第12話 家族

 さらに十日ほど日が過ぎた。

 妻は、まだ帰ってこない。沙耶も帰ってこない。その中で昭一は、朝起きて会社に行き夜には家に帰る、という、何とも「ふつう」の生活を送っていた。

 もっとも、何もかもが以前と同じではない。食事は買って帰らなければならないし、朝にはごみをまとめて集積所に出さなくてはならない。

 他にもいろいろ、細かい用事はある。ただ妻が入院している間にもやっているから、どうにかなった。

(ほらみろ、家事なんて片手間だって出来るじゃないか)

 そんなことを思う。

 妻に自分から連絡する気は、今はなかった。最初はどうしようかと思ったのだが、一人暮らしをするうち、気が変わった。

 妻は家で、こんな楽な生活をしていたのだ。なのに、何の文句があるのか。そんなにこの生活が嫌なら、自分で働いて稼いでみろ、とこの頃は思う。

 なにより、気楽だった。家に帰って、機嫌を伺う必要が無い。慌てて帰る必要もなければ、遅くなると連絡する必要もない。娘に会えないのだけが寂しいが、それだけだ。

 いっそ離婚して、娘だけ引き取ろうかとも思ったりする。ただ実際にそれをやると、沙耶が傷つくだろう。それがどうにも気がかりで、踏み出すには至らなかった。

 いずれにしても、向こうからの連絡を待つ。昭一はそう決めていた。こちらが特に何をしたわけでもないのに、頭を下げて戻ってもらうというのも、おかしな話だと思うのだ。

 それに、沙耶の件がある。沙耶をなにより大事にする妻だ。ならばそのうち、沙耶の「帰りたい」に根負けして、折れざるを得ないだろう。

 今まで何をいろいろ我慢していたのだろう、と思う。

 会社で怒られ、営業先に頭を下げ、それでも必死に我慢しながらやってきたのは、家族のためだ。それをちっとも分かっていない。そんな頭の悪い女に、自分は一生懸命ご機嫌取りをして、お金をせっせと運んでいたのだろうか?

 反省するのはあいつのほうだ。この頃はそう思う。

「おい、今日はどうするんだ、行くか?」

 同期の河原が声をかけてきた。以前社内で、レイラとの事が噂になっていると教えてくれたのが彼だ。

 女子社員に上手く言っておいてやる、と言っていたが、実際に上手く言ってくれたらしい。その後社内では、その噂はぴたりと収まっていた。

「行くよ。この注文書を片付けたら、だけどな」

「おう、そのくらい待ってやるって」

 言いながら河原が、別の同僚に声をかけにいく。ちっともじっとしていない男だ。

 それを横目で見ながら、急いで書類を仕上げる。そのうち、河原が戻ってきた。

「今日は全部で四人になったぞ」

「少ないな」

「そんなもんだろ。金曜じゃないしさ」

 それもそうか、と、仕上がった書類を封筒にしまい、立ちあがる。これを明日、上に渡せばこの仕事はいったん終わりだ。

「行くか」

「おう。他のやつは、先に店に席取りに行ってるからな。早く行こうぜ」

「そりゃ待たせたら申し訳ないな」

 そんな話をしながら会社を出、店に向かった。そうして着いたのは、社の者がよく使う、こぢんまりした店だった。

「いらっしゃい!」

 店の働き手の、威勢のいい声が出迎える。

「みなさん、奥の席にいらっしゃいますよ」

「分かった、ありがとう」

 例を言って奥を見ると、小さな座敷に同僚が陣取っていた。

「来た来た、もうビール頼んじまったぞ」

「すまない、助かるよ」

 言いながら鞄を置いて席に座る。同僚ばかりで上座も下座もないから、気楽なものだ。ビールもお通しも、すぐに運ばれてきた。

 乾杯の声をあげて、口をつける。美味しかった。

 あれやこれや話をしながら、適当につまみを注文し、それぞれグラスを重ねる。

「それにしてもさ」

 ふと思いついた、そんな顔で河原が、こちらを見ながら言った。

「お前、この頃付き合いよくなったなー」

「そうか?」

「そうさ」

 ひやりと汗が背中を伝った。何か気付かれただろうか?

 河原が言葉を続ける。

「前はさ、けっこう俺も誘ったと思うけど、ほとんど断ってたぞ。けどここんとこ、連続だからなー。何かあったのか?」

 やはり異変を感じ取っているようだ。

 どう言い訳しよう、そう考えているうちに、言葉が口から滑り出た。

「それがなんて言うか……女房に怒られてさ」

「怒られたぁ?」

 素っ頓狂な声を河原があげ、同僚たちが慌てて口に立てた人さし指をあてながら「しーっ」と言う。

「すまんすまん、でも怒られたって。帰ったほうがいいんじゃないか?」

「いやその、そうじゃないんだ」

 そこから先は、自分でもびっくりするくらい、すらすらと言葉が続いた。

「何か女房、ママ友だかに言われたらしくてさ。飲みにも行かないようだと出世しないとか何とか……それで、どういうつもりだ、って」

「あー」

 河原ともう一人、別の同僚が頷いた。

「そういうの、やっぱりあるからなぁ。その奥さんの友達、働いてる人なのかもな」

「だろうなぁ。その辺、たいていの女には分んないからなー」

 そのまま話は、それぞれの「うちの女房は」になだれ込んだ。やれ文句が多いの、疲れてるのに手伝えの、まだ役職はこの程度なのかだの、どこの家もなんだかんだと五月蠅いらしい。

 思いついて言ってみる。

「そんなに言われて、でも別れないのか?」

 皆がきょとんとし、顔を見合わせた。

「別れるってもなぁ」

「だよなぁ。子供もいるし」

 誰も考えることは一緒のようだ。

 ふいに、皆の様子が可笑しく見えてきた。可笑しく見えること自体が可笑しいのではないかと、頭の片隅では思うのだが、やはり可笑しかった。

 自分も含め皆こうやって、いろんなものに縛られて、小さく縮こまって生きているわけだ。でもそれを、終わりにしたっていいじゃないか。

「どうした?」

 黙ってしまった――あるいは思わず笑いが顔に出たか――昭一に、河原が声をかけてきた。

「お前、やっぱり家で何かあったのか?」

「いや。ただ、どこの家もいっしょだなーと思ってさ」

「そりゃそうさ」

「ほらアレだ、隣の芝は青く見える、ってやつだな」

「てーかお前なんて、恵まれてると思うぞー」

 そんな話が続きながら、夜は更けていった。


「じゃぁな」

「ああ。あと明日朝一で、例の書類頼む」

「分かった分かった」

 平日なこともあって、あまり遅くならないうちに、飲みの席はお開きになった。

 まだ本数の在るバスに乗る。これ以上遅くなると極端に数が少なくなるが、まだギリギリ間に合う時間だ。

 そうして揺られて家に帰ると、珍しく留守電が入っていた。

 妻からかと思って、急いで再生する。

 だが聞こえて来たのは、男性の声だった。

「お世話になっております、覚えていらっしゃいますでしょうか、山野辺事務所の本宮です」

 いくらなんでも、忘れるわけがない。あの議員先生の秘書で、後始末に何度も同行してもらったのだから。

 けれどその彼が、何の連絡をしてきたのか。まさか今頃になって、お金を返せとでも言うのだろうか。

 声は続く。

「実は今回、奥様のことで山野辺先生が、一度お話をと申されております。つきましては、また明日お電話いたしますので――」

 どうやら議員先生が、ついに乗り出してきたようだ。あのマンションは息子のものらしいが、さすがにこういう事態になって、耳に入ったのだろう。

 ――やっと片付くな。

 議員先生の知るところとなれば、さすがにもう妻も、あのマンションには居られないだろう。そうなればほかに行くところはないのだから、この家に戻るしかない。

 ほらみろ、と思う。結局は真面目にやっている人間が最後は勝つように、世の中というのは出来ているのだ。いずれにせよ、安易に頭を下げないでよかった。

 とりあえず明日になったら、秘書に連絡を入れればいい。そうすれば、先のことは分かるだろう。あの秘書のことだ、もしかするともう既に、ある程度セッティングされているかもしれない。

 昭一は久々に、気持ちよく寝床に入った。

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