第20話 泥濘

「どうしたんだ?」

 内心の動揺を抑えながら、運転手に話しかける。

「お客さん、見て下さいよ」

 彼が白い手袋をした手で、前の方を指し示した。

 暗闇の中、道路を照らすヘッドライト。そして、その先にはいつもバスで渡る小さな橋。

「な、なんだ……?」

 昭一も思わず声を上げた。欄干に、何か引っかかっているようなのだ。

「すまない、近づけるかい?」

「わ、分かりました」

 そろそろと車が進んで、橋のぎりぎりまで近づく。

「こりゃぁ……あふれてたのか?」

 唸るように運転手が言った。

 先程まで降っていた、豪雨のせいだろう。ライトに照らされた川は信じられないほど水かさを増して、ごうごうと音を立てて流れている。

 そして欄干には、枝や枯れ草やその他分からないものが、たくさん引っ掛かっていた。そっと覗いた車の足もとは、アスファルトの切れたところから、よく見ると一面の水たまりだ。運転手の言うとおり、ついさっきまでこの川は、あふれていたに違いない。

「お客さん、引き返したほうがよくないですか? 山の水は、これからも来ますから。またいつあふれるか……」

「わかった、ならここから歩くよ。幾らだい?」

「いや待って下さいよ、なら行きますから。歩いたら、もっと危ない」

 そんなことを言いながら、運転手が車を動かした。ゴミの散らかった橋をそーっと渡って、また走り出す。

 川から少し離れると、もう水があふれた気配はなかった。どうやらいちばん低いあの辺りだけ、ちょっと水に浸かっただけらしい。

 これなら大丈夫そうだと、ほっとしながら暗い窓の外を眺める。

「お客さん、どの辺で?」

「バスの終点の、少し先なんだ」

「あぁそういえば、そう言ってましたね」

 そんな会話をしている間にも、車は進んでいく。そうしてバスの終点の停留所も過ぎて……。

「なんか、暗いな」

「そうですか?」

 滅多にここを通らない運転手には分からないようだが、昭一は違和感を感じていた。バス停から家まではほんの少しだが街灯があって、ほんのりと道を照らしているのだが、今日はそれがない。車のライト以外明りのない、まさに真っ暗闇だ。

 電球が切れたのか、それとも停電でもしたのか。

(――停電かな)

 そう昭一は結論付けた。なにしろあれだけの雨だったのだ。停電のひとつやふたつ、起こっても仕方がない。だいいち昔など、台風のたびに停電したものだ。

 さて懐中電灯は家のどこだったろうと考えてるうち、車は最後のカーブを曲がった。

「この先の、一軒家なんだ」

「分かりました」

 暗い中にぼうっと、我が家が見えてくる。家に誰も居ないうえ、出るときに門灯も点けなかったから、これまた真っ暗だ。たださっきの欄干のような異変は、特に感じなかった。

「ありがとう、こんなところまで悪かった」

 お金を払ってタクシーを帰す。

 雨のせいだろう、家の敷地もかなりぬかるんでいて、敷石でないところに足を置いたら、泥に靴が沈みそうだ。

 足元に注意しながら門から玄関までを歩き、昭一は扉に鍵を差し込んだ。

(あれ?)

 鍵がなぜか、なかなか回らない。雨のせいだろうか?

 あとで鍵屋を呼ばなければと思いながら、カチャカチャと動かすと、何回目かで鍵が回った。

 安堵しながらドアノブに手をかける。このまま鍵が開かなかったら、夜通し外で待つ羽目になるところだった。

 だが今度は、ドアがなかなか開かない。

(どうしたんだ……?)

 ガタガタと鳴らしながら引っ張って、やっとできた隙間に両手の指を要れ、力任せに昭一は扉を引き開けた。しかしやたらと立て付けが悪くなってしまった扉は、なんとか半分開いただけで、それ以上動かない。

 背中を今日何度目かの、冷たいものが伝った。まるでこの家は、誰も知らない間に大地震に遭ったかのようだ。

 開いたドアの隙間から、慎重に中に入る。

 ――べちゃり。

 足もとで、ぬかるんだ感触がした。

(あ、明かり!)

 あわてて玄関の電灯を点けようと、壁をまさぐりスイッチを押したが、点かない。

 何度かカチカチやって、やっとそれから昭一は、大事なことを思い出した。

(そうだ、停電だった)

 外の街灯さえ消えているのだ。点くわけがない。

(懐中電灯……)

 だが、どこにあるか分からなかった。確か妻は用意していたが、それがどこだったか。

 思い出そうと考え込んでいると、携帯電話が鳴った。娘には散々「すまほにしたら?」と言われているのだが、ダメになるまではと思って、使い続けているものだ。

 あわてて開くと、まさに娘からだった。

「パパ! やっとつながった! 今どこ!」

 切羽詰った叫び声。

「い、いや、家なんだが……電気が点かなくて」

「電気?! だって、そっち停電だよ! それより家、大丈夫なの?」

「そりゃ大丈夫だよ。なんかちょっと、ドアがうまく開かなくて、困ったけどね」

「開かない?」

 どうも会話がかみ合わない。

 電話の向こうから、母娘が「パパ大丈夫だって」「ちょっと代わって」と話しているのが聞こえた。

 ほんの少しして、久しぶりの妻の声。

「その辺、土砂崩れがあったらしいのよ。本当に大丈夫なの?」

「いや、さっき何とか、帰ってきたところで……」

 言いながらなんとなく視線を落とすと、携帯の画面の明かりが照らし出した、足元が目に入った。

「う、うわぁ!」

 思わず叫ぶ。

「ちょっと、どうしたの?!」

「ど、泥っ!」

 後は会話どころではなかった。そのまま携帯を足元に近づけて照らす。

 そして見えたのは、たたきも廊下もすべて、一面の泥、泥、泥……。

「ちょっと、大丈夫なの?! ねぇ、今そっち向かってるのよ!」

 だが昭一は、目に入ったものが信じられず、答えることもできなかった。

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