第10話 疑惑

 レイラと会って数日後。昭一は会社で、書類を片付けていた。この報告をまとめて、見積もりを終わらせれば、今日の仕事は終わりだ。

 周囲も同じように、片付けては立ち上がったり伸びをしたりしている。みんなそろそろ退勤だ。

 と、後ろから声がかけられた。

「野沢、おまえさ、大丈夫か?」

 声のほうに顔を向けると、同期の河原が微妙な表情で立っていた。

「大丈夫って、何がだ? この見積もり出したら終わるぞ?」

「そっちじゃないって」

 河原が顔を寄せて、小声になる。

「小耳に挟んだんだがさ……お前、ホントに大丈夫なのか? 奥さんと揉めてるんじゃないかって、女性陣の間で噂になってるぞ」

「え?」

 なぜそんな話になったのか。

 首を傾げる昭一に、やっぱり、という顔で河原は頷いて、話し出した。

「この間、町で奥さんと揉めてるのを、女性陣の誰だかが、郵便局行った帰りに見た、って言ってるんだよ」

 あっと思う。あのレイラとのやり取りを、社の誰かに見られたのだ。ただその「誰か」は妻を知らなくて、レイラのことを勘違いしたのだろう。

「で、どうなんだ?」

 どう答えようか、一瞬考えて、昭一は口を開いた。

「あの日は……家に書類を置いてきたのに気付いて、届けてもらって。それであいつが、予定を変えなきゃならなかったって、怒ってしまって……」

「あー、そういうことか」

 思いついた言い訳を、同僚は信じてくれたようだ。ヘタに格好よく言わず、自分がミスしたように言ったのが、よかったのだろう。

「でもなぁ、気をつけろよ。外はヤバいぞ、外は。見られたのが社のヤツだったから良かったけど、誰かお客さんだったら、洒落じゃ済まないぞ」

「気をつける。俺もちょっと軽率だった」

 冷汗をかきながら、昭一は返した。同僚の言う通りだ。もしも見たのが取引先の誰かだったら、今頃大変なことになっていたかもしれない。

 ――だからレイラは、「ダメ」と言ったのか。

 不思議な彼女のことだ。こうなることを、何か感じ取っていたのだろう。もしかすると、あの時あそこで別れなければ、本当に取引先辺りに見られたのかもしれない。

 星とか月とか、願い事が叶ってもいいことばかりじゃない、と言っていた理由が、今はよく分かる。

 だとすると今の自分は、何とか「星のカード」がもたらした状況を失わずに済んだ、というところだろうか?

「女性陣の噂、いつ止むんだろうか?」

 ふと思って言うと、同僚が笑った。

「俺がテキトーに言っといてやるって」

「すまん、助かる」

 ヘタに噂に尾ひれがついて、上司やその上の耳にでも入ったら面倒だ。その火消しをしてくれるというのだから、本当にありがたい。

「いいっていいって。お互いさまだろ。で、今日の夜はヒマか?」

 この同僚、人付き合いはいいが、やたらと夜に誘うのでも有名だ。昔のサラリーマンは毎日夜は飲み会だったと聞くが、その時代の人間か? と思うほど、事あるごとに周りを誘う。だが今日は、そういう気分には到底なれなかった。

「すまん、今日はさすがに……」

「まぁそうか。じゃぁ今度な。奥さんになんか買って、早く帰った方がいいだろうしな」

「そうするよ」

 本当は妻と何かあったわけではないが、たまには娘と妻にお土産でも買って、早く帰るのもいいだろう。

 同僚はそのあと、すぐ別の仲間に声を掛けに行った。夜の飲み相手を探しているようだ。

 仕上がった書類に目を通して、閉まって立ち上がる。これで終わりだ。また捕まらないうちにと、周囲に挨拶しながら、昭一は急いで会社を出た。

 途中で美味しいと評判のケーキ屋に駆け込んで、適当にいくつか買って詰めてもらう。それを持ってバスに乗り、延々終点までの旅だ。

 またあの時のように家に誰も居なかったら、と思ったが、次の瞬間、そんな自分に苦笑した。もう妻が退院してからしばらく経つわけで、毎日同じように夜に帰って、家の明かりを目にしている。なのになぜ今さら、そんなことを思うのか。これではまるで、子供のようだ。

 それでも家の明かりが点いているのを遠くから見て、何となくほっとしながら、昭一は玄関を開けた。

「ただいま」

 おかえりの声は昔から、あったりなかったりだ。台所のほうに居るとどうも聞こえないらしく、昭一がリビングまで入ってきて、初めて妻が気付くことも多い。

 家が広いから、こういうことも起こる。むしろ狭い家では起こり得ないのだから、喜ばしいことだ。そんなことを考えながら部屋着に着替えて、リビングに行った。

 ――何か、おかしい。

 開けたドアの向こうにはいつもどおり、テーブルの上に食事。何も変わらない。だが、何かが違う。

「――ただいま」

 もう一度言うと、妻から声が返ってきた。

「おかえりなさい、今日は早いのね」

「ああ。仕事が早く終わったんだ。で、これ」

 ケーキを差し出す。と、妻の顔が険しくなった。

「それでお詫びのつもり?」

「え?」

 何を言われているのか、まったく分からない。

 呆然としていると、妻が続けた。

「この間、どこの誰と歩いていたの?」

「どこの誰と、って……」

 口ではそう言ったが、心当たりはある。当然だ。

 それでも、心当たりがないふうを、装うしかない。

「いつも遅かったのも、そのせい?」

「いや、それはただ飲みに……」

「そう」

 妻はそれ以上、何も言わなかった。

 テーブルの上には、夕食の刺身。昭一の好物だ。

 恐ろしくなった。何で知ったのか分からないが、レイラとのことをたぶん浮気と疑っていて……なのに、夫が好きなものを用意する。

 これが、〝女〟か。

 何も言えないまま、もそもそと夕食を口にする。まずくはなかったが、何がどう美味しいかよく分からない。

 そのまま食べ終えて、黙って昭一は書斎に引っ込んだ。

 ――どうしようか。

 レイラとは、そんな関係ではない。ちょっとくらい思ったことはあるが、要は店のママのようなものだ。だがそれを、どう言ったら妻が分かってくれるのか……。

 ため息をつく。

 とりあえず、今は何を言ってもダメだろう。少し時間を置いて、ほとぼりを冷ますしかなさそうだ。

 だがそのあと、どう説明したものか。ありのままを言って、信じてくれるのだろうか?

 悶々と考えながら、夜は更けていった。

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