第19話 常態

 目の前のテーブルに、美味しいお酒とおつまみ。

 見回せば、綺麗に整った部屋。

 雨に濡れてたどり着いたのに、今着ているのは清潔で乾いた服。きっと帰る頃には、濡らしたスーツも乾いて手入れがされているのだろう。

 ――とても快適な、なのにひどく居心地の悪い場所。

 誰もが思う「家庭」が、昭一を締め出しているように思えた。お前はただの稀人で、ここで暮らす人間ではないのだ、と。

 口を開こうとしたが、言葉が出てこない。舌が乾いて、口の中に貼り付いている。

 老婆が微笑みながら言った。

「お分かりに、なりましたかねぇ?」

 それにさえ、答えられない。こくこくと頷くばかりだ。

 そんな昭一を見て、老婆は「ほほ」と上品に笑った。

「殿方というのは本当に、我儘でいけませんね。子供のころに面倒を見てもらったように、ずっとやってもらいたがる。なぜでしょうねぇ。女は子供を産んだらほとんどが、そんなことは言わなくなるんですけどねぇ」

 思い出す。

 家へ帰る。娘が居て、妻が居る。「おかえりなさい」と言われて、部屋で部屋着に着替えて、リビングへ行ってお気に入りのソファに座って、出されたつまみを食べながら好きなお酒を飲んで、食事が出されるのを待って。

 食事が出来たら食卓へ移動して、さすがに時間が遅くて娘は一緒に食べないが、妻がそこに座って話をして……。

 そういえばいつも、何の話をしていただろうか? 会社の愚痴は言っていた。でもそれ以外は、なんだっただろう?

 娘のことは聞いた。むしろこちらから、「今日はどうだった?」と訊いていた。だがそれ以外は……思い出せない。

 そういえば、新しい家のことは頻繁に聞いた。どんな具合か、どこがいいか。ここはどうかとか、あれはいいだろうとか。だがその時、妻はどんな顔で何と答えていただろう?

 ここまで考えて、昭一は不意に思い出した。何だったか……買った家の何かを訊いた時、気のない返事をされて怒ったのだ。「こっちがいろいろ考えて買ったのに、何だその返事は」と。

 妻はこちらを見据え、それっきり何も言わなかった。

 あのときは、虫の居所でも悪かったのだろうと思った。実際翌日もそのあとも、妻は何事もなかったように朝の支度をして、ごくふつうに「行ってらっしゃい」と言い、帰ってくれば「おかえりなさい」と言っていたのだから。

 でも、もし……。

「殿方は楽ですよねぇ」

 老婆の声が、昭一の思考に割って入った。

「仕事さえ頑張っていれば――えぇ、『出来れば』じゃなくて、『頑張っていれば』いいわけですものねぇ。そして会社を出て家に帰ってしまえば、何もしないでいられる」

 老婆は相変わらず、微笑みを浮かべている。とても暖かな、だが何かが冷たい笑みを。

 彼女は続けた。

「女は、頑張るんじゃダメですからねぇ。出来ないと。料理に洗濯に掃除に育児、近所づきあいも、お義父さまお義母さまへの気遣いも、親戚づきあいも、ご主人の話相手も出来なきゃいけない。そのうえ、太ったらダメしわくちゃになってもダメ、着るものもお金はかけずに綺麗に。子供はいい子で優秀に。ここまで出来て、やっと『及第点』。あとはどれだけやっても評価は変わらない」

 何も返せない。

 老婆の言葉はさらに続く。

「しかも会社と違って、終わったから何もしないで休むなんて、ありませんしねぇ。だって、家事や家族の世話や相手は、終わりがないでしょう? しかも殿方の我儘に何か言おうものなら、『黙ってろ』『誰が食わせてやってるんだ』ですし」

 にこにこしている老婆。だがその言葉は、冷たい刃物。

「世間でね、離婚が流行るのも分かりますよ。昔は離婚なんかしたら家ごと後ろ指指されましたし、そもそも生きていけませんでしたし。でも独りで生きていけるようになったら、そりゃぁこんなこと、誰もやりたがらないでしょうねぇ」

 だからあなたの奥さんは出ていったのだと、老婆の目は語っていた。

 奥さんの話を聞かず、奥さんの考えていることも知らず、自分の楽さ快適さだけを求めていたからだ、と。

 その老婆の視線が、テーブルに注がれた。

「あらあら、おつまみが。冷めてしまったら美味しくありませんから、温め直しましょうね。ついでだから、何か違うものも作りましょうか。そうそう、床も敷いておかないといけませんねぇ」

 先程までとは打って変わって、かいがいしく世話を焼く、家庭的な様子。それはけして無理をしているのではなく、ごく当たり前で、流れ作業のようで――。

「か、帰ります!」

 昭一は鞄を掴んで、部屋を飛び出した。着替える間も惜しかった。

 いや、惜しいというのは違う。怖かったのだ。

 あの笑顔の老婆も、美味しいお酒も、快適な部屋も、今は何もかもが空恐ろしかった。

 理想だと思っていたすべて。そのすべてが、奥に冷たさを潜ませた虚構の上にあったのだ。

 なのに自分たちだけが何も知らず、喜んでいた。まるで昔話に出てくる、タヌキやキツネに騙されて野っ原で泥団子を食べて喜んでいる、哀れな主人公のようだ。

 「あらあら着物が」という老婆の声を背中に靴を履き、昭一は外へ駆け出した。ひんやりした廊下を抜け、オートロックのドアを抜け、雨の通りに出る。

 幸い、雨はだいぶ弱くなっていて、傘さえさせば大丈夫そうだ。

 それから急におかしくなる。いつの間にか手にしていたのは、バーで借りた傘だ。あんなに慌てて飛び出したはずなのに、しかも自分のものでもないのに、傘はしっかり持ってきたらしい。

 傘をさして歩き出す。とっくに終電も終バスもないが、タクシーは拾えるだろう。

 案の定駅の前には、そう多くはないがタクシーが停まっていた。その一台に乗り込み、場所を告げる。

「お客さん、本当にそこに行かれるんですか?」

「本当にって、なんかあったのかい?」

 ちょっと強張った感じの声音に、不安なものを感じながら、昭一は問い返した。

 運転手が答える。

「いや、なんでも山の方で、大きな土砂崩れがあったとかで。なんで、行けるかどうか……」

「土砂崩れ?!」

 たしかに住んでいる辺りは、山際だ。そういう意味では、土砂崩れが起きても不思議はない。だが、家の周辺は特にいままでそういうこともなかったと、不動産屋は言っていた。だからこそ買ったのだ。

 ――でも、もしも。

「すまない、行けるところまででいいから、行ってくれないか? 家がそっちなんだ」

「分かりました」

 ベテランらしい運転手は、それ以上渋ることもなく車を出した。

「どうしてもダメなら、そこから引き返しますからね。暗くて危ないですし」

「分かった」

 雨は今は〝強い〟程度だ。先ほどのような、タライの底が抜けたようではない。その中を運転手は、心持ち安全運転で進む。

 外に見える景色は、いつもと特に変わらなかった。夜中の、静まり返った雨の街だ。それが建物がだんだんまばらになって、街灯が減っていく。そうしてだいぶ乗っても、特に変わったことはなかった。

(なんでもなさそうじゃないか)

 昭一が後部座席でほっとした、その時。

「なんだありゃ」

 運転手が声を上げ、車が止められた。

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