第14話 誤解
妻や娘と会うのは、結局土曜の午後、遅い昼食でも食べながら、ということになった。
指定された店――例の料亭だ――へと向かう。店へ着くと、あの和服美人のおかみが、出迎えてくれた。
「野沢様ですね。お待ちしておりました。お連れ様、もうお見えですわよ」
妻と娘は、もう来ているようだ。おかみに案内されて、座敷へと向かう。
「お連れ様が、お見えになりました」
言っておかみが開けた襖の向こうには、久しぶりに見る妻と娘の沙耶、それに例の議員の息子、それにあの秘書とが居た。
何を言ったらいいか分からない昭一に、議員の息子が立ち上がって声をかける。
「お久しぶりです。わざわざお越しいただいて、申し訳ありません」
「いえ、お久しぶりです」
我ながら間の抜けた返事だが、他に言葉が出てこない。
「どうぞ、おくつろぎください」
「では……」
勧められた座布団に座る。目の前に妻が居た。
その彼女の手が動く。
「はい、これね」
封筒が一通、差し出された。
「なんだい?」
「離婚届よ」
言いながらもう、妻は立ち上がりかけている。
「本当は郵便でいいと思ってたんだけど、議員先生、どうしても一度会ったほうがいいって言うんだもの」
そう言う妻の顔は、むしろ晴れやかだった。躊躇っている様子も困っている様子も、まったく無い。
「ちょっと待ってくれ、どういうことなんだ」
「どういうことも何も、離婚する、って言ってるじゃない」
「なんで……」
妻が冷やかに笑った。
「やっぱりね。心当たりなんてないんでしょ」
「当たり前じゃないか」
あるわけがない。そもそも毎日働いて稼いで、養ってやっているのだ。非難される謂れなどない。
だが妻の冷やかな表情は変わらなかった。
腹が立ってくる。
「お前、誰のおかげで暮らせてると思ってるんだ。俺が何のために、毎日必死に働いてると思ってるんだ」
それを聞いた妻が、さらに笑った。
「言うと思った」
そして、さらに言葉を続ける。
「なら辞めればいいじゃない」
「辞められるわけないだろう! 俺が辞めたら、どうやって暮らしていくんだ」
「離婚するんだから、私たちのこと、養う必要なんてもうないわ。だいいち二言目には『お前たちのため』って、じゃぁ居なくなってあげるから、さっさと辞めればいいじゃない。その仕事、そのくらい嫌々やってるんでしょう?」
何か言い返そうと思ったが、言葉が出てこなかった。
それでもやっとの思いで、言葉を絞り出す。
「どうやって、暮らしていくつもりなんだ……」
「とりあえず、前やってた仕事に戻るわ。最近、人手不足らしいから。資格も上位のを取っておいたし」
確かに妻はもともと、保険の外交員だった。だがそれは、沙耶が生まれる前の話だ。
「今さら、戻れると思ってるのか?」
「さぁ? でもそれ言うなら、辞めろって言ったあなたはどうなの?」
「それは、沙耶のためを思って……だいいちお前も、そう言ってたじゃないか」
妻が頷く。
「確かに私もそう言った。でもね、だからって召使い扱いされたくないの。あれしろこれしろ、好みに合わせろ、俺の言ったことに従え、挙句に『養ってやってるんだ』。よく言うわ」
「家に居るんだから、当たり前だろう。ただの分業じゃないか」
「どこが分業よ。分業なら対等なはずなのに、『やってもらって当たり前』のただの王様気どり。要は威張りたいだけでしょ」
違うと言おうと思ったが、それより早く妻が続けた。
「だいいちこれが分業って言うなら、会社の女性社員に何かやってもらった時に、同じようにするの? 少なくとも『おれがこの社で稼いでんだから、このくらいやって当たり前だ』なんて態度、間違っても取らないでしょうに」
「当たり前じゃないか。他人にそんなこと言うもんか」
「私も他人よ」
冷たい声で言う妻に、思わず叫ぶ。
「夫婦だろう!」
だが返って来たのは、さらに冷たい声だった。
「親しき仲にも礼儀あり、って言葉、知らないの? それとも夫婦になったら、何でも自分の言うとおりにして当然、って言いたいの?」
「だから、働いた金は渡してるだろう!」
「ほらまたカネって、だからもう契約解消する、って言ってるの。カネやってるんだから言うとおりにしろって、ブラック企業じゃあるまいし。それにそういう関係なら、辞めるのも自由でしょ」
妻の表情は、まったく変わらない。おそらくこのまま平行線だ。
ならばと、昭一は娘のほうに視線を向けた。
「沙耶、おまえはどうなんだ」
娘がうつむいて、小さな声で答える。
「私、引っ越したくないって言ったもん……」
「え……」
全く予想しない答えだった。
「だっておまえ、新しい家はいい、って喜んでたじゃないか」
慌てて言うと、沙耶が堰を切ったように言いだした。
「だって! やだって言ったら、パパもう買ったから、って。もう決めたからって。それでもヤダって言ったら、パパ怒ったじゃない! せっかく買ったのに、なんでそんなこと言うんだ、パパの言うこと聞けないのか、って」
「それは……」
たしかにそう言った。まだ新しい家も見ていない状態で、物の分かっていない子供の言葉だと思ったからだ。
見れば気が変わると思った。そして引っ越してからは、沙耶は文句を言ったことはなかったのだ。
沙耶の言葉は続く。
「引っ越したせいで、友達とぜんぜん遊べないし……部活だって、朝遅れそうになったりして、迷惑かけてるし。この頃はもう、みんな遊びに行く時も、誘ってくれなくなっちゃってた。でも学校の近くに引っ越したら、またみんな誘ってくれるの。今度はいつでも、一緒に行けるねって。すごく嬉しかったんだから!」
そんな話、全く知らなかった。
「どうして言わなかったんだ」
昭一が言うと、沙耶は睨みつけて言い返してきた。
「誘われないって言ったら、『あぁそうか』って。なら勉強がはかどるな、って言ったくせに!」
覚えていない。だがここで覚えていないと言おうものなら、さらに形勢が悪くなる気がして、昭一は何も言わなかった。
妻がため息をつく。
「どうせあなたにとって私たちなんて、その程度よね。妻子持ち家持ちっていう、世間に認めてもらうための付属品。で、そんな付属品扱いは嫌だからやめる、って言ってるだけ。さ、沙耶、行くわよ」
「ちょっと待ってくれ!」
妻が振り返った。
「どこに住むつもりだ、住む場所なんてないだろう」
「アパートでも借りるわ。いつまでも御厄介になってるわけに、いかないしね」
「家賃がかかるだろう! おまえで払えるのか!」
「だから何? またカネ? それが嫌だ、お金じゃないって言ってるのに、ほんとに分からないのね。沙耶、帰るわよ」
妻が出て行く。
沙耶も一度だけ振り返ったが、そのまま出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます