第9話 星と月

 レイラと思いがけず会ってから、昭一は日中、町を歩くことが増えた。ただし「決まった時間に」だ。

 営業なので、外を歩くこと自体はいつもと変わらない。だが、先日レイラと会った時と似たような、昼下がり。その時間帯を選んで、出会った場所の近くを歩くことが多くなった。

 占いの店のほうには、事故以来まだ行ってなかった。行こうとすると同僚に夜の付き合いに誘われたり、行こうとしたのに他の用事を思い出したり、そんなことばかり起こる。

 それでも何度かは、実際に行ってみた。けれど、店はなぜか見つからないのだ。

 確かここ、そう思って歩くのだが、あの地下の店へと続く階段は、どうしても見つからない。「これだ」と思って階段を覗きこんでも、あの店が無い。

 まるで狐につままれたようで、そんなことを何度も繰り返すうち、「店に行こう」という気が失せてきた。

 考えてみれば以前にも店に行こうとして、あんな気味の悪い体験をしたのだ。ならばレイラの言うとおり、行かないほうがいいのかもしれない。

 それに彼女は、「会えない」とは言っていないのだ。だったら店以外で会えるはずで、それなら一度会った場所、一度会った時間帯のほうが、会える確率は高いだろう。

 なぜそんなに会いたいかは、自分でもよく分からなかった。ただ無性に会いたいのだ。

 本当は、あの店で会いたい。それが叶わないというのなら、他の場所でもいい。そう思って歩いている。

 そうやって時間を作っては歩きまわって、そろそろ半月だろうか。

 ――あれは!

 遠目に見えるのは、見間違えようがなかった。ちょうど信号待ちなのだろう、交差点で立ち止まっている。

 急いで近づいて声をかけた。

「レイラ!」

「昭一さん」

 彼女が振り返る。

 今回も、あまり驚いた様子はなかった。やはり、先が読めるのかもしれない。

「私を探してくれたの?」

「ああ。この時間に、またこの辺を歩いてるんじゃないかと思って」

 昭一の言葉に、レイラは微笑んだ。

「ありがとう、探してくれて」

「いや、そんな別に、お礼を言われるようなことじゃ……」

 なにしろ自分が会いたくて、歩きまわっていたのだ。ただ、言われて嫌な気はしない。するわけがない。

「どこかで、お茶でも飲んでいかないかい?」

「そうしたいわ。ちょっと疲れて。歩きすぎたみたい」

 ならばと、先日の喫茶店へと誘う。レイラも店のことを覚えていて、喜んだ。

「そのお店のケーキ、とってもおいしかったわ」

「コーヒーもおいしかったよ」

 そんな話をしながら数分歩き、店へと入る。

 中は、そこそこお客がいた。おいしいだけあって、繁盛しているようだ。だが昼時は過ぎているので、待たされることもなかった。

 レイラがまたケーキ――今度はオレンジが載っている――を頼み、自分はコーヒーを頼む。

 彼女が口を開いた。

「今は、どうしてるの?」

「どうしてるのって……どうもしてないよ。いつもと同じさ。起きて、会社へ行って、仕事をして、帰る。それだけだよ」

「そう……」

 答えるレイラの表情は、どことなく曇った感じだ。

「何か、あったのかい?」

「何もないわ」

 言って彼女は微笑んだ。その笑顔には曇りはない。

「それならいいけど、何かあったら言ってくれ。出来ることはするから」

「あんまり、他人にそう言うもんじゃないわ」

 彼女は受け流した。何か困っていても、助けを受ける気はないらしい。

 ちょっとがっかりしながら、話を続ける。

「君の店は、どうだい?」

「相変わらずよ」

「そうなのか」

 どこが「相変わらず」なのだろう? そもそも店の場所が、分からないというのに。

 だが彼女は以前、同じ場所にあると言っていた。今も昭一の言葉に、特に動揺したふうはない。

 やはり、自分が見つけられないだけのようだ。

 少し考えて、思いきって訊いてみる。

「実は店へ、何度か行ってみようとしたんだ」

「でも、見つからなかった?」

 言われた言葉に驚く。

 レイラのほうは、いたずらっぽく微笑んでいた。

「なんで、分ったんだい?」

「あなたには今はもう、あの店は必要がないもの」

 彼女が何を言っているのか、よく分からない。そもそも店というものは、客が行きたいときに行くものではないのだろうか?

 だが彼女にそれを言っても、無駄な気がした。

 頼んでいたものが来る。

「――これもやっぱり、おいしい」

 ケーキを口に運んだレイラは、嬉しそうだ。その笑顔を見ているだけで、癒される。

 そしてようやく、なぜ彼女に会いたかったか、昭一は理解した。

 営業として、あちこち歩き回って頭を下げる日常。会社へ戻って、達成度はどうだと迫られる日常。家へ戻って、家族に気を遣う日常。ささやかな楽しみしかない日常。

 そういうものから超越したふうのあるレイラを見て、日常から逃れたかったのだ。

 妻とは今は、こんなふうに二人でお茶を飲むことなど無い。沙耶が生まれる前はともかく、その後は妻は、世話にかかりきり。平日は昭一が家にいないし、休みは当然親子三人だ。

 だいいち仮に二人で出たとしても、愚痴を聞かされるのは間違いない。いや、聞かされるだけならいい。ヘタをしたら、自分が愚痴の対象だ。

 だがレイラとは、そんなことはない。彼女はいつでも、自分の話を聞いてくれる。

 誰かがこれを見たら、「商売だからだろう」と言うだろう。だがそれでも、こうやって訊いてもらうのはいいものだ。

 ――あいつも、このくらいしてくれたっていいだろうに。

 そんなことを思いながら、目の前のレイラを見る。

 相変わらずの、艶やかな黒髪に、紅を引いたようにしか見えない唇。いつものように大きめのイヤリングをつけ、大振りの石が幾つも付いた首飾りをかけている。

 ウエイトレスや客が、彼女をちらちらと見ていた。人目を引きすぎるレイラが、どうしても気になるのだろう。

 少し考えて、昭一は切り出した。

「これから、店へ行ってもいいかい?」

「ごめんなさい、ダメなの」

 小さな嫉妬が芽生える。誰か先約が居るのか。だから自分は、あの店に行けないのか。

 黙ってしまった昭一に、レイラが微笑んだ。

「あなたには、あの店は必要ないわ。必要なのは、別のものだから」

「別のもの?」

 言っている意味が分からない。分からないので訊いてみる。

「別のものって、何だい? どこか別の店かい?」

「そういうものではないわ。でも大丈夫、すぐ分かるから」

 余計に分からない。

 さすがに少し苛立って、さらに訊いてみる。

「いつもそう言うけど、こっちにはさっぱり分からない。分かるように説明してくれないか?」

「それが出来たら、苦労はないのだけど。でも、出来ないものは出来ないの。今のあなたには分らないから」

 言ってレイラはカップを置くと、何かを探すように辺りを見回し、次いで立ちあがった。

「風が変わった。早く帰ったほうがいいわ」

 苛立ちがつのる。

「俺に言えないことなのか? 言ったら何か困るのか?」

「――困っているのは、あなたじゃないの?」

 質問に質問で返されて、思考が止まった。

「困ってる……? 何が?」

「人は、思い通りにならない時に怒るものだわ。そしてあなたは怒ってるわ」

 指摘に考え込む。

 レイラが微笑みながら財布を出し、お札をテーブルに置いた。

「ごちそうさま、美味しかったわ」

「あ、じゃぁお釣り……」

「次でいいわ」

 呆然としながら、レイラの後ろ姿を見送る。翻るスカートの裾から見え隠れする、細い足とかかとの高いサンダル。ショールを羽織っているのに、それでも分かる曲線。それが店から出て行く。

 ため息をついて、昭一はソファに腰かけ直した。

 自分は、何を怒っているのだろう? 店に行けないことなのか、レイラと前のように話せないことなのか。たぶん後者だ。だがなぜそれが、こんなにも苛立たしいのだろう?

 そこで、思考を止める。

 結局は、商売だ。

自分は行って酒を飲み、彼女は相手をする。そうして金をもらう。

 そう、商売なのだ。

 ――だが。

 それにしてはずいぶん、安いお金ではなかったか。あれではどう見ても、元が取れていないのではないか。元が取れやしないのに、何でああも毎日付き合ってくれたのか。それとも今頃になって、採算が合わないことに気づいたのか。でもそうなら、どうして今こうやって話してくれるのか。商売としては成り立たなくても、それ抜きなら会っていいということなのか。

 分からない。

 昭一は立ち上がった。

 伝票を引っ掴んでレジへ行き、「釣りはいい」と言ってお札をカウンターに置き、いつかのように店を飛び出す。

 通りに彼女の姿はなかったが、昭一は見当をつけて走り出した。店の方角へ行けば、居るかもしれない。

 通りそうな道の見当をつけ、通りを小走りに進む。

 ――いた!

 いつかと同じように、後ろ姿を見つけた。あの艶やかな後ろ姿は、見間違いようがない。

「レイラ!」

 声をかける。彼女が振り向いた。

「昭一さん?」

 不思議そうなレイラの声。そして。

「帰ったほうがいい、って言ったでしょう。なぜ来たの?」

「そう言われても……」

 自分でも、よく分からない。よく分からないから、会って訊きたかったのだ。

 だが、何を?

 改めて考えてみると、それもよく分からなかった。

「昭一さん、帰ったほうがいいわ」

「けど」

 それ以上言葉が続かない。それでも、ここで帰りたくないのだけは確かだった。

 レイラのほうは、それこそ困った顔だ。

「ダメよ、昭一さん。帰るわね」

「待ってくれ」

 彼女の手を掴む。捕まれたレイラが、さらに困惑した顔になる。

「ダメ、って言ってるでしょう?」

「なんでダメなのか言ってくれ」

 ともかく、その理由だけでも訊きたかった。それさえ聞ければよかった。

 レイラがため息をつく。

「――星だから、仕方がないのかしら? 星と月は一緒に昇るから、そういうものなのかしら?」

「なんだい、それ」

 レイラの脈絡のない言葉は、それこそ意味が分からない。 

 彼女が困り顔で、それでも微笑みながら言った。

「そうね……願いが叶ってもいいことばかりじゃない、と言えばいいかしら」

「え……」

 ならば自分の行動は、せっかくの幸運に見放されるようなものだった、ということか。

 昭一は怖くなって、慌てて掴んでいた手を放した。

「帰ったほうがいいわ。まだ間に合うかも知れない」

「そ、そうする」

 さっきまでの思いはすっかり消えて、怖さばかりが先に立った。このままでは彼女の言うとおり、悪いことが起こりそうな気がする。忠告に従えば良かった。

「昭一さん、気をつけてね」

「分かった、気をつける」

 何をどう気をつければいいのかよく分からないが、何も気をつけないよりはマシだろう。少なくとも妻のように、事故に遭ってはたまらない。

 背中に冷たいものを感じながら、昭一はレイラと別れ、歩きだした。

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