第24話 夜食

(やっぱり、何ともないよなぁ……)

 さっきの避難した人は「家がひっくり返った」とか言っていたが、昭一の家はここから見るかぎり、いつもと何も変わらない。

 車が家の前で停まった。

「ここに、泥が? 何でもなさそうなのに……?」

「私もそう思ったんですが、ドアが開かなくて。開けたら泥で」

 言って鍵を開け、ドアノブに手をかける。

「あれ、開かないな」

「手伝いましょうか」

 先ほど出るとき、力任せに閉めたドアは、びくともしなくなっていた。

「うーん、動かないなぁ」

「どれ、じゃぁ私も」

 議員も秘書もドアノブを持って何度も引っ張ってみるが、打ちつけたように動かない。

「こりゃぁ、工具が要りますな」

「取ってまいりましょうか? 向こうの軽トラに、載せてますから」

「そうだね。――おや、家の裏には回れるんですか?」

「ええ、敷地だけはあるので」

 それが何より自慢の家だ。

「ちょっと見てみますか」

「では私が先に」

 行こうとする議員を制し、秘書が先に立った。ぬかるんだ庭を、懐中電灯が照らしていく。

 そうして建物の角を回り込んで――。

「こりゃひどい!」

「え? うわぁ!」

 秘書の声につられて奥を覗いた昭一は、文字通り言葉を失った。

 家の奥のほうは、窓の下まで泥に埋まっている。

「よ、よくこれで、崩れないで……」

「先生、野沢さん、一旦離れましょう。危ないです」

「そ、そうだな。野沢さん!」

 だが昭一は動けなかった。

 家が、埋まっている。せっかくの家が、泥に……。

「野沢さん!」

 肩をゆすられて、我に返った。

「ともかく一旦離れましょう。さっきの集会所まで行って、明るくなってから出直したほうがいい」

「で、でも……」

 まだきちんと確かめていない。たしかに窓の下まで泥は来ているが、それだけかもしれない。

「野沢さん! 来ないとは言ってません。今は夏だから、じき日が昇ります。そうしてから、また来ればいい」

「ですが……」

「ここで何かあったら、元も子もないですよ! 娘さんにどう言い訳しますか!」

 瞬間、沙耶の顔が脳裏に浮かんだ。

 そうだ。あの子を困らせたらいけない。

「すみません、分かりました」

「いいえ、こちらこそ大きな声を出したりして。ともかく行きましょう。なぁに、すぐ戻れますよ。夏は日が昇るのが早い」

「そうですね」

 まだ頭の芯はしびれたようで、なんだか考えも霞がかかったようにまとまらない。だがそれでも、娘を泣かせたらいけないのだけは分かる。

「そうしたらお二方、どうです、まずは車に戻って熱いお茶でも」

 秘書がおどけたような調子で、妙なことを言い出した。

「そんなものがあるのか?」

「えぇ、先生には特別に。野沢さんの分もございますよ。とびっきりのおむすびも一緒です」

「そりゃぁいい。野沢さん、腹は減ってませんか?」

「あ、そうですね、頂きましょうか」

 夜通しバタバタしていたせいか、言われてみればお腹が空いている。

「では、そうしましょう。まずは車まで」

 促されて昭一は、家に背を向けた。

(なに、夜が明けたら荷物を取り出せばいいさ)

 さっき来たときは、ドアは開いたのだ。ならば明るくなれば重機も機材も出せるだろうし、何とかなるだろう。

 ひとまず車内に戻った昭一に、おむすびとお茶が手渡された。

 ひとくち齧る。

(これは……)

 真っ白の、だが塩の利いたご飯に海苔。中には何の変哲もない、ごくふつうの梅干し。だがそれが、とてつもなく美味しかった。かぶりつくように食べて、思わず喉をつまらせそうになり、慌ててお茶を口にする。

 そのお茶もただの緑茶だが、熱くておいしかった。

「大丈夫ですか?」

「いやすみません、お恥ずかしい。あまりにおいしくて」

 昭一の言葉に、議員が頷く。

「なんでか分かりませんが、美味しいんですよ、これが。昔の人はすごい」

 昭一も頷いた。昔、遠足で登った山の上でもそうだったが、おむすびというのは本当においしい。

 そういえば、こうやって食べたのは、いつだったろう?

 沙耶が小さかった頃、みんなで出かけたときには食べた気がする。そうだ、沙耶の小学校の運動会のときにも食べた。中学校へあがってからも、体育祭のときには食べた気がする。

 次々と思いだす。まだ学生の頃、テストの前に夜遅くまで起きていると、母親が夜食で握って持って来てくれた。あれもおいしくて、夜の楽しみだった。夜遅く帰ってくると、テーブルの上に置いてあることもあった。

 だが結婚してからは、そうやって作ってもらったことは、ない。

(おむすびくらい、簡単なのに)

 ただご飯をよそって、握るだけだ。こんな簡単な料理、他にはない。なのにその程度も、出てこないのか……。

「どうされました?」

 黙ってうつむいていた昭一を心配したのか、秘書が訊く。

「お口に合いませんでしたか? しょっぱすぎましたかね」

「いえ、ぜんぜん! おいしいです。ただ……」

 言うか言うまいか迷って、だが昭一は口にした。

「家で、こうやって握ってもらったことが、なかったなと」

 しんみりとつぶやく昭一に、議員が驚くようなことを言った。

「そりゃぁいいことですな。うん、いいことです」

「いい、って、どういうことですか?」

 面食らいながら訊くと、議員が笑顔で答える。

「いやぁ、こういうふうにおむすびが出るときってのは、ご飯の支度をする間がないときで、緊急事態です。それがないっていうのは、いいことじゃないですか」

 なるほど、そういう考え方もあるのか、と昭一は納得した。

 議員が続ける。

「これが出るのは、災害か大事故か、あとは選挙か。まぁ選挙は恒例だからともかく、災害と事故はなんとも……でもそれでも、作ってくれるんだからありがたいことです」

「そういえば、これはどなたが?」

 たしか奥さんは、亡くなっているはずだ。だとしたら、秘書が握ったのだろうか?

 議員が少しだけ、寂しそうな顔になった。

「今は、母と姉が。ものすごい豪雨だと聞くなり、黙ってお米を炊きだしましてね。私じゃぁ、あそこまで気が回りません」

 しみじみと呟くように、議員が言った。

「妻が死んで、本当に何も回らなくなりましてね……。子どもは荒れる、困ったときの預け先はない。家政婦を雇っても、いわゆる付き合いや地元の皆さまへの対応は出来ない。いや、当たり前なんですが」

 確かにそうだろうと思う。議員の仕事がどういうものかよく知らないが、地元の支援者との付き合いは、絶対に欠かせないはずだ。そして議員が議会に出ている間は、それは奥さんの仕事だと聞いたことがある。家政婦ができることではない。

 議員が続ける。

「見かねた母が、当時は遠方の姉のところにいたんですが、同居を申し出てくれて。そうしたらもう、嘘みたいにすべてが回り出して」

 そこまで言って、彼はため息をついた。

「つくづく、支えられていたんだなと。なのに家で妻に、誰が養ってやってるんだとか言って偉そうにして、やってもらって当たり前という顔をして、自分は何をしていたんだろうと。けどもう、分かったときには謝りようもなくて……」

 議員は目頭を押さえたが、顔をあげたときにはもう笑っていた。

「いやぁすみません、関係ない方にこんな辛気臭い話をして。ささ、もっとどうぞ」

 言いながら彼も、もうひとつおむすびを手に取った。

「おかかも捨てがたいが、やっぱりおむすびは梅干しに限る。な、本橋君」

「申し訳ありません、私は昆布のほうが好きでして」

「なんだと、出過ぎたやつだ」

 言いながら議員は笑っている。秘書も笑っている。つられて昭一も笑った。

「ささ、お茶をどうぞ。お酒じゃなくて申し訳ありませんが」

 秘書がそう言いながら、コップにお茶を注ぐ。

「いいんじゃないですか? 暑い時に熱いもの、昔からそう言いますし」

 昭一の合いの手に、秘書が返した。

「そうですそうです。身体を冷やすのはよくないと、テレビでも言ってますしね」

 そんな話をしながら手を出すうち、おむすびがなくなる。

「さて、どうしましょうか。このままここで、朝まで待ちますかな?」

「ですが先生、集会所の方も少し見たほうが」

「それもそうだな……」

 考え込みながら、議員が昭一のほうに視線を向ける。一旦ここを離れていいかと、その目は訊いていた。

 なので昭一は答える。

「いちど向こうへ帰って、私としてはその……スコップでも、取ってきたいのですが」

「あぁ、それもそうですね。機材は必要でしょう。なら本橋君、集会所へ回してくれないか?」

「かしこまりました」

 車のエンジンがかかる。

 相変わらず、辺りは停電のまま暗闇のままだ。いつ夜が明けるのかもわからない。

 そんな中、ヘッドライトを頼りに道を戻り、例の集会所へとたどり着いた。

 だが先ほどとは様子が違う。なんだか車と人とが増えている。

「やれやれ、来たか」

 吐き捨てるように言う議員。昭一が驚いてそちらを向くと、彼は答えた。

「マスコミの連中ですよ。嗅ぎつけた。まったく、みんな疲れてるのに無神経で困る」

 言いながら議員はシートベルトを外し、指示を出す。

「私が対応してくる。本橋君、みんなには引き続き、支援をするよう言ってくれ。野沢さんは、ここから出ないようにしてください。奴らと話したらダメです」

 どうやら議員は、取材に来たマスコミを毛嫌いしているようだ。

 まず議員が車を降り、秘書が続いた。

 降り際に、秘書も言う。

「野沢様、ぜったいに彼らと話してはダメです。窓も開けてはいけません。何か言ったら、あることないこと書かれかねませんから」

「わ、わかった」

 なんだかよく分からないが、彼らの様子から、従ったほうがよさそうなことだけは分かる。

 ドアが閉められて、昭一はひとり車内に残された。

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