第6話 真相
病院のナースステーションで訊いた退院の予定は、だいたい予定通りだった。病院が指定してきた日が金曜だったので、土曜に延ばしてもらった程度だ。
それを聞いてまず、娘が目に見えて明るくなった。やはり母親の不在というのは、いろいろと負担だったのだろう。訊けばこれから、部活の主力メンバーを選ぶところだとかで、「なんとか入りたい」と、今まで以上に熱心に練習しだしたようだ。それまでに間に合って良かったと、昭一は胸を撫で下ろした。
妻のほうは、なんだかよく分からない。相変わらず家のこと、沙耶のことをいろいろと心配しているようだが、昭一にはあまり話さなかった。
まぁこれも、退院すれば収まるだろう。何しろ入院生活というのは退屈だ。しかも足を牽引していては、ベッドの上からほとんど動けないのだ。これで機嫌がいい人間はよほど「できた」人だ。凡人に真似ができるわけもない。
そんなことを考えながら病室へ向う途中、昭一は立ち止まった。
部屋の前に、人が立っている。
どこかで見たことのあるような、だが知り合いではないと断言できる、もう老齢の男性だった。ただ「よぼよぼ」というのには程遠く、恰幅のいい身体で仕立てのよさそうなスーツをピシッと着て、会社の重役とでもいう雰囲気だ。
その男性が、じっとこちらを見ている。
「あの、どちらさまでしょうか?」
不審に思いながら訊くと、相手は質問を返してきた。
「こちらで入院されている、野沢悦子様のご主人でらっしゃいますかな?」
「あ、はい、そのとおりですが……」
妻にこんな知り合いがいたとは、聞いたことがない。自分の知り合いでもない。かといって、沙耶の学校の先生でもなさそうだ。
訝しがる昭一に、名刺が差し出された。
「こういうものでして」
「はぁ……」
名刺に書かれていたのは、「県議会議員、山野辺やすいち」という肩書き。そういえば確かに、選挙のポスターで見た顔の気がする。
「あの、失礼ですが、県議会の先生がどんなご用事で……?」
仕事の関係で来たとは思えない。
「実は少々、お話ししたいことがありまして。お時間を少しいただけますか」
言葉は頼んでいるが、口調はそうでなはかった。相手が断るわけはない、そんな口ぶりだ。それに内心ムッとしながらも、昭一は頷いた。
「このあと家まで娘を連れて帰らないといけないので、一時間ほどしかありませんが、それでよろしければ」
「それで結構です。ではこんなところで立ち話もなんですから、場所を移動してよろしいですか」
言いながら歩き出す。言葉とは裏腹のどこか偉そうな態度に腹を立てながらも、昭一は慌てて病室の二人に少し出かける旨を伝え、急いで後を追った。県会議員が、エレベーターの前で待っている。
「いやすみません、お待たせして」
何で自分は頭を下げているんだ? と思いながらも、サラリーマンの習性が、勝手に身体と口とを動かす。
「何も言わずに行くと、家内がへそを曲げるものですから」
「いやこちらこそ、気が利かずに申し訳ない」
謝る言葉も偉そうだ。だが「待たせた」と怒りださないだけこの県会議員、まだマシかもしれない。
「実は、このすぐ先の小料理屋の個室を、予約してありまして」
「小料理屋、ですか」
ますます話がおかしい。「少々」の話で、そんなところを予約するだろうか? だがここで断ったら、きっとこの議員は気を悪くするだろう。そのせいで、取引先にまで話が及びでもしたら、目も当てられない。
不思議に思いながらもついて行くと、病院の裏手に出、そこに黒塗りの車が止まっていた。運転手が扉を開け、さすがに先に乗るのは出来ず、県会議員を上座に座らせてから自分も乗り込む。
車が走り出した。
「景気はどうですかな?」
「そうですね、ここ一、二年は、前よりはマシです。ただ人件費が高騰してきて、その辺が頭が痛いですね」
「だとすると、やはり景気はそう悪くない、と言っていいのですかね?」
「業種によるかと。サービス業は活況ですよ」
テレビのニュースで言っているような、当たり障りのない話をしているうち、車が停まった。本当に「すぐ先」だったようだ。それにさえ歩かず黒塗りの車を使うというのだから、議員というのは恐れ入る。
降りるとそこは一軒家の前で、玉砂利と飛び石を敷いた道が玄関へと続いていた。全体的に小奇麗な和風建築で特に看板もなく、とても小料理屋には見えない。だが議員は慣れた調子で、すたすたと中へ入っていった。
がらりと戸を開ける。
「お待ちしておりました」
和装の、だが艶めいた色香のある女性が、上がりがまちで三つ指をついて出迎えた。しとやかな雰囲気で、さりげなくこの店に溶け込んでいる。レイラも美人だが、こういう和装美人もいいものだ。
「いやぁおかみさん、遅くなってすまない。これから少々使わせてもらうよ」
「どうぞどうぞ。いつもの部屋が用意してありますから、お好きなだけ使って下さいな」
この店とは、懇意なようだ。議員もさっきまでと違って、気さくな雰囲気を見せる。
こういう場所もいいな、と昭一は思った。今まで縁がなくて知りもしなかったが、接待に使えそうだ。もっとも今のご時世、会社がそんな費用を出してくれるとは思えないが……。
あまりきょろきょろしないようにしながら、おかみさんと議員、二人の後をついて行く。そうやって通された奥の座敷には、スーツ姿の若い男性が一人、正座していた。
「やぁ本宮君、待たせてすまなかった。頼んでたものは用意してあるかい?」
「はい、先生」
若い男性は秘書らしい。これからこの議員の後ろ盾で、出世の階段と登ろうというのだろう。
議員先生は鷹揚に頷くと、なぜか昭一に上座を勧め、自分も相対する格好で座った。
そして。
「このたびは申し訳ない!」
突然、座卓に手をついて頭を下げる。
昭一はなんのことか全く分からず、ぽかんと口を開けるばかりだ。
「そ、その、先生、いったい……」
「いやその、えーとその、ああそうだ、奥方のことで――」
しどろもどろとはこのことだ。先程までの偉そうな態度など、カケラも見えない。
「えっと先生、うちの家内が、何か粗相でも……?」
「いやそうじゃなく、その反対で」
話が進まない。
同じことを思ったのだろう、若い秘書が口を挟んだ。
「先生は今回の、奥様の事故に大変責任を感じておられまして。それでお詫びがしたいと、このような席を設けまして」
「え、じゃぁ、うちのを撥ねたのは……」
慌てたように秘書が両手を振った。
「先生ではありません。それはもう絶対に。ただその、それが先生の息子さんで、先生は親としての責任があるということで」
やっと合点がいく。どうりで犯人が捕まらないわけだ。
議員がまた頭を下げた。
「うちの馬鹿息子が、本当に申し訳ない。本来ならあれを連れてきて頭を下げさせるべきなのが、その、情けないことにどこかへ逃げてしまって……早くに母親を亡くして不憫だからと、甘やかしてしまったものだから……」
議員の声が尻すぼみになる。必死に言い訳する姿は悪いことを見つかった子供のようで、つい笑い出しそうになる。
横柄で偉そうで自分たち庶民のことなどなんとも思っていない、議員というのはそういうものだと思っていた。だがその「立場」の向こう側は案外、同じ人で同じ親ということらしい。
「本当に申し訳ない。いや、ここで私が頭を下げても、仕方ないんだが……」
「先生、お気持ちはもう分かりましたから」
そう言って昭一は、また頭を下げようとした議員を止めた。
「幸い家内の怪我もそんなに酷くなくて、あと半月ほどで退院できますし。しばらく通うそうですが、特に後遺症もないだろう、と医者は言ってますし」
「そ、そうか! それはよかった」
議員の顔に、安堵が広がった。
やはり、思ったほど悪い人ではなさそうだ。本当に腹黒い悪人なら、こんな表情はそうそうしないだろう。
「いや本当に、何と詫びればよいやら……本橋君、例のものを」
「はい、先生」
言われて若い秘書が取りだしたのは、分厚い封筒だった。
「これをどうぞ」
「はぁ……」
なんだろうと思いながら受け取る。手にした封筒は、厚みを裏切らない重さがあった。
「どうぞ、中を」
「はぁ」
我ながら間抜けな返事だなと思いながら、昭一は封を切って――言葉を失った。
中に入っていたのは、紙の束。それもおそらく、お札だ。
「あの、これは……」
いつから自分は、ドラマの出演者になったのだろう? 思わずそんなことを考えてしまうほど現実離れした厚みの、紙の束だった。
「いやその、こんなやり方が良くないのは分かっているんだが……これで、何とか」
「何とかと言われても、何をどうしろと……」
口でそう言いながらも昭一は、これは買収とか口止めとか、そういうものなのだろうと考えていた。
この議員はたぶん、息子の事故を公にされたくないのだ。だからこうしてこっそりとお金を渡して、示談にしようというのだろう。
やはり議員というのは信用できない。こういうことを、日常的にやっているのだから。
その当の議員が口を開いた。
「なにしろ選挙が迫っているもので……今期だけは、落ちるわけには。今落ちたら反対派が勢いを増して、治水事業を差し止めてしまう。そうなったらこの県北に、どれだけの被害が出るか――」
そんなことどうでもいいじゃないか、そう思いながら昭一は聞いていた。口では立派なことを言っているが、どうせ利権がらみに違いないのだ。落ちたら今までのように甘い汁を吸えないとか、先生として崇めてもらえないとか、結局はその程度のこと。庶民のことなんてどうでもいいのだろう。
ただ、手にした紙束は魅力だった。束の厚さから見て、三桁はゆうに超えているだろう。だとすれば、今までかかった費用を全部支払っても、お釣りがくるに違いない。
どうしようと考えあぐねる昭一の背中を押すように、秘書が口を添えた。
「もしこれで足りないようでしたら、その分も、と、先生は仰っております」
「え……」
言われたことに頭がついていかない。この束でも相当額なのに、この議員はまだ出すという。
どこからそんなお金が湧いてくるのだろうとか、あるところにはあるんだなとか、そんなことを少し考えてから、現実的なほうへやっと頭が向いた。
そんなふうにお金が出てくるなら、どれだけいいだろう?
もちろん何でもとはいかないだろうが、たとえば駐車場代とか、病院へ通う費用とか、そんなお金だって出してもらえるに違いない。そうなったら、保険金などアテにするまでもない。何より、保険金が手に入るのはまだしばらく先だ。けれどこの紙束は、今ここにあるのだ。
だが、皮算用はよくない。確かめなければ。
恐る恐る、昭一は口を開く。
「あの、実は、病院の近くに駐車場を借りるハメになりまして……」
我ながらこの紙束と比べて、言うことのスケールが小さいとは思う。だが庶民など、所詮こんなものだ。
話を聞いた議員が、また頭を下げた。
「本当に申し訳ない。馬鹿息子のせいで、そんなご迷惑までおかけして。もちろん、こちらで支払わせていただくよ。他には無いかな? どんな些細なことでも、言ってくれて構わないから」
やはりこの議員、そんなに悪者ではないのかもしれない。
一瞬そう思ったが、昭一は内心、かぶりを振った。自分の選挙のために、息子の事故をもみ消そうというのだ。まともな人物のわけがない。
とはいえ今の昭一にとっては、間違いなく助け手だった。腹黒い悪徳議員かもしれないが、少なくともいろいろ補償してくれるというのだ。ここで事を荒立てて、それを不意にするのもばかばかしい。
なにより、相手は悪徳議員なのだ。そこからもらうべきお金をもらったからといって、何が悪いというのか。
「どうかね、他に困っていることはないかね?」
「そう言われましても、すぐには……さしあたっては、駐車場のことだったので」
後で思い出すかもしれないが、今は他に思いつかない。そう正直に言うと、議員は鷹揚に頷いた。
「分かった。何か思い出したら、うちの事務所に連絡してくれて構わんよ。私がいるとは限らないが、この秘書の本橋君に、話が行くようにしておく」
「ありがとうございます」
お礼を言って、ちらりと時計を見る。病院を出てから、小一時間近くが過ぎていた。
議員も、そのことに気づいたようだ。
「あまり時間がないと言っていたのに、長々と引き留めるのも申し訳ない。細かいことはまた後日として、今日のところはこの辺で構わないだろうか?」
「ええ、はい。娘も帰ってきますし」
どうせこの議員とは、しばらくは何かと関わることになるはずだ。それなら、ここで時間を割く必要はない。
「本橋君、彼を送って差し上げなさい。私はこれから、後援会の佐橋さんと会うから」
「かしこまりました」
腹の立つことにこの席、昭一のために設えたものではなかったらしい。有力な後援者と会う予定で予約して、その前の時間についでということで、昭一との話を突っ込んだようだ。
知らぬが仏とはこのことだ。やっぱり議員というのは信用ならない。
だが、この紙束を返す気にはならなかった。そういう相手ならなおさら、ありがたく頂いておくに限る。
ふと、これが例の「星のカード」かと思った。
事故はたしかに悪いことだ。けれどこういう展開になるのなら、悪いこととは言い切れない。
そもそもよく考えてみれば、妻の怪我だって、たいしたことないのだ。本当に悪いことというなら、妻の怪我がもっとひどくてもおかしくない。何より、娘まで巻き込まれていたかもしれない。
そう思うと、今回の事故はいろいろとラッキーだ。それに加えてこんな幸運が重なるというのなら、むしろ起こってくれてよかったくらいだ。
やはりこれがレイラの言っていた、幸運なのだろう。
このまま病院へ帰らずに彼女のところへ行こうか、そんなことを考える。あの奇妙な経験をした日以降、バタバタしていたのもあって、彼女のことを思い出すことさえなかった。
だが、思いとどまる。
今は議員の秘書という、同行者がいる。彼に知られたくない。それにあの店だって、どこかへ歩いて動くわけでもない。あの日はなぜか見つけられなかったが、また行けばいいだけだ。
そうしたら、今日の話を聞かせてやろう。どんな顔をするだろうか?
「どうされましたか?」
秘書に声をかけられて、はっと我に返る。自分は今、どんな顔をしていたのだろう?
「いやその、妻になんと言おうかと」
とっさに言った言葉に、秘書が「なるほど」と頷いた。
「奥様には、そのままお話ししてかまいませんよ。先生はそれでいい、と仰っていましたから」
「そうでしたか。でもまぁ、頃合を見て上手く言うことにします。驚かせたくないので」
「そうですね。たいていの方は驚くでしょうしね」
自分たちがしていることの異様さを、この秘書も分かっているようだ。まぁ分からないようでは、秘書など務まらないのだろうが。
そして、思いつく。
このお金の一部を取っておいて、何かの時に使えばいい。議員もさらに出してくれるというし、少しぐらいなら脇へ除けておいても、分かりはしないはずだ。それによほどの額でなければ、あの議員だって不審がらないだろう。なにしろこんなお金を、ぽんと出せるのだから。
妻にはだいたいは本当のことを言って、金額だけ少なく言えばいい。そうすれば、ちょっとしたへそくりの出来上がりだ。うん、それがいい。
そんなことを考えながら、昭一は病院へと戻った。
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