第17話 訪問
紙に書かれた住所は、バーからそう遠くなさそうだった。ビルの入り口にある住所表示が「四丁目」まで一緒だから、番地を辿っていけば着くはずだ。
バーで借りた傘をさしながら、歩いて行く。
雨がひどい。叩きつけるようだ。
家へ帰るのではなくて良かった、と思った。あのバス停からだとけっこう距離があるから、傘をさしていたとしても、きっと着くまでにずぶ濡れだ。ましてや傘を持たずにいたのだから、それこそ濡れ鼠になっていたに違いない。
目当ての住所には、程なく着いた。小奇麗なマンションだ。あのレイラが住むには相応しい。
オートロックだったが、部屋に書かれた番号のインターホンを押すと、「はい」と応答があった。ただ、レイラの声ではない。
「あの……」
「あぁ、レイラが言ってたお客さん? 今開けますよ」
インターホン越しの声は、だいぶ年が行っていそうだ。
程なく入口のドアが開き、昭一は建物の中へと入った。ホールを見回し、奥にあるエレベーターへと歩み寄る。ボタンを押すとドアが開き、昭一は、六階まで上がった。
降りた廊下は、全く人の気配がなかった。ざあざあと、雨の激しい音だけが響く。夜も遅いうえにこの雨で、誰もが部屋に引きこもっているのだろう。
一部屋づつ番号を確かめて、昭一はついに、書かれた場所へたどり着いた。
一瞬ためらってから、ドアの傍の呼び鈴を押そうとして……それより早く、ドアが開いた。
「あぁ、やっぱり。さぁさぁ、お上がりなさいな」
そう言う覗いた顔に、昭一も見覚えがあった。たしかあの、レイラと会う直前にバス停で助けた、老婆のはずだ。
老婆がにこにこしながら続ける。
「あの子がね、お客が来るからと連絡してきてねぇ。誰だろうなと思ったのだけど、来れば分かると。なるほどねぇ。あぁほら、そんなに濡れて。早く上がって、上着を乾かしなさいな」
まるで母親のような言い方だ。もっともこの年齢の女性にかかっては、自分などそれこそ若造で、子供のようなものなのだろう。
「はい、タオル。頭拭かないと、風邪ひいてしまうからねぇ」
「はい」
なんだかこちらも、子供に戻ったような気がしてくる。
「ほらほら、上着をかして。早く手入れしないと、痛んでしまうから」
「すみません」
言われるままに、昭一は背広を差し出した。たしかに背中がずいぶん濡れている。
「すみませんねぇ、お風呂はさすがに沸かしてなくて。あぁでも、冷蔵庫にビールはあったような……」
「いや、おかまいなく」
「お客さんに、そんなことできませんよ。恥ずかしい」
かいがいしく昭一の世話を焼く老婆はまさに主婦の鏡、古き良き時代の女性といったふうだ。
「間に合わせで申し訳ないけど、これをどうぞ。むかーしのモノだから、今の人には気に入らないだろうけどねぇ、替えがなくてねぇ」
どこからか、パジャマのようなものまで出してくる。亡くなった――そんな気がする――ご主人のものだろうか?
「そこの脇が風呂場ですから、着替えてくださいな。その濡れたズボンも、帰るまでに何とかしましょ」
有無を言わせぬ口調に、やむなく昭一は着替えた。まさか初めて上がった他人の家で、ズボンまで脱ぐとは思わなかった。
「さあさ、着替えたら奥へどうぞ。狭いとこですけどね、座るくらいできますよ」
「どうも……」
人が訪ねて来たのが、老婆にはずいぶんと嬉しいらしい。こんな夜中だというのに嫌な顔ひとつせず、なにくれと昭一の世話を焼いて、にこにこと楽しそうだ。
通された先は、居間だった。座り心地のよさそうなソファがあって、大きなテレビが点いたままになっている。何か紀行番組のようだ。
ただ、レイラの姿はなかった。
気になって訊いてみる。
「あの、レイラは……」
「あぁ、あの子ならね、ちょっとどうしてもで呼ばれたと。で、今会ってる人に申し訳ないから、うちへ行くように伝言したから、って。まったく、失礼な子ですみませんねぇ」
「いえいえ。こちらこそ、お手数をかけてしまって申し訳ありません」
「ホントにすみませんねぇ。おっつけ、あの子も帰ってくるでしょうから。ここで待っててくださいな。部屋もありますからね」
そうしよう、と昭一も思った。もう夜も遅い。今から帰ったところで、バスが無いかもしれないし、なによりこの雨では帰るのも億劫だ。
勧められるままに、ソファへと座る。
「はいどうぞ、缶ビールですみませんねぇ。今ちょっと、何か肴でも出しますからね」
おかまいなくと言いかけて、昭一は口をつぐんだ。この老婆は、世話を焼くのが楽しいのだ。それに「おかまいなく」と言っても止めないだろうし、むしろ余計に気を遣わせてしまいそうだ。
じき、台所の方からいい匂いがしてきた。何か焼いているようだ。スルメだろうか?
何とはなしに、テレビに目をやる。どこかの旅館が映っていて、料理が美味しそうだ。海辺だからだろう、色とりどりのお刺身が皿に盛られている。
あんなところへみんなで旅行に行ってもいいな、そう思ってから、昭一は気が付いた。自分はもう、そういうことは出来ないのだ、と。
むしゃくしゃして、缶ビールをあおる。自分が何をしたというのか。
「おやまぁ、ビールが足りなくてすみませんねぇ、今持ってきますよ」
見れば、いつの間にか老婆が、皿を持って立っていた。
「すみません、お世話かけっぱなしで」
「いいんですよ。あのときは大してお礼もできなくて、すみませんでしたねぇ」
あぁそうか、と昭一は思った。たしかにあのときは店まで案内された後、老婆とは顔を合わせていない。
――レイラに気を取られて、そんなことはすっかり忘れていたが。
ただ老婆の方は、それをずっと気にしていたのだろう。
「あのあと、病院へまっすぐ行くことになってしまいましてねぇ。戻ったら、あなたはもう帰ったと言われてねぇ」
「気にしないでください。それより、お怪我はなかったんですか?」
なんだか今更な気はするが、訊いてみる。
老婆はニコニコしながら答えた。
「おかげさまで、痣が出来ただけですみましてねぇ。足でも折ってたら大変だった、これで済んでよかったと、お医者さまに言われましてねぇ」
「それは何よりです」
別に昭一が何をしたわけでもないが、助けた甲斐があったというものだ。
「ですからね、今日は自分の家だと思ってね、ゆっくりしていってくださいな。あの時のお礼ですよ」
「でしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
そういうことなら、素直に好意を受けたほうが、この老婆も喜ぶだろう。
相変わらず、雨は激しい。だが肴がいい塩梅で、そんなことは気にならなかった。
手馴れたおふくろの味、とでも言えばいいだろうか? 焙ったイカ(だと思う)と佃煮のようなものを、さっと煮つけたのだろうか? 何だかよく分からないが、辛すぎず、甘すぎず、ついつい手が出る。
「少し別のお酒でも、持ってきましょうかねぇ。頂き物が何かあったはず」
ビールが空になったのに気付いて、老婆が立ちあがった。
つきっぱなしのテレビは、いつの間にか外枠に、次々と気象情報が流されるようになっていた。台風が来たときに、見るようなアレだ。どうやらこの大雨で、いろいろ警報が出ているらしい。
そっとカーテンを開けて外を見ると、窓ガラスを水が流れていた。おかしな言い方だが、「流れている」としか言いようがない。雨があまりにもひどすぎて、窓ガラスについた水滴が流れ落ちるでは済まず、ホースで水をかけたような状態なのだ。
(こんなに、どこに水があるんだろうな)
普段の青空や星空を考えると、どこからこれだけの水が湧いて出たのか、まったく見当がつかない。空のどこかに大きな池でもあって、その底が抜けたのだと言われたほうが、よほどしっくりくる。
老婆が戻ってきた。
「外国のお酒なんですけどね、口に合いますかねぇ?」
「好き嫌いはないですから、大丈夫だと思いますよ」
心配する老婆を安心させようと、昭一は言った。予想通り、老婆の顔がほころぶ。
「よかった、お客さまに嫌いなお酒を出しては、申し訳ありませんからねぇ。えぇと、何と読むんでしょ……?」
「構いませんよ。美味しいでしょうから」
こちらから見る限り、ブランデーのようだ。なら、不味いことはないだろう。
「開けましょうか?」
慣れないのだろう、開けるのに四苦八苦しているのを見て、声をかける。
「すみませんねぇ、なんだか上手くいかなくて」
「こういうのは、案外難しいですからね」
他人様の家で、出してもらったお酒を自分で開けるというのは、なんだか変な気分だ。
「こういううちですから、なんかこう、ちゃんとしたグラスも無くて……すみませんねぇ」
すまなそうに言う老婆から、口が広めのコップを受け取り、注いでみる。
「これは美味しそうだ」
「あら、よかったですよ。ならどうぞ、どんどん飲んでくださいな」
「そんなことしたら、帰れなくなりますよ」
遠慮する昭一に、老婆は笑う。
「何をおっしゃってます。もうね、いい加減、終電も無くなりますよ。それに雨もひどいですし、動かないほうがいいですよ」
「確かにそうですね……」
窓の外の音は、心なしか、さっきよりまた大きくなった気がする。鉄筋コンクリートの建物の中だから平気だが、これが一軒家だったら、きっと音だけで怖いだろう。
「そういえば、レイラは?」
ふと思い出して訊いてみる。そのうちここへ帰ると、言っていたはずだが。
「それがね、あの子もこの雨で、だいぶ困ってるみたいで」
言われて頷く。この、それこそ滝のような雨で、困らない人間などいないだろう。
「歩いて帰れる距離なんですけどねぇ、どうにも外へ出られないと、さっきけーたいに、かけて来たんですよ」
「これじゃしょうがないですよ」
昭一だって、この雨の中を歩けと言われたら、尻込みする。そのぐらいの雨なのだ。
正直、こんなひどい雨は、今までに経験したことが無い。今までのどの台風よりも、怖く感じる。こういうときは、安全な場所でじっとしているに限るだろう。
逆にそういうことなら、と昭一は思った。レイラがここに帰れないなら、自分が泊まっても全く問題はない。ある意味安心して、ここに泊まれるというものだ。
そして、眉根を寄せる。
既に離婚騒動になっていて今更なのに、自分は何に気がねしているのだろう?
だがそう思いながらも、万が一同僚に知れたらいろいろ面倒だとか、そんなことも頭をよぎる。
「あれ、どうかしましたか?」
黙ってしまった昭一を心配したのだろう、老婆が声をかけてきた。
「お酒が足りませんか?」
「いやいや」
今、新しい酒を開けたのだ。足りないわけがない。
「ご家族が心配ですか?」
「家族は……」
言いかけて、口をつぐむ。どう言えばいいだろう?
それと、今の今まで忘れていたことも、自分で信じられなかった。まぁ自分と同じで、この近くのマンションに逃げ込んでいるから、安全だろうというのはあるが。
(――あの家にいるなら、俺も帰ってるだろうな)
そんなことを思う。郊外の一軒家は暮らすにはいいが、こういうときはマンションに比べると、やはり危ないだろう。そういう意味では、娘と妻の無事をどこかで確信しているのかもしれない。
雨は相変わらずだ。そしてテレビの速報は、やれ警報だ避難だと言い始めている。
その中に自宅がある地域を見て、昭一は少し心配になったが、考えなおした。この夜中に、どうやって帰ればいいのか。仮にタクシーがつかまったとしても、簡単に帰れるかどうか。
ならばここで、雨が落ち着くまで待たせてもらって、朝になってから帰ってもいい。誰かに何か言われたとしても、この天候ならみんな納得するだろう。
目の前の老婆は、穏やかに微笑んでいた。まるで亡くなった祖母のようだ。
その顔を見ているうち、話してみる気になった。
「実は……」
雨が一段と強くなった。
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