第21話 齟齬

 足元を、つま先でそっとでさぐる。

 ――ぬちゃり、とした感触。

 間違ってもたたきの、硬い感触ではない。しかも泥はかなり厚い。

「あなた!」

 手にした携帯から、怒鳴るような声が聞こえた。

「え、あ、いや、今、家なんだが……」

「それはさっき聞いたから!」

 妻から怒られる。

「家が、どうしたの!」

「わ、わからない。ただ、泥が」

「泥? だって家でしょ?」

 妻の不思議そうな声。

「たしかに家なんだが、ドアを開けたら泥が……」

「ちょっと待って、それ危ないんじゃない?! その辺でだって、土砂崩れって」

「え? そうなのか? ――えぇっ!」

 足もとの泥と、土砂崩れ。頭の中でそれが繋がる。

「ど、土砂崩れなのか?!」

「いいから逃げて! 泥なんでしょ、危ないでしょ!」

 慌てて昭一は、外へと出た。妻の言うこともだいぶ支離滅裂なのだが、危ないのは確かだろう。

 辺りは相変わらず真っ暗で、何があったのかさっぱり分からない。ただ暗闇に目を凝らすと、裏山の林の形が、少し違うようにも思えた。

 ともかく離れよう、そう考える。異常なのは確かなのだ。だとすれば妻の言うとおり、危ないに違いない。

「今ね、そっちへ向かってるの。どこかで合流しましょ」

「合流……どこがいいかな?」

「どこって言われても……」

 なにしろここはバス停の終点の先、待ち合わせにいい喫茶店などどこにもない。

「いいからバス停まで戻ってらっしゃいよ。きっとどこかで行き会うから」

「わ、わかった」

 たしかに来た道を戻るなら、どこかで合流できるだろう。回らない頭で何とかそこまで考えて、昭一は門を出た。

 振り返る。

 欝蒼とした裏の山の林が、圧し掛かってくるようだ。

 怖くなって、そのあとは全く振り返らず、昭一はバス停まで必死に歩いた。雨が止んでいてよかった、などと思いながら。

 そうやって歩きながら、道がカーブした辺りにさしかかったところで、向こうに車のヘッドライトが見えた。黒の大きなSVU車だ。

 こんな状況でここへ他の車が来るとは思えないから、たぶん妻と娘の乗った車だろう。タクシーででも来るのかと思ったが、誰かが乗せてくれたらしい。

 車が、傍まで来て止まる。

「パパ!」

「大丈夫?!」

 ドアが開いて、中から妻と娘が飛び出してきた。

「さっき、大雨警報のその上のが出てたのよ! それにまだこの辺、土砂崩れで警戒情報出てるの! だから家、どうなったかと思って」

「家……よく分からないなぁ。泥はあったんだが」

 さっき見た感じ、水が来たか泥をかぶったかだと思うのだが、何せ暗闇の中だったから判然としない。

「この辺あふれたみたいだから、水でも来たのかな?」

「だから、裏が崩れたんじゃないの?」

「でも、別に、山が無くなってはいなかったし……」

 それほどの土砂崩れというのなら、山の形が変わるんじゃないだろうか?

 それから昭一は、唐突に現実を思い出した。

「そうだ、どこで寝よう。あと、明日の着替え」

「何言ってるの、それどころじゃないでしょう?」

「いやでも、会社は行かないと」

 妻がため息をついた。

「まったく。この期に及んで会社だのなんだの、おかしいんじゃないの?」

「何言ってるんだ、会社を休んでクビにでもなったらどうするんだ。そうなったら暮らせないだろう」

「いい加減にして!」

 妻が怒鳴った。

「心配して来てみれば、やれ家だやれ会社だ、私たちのことはどうでもいいわけ?!」

「どうでもいいって……どうでもよくないから、会社に行くんだろ。そんなことも分からないのか?」

「あのねぇ! あなた一言でも、私たちに『そっちは大丈夫か』とか言った? 言わなかったでしょ!」

「だって、そっちは大丈夫じゃないか」

 幸いにして二人とも、街中の安全な場所にいたのだ。何かあるわけがない。だいいち安全だったからこそ、より危ないと思った我が家を、わざわざ見に来たのではないのか。

「もういいわ。沙耶――」

 妻がそう言いかけたところで、別の声が割って入った。

「まぁとりあえず、今日のところはみなさん、町へ戻りませんか?」

 見ると、あの例の秘書だった。隣には、県会議員の息子もいる。

 秘書が穏やかな声で続けた。

「もういい加減、遅い時間ですし。こんなところで立っていても、埒があきませんし。とりあえず帰って、日が昇ってから改めて来てはどうでしょう?」

「そうね。沙耶ももう寝なきゃだものね」

 えー私眠くないと沙耶が言ったが、妻はそれは無視した。

「野沢様も、どうぞ車へ。七人乗りですから、大丈夫ですよ」

「え、でも……こんないい車に、泥だらけの足じゃ」

 県会議員の車を万が一汚しでもしたら、申し訳ない。そう思うと乗る気にはなれなかった。

 戸惑う昭一に、議員の息子が笑いながら言う。

「いや実は、ボロマンションなので雨でも漏ってないかと、僕、見に行きまして。そうしたら奥さんが血相変えてタクシー呼ぼうとしてたんで、車を出すと言ったんですよ」

 隣で妻が頷いた。

「タクシーだと帰りが困るだろうし、来るかどうかも分からないから、って。だからご厚意に甘えて、車を出していただいたの」

 たしかに妻の言う通りだ。実際自分もここまで来はしたが、町へ戻る手段は朝まで無いのだ。

「さ、どうぞ皆さまお乗りください。夜が更けるばかりです」

 秘書に再度言われて、昭一はさすがに車に乗ることにした。 いちばん後ろに妻と娘、真ん中の座席に自分、前に秘書と議員の息子の並びだ。

 車が走り出す。

 車内は、静かだった。妻と娘がいつものようにおしゃべりをするのではと思っていたが、どうやら沙耶が眠ってしまったらしい。

 あのゴミが引っ掛かった橋を越え、少しづつ街灯が増え、街並みが見えてくる。

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