第26話 翌朝
(えぇと、ここは……)
ぼんやりした頭で考える。昨夜は家に帰って……だが、目に入る光景が何か違う。
それからまたしばらく考えて、やっと昭一は思い出した。
(そうだ、家!)
大雨ですったもんだで、何度も家と町とを行ったり来たりして、最後日が昇ってから見たのは、土砂に押しつぶされかけた家だった。
そして、ともかくここまで連れてきてもらって、客室で眠りに就いたのだ。
時計を見ると、もうお昼を過ぎていた。
他人の家でここまで寝込んでしまうなんて、不躾もいいところだ。それに議員や秘書たちは、たぶんまだ働いているはずだ。
そう思うとどうにも落ち着かず、昭一は起き上がった。
枕元に、ポロシャツとズボンが置かれている。見覚えが無いものだから、ここの誰かが出してくれたのだろう。
着のみ着のままでここまで来たから、ありがたく使わせていただくことにする。
着替えてそっとドアを開けた。だがどこがどうなっていてどこへ行けばいいのか、さっぱりわからない。
(まぁいいか)
適当に歩くことにする。広いとはいえ、宮殿ほどじゃない。そのうちどこかへ出るだろう。
廊下を歩いて行くと、そこそこ年の行った女の人に出くわした。
「あら申し訳ありません、お目覚めでしたか」
どうやらここの、家政婦か何かのようだ。
「いえこちらこそ、こんな時間まで寝込んでしまって、申し訳ありませんでした」
「いいんですよ。先生からも、お疲れだから起こさないように、と言われてましたし」
そこまで気を遣ってもらったと知ると、なおさら申し訳なかった。
家政婦はそんなことを気にするそぶりもなく、話しかけてくる。
「何か召し上がりますか? すぐお作りしますよ」
「あ、いえ、あるもので結構ですから」
議員も秘書も、まだバタバタしているはずだ。なのに自分だけ、優雅にご飯というわけにもいかない。
そして、思い出す。
「昨日ここの若い人から、こういうときはお結びがたくさん用意されると聞きました。それはありますか?」
「ええ、それならすぐにでも。どうぞこちらへ」
女性が先に立つ。
「昨夜は大変でしたでしょう?」
「ええ。でもおかげさまで、ゆっくり寝かせていただけました」
これは本音だ。ここで泊めてもらわなかったら、あの集会所で寝る羽目になっていただろう。
女性が嬉しそうに笑う。
「よかったです。よろしければ腹ごしらえのあとで、お風呂でもいかがですか? 疲れが取れますよ」
「いや、そこまでしていただいては……」
お風呂自体はありがたいが、そこまで厄介になるのは申し訳なかった。
「いいんですよ、気になさらなくて」
言いながら、女性はドアを開けた。
「台所でお恥ずかしいんですけど、おむすびが置いてあるの、ここなんですよ」
彼女の言うとおり、テーブルの上にある大きなお盆に、ずらりとおむすびが置いてある。
その脇で、年配の品のいい女性が、せっせとおむすびを握っていた。
「お母さま、ほら、お話した野沢様」
「まぁまぁまぁまぁ!」
年配の女性が立ち上がる。
「息子と孫から、何度もお話は聞いてますよ。その節はもう、本当にご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げられた。
どうやらこの女性は議員の母親で、家政婦だと思った女性も、身内の誰かだったようだ。そういえば議員は、「おむすびを姉と母が」と言ってた気もする。
「おかげさまであれから、孫が心を入れ替えてくれまして。これで安心して、あの世に行けます」
「いやいや、お迎えが来るにはまだ早いかと」
つい口から、そんな言葉が出た。だがこの女性を安心させられたなら、あの事故も悪くはないかもしれない。
ただ……。
娘と妻が出て行ってしまったことを思い出し、視線を落とす。
それに気づいたのか、姉と思われる女性が明るく声をかけてきた。
「野沢様、どれにしましょうか? ウメ、おかか、昆布、シャケ……そうそう、若い子に人気のシーチキンもありますよ」
「あ、そうしましたらウメで」
なんだかんだ言いつつ王道のウメが、昭一は好きだった。
女性が笑う。
「この頃の若い子は、ウメは嫌がって困ります。私は好きなんですけどね」
「あぁ確かに、若い子は嫌がりますねぇ」
そんな会話とともに、おにぎりが手渡された。
ラップを剥ぐと、何と言ったらいいのだろう、おにぎり独特の香りが広がる。
「いやぁ、おいしそうだ」
一口かぶりつくと、空腹だったのもあるのだろうが、もう止まらなかった。
「いやぁ、これはおいしい」
「まぁ嬉しい、これもどうぞ」
ひとつ食べては手渡され、気づけば四つも平らげていた。
「あ、いや、こんなにがっついてお恥ずかしい」
「いいんですよ。若い子なんて、ひとりで十も食べますから」
「でしょうなぁ……」
ここまで送ってくれた青年など、十どころか十五くらい食べそうだ。
それからお茶を出してもらって、昭一はほっと溜息をついた。
「ごちそうさまです、おいしかった」
「いいえ、お粗末さまです」
そう言いながら、議員の母と姉とがにっこり笑う。その笑顔が、眩しかった。
「これから、どうなさいます?」
「そうですね……」
車もあることだし、家へ帰りたい。
その時、ふと自分の服とズボンが目に入った。
「そういえば、これをお返ししないと……」
「いいんですよ。うちにはこういう予備が、いつもありますから。なんなら、他にもご用意しますよ」
「あ、いえ、それは」
慌てて手を振る。
だいいちよく考えたら、服はおろか下着さえ持っていない。まさかそこまで都合してもらうのは、あまりにも気がひけた。
「そうしたら、ちょっと買い物に出ようかと……その、下着もありませんので」
「あ、それはいいかもしれません。お日さまを浴びると、人間、元気がでるもんです」
「そうですね」
幸い財布もカードも持ち歩いていたから、その辺の心配はない。少し街を歩いて、好きなものでも買って、落ち着くのは悪くない。
「どうしましょう、もう行かれますか? それともお風呂を先に?」
「下着を買って来てから、お風呂を頂いていいですか?」
さすがにさっぱりしてから、同じものを着たくはない。
また二人が笑った。
「それもそうですね。じゃぁ玄関までご案内します」
台所から廊下を抜けて、しっかりした扉の玄関に着いた。土砂崩れがあったせいだろう、人が盛んに出入りしている。
「門を出て右へ行って、そのあと左へ行くと、大きい通りへ出ますから。そうすればあとは、お分かりになると思います」
「わかりました、ありがとうございます」
昭一は屋敷を出て歩き出した。
(なるほど、ここだったのか)
あの女性の言うとおり、出た先は昭一にもわかる大通りだった。
というか、この町に住むもので、わからない人などいないだろう。この通りに沿ってまっすぐ行ったら市役所で、その先は駅なのだから。
市役所を横目に抜けて、駅のほうを目指す。繁華街まで行かないと、着替えなど手に入らない。
街はいつもどおりだった。夕べの大雨で側溝が少々溢れたらしく、低い所にまだ流れきらなかったゴミが残されているが、その程度だ。
店もどこも被害はなかったらしく、何食わぬ顔で営業していた。
この町でいちばん大きいデパート――東京帰りの友人は「あんなのスーパーだ」と言う――に入り、男性物の売り場を目指す。
(どこだ……?)
若い頃にはもちろん自分で行っていたのだが、沙耶が生まれてからは、服を買うのは妻に任せっきりだった。そのせいか知らないうちに売り場が様変わりしていて、品物の置き場が変わっている。
あちこちうろうろしながら、ようやく下着売り場にたどり着いた。
(なんだこりゃ……)
いつの間にかびっくりするほど増えた下着の種類に、昭一は圧倒された。まるで女物のようだ。
ひとつ手にとってみると、パッケージに「涼感」だの「即乾ドライ」だの書いてあるが、何が違うのかさっぱりわからない。
(まぁいい、どれでも同じだろう)
いつも着ているのと似たようなのを選んで、カゴに入れる。ついでに靴下とポロシャツ、汚れても良さそうなGパンをカゴに放り込んで、昭一はレジへ持っていった。
「サイズはこれでよろしいですか?」
「あ、すみません、確かめてきます……」
店員に言われて自信がなくなり、慌てて品物を引っ込めた。そのまま試着室へ向かう。
(あれ、キツいな)
昔はこのサイズでよかったはずだが、全くウエストが閉まらない。
昭一は仕方なくそのGパンを諦め、何度か選びなおし、覚えていたのよりずいぶんとウエストの太いものにした。
(こんなに太ったかな?)
今まで箪笥に入っていたものを出して着て、「微妙にキツい」はあっても、閉まらないことはなかったのだが……。
首をひねりながらも会計を済ませ、昭一は議員の屋敷へ戻ろうと、デパートを出て歩き始めた。あとはこれをもって帰って、風呂をいただくだけだ。
いつもと特に変わらない、夏の休日。小さい子供を連れている家族も、ちらほら見かける。
(沙耶もあんなだったんだがなぁ)
パパ、パパと手を繋いで歩いたことを思い出す。なのになぜ、こんなことになってしまったのか。
(ちょっと一休みするか……)
なんだか妙に疲れている。どこか喫茶店に入るのも、悪くないだろう。
デパートを出て、手近なチェーンの喫茶店に入ろうと、ドアの前に立つ。
「いらっしゃいませ!」
開いた自動ドアに反応して、アルバイト店員の元気な声が響いた。まだ若い女性だ。大学生くらいだろうか?
と、昭一は唐突に自分が借り物の吹くなことを思い出し、急に恥ずかしくなった。人間、疲れていると気が回らなくなるらしい。
「すみません、また来ます」
小声でそういって回れ右をし、服を買ったデパートに再び駆け込んだ。そしてトイレへ直行して、服を着替える。
(――俺、何してるんだ?)
半分着替えてから、正一h味分のしていることに疑問を持った。別にチェーンの喫茶店に入るくらい、借り物の服でもよかっただろうに。
だがここまで着替えて、元に戻すのも癪に障る。なのでそのまま上から下まで着替えて、着ていた服のほうを袋に突っ込んで、昭一はトイレを出た。
鏡に映った自分は、疲れてはいるがおかしくはない。少なくとも、カジュアルな服を着た休日のサラリーマン、に見える。
その姿にほっとしつつ、改めて先ほどの喫茶店を目指す。
「いらっしゃいませ!」
同じように挨拶してきた店員は、気にした様子はなあkった。もしかすると服を変えたから、別人に思われているのかもしれない。
カウンターでコーヒーを頼んで受け取り、適当な席に座る。
何の変哲もない、大して高級な豆を使っているわけでもない、ごくありふれたコーヒー。だがそれが、やけに美味しい。
(やっぱりこうだよな……)
休みの日に、ゆっくり座ってコーヒーを飲む。自分が望んでいるのは、その程度のことだ。なのにそれをマイホームでやろうとしただけで、なんで妻はあんなに怒るのか。こんなささやかな幸せも許されないのか。
飲んでいるうちに腹が立ってくる。
しかもそのマイホームは、どうなるかわからない。うまく修繕して、きれいにできればいいのだが……。
せっかく手に入れたマイホームを、手放す来はなかった。あんなに広くて気に入った間取りの家は、きとおもう二度と手に入らない。
(出て行き炊きゃ、出て行きゃいいんだ)
そんなふうに思う。こっちの働いた金で買ったのに、文句を言われる筋合いはない。
城 こっこ @kokko_niwa
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