第15話 不満

 二人が出ていった襖を、昭一は呆然と見ていた。

 誰も何も言わない。

 ――俺が、何をしたんだ。

 ただその思いだけが、ぐるぐると頭の中をめぐる。

 新しい、広い家。広い庭。それぞれがゆったりと過ごせるスペースがあって、自然を楽しめて……。それの、何が悪いのか。

 それでもひとつ確かなのは、娘が引っ越しを喜んでいなかった、ということだ。

 全く気付かなかった。

 よく訊いてはいたのだ。「どうだ、新しい家は」と。そうすると決まって沙耶は、「うん、いいよ」と答えていたのだ。

 それが、嘘だったということになる。

 ならばなぜ、沙耶は父親である自分に、そんな嘘をついたのか……。

「遅くなって申し訳ない」

 からりと襖が開いた。

 顔を上げた昭一と、入ってきた例の議員先生との目が合う。その後ろには、あの和服美人のおかみが居た。手にお盆を持っている。

 山野辺議員が上座に座り、おかみが手際よく徳利とお猪口とを並べる。

「昼間からなんですが、まぁ飲みながらと思いましてな」

 議員が言った。

「さ、どうぞ」

「すみません、いただきます」

 そんな気分ではないはずなのに、軽く頭を下げながらお猪口を手にする。サラリーマンの習性とでも、言ったらいいのだろうか?

 自分と議員、それに息子のお猪口に酒が注がれた。

「――門のところで、奥さまと娘さんにお会いしましたよ」 

 乾杯の声もなく、議員が言う。

「何か、言っていましたか?」

「いえ、特には。申し訳ありませんが失礼させていただきます、とだけ」

「すみません、失礼なやつで」

 わざわざ席を設けてもらったのに、とっとと帰るなど、非礼もいいところだ。こちらの立場を、何だと思っているのか。

 そんな昭一をしばらくじっと見て、お猪口をあおってから、議員が口を開いた。

「恐らくですが……今おっしゃったようなことが、奥さまは嫌だったんじゃないでしょうかね」

「え?」

 何を言われたのか分からない。

 ぽかんとする昭一に、議員は説明した。

「今さっき、『失礼なやつで』とおっしゃいましたな」

「ええ。実際、失礼なやつだと思います。申し訳ありません」

 謝る昭一を見て、議員が軽くため息をつく。

「どう言ったら通じますかな……要するにその、奥さまを、目下に見ていませんか?」

「そうは言っても、あいつの不始末は私の責任です」

「それを奥さまは、嫌だと言っているのだと思いますよ」

 更に分からない。

「家のことは、家長が責任を取るものでは?」

「では逆に訊きましょう。仮に奥さまのほうが稼いで家計を支えていたとして、あなたが家のことをやって――実際、ご主人が病気とかで、そういうご家庭はあります。で、その時に『私が稼いでいるんだ、私が大黒柱なんだ。だから黙って言うことをきけ、粗相するな迷惑かけるな』と言われたら、どうされます?」

「冗談じゃありません、こちらだって子供じゃないんです」

 間髪入れずにそう言って、昭一は「あっ」と思った。

「お分かり、いただけましたかな?」

「たぶん……」

 まだ自信がない。だから昭一はそう言ったが、気が付いたつもりだった。

 議員が言う。

「奥さまは、ちゃんとしてらっしゃいました。私のところへ最初に、挨拶に来まして。で、訳をきちんと話した上で、ご迷惑は承知だが、なるべく早く住むところを探すので、それまで一か月ほど住まわせてほしい、と。その上で家賃まで差し出されました。お断りしましたが」

「そう、だったんですか?」

 そこまでしているとは、まったく考えなかった。行きあたりばったりに、感情的に飛び出したのだとばかり思っていた。

 議員が頷いて続ける。

「今日の件も、奥さまに持ちかけたのは私です。でも奥様は、『きっと喧嘩になってご迷惑をかけるから』と、固くお断りされて。それを再三再四持ちかけて、それでも構わないから、ということで、何とかご承知いただいたのですよ。会えばもしかしたら、気が変わるやもと思いまして」

 最後に苦笑しながら、奥さまのほうが正しかったですが、と議員が付け加える。

 そして手酌で酒を注ぎながら、独り言のように言った。

「子供扱いされて、嬉しい人は居ませんよ」

「それはそうですが……」

 それでもまだ、釈然としない。たしかに子供扱いされて面白くないかもしれないが、こちらだって会社や取引先で、嫌でもなんでも頭を下げて仕事しているのだ。そのおかげで暮らせているのだから、少しくらい、感謝してくれてもいいだろうに。

 納得いかない昭一の顔を議員はしばらく見て、立ち上がった。

「すみません、実は次の会合がありまして。勝手言って申し訳ないですが、失礼させていただきます」

「え、じゃぁ、私も……」

「それには及びません、ここは午後いっぱい、借り切ってありますから。せっかくです、どうぞ料理を楽しんでってください」

 何だそれはと思ったが、昭一は口には出さなかった。もしかすると最初から、議員はこうするつもりだったのかもしれない。

「誠太郎、来なさい。本宮君、後は頼んだよ」

 言って親子が出ていき、昭一は部屋に取り残された。

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