩むな」がリーダーの口癖で、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を叩き込まれ、共有が成果に繋がることを体感させてくれた。学生時代はスポーツサークルにどっぷり浸かり、夏は海、冬は山で鍛えられていて体力だけは自信があった私は、とにかくむしゃぶりついていった。ひたすらに。
新入りの私を、厳しくそして時に優しく支えてくれるリーダーに私が惹かれて行ったのはごく自然な流れだったと思う。入社2年めのヴァレンタインに思い切ってリーダーに正面からぶつかり、受け止めてもらうことができた。毎日幸せだったな。仕事がどんなに厳しくても、クライアントから理不尽なオーダーが飛び込んできても、あの人の眼差しに包まれると踏ん張ることができた。一緒にさまざまな壁を越えている感覚が溢れていた。
あの人は腕時計の文字盤をいつも内側に向けていた。「キーボードを叩いてる時でもクルマを運転している時でも、そのまま時間を読めるからね」と言っていたっけ。キーボードの上を滑るあの人の指はまるで魔法のようなんだ。
珍しく定時に会社を出た私は、そのまま空虚な部屋に戻る気にはなれなかった。焦点が合わない眼でゆっくりと、日本橋から春先の浮かれた銀座通りへ。華やかなウィンドウの連なりの中を歩いていると、なんとなく自棄になっている自分を慰めたくなったのかな。これまでだったら、『あの人との将来のためにガマンガマン』していたのに、気がついたら新しいお財布とイヤリング、スカーフのペーパーバッグを抱えていた。
4丁目交差点を渡り、三愛と鳩居堂を眺めながらなんとなく右に曲がってみゆき通りに入る。
(あちゃぁ……英國屋だ)
いつの間にか私はあの人との想い出を歩いていたらしい。去年のあの人のお誕生日、昇進祝いを兼ねてジャケットをここでプレゼントしたんだった。
(ふぅ。。。)
ため息をついた私は、気を取り直して英國屋の正面を避けるように手前の路地に折れた。すぐ右手になんとなくふうわりと温かみを感じるアンドンがある。『トリスバー 銀座6丁目バッカス』と書いてあった。
(今日くらいいいよね?)
普段の私には想像もできないけれど、バーってところに一人で入ってみることにした。古いビルの石造りの階段を降りて行く。
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