第18話 戦場
「先日、女房が娘と一緒に、出ていってしまいまして」
「あらまぁ」
老婆が、心底驚いた顔になった。
「それじゃぁ、家事とかいろいろ大変でしょう」
「いやそれは、今はコンビニとかありますし」
家で料理はほとんどしないが、食べることには不自由していない。まさにコンビニと飲み屋万歳、といったところだ。
ただ、あまりに物足りないのは事実だった。
帰っても家は真っ暗で、誰も居ない。温かいものも出てこない。話し相手も当然居ない。買ってきたものを電子レンジで温めるか、そのまま風呂に入って寝るか。その風呂も、自分で沸かさなければならない。
頑張って働いて家まで買ったのに、なぜこうなったのか……。
「出ていった理由が、わからない?」
不意に老婆が言った。
少し置いて、昭一は答える。
「まったく、わかりません」
老婆が笑った。
「男の方は、そうでしょうねぇ」
その笑顔はなぜか穏やかで、非難じみたものはどこにもなく、まるで宿題の答えが分からなくて困っている子供を見るようだった。
「あなたにはわかりますか?」
「ええ、わかりますとも」
老婆が頷く。
「よーく、わかりますとも」
その顔には、確信があった。
「――どうして、ですか?」
恐る恐る訊いてみる。
「まったく、見当もつきませんかねぇ? でも、そうかもしれませんねぇ」
老婆は頷きながらひとりごちると、逆に昭一に訊いてきた。
「この家へ来て、どう思われましたか?」
「え? そりゃ、丁寧におもてなしいただいて……なんというか、家にいるようで」
「それは光栄です。でも、それが答えですよ」
「は?」
老婆が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「あの、どういう意味で……」
「ですからね、よその家で受けたもてなしが、『家にいるよう』なのでしょう?」
「ええ。至れり尽くせりで」
まさに年の功とでも言えばいいのか、老婆のもてなしは痒いところに手が届くようだ。だがそれのどこが、女房が出ていった理由なのか。
老婆が困ったような微笑を見せた。
「やっぱりわかりませんかねぇ……じゃぁ、違うことを。あなたは『家庭』というものを、どんなふうに思ってますか?」
少し考える。だがやはり、当たり前の答えしか出てこなかった。
「家族がいて、安らぐ場所じゃないですか?」
「男の方はそう言いますねぇ」
老婆がまた笑った。だが今度の笑いは、すべて見透かされている、そんなうすら寒さを孕んでいた。
「温かいご飯が出てきて、沸かしたてのお風呂があって、綺麗にいろいろ整えられていて、のんびり出来る場所。男の方は『家庭』というと、こう思ってらっしゃいますよねぇ」
「ええ」
あまりにも当たり前の風景。だが老婆に改めて言われると、なぜかひどく居心地が悪い。
老婆の目が、すっと細められた。
「じゃぁそれを用意する側にとっては、家庭というのは、どんな場所でしょうねぇ?」
「え? そりゃ、一家団欒の安らぐ場所じゃ?」
「裏方を、ずっとその間やっているのに?」
老婆が何を言っているのか、まったくわからない。
縁があった者同士が一緒になって、片方が外で働いて、片方が家のことをする。そうやって分担して、何が問題なのか。
何も言えない昭一に、老婆は言った。
「女にとって家は、安らぐ場所じゃありません」
「え……」
予想もしなかった答えに、昭一の思考が止まる。
家というのは、安らぐ場所じゃないのか? 家族揃って、楽しく過ごす場所じゃないのか?
老婆が続けた。
「先ほど、ここへ来て『家にいるよう』と仰ってましたよね」
「ええ」
それは本心だ。本当に何もかもが行きとどいていて、家にいるようにくつろげた。
老婆が「やはり」という顔で頷く。
「だとすれば、あなたはご家庭で、ただの『お客さん』だったということですよ」
「それは、どいういう……?」
老婆の言うことはどれもこれも理解を超えていて、わからないことだらけだ。
「家族なのに、なぜお客さんなんです?」
「だってそうでしょう? 他所の家でお客さまとしてもてなされているのに、『家にいるよう』なんですから」
「いやだって、仕事をして帰ってきたわけで。家でくらいゆっくりしたいですよ」
老婆が憐れむような表情になった。
「男の方は勘違いされることが多いみたいですけどねぇ……家庭は、生活の場ですよ。お客さまのように、座りこんでもてなされる場じゃないんですよ」
「でも、稼いでいるのはこっちです!」
思わず声が大きくなったが、老婆は動じなかった。逆に静かな声で諭す。
「それを言ったらなおさら、ただのお客さまですよ。飲んだり食べたり泊まったりしてもてなされて、代わりにお金を払う。そういう立場になってしまうでしょう?」
「それは……」
考えたこともなかった。店へ行って、お金を払って、何かを買う。サービスを受ける。それは当たり前だ。
だが家庭というのは、どうなのだろう? 分担なのだから、お金を払わなくても互いがやるものではないのだろうか?
――え?
自分で考えたことに戸惑う。お金を払わなくても互いがやるというのなら、自分が働かなかったらどうなのだろう? いや、それでも妻は家事をやるだろう。だとすると、自分が金を稼いでくることと、妻が家のことをやるのは関係ないのか? だがそうだとするなら、自分は稼がなくてもいいことになるわけで……。
何が何だか、ワケがわからなくなってくる。
混乱する昭一に、老婆が言った。
「男の方は家を『安らぐ場所』と言いますけどねぇ、女にとっては家というのは仕事場で、戦場なんですよ」
「戦場……?」
物騒な言葉だ。
だが老婆は穏やかに頷いて続けた。
「えぇ、戦場ですよ。延々と粗相なくコトが過ぎるよう、裏方をやり続ける戦場です。それも出来て当たり前、出来ない事は許されない、代理は居ない。二十四時間三百六十五日、ずっと休みなく待機し続けてやり続けるんです」
そしていたずらっぽく笑って言った。
「殿方に、そんな勤務、出来ますかねぇ?」
雨の音が響いていた。
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