第7話 青年
あの県会議員と会ってしばらくの間、昭一はまた忙しく過ごした。警察に行って事件の捜査を取り下げてもらったり、保険屋の級友に会って話を止めたりと、思いがけず煩雑な手続きがいくつも出たためだ。
ただ、想像していたよりは楽だった。というのも例の秘書が空き時間を使う形で、同行してくれたためだ。
何をどうやったのかは分からないが、「議員」の肩書はすごいものだった。ふつうだったら根掘り葉掘り訊かれそうなことでも、すいすいと事が運んで行くのだ。
ことの善し悪しはともかく、いいツテができたな、と思う。なにしろこちらは大きな貸しがあるのだ。ちょっとしたことなら、きっと口を利いてくれるに違いない。献金をする人の気持も、分かろうというものだ。
妻の退院の日も、あと一週間ほどに迫っていた。
医者が言うには、さすがにすぐには、完全に元通りとはいかないらしい。だが若いこともあって今でもすでに歩けるし、普段の生活で多少の制限はでるだろうが、それで済むということだった。
なにより、車の運転ができるというのがありがたい。これで朝晩の娘の送り迎えから、やっと解放される。
ただ、駐車場はこのまましばらく借りておこうかと思った。幸いお金のことは心配しなくてよくなったし、妻は病院に何度も通うだろう。そこから娘を迎えに行く可能性も考えると、車を停めるところがあったほうが、何かといいはずだ。
車で出かけて診察をしてもらって、駐車場に車を置いたまま買い物なりをして、時間になったら娘を連れて帰る。今の妻には、たぶんこれがいちばん楽だ。
あの政治家とは、あれっきり会ってはいない。
もっとも、会わないほうがいいのかもしれなかった。お互い内緒の話なのだから、下手に何度も会ったりして、何か勘ぐられてはたまらない。
例の保険屋の友人あたりは、ことの成行きにすでに気付いているふうだ。だがそれ以上、今は追及してこない。ならばこのままうやむやにするのが、いちばん穏便というものだ。
「あと、今日持って帰るものはないんだな?」
「あとは今、使ってるものだけだから」
すっかり物の増えた病室から、少しずつ撤収の準備をする。
「家に帰ったら、いろいろ整理しなきゃ」
退院が迫っただけあって、妻の気も晴れてきたようだ。帰ったら○○をしよう、を次々と口にする。やはりあの不機嫌は、動けなかったせいに違いない。
あとは家へ戻れば、何もかも元通りになるだろう。
やっとまともに仕事ができるな、と昭一は思った。
事故があってからはずっと、会社に迷惑をかけてしまった。元から営業である程度時間の自由は利いたが、それにしたってこの一か月半は何度も休暇を取ったりで、ずいぶん代理で行ってもらったりもした。取引き先も同僚も特に文句を言わなかったのが、奇跡のようだ。
――これも、星のカードなんだろうか?
ふと、そんなことを思った。
そういえば、レイラのところから足が遠のいて久しい。実際、行く暇なんてまったくなかったのだが、足しげく通っていたのが遠い昔のようだ。
妻が退院したら、また行こう。そう思った瞬間だった。店の仄暗さ、出される酒の味、彼女の声、焚かれた香、そういったものが一斉に押し寄せた。
「あなたはもうこの店に来ないけど、星は健在ね」
久しぶりに聞く、レイラの声。
「来ないって、じゃぁここは?」
「店よ」
わけが分からない。
「僕は病院にいるんだが……」
「そうね」
さらに分からない。それとも彼女は、おかしくなってしまったのだろうか?
「また行くよ」
「いいえ、あなたは来ないわ」
そのとき、別の声が割って入った。
「あなた、なに独り言言ってるの?」
「え?」
慌ててあたりを見回す」
――なんの変哲もない、いつもの病室。
昭一は首を振った。
「すまない、ちょっとボーっとしてたみたいだ。夕べ、家で仕事の続きをしてたから」
「それならいいけど……そんなんで帰り、事故らないでよ」
眉根を寄せて妻が言う。自分が事故でひどい目に遭ったから、それが何より嫌なのだろう。
「気をつけるよ」
素直に昭一は返した。彼女の言うとおり、自分まで事故を起こしてはたまらない。
「パパ、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だよ。眠かったわけじゃなくて、仕事の中身を思い出して考えてただけだから」
沙耶の言葉に、とっさに嘘をつく。
「ならいいけど……」
まだ心配そうだが、娘は納得したようだ。むしろ納得しきらなかったのは、妻のほうだった。
「本当に気をつけてよ。沙耶も一緒に乗るんだから」
「分かった分かった、本気の安全運転で帰るよ」
ここでこれ以上、言い争っても仕方がない。
それに、二人の言うことはもっともだ。ただでさえ事故に敏感になっているのに、それにつながるものを見たら、ピリピリするだろう。
「沙耶、時間がかかってもいいか? 安全運転するから」
「うん、いいよ」
やっと笑顔になった娘にほっとしながら、昭一は荷物を手に立ち上がった。
だが外へ出ようとドアに手をかけた、その時。
「野沢さん、よろしいですか?」
思わず妻と顔を見合わせた。
外から聞こえた声は男性のもので、間違っても看護師のものではない。かといって、医者のものでもない。
もうそろそろ面会も終わる時間だ。なのにこんな時間に訪ねてくる相手に、心当たりはなかった。
「あの、どちらさまでしょう?」
「先日お世話になった、山野辺です」
聞いてあっと思った。あの議員だ。
慌ててドアを開ける。
外には例の議員ともう二人、若い男性がいた。
片方は、例の秘書だ。今日も議員について歩いているらしい。
そしてもう片方はせいぜい大学生といった年頃で、髪を茶色く染めて着崩しただらしない恰好の、いかにも「チャラ男」といった風情だった。
「すみません、こんな遅い時間に。――ほら、誠太郎、お前も入りなさい」
秘書が先に入り、次に議員。そして議員に促されて、青年も入ってくる。口を尖らせてそっぽを向いて、心底嫌そうだ。
たぶんこれが例の、事故を起こした息子なのだろう。逃げ回っていたのを捕まえて、連れてきたようだ。
妻が不思議そうに、こちらを見た。
「こちらはね、県会議員の山野辺さんだよ。ほら、ポスターで見たことあるだろう?」
「――あ!」
妻も言われて気付いたようだ。ベッドの上で慌てて居住まいを正して、頭を下げる。
「こんな恰好ですみません」
「いえ、いいんですよ、奥さん。そのままどうぞ楽に。それよりですな……」
議員が、その先を言いよどむ。さすがに身内の恥は、口にしづらいらしい。
さすがに気の毒になって、昭一は口を挟んだ。
「先生すみません、バタバタしていてまだ妻には話しておりませんで」
「いやいや、こちらからもっと早く言うのが筋ですから。それで……」
また言いかけた議員に目配せして、昭一は代わりに話し出す。
「悦子、実は今回の事故の相手、議員さんの息子さんだったんだ」
「え……」
妻が目を丸くする。
まぁそうだろう。今までこの件に関しては、「犯人はまだ分からない」と言ってきたのだから。
議員が口を開いた。
「その、なんというか、今回の件は本当に……せめてもう少し早く、お詫びにお伺いしようと思っていたのが、その、これが居なくなってしまいまして」
相変わらずしどろもどろだ。
「やっと今日捕まえましたので、急いでお詫びに伺いまして」
「そうだったんですか」
口ではそう言うが、妻は不審顔だ。
いろいろしてもらっている手前、妻が誤解したままでは具合が悪いので、昭一は言い添える。
「もう俺には、きちんと丁重にお詫びしてくれたんだ。ただ事が事だから、お前には退院してから、ちゃんと言おうと思ってて……」
ちょっと小首をかしげながら、ふんふんと妻が聞く。
昭一の言葉のあとに、議員が続けた。
「本当に今回は、申し訳ありませんでした。ほら、お前も謝りなさい」
だが息子は視線をそらせたまま、誤ろうとしない。
「いい加減にしなさい! ――その、申し訳ない。こいつの母親は早くに亡くなりまして、それで不憫に思って甘やかしてしまって、こんなことに」
「まぁ……」
怒るかと思った妻は怒らない。むしろ怒ったのは、娘の沙耶だった。
「ちょっと、ママに謝りなさいよ! 聞いてんの!」
「――ガキがるせぇよ」
瞬間、いい音が病室に響いた。沙耶がチャラ男の頬をひっぱたいたのだ。
「なにすんだテメェ!」
「うるさいバカっ!」
赤くなった頬を押さえながら、青年が怒る。それに沙耶が食ってかかる。
「あんたのせいで、ママもしかしたら、死んじゃったかもしれないんだからっ! あんたママいないのに、そんなことも分かんないのっ!」
青年の顔がこわばった。
「死んじゃったら、死んじゃったら生き返んないんだからっ! ママいなくなっちゃうんだからっ! なのに、なのに――」
最後のほうは涙声で、うまく言葉にならない。
まだ続きそうな言い合いを、妻が止めた。
「沙耶、もういいから」
今まで聞いたことがない、優しい声。手が伸びて、沙耶の頭を撫でる。
「でも……」
「もう、いいから」
そう言うと妻は、青年のほうに顔を向けた。
「誠太郎君、だっったっけ?」
いきなり名前を呼ばれて驚く青年に、妻が続ける。
「お母さんがいないんじゃ、寂しかったわね。たくさん我慢したのね」
青年の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
「今回のことは、もういいから。でもね、もうあんな運転しちゃダメよ」
青年がうつむく。
そして。
「……すんませんでした」
さっきまで粋がっていた青年が、まるで別人のようだ。
妻のほうは、穏やかな笑顔だった。
「分かればいいのよ」
静かに言う彼女を見ながら、これが〝女〟で〝母親〟かと、内心舌を巻く。
自分では、こうはいかない。きっと怒り出して、怒鳴りつけてしまう。なのに女性というものは――個人差はあるだろうが――子供というだけで、許せてしまうらしい。
と、静まり返った病室に、声が響いた。
「野沢さん、もう面会時間は終了ですよ」
ドアから夜勤の看護師が顔を覗かせていた。
「お見舞いの方々も申し訳ありません、お引き取りいただけますか?」
「はい、すぐ出ますので。――先生、坊ちゃん、そろそろ」
「そうだな」
議員も頷いた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした。ちゃんとしたお詫びは、また日を改めてしますので」
「いいんですよ」
自分より先に、妻が答える。そして彼女は続けた。
「誠太郎君、こんど遊びにいらっしゃい。おばさんがお菓子作ってあげるから」
目を丸くした青年が、すこし間をおいて、恥ずかしそうに小さく頷いた。
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