第11話 失踪

 あれから数日過ぎた。

 帰り道のバスの中、暗い外を見ながら考える。

 実はあの日ああ言われた以外に、特に何もない。明らかに妻はよそよそしいが、それ以外は特に変わったところはなかった。妻はいつもどおりに朝起きてお弁当や朝食を作り、昭一たちが出た後はたぶん家事をして、帰ればふつうに夕食ができている。

 ――だからこそ、怖いのだが。

 妻が何を考えてるのか、さっぱりだ。もう一緒になってずいぶんになるのに、全くわからない。

 何もかもとは言わないが、それなりに分かっているつもりだった。だが昭一の理解だと、彼女の冷たく恐ろしい行動は、どうしても分からない。

 この先どうなるかも、見当がつかなかった。テレビのドラマだとたいてい妻のほうが怒り出して、結局離婚になるのだが、自分もそうなるのだろうか?

 自分が何かしたとは思えない。確かにこのところ帰りは遅かったが、それだけだ。中央官庁へ行った同級生などは、聞けばもっと夜は遅くて朝は早くて、自分程度で騒いでいては、絶対にやっていけないだろう。それを考えれば、大したことないはずだ。

 結局は、レイラとのことを勘違いされたのが原因なのだろうが……。

 でもけして、浮気したわけではない。だいいち、無断で外泊したことさえない。ずいぶんな誤解だ。

 まぁこのまま少し時間をおけば、妻も冷静になって、話を聞いてくれるようになるだろう。それまで、待つしかない。

 そんなふうに考えながらバスを終点で降りて、家へと歩き出す。

 いつものように、黒々とした林。その脇を道なりに歩いて――家に、明かりは無かった。

 事故の日を思い出して、慌てて走り出す。

 同時にポケットから携帯を取り出し、履歴を確認した。あの日はうっかり切ったままで、連絡されたことに気付かなかった。それを思い出したのだ。

 だが、履歴も特になかった。

 嫌な汗が背中を伝う。

 門を開け、ドアの鍵を開け、中へ入り……やはり、誰もいない。

 外を見ると、車はある。だから家へ一度は戻ったはずだ。なのになぜ、こんな時間まで戻らないのか。沙耶も一緒のはずなのに、どうなっているのだろうか?

 もうひとつ、一番ありそうな可能性は、考えたくなかった。

 浮気をしたとか借金をしたとか、そういうことならまだ分かる。だが、誓って大したことはしていないのだ。なのに出て行くなど、理解できないにも程がある。

 それにしてもこんな時間まで、母娘でどこにいるのか。そう考えていた時、携帯が鳴った。

 急いで出ようとして、着信ではなく、メールだと気づく。

 開くと、娘からだった。

『ママ、帰らないって。ナイショでメールしてる』

 異常事態と見て、こっそり連絡を取ることにしたようだ。さすが中学生だ。

『今、どこにいるんだ?』

 送ると、しばらく経ってから返信が来た。

『いつもママと待ち合わせてる、マンション』

 あっと思う。なるほど、あそこなら安全に夜を過ごせる。

 同時にホッとした。沙耶を連れて、二十四時間営業の店でも梯子されたらと思ったが、これならそういう心配はなさそうだ。

 しばらく考えて、昭一はメールを返した。

『今から、沙耶がひとりで帰るのはムリだから、ともかく今晩はそこに泊まりなさい』

 今度は、返信は無かった。もしかすると、見つかりそうになったのかもしれない。

 さてどうしようかと、テーブルを前に考え込む。ともかくほとぼりを冷ますしかなさそうだが……それにしても、どうするべきか。

 誰かに相談しようにも、相談相手が思い浮かばない。会社の誰かは絶対にダメだし、自分や妻の両親にも、こんなことは言いたくない。あとは友人か――レイラか。

 そこで昭一は首を振った。妻が勘違いしている相手に相談するのも、おかしな話だ。

 ともかくまずは、落ち着こうと思った。そうしなければ、考えなどまとまらない。

 まだたしか、ブランデーが残っていたはずだ。それを入れて、お気に入りのソファにでも座って、ゆっくり考えよう。そう思ってキッチンへ行って、立ち止まる。

 ――がらんとした、場所。

 妻が良く使っていた、鍋やお玉が無かった。大きいフライパンも、包丁も、まな板もない。残っているのは、普段滅多に使わないようなものばかりだ。

 床にへたり込む。

 機嫌が悪いだけだと思っていた。大した話ではないとも思っていた。けれどそう思っていたのは自分だけで、妻は本気だったのだ。

(俺は、何もわかってなかったのか……)

 思ったことはまるでドラマか何かの台詞のようで、それがひどく情けなかった。何しろ以前はああいう男女のもつれのような話を見聞きしては、内心、嗤っていたのだ。家族を大事にしない、馬鹿なヤツ、自業自得だろう、と。

 だから、自分が同じことを言うなど、思ったこともなかったのだ。

 けれど今、同じことを考えている。

 ワケが分からない。心当たりがない。毎日ふつうに過ごしていて、なのにどうしてこうなるのか。事故が悪かったのか。遅く帰ったのがそんなに悪かったのか。連絡が付かなかったのが、それほど許せなかったのか。

 考えても考えても、堂々巡りだ。

 昭一はしばらくそうやって考えた後、やおら立ち上がった。腹が立ってきたのだ。

(人の気持ちも知らないで――!)

 何のために一生懸命働いていたのか。何のために、毎月ローンを返済していたのか。毎月の給料を稼ぐのが、どれほど大変か。

 ブランデーをグラスに注いで、一気にあおる。そうでもしなければ、やっていられない。

 もうどうでもよかった。というより、どうにでもなれ、という気分だった。

 相手のことを理解しようとずっといろいろやって、気も遣っていたのに、そのご当人が歩み寄る気が無いのだ。上手くやれるわけがない。

 飲んで寝てしまおう。それでどうにかなるわけでないのは分かるが、そうでもしなければやっていられない。

 なにより、明日は土曜日だ。酔いつぶれて二日酔いになっても、困ることはない。

 そう思いながらグラスを次々あおって、いつの間にか昭一は眠ってしまった。

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