第16話 会話

 食事は、美味しくなかった。というより、味がしなかった。

 ――俺が、何をしたんだ。

 これで万事解決だと思ったのに、どうにも形勢はこちらに不利だ。妻が出ていったのは、どうやら自分のせいらしい。

(勝手にあいつが、出てったんじゃないか)

 ある日帰ってきたら、居なかったのだ。それまで相談など、一言もなかった。なのになぜ、こちらが悪いように取られるのか。

 ふらふらと歩く街は、そろそろネオンの明かりが灯り始めていた。

 あの何とか言う秘書相手に愚痴りながら、勧められるままに酒を飲み、料理をつつき、適当なところで店を後にした。ただ帰る気にはなれなくて、こうして街を歩いている。

 ――俺が悪いってのか?

 思いはそこで止まってばかりだ。

 妻と子供にいい思いをさせたくて、一生懸命働いてきた。嫌でも何でも、怒られては頭を下げ、注文を取って給料を稼いできた。せめてゆったりと暮らせるようにと、郊外に広い家も買ってやった。

 なのにどうして、あんなことを言われなくてはならないのか。誰のカネで、好きなものを食べて好きなことを出来ていると思っているのか……。

 ふと辺りを見回すと、見慣れたビル街だった。いつの間にか、あのレイラの店の近くまで、来ていたらしい。

(寄ってくか)

 どうせ妻も娘も家に居ないのだ。それどころか、離婚届けを置いて行ったのだ。もう今更、遠慮する必要はないだろう。

 確かこの辺、と思って、きょろきょろしながら歩き出す。何度か来ようとして迷っているから、気を付けて見ていかないとまた迷ってしまうかもしれない。

 だがそこまでして見ていたはずなのに、店は見つからなかった。地下の店への降り口を見つけられないでいるうちに、次の四つ角まで来てしまう。

「おかしいな……」

 思わず呟きながら、昭一は回れ右をして、また歩き出した。もしかしたら逆方向から行けば、見つけられるかも知れない。

 だがその思いも虚しく、最初の四つ角へ戻ってしまう。

(どうなってるんだ?)

 前にもあったが、キツネにつままれたとは、まさにこのことだ。

 それでも昭一は気を取り直して、また歩き出した。

 先程の料亭で飲んで、自分は酔っているのだ。酔った頭で見て分からないのは、よくある話だ。

 目を皿のようにしながら、歩きまわる。それでも、なかなか見つからない。

 もしかして、道を間違えたのだろうか? これではもういい加減、帰った方がいいだろうか?

 しかも間の悪いことに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

「また雨か」「この頃多いね」

 そんな声を残しながら、人々が慌てて走り出す。

(俺も、雨宿りでもするか……)

 せっかく街にいるのだ、飲み直したっていいだろう。

 その時、声をかけられた。

「昭一さん?」

 振り向く。

「れ、レイラ?」

 あれほど探して店が見つからなかったのに、なぜか当人がここにいる。

「店は、どうしたんだ?」

「店はお休みよ。それにしても昭一さんこそ、どうしてこんな見当違いの場所に? ともかくこのままじゃ濡れてしまうわ、どこかに入りましょう」

 どうやら自分は酔ったまま、まったく違うところへ来てしまっていたようだ。どうりで店が見つからないわけだ。

「ここからなら、知り合いの店が近いの。行きましょう」

 レイラに導かれるまま、ついていく。そうして案内された先は、やはり地下にある、小奇麗なバーだった。

「おやレイラ、久しぶり。そちらの方は?」

「お店のお客さんよ。店が休みなのを、ご存じなかったみたいで」

「なるほど。ならここで、ゆっくりしていくといいよ」

 言ってマスターは奥のテーブル席を、拭いていたグラスで指し示した。

「ありがとう、マスター」

 言ってレイラが奥へ歩き出す。昭一も慌てて後に続いた。

「ごめんなさいね、店じゃなくて」

「いや、構わないよ」

 期せずしてレイラと会えたのだ。場所が少々違っても全く構わない。

 久しぶりに見る彼女は、やはり美人だった。黒ダイヤのような瞳に、紅色の唇。今日は青い石が嵌った大振りの耳飾りをし、首飾りも揃いの石が幾つも嵌められている。店が休みだからだろう、あの占い師のような服装ではないが、濃い紫が基調のスーツをまとった彼女は、この薄暗い部屋の中でも存在感を際立たせていた。

 店に既にいた客たちが、ちらちらと彼女を見ている。いい気分だ。

 そうしているうち、頼みもしないのに酒とつまみが運ばれてきた。どうやらレイラとここのマスターは、かなり親しいようだ。

 彼女が口を開いた。

「店に、来るつもりだったの?」

「ああ」

 それ以外に、あの辺を歩く理由など無い。

 レイラは少し考え込んで、また口を開いた。

「何か、あったのね」

「ああ」

 我ながら間抜けだと思うが、それしか返事が出てこない。

 また少し間を開けて、彼女が訊く。

「訊いたほうがいいかしら? それとも、聞かないほうがいいかしら?」

「実は……」

 答えを言うより先に、昭一は話し始めていた。

「娘が、家を出ていってしまって……」

「家出? 大変だわ、探していたの?」

「あ、いや、そうじゃないんだ」

 レイラの勘違いを、慌てて修正する。

「女房が、突然家を出ていってしまって。娘も一緒に、行ってしまったんだ」

 妻が出ていったのも納得行かないが、娘が一緒に行ってしまったことは、もっと納得行かない。あんなに、「パパ、パパ」と懐いていたのに。

 そのまま堰を切ったように昭一は話し続け、何もかも打ち明けた。

「あいつらのために、俺は一生懸命働いて来たんだ。なのになんで、こんな目に遭わなきゃいけないんだ」

「そうね……」

 静かに言うレイラの手が、グラスを差し出す。

 受け取って口をつけると、ずいぶんと辛くて強い酒だった。今の気分にはちょうどいい。

「あいつらのためじゃなきゃ、ペコペコ頭下げて、誰が謝るか。ムチャ言ってるのは向こうだってのに」

「謝るのが嫌なの?」

「ああ! 無理難題押し付けといて、出来ないって怒るって、バカ以外の何なんだ。頭ついてないのかあいつら!」

「ずいぶんひどい職場なのね。辞めたら?」

「辞められるんなら、とっくに辞めてるさ! だけど俺が辞めたら、誰が稼ぐんだ! ローンだってあるんだぞ!」

 レイラがちょっと小首をかしげる。そのしぐさが、やけに可愛かった。

「ローンは、新しいお家の?」

「そうさ! ちょっと駅から遠いけど、広い一軒家を買ってやったんだ! 静かだし、庭も広いし! なのにあいつら、引っ越したくなかったとか何とか言いやがって!」

 いつも言っていたのだ。テレビを見ながら、ああいう広い家はいいわねと。だから言うとおり、郊外の一軒家を買ったというのに。

「いったい、何が気に入らないっていうんだ。だいいち、出ていかなくてもいいじゃないか」

「どうしてかしらね……」

 レイラはまだ、思案顔だ。

 まぁそうだろう、と昭一は思った。あいつの考えることなど、まともな人間には分かるわけがない。

 と、レイラが何か合点がいったように、小さくうなずいた。

「そのお家、奥様は買う時に、なんて仰ってたの?」

「え? いや、何も……俺が見に行ったらいい家で、しかも安かったから、即決したし」

「あら」

 彼女が驚いた顔で、こちらを見た。

「奥様、見に行かなかったのかしら?」

「あいつがいつも、いいって言ってた通りの家だったんだ」

 夫婦なのだ。毎日顔を合わせて会話しているのだから、好みくらい分かる。そうでなければ、こんな大きい買い物を即決出来るわけがない。

 なのに、今頃になって嫌だと大騒ぎしている。キッチンも風呂場も広いし、部屋も広い。窓も大きくてどの部屋も明るく、娘の部屋にいたっては、「ああいうのにしてやりたい」と言っていたロフトベッドつきだ。庭だって、好きなものを植え放題だ。

 ここまで好きなものを揃えたのに、何がそんなに嫌なのか。

 レイラが口を開いた。

「知らない間に決まってしまったのは……奥様としては、どうだったのかしら」

 カチンと来た。

「何も知らないのに、何言ってるんだ! こっちは考えに考えて、その上でどう見てもいいものだったから決めたんだ!」

「そうでしょうね」

 彼女が同意する。だが次に出た言葉は、また昭一の気に障るものだった。

「でも奥様は、自分も事前に見たかったと思うわ」

 腹が立った。

 自分が稼いだ金で、考えに考えて買ったのだ。いわばものすごく高額のプレゼントのようなものだ。しかも今も、自分で働いて払っている。それに対してお礼を言われるならともかく、文句を言われる筋合いなどない。

「――分かったよ、要するにあんたも女ってことだな。女房の味方するんだろ」

 レイラは答えず、困ったような曖昧な笑みを見せただけだった。

 それが余計に癪に障る。

「結局、女なんて――」

 言いかけたところで、なぜかグラスが来た。頼んでいないのに。

 レイラが受け取って、穏やかに差し出す。

 つい受け取って口をつけてみると、熱いほどに度が高かった。

「私もそれ、飲もうかしら?」

「強いぞ、これ」

「あら……じゃぁ別のにしなきゃ」

 そう言って彼女が、どれにするか考え込む。

 と、彼女が立ちあがった。

「ごめんなさい、ちょっとだけ失礼するわ」

 そう言って、店の奥へと消える。あの方向にはトイレがあるようだから、そこに用事だろう。

 昭一は、半分ほどになったグラスを眺めた。特に何か、凝ったものではない。ただの普通のコップに氷、あと透明な酒だ。

 ただ、美味しかった。けっこうキツいのに辛いだけではなく、微妙な甘みも僅かにあって、なのにすっきりとした後味だ。

(そういえば最近、こういうところで飲んでないよな……)

 独身の頃はこういうバーによく行ったのだが、結婚してからはぱったり行かなくなった。せいぜい、同僚と一緒に居酒屋に行く程度だ。そう考えると、ずいぶん楽しみが減ったものだ。

(なのに、あいつ……)

 妻のことを思い出して、また腹が立つ。こっちだってこんなに我慢してるのに、家が気に入らないと出ていってしまうなど、どれだけ我儘なのだろうか?

 そうやっているうちに、グラスが空になった。また同じものを頼もうかどうしようか、迷って気づく。

 ――レイラがまだ、戻ってこない。

 いくらお手洗いにしても、長すぎないだろうか? もしかして、中で具合が悪くなりでもしたのだろうか?

 気になって居ても立ってもいられなくなって、奥へ見に行こうとしたとき。

「レイラのお連れの方でしたね?」

 マスターが立っていた。

「彼女から、伝言を預かりまして」

「伝言、ですか?」

 きょとんとする昭一に、紙が差し出された。走り書きで、住所が書かれている。ずいぶん急いで書いたのか、きれいな字だが乱れがちだ。

「急に呼ばれて、帰らなければならなくなった、と。こちらの住所に居る、と」

 だとするとこれは、レイラの家の住所だろうか? 部屋番号があるから、どこかのアパートかマンションのようだ。

「ここへ、来いと?」

「私は、先程の伝言と、これを渡してほしいと頼まれただけです」

 それ以上は知らないし関係ないと、マスターの口調は暗に告げていた。

「分かりました、ありがとうございます。おあいそを」

「彼女から頂きました」

 どうやらレイラは、ずいぶん急いで帰ったようだ。

(いつ帰ったのかな?)

 少しだけ不思議に思う。トイレから店の入り口は、自分たちが居た席の横を通らないと行けないはずなのだが……。

 もっとも酔っているので、気づかなかっただけかもしれない。

 住所を書いた紙を握りしめて、昭一は立ち上がった。

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